「おかえり。」
ふいに声をかけられて博雅はふりむいた。玄関ポーチの柱によりかかってにっこりと微笑む晴明、その姿はまるでどこかのモデルのようだ。色素の薄い栗色の髪が切れ長の目元の軽くかかって紅い口元とあいまってまさしく美人という言葉がぴったりとあてはまる。
一瞬その姿に見惚れた博雅であったが、ハッとわれに返って返事を返した。
「た、ただいま。い、いったいどうしたんだ、こんなところで?」
なんとなく嫌なというか何か不審なものを感じる、長年のカンといったものだ。
切れ長の瞳をやさしそうに細める晴明。
「なに、今日は仕事もひと段落したのでな、一緒に食事にでも出かけないか?」
「食事?」
「ああ。いいところを見つけたんだ。今からなら時間もちょうどいい。ゆくか?」
「あ、ああ…」
「ゆこう」
「ゆ、ゆこう」
…そういうことになった。
そういうことになったのだが。
地元の博雅ですら知らないような細い路地を晴明はかって知ったる道のようにすいすいと進んでゆく。流れるように歩いてゆく晴明に遅れまいと歩く速度を早めながら博雅は先を行く晴明に声をかけた。
「おい、晴明、いったいどこに向かっているんだ?ここで生まれて育った俺でもこのようなとおりは来たことがないぞ。」
「ああ、そうだろうな、この道は陰態だからな。普通の人間には見えぬとおりさ。」
「い、隠態…久々に聞いたなその言葉。」
博雅の口元がぴく、と引きつる。
「まあ、そうビビるな、博雅、俺の言うとおりに行動すれば隠態なぞ何も怖いことはない。」
口元に涼やかな笑みを乗せて晴明はそう言うが、博雅はやはり気になる。なにしろ、晴明が口をきいてはいけない、というのに、あっ、と思ったときにはもう何か言っていたり、触るなといわれていたものにもう既に触れていたり…、悪気はないのだが、どうにもドジばかり自分は踏む。特にこの陰態の中では。過去にも何度も、妖しに追っかけられたり、食われそうになったり。だから隠態にいい思い出はない。
なんとなく嫌な予感を抱えつつ、博雅は晴明の後をついて歩いた。
やがて、覚えようとしてもどこをどう歩いたのやら混乱してわからなくなったあたりで、前をゆく晴明の足がぴたりと止まった。
「ここだ。」
あごを軽くしゃくって、晴明が目の前に建つ建物を指し示した。
「こ、これって…」
思わず博雅の口があんぐりと開く。
「お、お菓子の家?」
博雅が驚くのも無理は無い。その建物ときたら、手を伸ばせば届くような低い屋根はカラフルな色とりどりの飴細工で、柱には赤と白のぐるぐる渦巻き模様のスティックキャンディーを使い、壁は粉砂糖をまぶしたクッキーがサイディング代わりに使われていたからだ。そして博雅の正面には人間よりでかい大きな一枚のチョコレートでできたドア。
「す、すごい」
「中も見るか?」
あっけにとられる博雅の腕を取ってぐいと引くと、晴明はチョコのドアを開けた。
中に入ると、部屋の中央には大きな丸いテーブルがあって、ふわっふわのマフィンやいろんな種類のチョコや、色とりどりのマカロンやらが典雅なティーセットとともに用意されてあった。
まあ、いいからすわれと晴明に促されて、博雅はかっちりとした背もたれのついたクラッシックな椅子に座った。まるで本格的なイギリスかどこかのティータイムに招待されたような気分だ。
きょろきょろとあたりを見回している博雅に、晴明が熱い湯気の立つ紅茶のティーカップを渡してくれた。それからチョコの乗った皿を博雅の目の前に差し出す。
「ほら」
そのチョコレートを見て、今日が何の日であったか、ようやく博雅は思い当たった。
