牡丹(7)
翌日、忠雅は泰親の元へ使いを出した。
今宵,自分の花山院邸で会おうと。
もう頼長と隆季の件が終わったので、泰親とどこで逢瀬をしようが遠慮はいらないと判断したのだった。
「今宵はあいつに例の襲を着せてやろう。泰親の白い顔にさぞや映えることであろう」
忠雅は夜を心待ちにしていた。
夜になり泰親が忠雅の所へやってきた。
屋敷の奥へと案内される。
御簾をくぐったところで几帳の影にいた忠雅に抱き寄せられた。
「よくきた、泰親。待っておったぞ。」
座るまもなく立ったまま泰親のあごに手をかかけると、その柔らかな唇に口づける忠雅。性急に唇を割って舌を絡めてゆく。
あいた片手で泰親の烏帽子を取り、その下の元結をも解く。つややかな髪が滝のように忠雅の手に流れ落ちる。
忠雅は何より泰親のその長い髪が好きだった。
絹糸のような髪に指を絡ませて、その感触を楽しむ。
「…わたしのような怪しげな陰陽師を…ん…や、屋敷に呼んだりすれば妙…なうわさがたちますよ。」
くちづけの合間に泰親が言った。
その目は欲情にきらめいて無意識のうちに忠雅を誘う。細面の顔を忠雅に乱された髪が縁取っていて何とも言えない色香が漂っていた。
「なにかまわぬ。言いたいやつには言わせておけばよい。今宵はお前に贈り物と大事な話があったのだ、わざわざ来させて悪かったな。」
にこりと笑って忠雅が唇を離した。
今の口づけでふっくらと膨らんだ泰親の唇を親指でそっとぬぐう。
「いえ、あなたさまにお会いできるのでしたらたとえ遠くとも馳せ参じますよ。…それで大切な話とは?」
忠雅の親指の硬い感触に、泰親は神経が焼ききれてしまいそうなそうな気がした。
これ以上好きになりたくなどないのに心は忠雅だけを求めてやまない。
私のような未来のないものと忠雅はいつまでもいてはいけない。
理性はそう言っているのに忠雅と離れることがどうしてもできない。
「まず贈り物からだ。」
忠雅の声にはっと物思いから覚める。
忠雅が家人を呼んでいた。
「あれをもってこい。」
忠雅の命に軽くうなずくと家人は姿を消した。
すぐに両手にそれをささげ持って戻ってくる、その品を忠雅に手渡すとその場を辞していった。
忠雅は手に取ったそれをばさりと広げて驚く泰親の肩にそれをかけた。
紅い襲は思ったとおり泰親の白い顔に映えた。
どんな姫よりも美しかった。
満足げに泰親を眺める忠雅。やはりこの男は誰にも渡したくない。
…俺のものだ。
「母の形見だ。お前は女ではないがこれを受け取ってくれ。いつか妻を娶ったら着せてみたいと思っておったものなのだ。」
泰親は驚いて声もない。
どういうことだろう…?
