牡丹(12)

晴明が何も答えないでいるところに保憲が現れた。その手にはしっかりとサエコの右腕が握られている。もう片方の左手の腕は人に変化した沙門が捕まえていた。
「離せっ!」
サエコが顔をしかめてわめ気散らしている。保憲はそんな暴れるサエコにも一向に無頓着なようすで晴明たちのもとへとやってきた。
「おう。待たせたな。」
相変わらずののんびりとした笑顔に見えるのは気のせいだろうか。晴明はむっとしながら保憲を迎えた。
「待たせたな、ではないでしょう。今回のことでは色々言いたい事もありますが今は博雅のことが先です。手伝っていただきますよ。保憲さま。」
「わかっているさ。」
「離せと言っておろうが!」
サエコがわめく。切れ長の美しい瞳を氷のように冷たくして晴明が彼女を見た。その目つきに保憲はどきりとした。
(晴明…怒ってるな…。これはちょっとまずいかもな。)
考えてみれば、晴明が自分の命よりも大切にしている博雅に何かされたのだ。晴明が怒らないわけがない。離せとわめき続けるサエコについ同情の視線がいった。どこの誰かは知らぬがとんでもない物をふんでしまったな。トラの尾かそれとも地雷か…。とにかく晴明は今、限りなくやばい目をしている。血を見ずに収まればよいが…。
「もしかして…隆季どのであられるか…?」
晴明に負けず劣らず冷たい目をした青年がサエコに声をかけた。
「!なぜ私の名を!誰だおまえ!」
自分の名を呼ばれて驚いたサエコの中に入れ替わった隆季。
「…私をお忘れか…隆季どの…」
さめきった表情で泰親が言う。その顔には何の表情も表れてはいない。
「…誰…だ?」
サエコが警戒しながらもう一度聞いた。なんだかとんでもないいやな予感がする。
「…あの時、なぜ私はあなたの魂までひねりつぶさなかったのだろう…。下手に封じ込めたりせずにその場で止めを刺してやるべきだった。」
「もしや…おまえ、あのときの…」
「そう。…あなたを封じ込めた陰陽師ですよ。…思い出されましたか…?」
「‥お前がなぜここにいるんだ‥。」
凍りついたような表情を浮かべてサエコについた隆季が言った。必死に捕らえられた腕をもぎ離そうとするがその両腕は両サイドからがっちりと掴まれている。
「あなたが忠雅様を放す日をひたすら待っていたのです。そしてその日がきたら必ずや忠雅様を奪われた恨みを晴らしてやろうと…」
皆が止めるまもなくサエコに襲い掛かり、その首に手をかける泰親。ぎりぎりとその細い首を締め上げる。
「ま、まてっ!…泰親とかいったか!おぬし、こいつに復讐したいのはわかるがこの体はこいつのものではないんだ!普通の女の子の体なんだぞ。この体が死んでしまったらこの娘の魂は帰るところをなくしてしまう!やめろ!」
保憲があわてて泰親の乗り移った青年の腕をサエコの首から引き離そうとした。
「そうそう。気持ちはよくわかるが第三者に迷惑をかけるのはほめられたものではないですよ。泰親どの。」
淡々とした声で晴明が言った。
「かはっ!」
のど元を押さえて必死で域を吸い込む隆季、その顔は恐怖で青ざめている。
「では。では…どうすればいいのです。」
サエコの首からぱたりとその手が力なく落ちる、途方にくれたような瞳で泰親は晴明のほうを見つめた。その足元に隆季が這い蹲る。
「そうですねえ…。いまさらまたどこかに封印するというのも芸がないし。かといっていくら純真に忠雅どののことが好きだったとはいえ、この方たちのやったことは許されるものではありませんからね。忠雅どのを捕らえ、何人もの罪もない人たちをあの薄い衣一枚の中に取り込み喰らいつくして…。そして挙句の果てに博雅の魂にまで手を出した…。さあ、どうしてくれましょうか…。」
これ以上ないほどの酷薄な笑みがその紅い唇に浮かばせ、すっとしゃがみこむと青ざめた隆季の頬をその冷たい指先でざわりと撫でた。晴明の冷たい眼差しと頬に触れる指先から発する凍るような霊気に隆季が「ひっ」と小さく叫んでのけぞった。まるで蛇に睨まれた蛙のようなものだった。本能的な恐怖を感じたのか隆季の借り物の顔からさらに血の気が引いてゆく。
「ああ…そうだ。都合のよいことに私には地獄の役人に知り合いがいましたっけ。彼にこの方を託しましょうか。そして地獄の一番深いところに沈めて差し上げましょう。未来永劫に浮かぶことのない無間地獄に。クク‥。」
晴明が笑う。見ている保憲の方がゾクリとしてきた。
(本気だな、晴明。小野高むら殿に頼む気か。恐ろしいやつ‥。)
自分を掴んでいた保憲の手を自分のほうから掴んで涙声ですがる隆季。
「た、助けてください!この人、変だ!こ、こわいっ‥。」
(まあ、そうだろうなあ。)
「晴明、そんなに怖がらせるな。それよりその子に降りている方は博雅殿に憑いた方のお知り合いと見受けるが‥。二人とも博雅様たちをほっといていいのか?」
そんなことは言われなくてもわかっているというような目でぎろりと睨まれた。
 