「…晴明…今日はもしかして例の日?」
…バレンタインデイ(はあと)。
「なんだ、忘れていたのか?」
紅い唇を優雅にカーブさせて晴明は言った。
「脳がその日を拒否してるんだ。」
昨年のことを思い出して博雅の眉間にピッ!と皺が寄る。
「ナイーブな臓器だな。まあ、いいから食べろよ、美味いぞ。なにしろチョコの本場ベルギーからのお取り寄せだからな。」
が、博雅は胡散臭そうに皿の上のチョコを見下ろした。そして、一言。
「いらない。」
そう言って首を横に振った。
「なんだ疑り深いな、博雅。素直さがとりえのおまえらしくもない。」
「あんな目に何度も会えば、人間誰だって少しは勘繰るさ。どうせ何か変なものが入ってるに決まってる」
理性をぶっとばす媚薬とか。
「まさか。この間は、ちょっとばかりいたずら心が起きただけだ。それこそ天地神明にかけて誓う、これには何も入ってない…だいたい、俺がそんなにおまえにひどいことするわけないだろう?」
博雅の言葉に、晴明は目線と肩を落とし、すごく傷ついた表情をした。
…らしくもなく。
なのに、この天然まっすぐオトコときたら。
晴明のいつもにない沈んだ表情に
「わ、悪かった、晴明。そんな顔をしないでくれ」
椅子から思わす腰を浮かせた。
「いいさ、どうせ俺は博雅に疑われてしかるべき人間だ…」
ますます暗い顔をして、晴明は深いため息をつく。
「おまえのためにせっかく用意したが…仕方がない」
寂しげにふっと笑って、皿の上のチョコをざらざらと床に落とした。
「な、なにをするんだ、晴明!」
「おまえに食べてもらえなければ、こんなものは要らないからな」
「わかったわかった!食う!食うからそんなことするなよ!」
慌てて跪き博雅はチョコを拾った。
「食い物を粗末にするなと習わなかったのか」
ぶちぶち言いながら拾い上げたチョコの包み紙をパリパリとめくると、ポイと口に入れた。
「すぐマイナス思考に走るところがお前の良くないところだと思うぞ、ったく。」
残りのチョコを次々に拾ってテーブルの上に置く。
「…すまない」
小さな声で晴明が言った。
「うむ、でも確かにこれは美味しいな。」
酒もいけるが意外に甘いものも好きな博雅、すっかり機嫌も直って、熱い紅茶をすすってにっこり。目の前には、食べたチョコの包み紙が銀色の小さな山を作っていた。
「ハプスブルグ家御用達の高級チョコレートだからな。」
「へえ。」
晴明の言葉に素直に驚いて目を丸くする。
「だからカロリーもハンパない。」
「それは困るな。毎日こんなの食ってたらあっという間にブクブク太っちまう。」
最後の一粒の包み紙を剥きながら博雅はハハッ、と笑った。
「もしかすると、もう太ったかもしれないぞ。」
「まさか」
あはは、と博雅。
「確かめてやる、指を出してみろよ。」
晴明もにっこり笑って博雅の方に手を差し出した。何気なしに晴明に向かって人差し指を差し出す博雅。
…ん?どこかで聞いたことのある展開のような??
なんだかよくわからぬ不安が小さく頭をもたげたが、晴明の冷たく硬い指に、人差し指をきゅっと掴んでゆっくりと上下にさすられて博雅の頭にぽうっ、と血が上り、その小さな疑念をあっさりと押し流した。
「こら…」
さすられる指にぴりぴりと電流のようなものが流れる。止める言葉が小さく掠れた。
「食べごろだな」
博雅の人差し指の先をぺろりと舐めて、白皙の陰陽師が笑んだ。
「は?え?ま、ままま待てっっ!ちょっ…!これっ!や、やややめ〜〜〜っっ!!」
お菓子の家にヘンゼルの悲鳴が響く。
お菓子の家にはご用心。