牡丹(8)
牛車がぎいっと車輪をきしませてとまった。どうやら目的地に着いたらしい。
御簾をあげて博雅が外をのぞいてみれば、それは大きな屋敷の門の前。
先ほどの老女が博雅に降りてくるよう促した。
「どうぞ、こちらへ。」
先にたって門の中から博雅を手招きした。
少し躊躇したがサエコのことが心配でもあったので、つい無防備に手招きされるまま、門をくぐってしまった。
まずいと思ったときにはもう遅かった。
体がまるで何かに絡めとられたかのように動かなくなってしまった。
「くそっ!しまった!」
家というのは一種の結界で、たとえ薄っぺらな板戸一枚といえど、その力は強いのだ、と前に晴明に聞いたことがあったのに。
動けぬ博雅を見て、老女がそれはそれはうれしそうに笑った。
「おう、かかった、かかった。」
「くそっ!魚を捕まえたみたいに言うな!今すぐ、はなせっ!」
博雅は怒って文句を言ったが、もちろん老女は笑うばかりで取り合おうとしない。
「ほほほ、おまえを見つけたときからずっと狙っておったのだ。ようやく捕まえることができた。ああ、うれしい。」
手を打って小躍りしそうなほどの喜びようだ。
「お、俺のことを狙っていただって?どういうことだ?」
いったいどこで俺を見ていたというのだ。
「おまえ、先日この社に来たであろう?我は隆季様とは違ってこの襲の中より外に出ることができるのだよ。この間ばかな宮司が箱を開けてくれるまではそれもあの忌々しい箱の中だけではあったのだがな。
だが、今はその箱もない。
あのむすめが呼んだという男の姿を確認するために久方ぶりに外の世界に出てみれば、そこにお前がいたのだ。
あまりの幸運にわが目を疑ったわ。どのようなものでもよいと半ばあきらめておったのに。まさか、おまえのようなものがこの世にいたとはのう。」
博雅に近寄ってくると動けぬ博雅のその端整な頬を、筋の浮き立つしわだらけの手でぞろりとなでた。
ぬめりとしたその手の感覚に博雅の背筋に寒気が走った。
「…俺に触れるな。」
ぎりっと博雅が老女をにらんだ。
ばしっと音を立てて博雅の頬が張られた。
博雅の唇が切れて血がつうっと流れた。
「…口の利き方までもよく似ておる。」
老女の目が険しく細められた。
あのお方、などと奉って言ってはいるが、けっしてその人物が好きなわけではないようだ。
「まあ、よい。とにかくお前をもう一度見つけてなんとか捕まえたいと思っておったから、今日おまえがあの怪しげな男とまた我らの前に現れたのは、まさに万に一つの機会であった。これで駒はそろった。おまえとあの娘と。」
「あのむすめ…。サエコのことだな。あの子をどこへやった?」
博雅が気色ばんで言った。
もう二度と自分の教え子を妖しの餌食になどさせるものか。
貴船の山の中で妖しに食い殺されたもう一人の少女の顔が浮かんだ。
「無事じゃ。まだの。…会わせてやろう。」
老女が手を打つと、どこからともなく下仕えのような男たちが現れて動けぬ博雅をひきずっていった。
館の奥。
几帳の影にサエコがいた。
菊襲の唐衣に身を包まれたその姿はまるで雛人形のように愛らしかったが、その瞳は恐怖でおびえていた。と、その瞳が博雅を見つけた。
「先生っ!!」
つまずきそうになりながらも必死に博雅の胸に転がるように駆け込む。