切れるはずの頭が麻痺したようで状況がよく飲み込めない。
「要するに…女ではなくともかまわぬから俺の妻になれといっておるのだ。嫌か?」
「妻…ですか?」
周りにかまわぬ男だとは知ってはいたが、こんな突拍子もないことを言うとは。泰親は本当に驚いてしまった。
「妻でなければ、そうだな…人生の連れ…かな?とにかく、お前を俺だけのものにしておきたいのだ。」
誰とも泰親を共有したくない。それだけだ。
「連れ…。」
しばらく忠雅の突拍子もない申し出について考える。
自分の体は病いに蝕まれて、もういくらも生きられぬであろうことはよく知っていた。
ならばその残された時間をこの忠雅とともに過ごしたい。
「そちらの方が私は嬉しいですよ。妻よりは、あなたと肩を並べていられるようだし。」
心を決めた泰親は、にっこりと涼やかな笑みを浮かべて答えた。
「では…承知と思っていいのだな。」
泰親の目を強いまなざしで見つめる忠雅。
「嫌といっても、…どうせ聞く耳もたぬのでしょう?」
この強い生きる力と自信にあふれた瞳が、この人を愛しく思う最大の理由かもしれない…。
「確かにそうだ。」
忠雅が笑った。
泰親の唇に再び己の唇を落としてゆく。泰親の肩から襲がするりと紅い波のように滑り落ちていった。
半分肩から滑り落ちた紅い襲が、泰親の白い裸身に映えている。
その紅い地が灯明の明かりを映して燃えるようにゆらめく。
忠雅のひざの上で泰親の体が忠雅から送られる律動にあわせて揺れている。
泰親の細い腕が忠雅の首に巻きついていた。
その広い肩には泰親の長い髪が流れるようにかかっている。
忠雅が動くたびに泰親の唇から熱い吐息と、かすれた喘ぎが漏れる。泰親の細い足は忠雅の力強い腕につかまれ大きく広げられていた。
忠雅のものがまるで楔のように泰親の秘められた門に突き立てられていた。
猛るそれは隠微な音を響かせて泰親の後孔を穿ち続けている。
「お前は本当に美しい。」
泰親の中に己のものを根元まで埋めながら忠雅がいう。
「はっ…!あ…ああ…っ!」
泰親の折れそうに細い腰が、あまりの刺激に耐えかねたように逃げようとするのを忠雅が腰を掴んでさせまいとする。最奥を突かれて泰親の唇から悲鳴とも嬌声ともつかぬ声が上がった。
体をのけぞらせる泰親のきゃしゃな胸に咲く赤く硬くなったつぼみに、忠雅は熱い舌を這わせていった。
自分のものをくわえ込んで離そうとしない男とも女ともつかぬ泰親の中性的な体に、そしてその白い裸身と赤い襲との鮮やかなコントラストに忠雅は自分の理性が飛んでゆくのを感じていた。
お互いを必要として結ばれた二人はこの上なく幸せだった。
忠雅が妻を娶ったらしいという噂はひそやかに、しかし、瞬く間に殿上人の間に広まっていった。それが姫ではないということまではまだ、誰も知らぬことではあったが。
その噂は忠雅の命を狙わんとするぬえの耳にも、そして隆季の耳にも届いていった。
隆季は一時、気が触れたのではないかと思われるほどに己を失っていたが、ぬえの看病の甲斐もあってか今は自分を取り戻していた。だが、いまだ弱って床に伏したままの隆季にとっては忠雅がどこぞの姫を娶ったという話は、何より悲しい知らせであった。
枕から頭をあげることさえままならない。
この時代、歌合せで負けただけでものも食わずに死んでしまうような時代である。隆季のような目に会えば病になってしまっても仕方がないのかもしれない。
「…忠雅さま…。」
あの日以来、隆季ははじめて忠雅の名を口にした。名を呼んだ後、隆季の頬を一筋の涙が伝わって枕もとの絹を濡らした。
「おいたわしや…。」
枕元で乳人のぬえが泣き崩れる。怨んでも怨み足りぬ忠雅…。
あの男だけは幸せになどしてやるものか。
「隆季さま、このぬえが忠雅を幸せになどさせませぬゆえご安心なされませ。隆季様の恨み、このぬえがきっと、晴らして見せましょうぞ。」
枕元でそう隆季につげる。
涙にぬれた険しい目で隆季の枕元を離れていったぬえの手には、あの陰陽師より手にいれた夾竹桃の毒の入った包みがしっかりと握られていた。
泣き疲れてぼんやりとした意識の中に今のぬえの言葉がようやく届いた隆季。
(忠雅さまの幸せを壊すつもりか…ぬえ。)
私の恨みを代わりに晴らす…?
私は忠雅様を恨んでいるのだろうか…?
私はただただ悲しいだけ…。それともこのような思いを恨みというのか…?
