牡丹(10

 
「う…ん…。」
博雅のまぶたがゆっくりと開いた。
しばらく焦点の合わぬ目で天井を見つめていたがやがてぱちぱちと瞬きをしたかと思うとその目が意思を持った。
ゆっくりと起き上がった。
体を横たえていたテーブルを不思議そうになでるとそこから足を下ろした。自分の服装を見下ろしてまたもや不思議そうにその布地をなでおろした。その手に誰かの影が差した。
あまり表情のない顔をあげて、影を作ったものに視線をやる。
白拍子姿の女、晴明の式だった。
「…退け。」
博雅が一言つぶやく。
が、式はどこうとしない。
「あなたは博雅様ではない。われは博雅様のお体をお守りするよう主より命を受けております。どうか、主が戻られるまでこのままお待ちください。」
式が告げる。
「博雅…?誰だ、それは。私の名は忠雅。花山院忠雅だ。…まあ、よい、とにかくそこをどけ。」
式に向けられたその目はいつものにこやかな博雅の目ではない。
「どうかこのままお待ち下されませ。」
なおも告げる式に忠雅が、はあっとため息をついた。
「じゃまだ…。早くどけ。」
「どうかこのままおとどまりを…。」
忠雅は式に最後まで言わせなかった。
式の細い首に忠雅の手がかかる。ぎりっとその手に力がかかった。そのままものすごい力で式を投げ飛ばした。壁にぶち当たりひらりと元の紙に戻る式。
忠雅はゆっくりと立ち上がった。
「だからどけといったのだ、私に手荒なまねをさせるな。さて…ここはどこだ?私はなぜこんなところにいるんだ?」
思い出そうとしても頭の中にもやがかかったようで何も思い出せない。
と、その目が床に落ちたままになっている襲に向けられた。
その紅い衣に鮮やかに咲き誇る白い牡丹の花に視線が吸い寄せられた。うっすらと脳裏に誰かの面影が浮かんでは消える。
思い出せない何かにいらいらと首を振ると、その衣が床に広がっているところまで歩み寄り、ひざを突きその衣を手を触れた。
なめらかな絹の肌触りに、形のよい指先がまるで熱いものに触れたかのようにびくっと震えた。
きゅっとその衣をつかむと、そのまま自分の顔のところまで引き上げた。クンとにおいを嗅ぐ。かび臭さとともにほのかに花のような香の残り香がした。その匂いに何かの大事なことを忘れているような気がした忠雅。
「私は誰かに会うためにここにきたのではなかったか…。隆季どの…か?」
隆季、藤原隆季。
白い百合の花を思わせるように清らかな、少しあどけなさの残る青年。
私は彼に会うためにここにいる…のか?
 
部屋の中には凍りついたように動かぬ晴明もいるのだが、結界を張った中に座しているため霊に近い忠雅にはその姿を見ることができないでいた。
額に手をあてて忠雅がふらりと部屋の中を横切る。
「これは外へと出る扉か?」
ドアのノブを不思議そうに押した。半分あいたままになっていたドアがぎいっと音を立てて開いた。
自然と足は外へと向かっていた。まるで、体だけは行くべきところを知っているかのように…。
今、博雅に成り代わっているのは花山院忠雅。
本人は隆季に会いたがっているが、実はそれはすべてぬえによって刷り込まれた偽の記憶だ。
ぬえは忠雅にあるじ隆季がされたと同じことを忠雅に仕掛けたのだ。本当に想う相手を別の人物にすり替えた。
同じ敬愛の術でも、隆季は途中で呪が解けて悲惨なことになったが、陰陽師のいないこの今の世では誰もその呪をとくものなどいないはずであった。
少し遅れて晴明が戻った。
閉じていた目を開き、印を結んでいた手を解いた。
立ち上がると壁のそばで破れて落ちている形代をひらう。
「…忠雅を式にはとめることができなかったか…。」
「忠雅」といった途端に晴明の背後で襲がさわりとうごめいた。
何かの気配を感じて晴明が振り向く。そのときにはその衣はもう動いてはいなかった。
「?…何だ…?」
しばらく襲を見つめていたが、それ以上その衣からは何も感じられなかった。
「気のせいか?」
忠雅がここから出ていくらか時間が過ぎていることに気をとられていた晴明は、何かの気配を感じつつもその場を後にした。
「ここの結界が、きいていてくれればいいが。」
廊下を足早に歩きながら独りごちた。
 