「おう。山科。いたか!俺が来たからもう大丈夫…といいたいとこだが。すまん、捕まっちまった。」
困ったように笑う。
サエコの肩を抱いて慰めてやりたいとも思うのだが、いかんせん体がいうことをきかない。
自分の胸にすがって震えているサエコにやさしく声をかけた。
「せっかくの晴れ舞台、…残念だったな。」
「せんせい…。来てくれてたの?」
ぱっと顔を上げてサエコは博雅を振り仰いだ。
「ああ。必ず、見に行くと約束したからな。なのに、お前がいないから随分心配したんだぞ。」
博雅はにこっと笑って片目をつぶってみせた。
「先生…。」
サエコの目からポロリと涙がこぼれた。
「ま、そう心配するな。今に超強力な助っ人がくるから。」
部屋に足を踏み入れた途端、その博雅の言葉を聞きつけた老女。
「ふん。あの男のことか。どうやらお前を追ってここまで入り込んでいるようだが。我もただ手をこまねいているわけではない。
今頃は我の手のものによってその魂魄を食われてしまっているであろう。ほほほ。」
老女が勝ち誇ったように笑った。
彼女にとってはこの封印された世界は自分の体内のようなもの。この世界で自分にかなうものなどあろうはずがなかった。
だが、博雅にはわかっていた。
稀代の陰陽師、安部晴明。
あいつにかなうものなどめったにいない。
しかも、今、あいつはたぶん…いや、絶対…絶対怒っている。
(怒ったあいつはホントに怖いんだぞ…。)
怒ったときの晴明は無敵だ。
「先生、ここってどこなの?なんか気がついたらここにいたんだけど…。それにこんなカッコになってるし。」」
おびえきった目で博雅をみて問いかけるサエコ。無理もない。
その手はしっかりと博雅の袖を震えながら握り締めている。
「う〜ん。説明するのはちょっと難しいな。しいていえば…まあ、夢の中…かな。
そう。お前は今、悪い夢を見ているだけなんだ。今にバクがきてこの悪夢を食べていってくれるから安心しろ。なっ!」
極上の笑みを浮かべて博雅が言った。
その底抜けに明るい笑顔にサエコもついつられて、震えながらも笑顔になった。
博雅の笑顔はどんな励ましの言葉よりサエコの心に勇気をくれた。
「先生がいてくれたら、もうここがどこでも怖くなんかない!」
「ほう、怖くないと申すか?ずいぶんと威勢のよいことだの。」
この世界に来て初めてきく声。
博雅がサエコから視線をはずしてその声のする方を見た。
「…おお。まさしくそなたは忠雅さま…。」
「誰だ?」
いつの間に現れたのか自分の姿を食い入るように見つめる若い男に困惑する博雅。
随分と若い男、いやむしろ少年というほうが近いだろうか。その抜けるように白い顔は線が細く白百合のように可憐で美しかった。
(随分ときれいな子だな。でも…。)
博雅は気づいた。
きれいであどけなくすら見えるが、その瞳だけは、暗く、闇を宿していることに。
「このお方がわがあるじ、藤原隆季さまじゃ。やんごとなき身分のおかたである。頭を下げぬか。」
老女が博雅らに言った。
「よい、ぬえ。今更礼儀など無用だ。それにたかが五位じゃ。頭を下げられるほどの物でもなかろう。」
隆季と呼ばれた男がぬえをたしなめた。
(五位…正位五位か。なるほど確かに俺の時代だな。でも、この子には覚えがないな。やはり時代が少し下ったころか?)