忠雅様は私のことを愛しいひととして見てくれたことなど一度としてないということは、知っていた。
あの方の私をまるで子供をみるような目でいつも見ていた。
恋の相手になどしてもらえる筈もなかった。もとより届かぬ思いなのだ…。
呪によってだまされていたときは相手が忠雅様と信じていただけに天にも上る思いでいたが。だまされていたことを知ったときのことを思い出してまた胸がくるしくなってきた。呼吸が苦しい…。額に冷や汗がにじむ。
私のこの苦しみを見ていたから、ぬえは忠雅を恨んだのだろうか。
だとすれば、ぬえはなにか思い違いをしている。
そのぬえがいったい何をするつもりなのか心配になってきた。枕もとの鈴に手を伸ばして家人を呼ぶ。
ぬえと同じころよりこの家につかえてきた年老いた男がやってきた。
「なにか御用でござりまするか?」
「時平。ぬえが私の恨みを晴らすのだといって出て行ったようだが…。お前は長らくぬえとともにこの屋敷に仕えてくれている、なにがどうなっているのか私に教えてくれぬか?ぬえはいったいなにをするつもりなのだ?」
時平と呼ばれた男はなかなか答えようとはしない。隆季は力の抜けきった体を無理やり起こすとさらにもう一度聞いた。
「私はこの家のあるじだ。もういちど聞く。ぬえはなにをたくらんでおるのか」
隆季に気おされて時平がようやくその重い口を開いた。
「…ぬえ殿は忠雅様のお命をいただく気でおります。しかし!それも元はといえば隆季様を思ってのこと!どうかこのままで…。」
時平の話をきいて隆季は愕然とした。
なんという恐ろしいことを考えるのだ。いくら私のためとはいえ、そのようなことをして私が喜ぶとでもぬえは本当に思っているのか。
「…ぬえ…忠雅さまを殺す気か…?」
止めなければならない。いくら私のことを思ってのこととはいえ、人として許されることではない。
ふらつく体をゆっくりと起こす。が、とたんにめまいを感じてぐったりと倒れこむ。時平があわてて隆季を床へと横たえる。
「無理をしてはなりませぬ!殿!」
「ぬえを止めねばならぬ…。」
押しとどめようとする時平を押しのける。
「…離せ!」
枕元の太刀をささえにして震えながら立ち上がる。足に力が入らない。髪を乱しゆらりと立ち上がるその姿はまるで幽鬼のようだ。
もう、幼くあどけなかったかつての隆季ではなかった。
「ぬえはどこへ行った…?私をそこまで連れてゆけ,時平。これは…命令だ」
その姿に恐れを感じて時平は、隆季をぬえのむかった屋敷へと連れて行ったのだった。
「ここは花山院邸ではないか…」
牛車から蒼白な顔をのぞかせて隆季が時平に聞いた。娶ったという姫の屋敷かと思っていたのになぜここなのか。通い婚の時代、夫は妻の屋敷へと通うのが普通であった。
「変わった事に中将どのは姫をご自分の館の奥深くに囲っておられるのです。先日から陰陽師の安部泰親も一緒に屋敷の中から出てきませぬ。きっとまた、なんぞ怪しき術でも使うておるのでしょう。」
さも汚らわしいというように時平は顔をゆがませた。
自分が頼長と忠雅の謀りごとによって騙されて頼長と契ったのもこの屋敷だった。
忠雅さまも頼長さまと同じか…。
隆季の心に苦い思いが湧き上がる。
ぬえを止めようとここまで追いかけてきたが、…止める必要などないかも知れない。
私のようにまた一人、どこかの誰かがだまされて貶められようとしている…。
人を人とも思わぬ忠雅様など…この世から消えてしまえばよいのだ…。
心の奥で、血を流すもう一人の自分の声。
刀を杖によろよろと牛車を降りる。案内をしてきた時平があわてて走りよる。
「かまわずともよい、下がっておれ…」
全身冷たい汗をかきながら一歩ずつ歩く隆季、その暗い瞳にひたひたと悲しみと殺意が潮のように満ちてゆく。
その少し前、ぬえは花山院邸の門にあった。
頼長の使いと偽り、応対に出てきた花山院邸の女房に酒の瓶を渡していた。
「これは左大臣頼長様よりのお祝いの酒でございます。どうぞ、お納めいただきますよう。」