忠雅と晴明の二人が出ていって、さらにしばらくたったころ、誰もいなくなったしんとした部屋のなか、あの紅い襲の牡丹の華がまるで生きているかのようにゆらりと揺らめいた。やがてその華の中心より白いもやのようなものが立ち上がる。ふわふわと立ち上がったそれはやがてゆっくりと人の姿をとり始めた。
『‥忠雅さま…』
人の姿になったそれのくちびるより忠雅の名がつむがれた。
その影は、まるで忠雅と晴明の後を追うかのようにドアをすり抜け外へと出て行った。
誰もいない薄暗い廊下をほの白い影が滑るように進んでゆく。と、その前に廊下の角を曲がってこちらにむかってくる一人の若い男がいた。ここの宮司の一人息子だった。
下を向いて歩いている彼は前にふわりと浮かんでいる白い影に、その直前に迫るまで気づかなかった。
歩く目の前の床になにやら白いもやのようなものを見つけてその彼が顔を上げた。その顔が恐怖でこわばる。
「う‥、うわあ!」
自分よりわずかに上のあたりでふわりと浮かぶほの白い人影に目が釘付けになった。
『…安倍のものか…』
一言そうつぶやくと、その影は恐怖に固まる青年の上へと覆いかぶさっていった。
『しばらくその体、借りるぞ…』
 
博雅(忠雅)は社の外へ出ようとしていた。
日はもうすでにとっぷりと暮れ、境内には参拝の人の影ももうない。
その境内の石畳を踏んで忠雅が歩いてゆく。
あともう一歩で鳥居をくぐって外へ出られるというところだった。が、そこから先は一歩も進むことができなかった。何もない空間に両手を広げる。
「なんだ?これは…」
そこには目には見えぬ大きな壁がたちはだかっていた。何の感触もないのに確かになにかがそこにはあった。
 
「結界だよ。博雅。いや、…忠雅どの。」
後ろから声がした。振り向くとそこに晴明が立っていた。境内の暗闇の中に立つ白い影。
「…誰だ?おまえ…?」
いつもは晴明を見つけると、うれしそうにほころぶ博雅のその唇を忠雅がゆがませる。
「博雅…」
晴明の目には、博雅と忠雅のふたりの魂が重なり合っているのが見えていた。
このままでは博雅と忠雅の魂が交じり合って博雅ではなくなってしまう。
幸いこの晴明神社には本当の結界が張ってあって外からの悪霊もはいってこれぬ、代わりに中の霊も外に出ることはかなわない。
それも本当に忠雅の魂魄が博雅のものと完全に交じり合ってしまっては何の障害にもならないが。
そんなことはこの俺が絶対にさせない。
「博雅…?さっきの妖しのようなものも、その名で私を呼んだな。だが、私はそのような名ではないぞ。」
博雅とは違うきつい目つき。
「知っていますよ。あなたは確かに博雅ではない。しかし、その体は私の大切な博雅のもの。今のあなたの魂魄の半分もね。」
紅い唇に苦い笑みを浮かべて晴明が言った。
「意味がわからぬな…。私は私だ。」
「ではお聞きしましょうか。忠雅さま。あなたは今までどこにいたのか覚えていますか?」
「もちろんだとも。私は先ほどまで…あいつと…酒を…」
忠雅が黙ってしまった。
「あいつ…とは?」
晴明が畳み掛けるように聞いた。
「隆季…と…」
「本当に?」
「…」
「なぜ自分の愛する人がわからないのです?その名すら思い出せぬのですか?」
「…くっ。」
忠雅がきっと晴明をにらむ。
「私には己の半身、愛する人の名を忘れることなど考えられませぬよ。」
両手を印に結び、その手を忠雅に向かって突き出すと真言を唱えた。
「オンキリキリサンマヤエイソワカ 縛! 」
忠雅がその場で凍りついたように動かなくなった。
「くっ‥!体がっ!」
その身をねじろうとするが縛された体はびくりともしない。
晴明がそのそばへと歩み寄った。
「悪いが忠雅様。私の大事な博雅の体から出て行っていただきましょうか。」
いつの間にか手にしていた呪附をその額に押し当てる。追い討ちをかけるように呪をとなえる。
「うわあああっ!!」
忠雅が悲鳴を上げる。
「許せっ!博雅!!」
呪符に手の平で強くおしつけ、さらに呪を唱える。
「悪霊退散!急々如律令!!」
「うう…っ!」
博雅の体から力が抜けてゆく。
がくりと崩れ落ちる博雅を抱きとめる。
博雅に重なって忠雅の姿がみえる。まだしっかりと霊体が重なったままだ。
「ちっ!だめか…。」
忠雅が博雅の体から出てゆかない。今ので博雅の意識も覚醒したかもしれないが、その身から忠雅を追い出すまでにはゆかなかった。
「このままでは本当に二人の魂がひとつになってしまう…。」
どこかで血のつながりでもあるのだろうか。この忠雅という男、博雅との魂の共鳴が半端ではない。
と、晴明のポケットの携帯がなった。
「こんなときにいったいだれだ?」
晴明の携帯の番号を知っているものはそう多くはない。しかたなく着信を確認した。
『賀茂保憲』
今回のこのトラブルの大元だ。
「保憲様か…。」
この方からの連絡などろくなものがないに決まってはいるのだが、今の博雅の状態を相談できる唯一の人間でもあった。この世において晴明よりも陰陽の道に通じているもの、それはこの保憲を置いて他にはいない。晴明の兄弟子に当たるのだから
(この際。背に腹は変えられぬか…)
「はい。稀名です。」
『晴明か?』
保憲の声。
「ええ。」
『少しやっかいなことになったぞ、晴明。俺は今あの例の山科サエ子のところにいるんだが、どうやら中身が違う人間にいれ変わっているようなのだ。両親は娘が意識を取り戻したと喜んでいるが、あれは魂魄が全然別のものだ。
とりあえず気づかないふりをしているんだが…もしかしてそっちに何かあったのではないか?」
「やはり…。」
『やはりとはどういうことだ?まさかそっちでも同じことが?」
「ええ。そのことで急ぎ保憲様に相談があるんですよ。」
『急ぐだと…?お前がそこまであせることというと…もしや博雅様に何かあったのではないだろうな…。』
「残念ながら…」
『やっぱり。いったい博雅様になにがあったのだ?まさか怪我などしてはいないだろうな?』
保憲の心配そうな声が携帯から響く。
「怪我はしていませんが、博雅にもその子と同じく別の魂魄が入り込んで、しかも呪をもってしても出てゆかないのです。」 
「博雅様の体に別の魂魄だと?ならばそいつを追い出して博雅様の魂魄を戻せばいいだけではないのか?おまえならばそれくらいたやすいことだろうが。」
「それがそうもいかぬのです。忠雅とか言うこの男の魂魄、ぬえという女によって博雅の魂魄と重ねられ、なかなか離れないのです。このままでは二人の魂魄が交じり合って一人の人格となってしまいます。保憲様なにかよい手はありませぬか?」
晴明にしては珍しく声に焦りが出ている。
「ううむ…。とにかく俺はいまからこちらのヤツを何とかうまくそっちへ連れてゆくから、お前はその忠雅殿を動けぬようどこかに縛しておいてくれ。どういう手が打てるかわからぬが、とにかく役者をそろえぬことにはどうにもならぬだろう。」
「…それしかないでしょうね。では一刻も早く。」
晴明が言った。
「ああ。わかった。とにかく力づくででも何とかこいつはそっちにつれてゆく。待っててくれ。」
そう告げると保憲は電話を切った。
博雅のためにどんな手が打てるかわからなかったが、しかし、今の晴明にはとにかくなんでもやってみるしか手はないようだった。
博雅の体を参道の灯篭に寄りかからせると緊縛の呪をかけてゆく。
「窮屈な思いをさせてすまないな、博雅。俺が絶対お前を何とかしてやるから待ってろよ…。」
意識を失ってぐったりとした博雅の頬をそっとなでた。
と、後ろに誰かの気配を感じた晴明。ばっと振り向いた。
 