あのころの殿上人の名は大概覚えているが藤原氏に隆季という名は聞いたことがない。
「隆季さま。ではそろそろ。」
じっと博雅を見つめていた隆季がその声にうなずく。
「ああ。」
そういって懐に手を入れた。
その懐の辺りがぽうっと光った。
出てきた手には蒼く輝く光の玉を持っていた。
大事そうにそうっと両手で持ちなおすと愛しそうに唇を寄せた。
「さあ、隆季さま…。」
「うん…。わかっている。」
ぬえにそれを渡す。
ぬえと呼ばれた老女はそれを両手で捧げもつとなにかぶつぶつと呪のようなものを唱え、それからふうっとそれに息を吹きかけた。
その光の玉がふわりと舞い上がった。
(いやな予感がするな…。)
震えてすがりつくサエコにやさしく言葉をかけながら博雅は思っていた。
(晴明。お前がきてくれるまでがんばってみようと思ってたんだが…。結局、何もできそうにない。すまん。
だが、せめてこの子くらいは…。)
「おい。山科。」
小さな声でサエコに声をかける。
震えながらサエコが顔を上げた、その顔は恐怖で蒼白だ。
「なに…?先生?…マジで怖いんだけど…」
「わかってる。ここから逃げるぞ。」
「に、逃げる…?できるの?」
「たぶんな。ここは魂だけの世界だ。だから形などあってないようなもの。そしてこの世界はあのぬえとかいうばあさんの手の内だ。だが、ここで唯一俺の意思が働くものがここにある。俺がそれに命じるからお前は晴明という男が呼ぶまで、その中に逃げ込んで決してそこから出るな。わかったか?」
「よくわかんないけど…。先生の言うとおりにするよっ!」
博雅はにこっとわらって
「よし。いい子だ!あとで晴明にあったらよろしく言っといてくれよ。」
「えっ!?先生は一緒じゃないの?」
「それは無理。…じゃあな。」
博雅は懐の葉双にむかって念じる。
(葉双よ。俺の頼みを聞いてくれ。その身のうちにこの子サエコをかくまってやってくれ。そして晴明に無事渡してやってくれ。頼む!)
この世界に足を踏みいれたときから葉双が自分を心配しているのをずっと感じていた博雅。
もう、葉双が妖しとなっているのはわかっていた。
だから、きっと俺の頼みも聞いてくれるはず。
一か八かの賭けだった。
懐の葉双が絹の袋の中で音もなく震えたのがわかった。
(頼んだぞ!)
「せ、せんせいは!?」
言った途端にサエコの存在が目の前からかき消すように消えた。
「おまえ、今なにをした?」
サエコが消えたことに気づいて隆季がきいた。
ぬえは光の玉に何かをしていてそのことに気づいていない。
「べつに…。あの子をほかのところに逃がしてやっただけだ。どうせ、お前たちは俺たちの魂などに用はないのだろう?」
博雅はきつい声で言った。
葉双はきっとあの子を守ってくれるだろう。
「ふん。確かにあのむすめの魂などに用はない。…だが、お前が逃げなくてよかった。」
「なんだ?俺もいらないんじゃないか?どうせ、俺たちの体、実体がほしいのだろう?お前たち妖しの考えることなどみな一緒だ。
食うかのっとるか。どうせ、どちらかだ。」
隆季の頬に紅がさした。
「お前のその自信に満ちたしゃべり方…忠雅さまとそっくりだ…。
ここにあの方の魂がなければ本当に生まれ変わられたのかと思うくらいだ。やはり、お前でなければ…。」
「なにを言ってるんだ?俺の魂などいらんのだろう?」
わけがわからない博雅。
「いや、お前はその体と魂、両方いただく。」
「は?」
博雅の視界をさえぎっていた隆季がその身を脇によけた。
そのむこうに一人の男の姿があった。
ホログラムのように立体的だがむこう側が透けて見えている。
その顔をみて博雅は驚きのあまり声を失った。
「俺…?」
博雅がそう思うのも無理はない。
表情のない顔ではあったが鏡を見るように自分と瓜二つのその顔。背格好や年のころまでもよく似ていた。
「よく似ているだろう?こうして並べて見るとますますよく似ている…。」
隆季がうれしそうにいった。
その傍らでぬえもうなずいている。
「このお方が近衛府中将 花山院忠雅さまだ。」
俺と身分まで同じか!
驚く博雅にぬえが言った。
「おまえは今より花山院忠雅様となるのです。」
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晴明が後ろからドーベルマンのように追いかけてきているはずなのですががまだ、追いつきません。いったい、なにをやってるのでしょうか。おかげで博雅が大ピンチです。
それにしても、毎回長さがまちまちで…(汗)