手にした美しい小ぶりの瓶を手渡す。いかにも頼長なら寄越しそうな、手の込んだ彫と色彩の美しい瓶だった。
「これはお気遣いありがとうございます。頼長さまにはどうぞよろしくお礼を申し上げてくださりませ。」
女房がその美しい瓶に目をみはった。
「それからこれは…お屋敷の女房様に。」
珍しい干菓子の入った包みを女房の前に広げる。もちろんその干菓子にも毒が仕込まれている。
「まあ、なんてきれいなお菓子でしょう。」
色とりどりの菓子に女房の顔がうれしそうに輝く。
「今、おひとついかがです?唐渡りのとても珍しいお菓子ですのよ。さあ、どうぞ。」
少しためらう女房の手のひらにその色鮮やかな干菓子をひとつ乗せた。
「まあ、きれいでおいしそう…。ほんとに先にいただいてよろしいのかしら?」
「ええ、どうぞどうぞ。」
ぬえはにっこりと微笑んだ。
女房が微笑み返して、それから干菓子をひとかけら口に入れた。
「まあ、なんて甘い…」
口の中で溶けてゆく甘い菓子に女房の顔がほころんだ。
と、その刹那、女房が口元を押さえて体をふたつに折った。
「ぐうっ…っ!!」
そのままつんのめるように倒れると苦しげに口から泡を吹く。震える手でぬえの着物のすそを掴む。
「おま…え、なにを…ぐっ!!」
がはっと口から鮮血がほとばしり女房の体が框から転げ落ちた。ぬえは足元に倒れてひくひくと痙攣する女房を冷たい目で見下ろす。
「離しや。」
苦しみながらも、ぬえの小桂のすそを掴んで離さぬ女房の顔をあしざまに蹴る。
「うらむならこの屋敷のあるじ、忠雅を恨むがよい。」
苦しむ女房をそのまま打ち捨てると、毒の仕込まれた贈り物の酒を手に屋敷の奥へと消えていった。
人払いのされた屋敷の奥。
泰親は睦みあった後のけだるい体を忠雅の胸に預けていた。
忠雅は単のみのくつろいだ姿。
泰親は単の上にあの紅い牡丹の襲を羽織っていた。
その華奢な体を忠雅の胸にすっぽりと収められていてこの上なく満足げな泰親。忠雅はその泰親のさらさらの髪を手で櫛けずっては、その感触を楽しんでいた。時折、その髪にくちづける。
几帳の影に誰かの気配を感じた忠雅、泰親の髪から手を離すとそばの朱鞘の太刀を引き寄せて誰何した。なぜなら家人には決して今の時間、邪魔をせぬようにきつく言いつけてあったから。
「そこにいるのは誰だ!」
几帳の後ろから女の声がした。女房の誰かもわからぬほどの小さな声だった。
「申し訳ござりませぬ。先ほど頼長さまからお祝いの酒が届きましてござります。急ぎお知らせをくださいませとのことでしたので…。」
「頼長さまから?」
「はい…。」
「ではその酒をそこにおいてさっさと去ぬるがよい。さあ、いけ。」
「はい、申し訳ございませぬ。」
几帳の陰から酒の満たされた美しい瓶を差し出すと、女は姿も見せずにその場からいなくなった。
太刀を元のところへと置きなおすと、泰親の体から離れ酒の瓶を取りに立つ忠雅。
「ほう、これはまたみごとな瓶だ。中身より外のほうが値が張るのではないか?頼長め、粋なことをする。」
瓶を手に、先ほどまで二人で飲んでいた杯を取る。
「どうだ、泰親、お前も飲まぬか?」
杯をひとつ泰親の手に握らせる。
「では、一杯だけ…。」
泰親が杯を持つ。
「おう、飲め。」
機嫌よく忠雅が新しく手に入れた酒の封を切った。そして泰親の杯になみなみと酒を注ぐ。勢いあまって泰親の手に酒がこぼれた。
「おっと!こぼれてしまった。…大丈夫か?」
「はい、大丈夫ですよ、このくらい。」
だが、忠雅は泰親の手を取ると酒がこぼれてぬれてしまった手のひらをぺろりとなめた。
「ふふ …。なにをなされます。」
二人、目を合わせて楽しそうに笑った…、次の瞬間、忠雅の身に異変が起きた。
「う…っ!」
忠雅が喉元をおさえる。
「…な、なんだ?…き、急に息が…くるし…」
焼け付くようなのどの痛みに忠雅の端正な顔がゆがむ。
「た、忠雅さまっ?いかがなされました!?」
苦しむ忠雅の様子にただ事ではないものを感じた泰親。倒れ掛かる忠雅を杯を放り出して抱きとめた。
いったい、急にどうしたというのだ?