まだ20代の華奢な青年がそこに静かに立っていた。
誰だろうといぶかしげに目を細める晴明。
よく見ると青年の体がほのかに燐光を放っている。
ぼうっとした表情の青年の背後に晴明にしか見えない人影があった。
烏帽子をかぶったきれいな顔立ちをした水干姿の若い男。
「あなたは…?」
その目は目の前にいる青年を通り越して背後の公達を見つめていた。
『私は安‥倍泰親…ひと…を探しており‥ます…。』
途切れ途切れに返答する青年。まるで長い間しゃべらなかったかのようだ。
「…忠雅どのにゆかりのあるお方ですね‥。」
忠雅の名を聞いて背後の霊が硬直したようになった。その視線がきっちりと晴明の視線を捕らえた。
(なるほど…、きちんと意思を持った霊だな。ただの残留思念かと思ったが‥)
「驚かせてしまったかな?」
晴明が言った。
泰親と名乗ったものが青年の体を借りてこくりとうなずいた。とても緩慢な動きだった。
「ふむ‥。あなたからは色々と詳しいことが聞けそうだ。でも、今の状態では意志の疎通もままならないな‥。」
ほんの少し考えた晴明、なにを思いたったのか泰親に向けて呪を唱え始めた。片手で簡単に印を結ぶ。その手を泰親に向かってすっとさし伸ばした。
「降りよ…。」
目の間の青年が、かくりとこうべをたれた。
「さて‥。」
晴明が言ったと同じくして青年の顔が上がった。今度はその表情がぼうっとしてなどいない。
「どうです?もうきちんと話ができるでしょう?」
「え、ええ。‥すごい…、まるで生き返ったような気がする‥。」
手を握ったり閉じたりしてみる。
いままでまるで水底にいたかのようにぼんやりとしていた意識が鮮明になったことに泰親は心底驚いていた。と、同時にいろいろなことが鮮やかに思い出されてくる。
そうだ‥私は忠雅さまを追ってきたのだ‥。
「さあ、お話していただきましょうか、といってもあまり時間は残されていないので、早くしていただなければならないのですがね。」
と晴明が言った。
 

  
晴明と泰親の初対面です。
にしても晴明、「愛する人を忘れたことなどない」とは‥大うそつきですね。忘れまくってたくせに。


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