忠雅の体を抱きとめたときに落とした杯に、はっと目をやる。
もしやと、拾い上げて杯に残る酒に鼻を近付けてにおいを嗅ぐ。酒の香りに混じってわずかだが別のにおいがする。
甘ったるい腐った果実のような香り。
どこかで嗅いだことのあった香り…。必死で記憶をたぐる。
「…これは…夾竹桃か!」
思い出したものに戦慄が走る。
夾竹桃…あれは猛毒だ。
現代の青酸カリにもよく似たその毒は、ほんのわずかな量で人を死に至らしめる。
「誰かっ!誰かある!!」
泰親は大声で人を呼んだ。
だが誰も来る気配がない。泰親は知らなかったがもうそのころには花山院邸に仕える者たちは、皆、ぬえの手にかかって殺されてしまっていた。
「…なぜ誰も来ないのだ。…くそっ!ならば仕方がない。」
苦しむ忠雅の口に指を突っ込むと、食いしばった歯を無理やりこじ開け、その口にそばの水さしの水を流し込む。
「忠雅さまっ!お気を確かになされませ!この水をすべて飲むのです!でないと助かりませぬよっ!!」
忠まさにむかって大きな声で怒鳴る。
わかったのか忠雅が水を飲んだ。その目はすでに焦点を失いつつあったが。
苦しさにむせながらも忠雅は水差しの水を飲みきった。
「さあ、もうすこし…。」
さらに中庭の水盤からくんできて水を飲ませる。
そうやってこれ以上に無理というくらい、水を飲ませた。
それから忠雅ののどに指を突っ込み、たった今のんだ水を吐かせる。冷汗で水をかぶったようにぐっしょりとなる忠雅。だが泰親のとっさの判断と治療のおかげで顔の色が戻ってきた。いまだ体がしびれてはいるが先ほどのようではない。ようやく声が出た。
「泰親…いったいなにが起こったのだ?」
大きく肩で息をつきながら忠雅が問うた。
「よかった…。」
忠雅の肩に手を回して抱きしめた。その腕が震えている。
「毒を盛られたのですよ。忠雅さま…。しかも即効性の強力な毒。もし、あんなにわずかな量でなかったら、今頃あなた様はこの世の人ではなくなっていたやも知れません。」
忠雅様の命が助かって本当によかった…。とくんとくんとリズムを刻むその心臓の音が寄り添う泰親には天からの調べにも思えた。
「毒か…」
黒の中将と呼ばれるほど、汚いまねも人を破滅させることもしてきた忠雅だ。それこそ心当たりなど山のようにある。
「油断したものだ…。誰が俺の命を狙ったかはわからぬが、だが毒をここまで持ってきたものならわかるぞ、さっきの女だ。まだ、その辺にいるかも知れぬ。」
そういって太刀を手にすると、止める泰親に大丈夫だと笑顔を残し、まだ力の入らぬ体を押して先ほどの女を探しにいった。
「なんということだ…。」
忠雅が言葉を失うのも無理はない。屋敷のあちあこちらで屋敷に仕える者たちが倒れていた。毒を盛られたらしいもの、後ろから急におそわれたのであろう背中に刺されたあとのあるもの…、そして皆、事切れていた。
女も男もない。見境いなく殺されていた。はっと気づく忠雅。
泰親が危ない!
あわてて部屋へと駆け戻る。
閨の暗がりの中、泰親は灯明のほうを向いてこちらに背を向け座っていた。灯明の灯りに襲の牡丹が鮮やかに浮き上がって見えた。
「よかった…。もしやおぬしに何かあったらと心配したぞ…。」
その背に手をかけた、そのとき泰親と思った人物が振り向いた。その手に抜き身の刀が握られていた。
「忠雅さま!死んでくだされませっ!!」
驚く忠雅。
よける間もなかった。
忠雅の腹に刃が深々と刺さる。鮮血が飛び散って相手の羽織ったあの紅い襲に降りかかる。
「うああっ!!」
忠雅が叫ぶ。
刺したのはぬえではない。
隆季だった。
「う…、うわああ!!」
忠雅から刀を抜いて後ろへ飛び退る。返り血を浴びて襲に描かれた牡丹の花が鮮血で紅く染まっていた。
両手に構えた刀の先が大きくぶるぶると震えていた。
「おぬし…隆季…どのか…?なにゆえこの…ような…ことを…?」
ぼたぼたと血が滴る腹を抑えながら忠雅が苦しい息の中で問う。
「だ、だって!あ、あなたはまた誰かを騙したのでしょうっ!もう、二度とそんなことはさせないっ!」
再び刀を忠雅に向かって振り上げる。切りかかる刃を忠雅の刀がはじいた。
ギンッ!
隆季の手から刀が弾き飛ばされた。
慌てふためく隆季の体を忠雅の太刀が上段から袈裟懸けに一閃する。
隆季の肩から腰にかけてななめに太刀が入った。大量の血が噴出し、すさまじい叫びを上げる隆季。どうっと前のめりに倒れこむ。
忠雅もまた、がくりとひざを突く。
その腹からはおびただしい血が滴り続けている。足元に血溜まりができていく。
「おろかものめ…。すべて自分を元に考えおって…。くそっ!…泰親っ!どこだ?…泰親…。」
几帳の影で物音がした。
段々自由が利かなくなってきた体をひきずって几帳を蹴り飛ばすと、その後ろに後ろ手に縛られて猿轡をかまされた泰親がいた。
その目が忠雅の血だらけの姿をみて大きく見開かれた。
みるみるその目に涙が膨らんでくる。
忠雅は荒く息を継ぎながら泰親の元へと転がるように近づいて、猿轡をとり後ろの縄を刀で切った。
「だ、大丈夫だったか…?怪我はないか…?」
瀕死の怪我を負っているのになお泰親の体を心配する忠雅。
もう、自分はだめだとわかっていた。
泰親は縄から抜けると忠雅にすがりつく。
「忠雅さまっ!!…なんという…ううっ!!」
忠雅の頭を胸に抱き寄せて泣き崩れる。
忠雅の血を止めようと必死に腹を押さえる。
無駄とわかっているのに必死で延命の呪を唱える。だが、もうどんな呪も流れ出る忠雅の命をとどめることなどできないとわかっていた。
「泰山府君よ!わが神よ!忠雅様をつれていかないでください!お願いだ!!」
天に向かって叫ぶ。
泰山府君は陰陽道の神だったが、それとともに死に行くものを迎えに来る死神でもあるのだ。
忠雅の血だらけの手が泰親の頬に触れる。
「泰親…、俺はもうだめだ。…わずかな間であろうとお前とともに生きたいと思っていたが…どうやらそれもかなわぬようだ…。泰親よ、そこに立っているのは…お前の神、泰山府君とやらであろう?」
血まみれの指で泰親の後ろを指差す。だが、ふりむいても泰親には誰もいるようには見えない。
「なにをおっしゃっているのです。誰もおりませぬよ!お気を確かに!」
だが、忠雅にはたしかに泰親の後ろに立つ白い面の男とも女ともつかぬ美しくも表情のない若者の姿が見えていた。
「そなた…、泰山府君殿であられるか…?」
忠雅の問いかけに黙ってうなずくソレ。
「では…私の魂を連れてゆく代わりに…私の命を…この泰親にやってはくれぬか…」
「な、なにを言っているのです!忠雅さまっ!」
忠雅は本当に泰山府君と話しているのだ。泰親にはようやくそれがわかった。
「おまえ…、自分の命はもう…長くないと…思っているのだろ…う?知っているぞ…。そんなお前と最後まで…ともにと…思ったが。ははは…なんてことだ…俺の方が先にゆくことになるとはなあ…。」
笑った口元に新たに血がごぼりとあふれた。
「俺の命をやる…、俺の分まで生きろ…。」
にやりと笑って忠雅の手が泰親の頬を離れて落ちた。
「忠雅さま…?た、忠雅さまっ!忠雅さまあっ!!」」
泰親がその頭をかき抱いて叫ぶ。
が、忠雅の瞳が二度と開くことはなかった。
うつぶせに倒れた隆季がぴくっと動いてうめき声を漏らした。まだ、わずかではあるが息があるようだ。
泰親が隆季を睨みつけた。
「お…おのれ…隆季っ!よくも…よくも忠雅様を…!」
その瞳は怒りに蒼く燃えている。
「おまえなど決して成仏などさせてやるものか…。そうだ…。その襲をお前にくれてやろう…。忠雅様の血が染み付いたその襲の中でいつ果てるともなく永遠に苦しむがいい…。」
忠雅の体をそっと横たえるとゆらりと立ち上がる。
血がべったりとついた赤い手で印を結び、忠雅の太刀を振りかざし、ためらうことなく隆季の体に突き刺した。
断末魔の悲鳴を上げる隆季。
その体から紅い光る玉がふわりと浮かんだ。隆季の魂だ。
と、その魂が襲の中へと引きずり込まれ始める。声にならぬ声で悲鳴を上げる隆季の魂。
その光の玉から人の手が延び出す。必死に伸ばしたその手が忠雅の単のすそを掴む。
「忠雅様に触れるなっ!!」
片手に新たな印を結んで隆季の手を引きはなそうとするが、時すでに遅く忠雅の魂の半分が隆季の魂に掴まれて、ともに襲の中へと吸い込まれていった。
今、呪をとけば隆季の魂は逃げてしまうだろう。もう、どうすることもできなかった。
呆然とする泰親。
泰山府君はそのすべてを見届けると、蒼く光る忠雅の残り半分の魂を懐に静かに闇に消えていった。
誰もいなくなった屋敷の奥で泰親はただ一人、忠雅のなきがらを抱いて泣き続けた。
翌日の朝。
使いに出たいた忠雅の屋敷の家令が、花山院邸の惨劇のあとを見つけた。
屋敷のなかは死体であふれていた。
屋敷の奥には隆季の遺体とそれに寄り添うように死んでいるぬえの遺体。ぬえはどうやら隆季が亡くなっているのを見て、自ら後を追ったようだった。
その傍らにはあの紅い牡丹の襲が、傷ひとつ、染みひとつなく、ふわりと落ちていた。
だが、誰にも忠雅の遺体を見つけることはできなかった。
そして泰親もその同じ夜より、京の都から永久にその姿を消したのだった。
すべての発端となった左大臣頼長は、しばらくののち保元の乱でその命を落とすこととなった。
すべて歴史のかなたに消え去った話であったはずだった。
その襲が今、サエコを取り込み、博雅までをもその中に取り込もうとしている。