「では出していただこうか、隆季どの。」
晴明が隆季の前に手のひらを差し出す。
「な、なにを…?」
蒼白な顔にふるふると唇を震わせて隆季が聞き返す。
「呪符ですよ、あの女から預けられているはずだ。さあ。」
「じゅ…呪符…。」
はっと気がつく。
「い、いやだ…。」
「何?」
晴明の目がくっと細められる。その返事が気に入らなかったようだ。
「い、嫌だと言ったのだ…!」
蒼白な顔に目だけを光らせて吼えるようにもう一度同じ言葉を吐く。
「なぜだ?」
「だ、だってこれは私と忠雅さまを繋ぐ大切なもの、お前などに渡してたまるか!」
「呪符というのは例の敬愛の呪のですか?」
泰親の目もまた晴明のように冷たい。
「ええ。そんなものでつなげられた関係など何の意味もないと言うことがこの方にはお分かりでないようだ。」
その晴明の言葉に隆季が言い返す。
「知っているわ、そんなこと!私はそこの阿倍泰親のかけた呪のせいで道長様と関係を持たされたのだからなっ!みんなおまえが悪いんだっ!!私がおなじことをして何が悪いんだっ!!」
蒼白な顔に瞳だけをぎらぎらと光らせて泰親を睨みつける。
晴明は怖いがそれ以上に泰親に対する恨みのほうが強いらしい。
「あなたもこの方にその呪をかけられたのか?」
隣でたたずむ泰親を振り返る晴明。その泰親の目もまた隆季を睨みかえしている。
「…確かに。忠雅様と知り合うきっかけともなったのがこの隆季殿に呪をかけることだったのですから。」
だが、だからといって同じことをされるいわれなどないと言い返す。
「やれやれ。私がいなくなった後の陰陽寮はいったい何をしていたのです、保憲さま。こんな呪を使うなど。」
「俺に言うなよ、晴明。俺が陰陽寮すべてを管轄していたわけではないぞ。大体そのころには俺だっていなかった筈だろ。」
急に話を振られた保憲があからさまに迷惑そうな顔をした。
「で、どうするのだ?この方は呪符を渡す気などなさそうに見受けられるが?」
にらみ合う隆季と泰親にちらりと視線を向けながら保憲が言った。
(こいつら、にらみ合ってる場合か…、見ろ晴明の顔を。あの堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題だぞ…。)
保憲が思ったとおり晴明の口元がイライラでぴくぴくと引きつっている。こんな連中の争いに博雅が巻き込まれたということがその神経を逆立てていた。
(天然トラブルメーカーめっ!)
能天気に笑う博雅の姿が胸に痛みをともなって脳裏に浮かぶ。
(帰ってきたら苛め倒してやるからな。)

 
「渡さないというならそれはそれで結構。ちょっとそこをどいていただけるかな?泰親どの。」
隆季とにらみ合う泰親の肩をついと押す。
「しかし…」
何かいおうとした泰親が不意に黙った。
「ど、どうぞ…。」
一歩引いて晴明にその場を譲った。
(こ…怖い…。)
にこやかな物言いと笑顔の中に背筋の凍るようなものを感じた泰親、決してこの高名な陰陽師を見くびってはならないと瞬時にしてわかった。
「ああ、ありがとう。あなたにも後で少し手伝っていただきましょう。」
そして右手をすっと伸ばしたかと思うとその指先をひたりと隆季の額に当てる。たったそれだけのことなのにサエコの肉体を借りた隆季は動けなくなった。
「な、なにをする!あれは絶対に渡さぬからなっ!!」
「ああ、いいのです。無理して渡していただかなくとも。」
赤い唇にうっすらと笑みを乗せて晴明が言った。
「…!よせっ!晴明!」
晴明がなにをしようとしているかに気づいた保憲が止めようとしたがそのときはもうすでに遅かった。
「寒言神尊利根陀見…火によりて悪霊滅すべし。」
サエコの全身が青白い炎にぼうっと包まれた。燃えているのは生身の肉体ではない、その下に隠れた隆季の魂魄。空気をつんざいて隆季の叫び声が轟いた。
「ぎあああああっっ!!」
「渡さないというのであればもろともに消滅させるだけのこと。」
泰親はその光景に身を震わせた。
身をよじって苦しむ隆季、その手が助けを求めるように泰親に伸ばされた。
「隆季どの…」
恨みの尽きぬ相手ではあったが思わず目を覆いたくなる。
「…ああああぁ…」
伸ばされた手が宙を掴む、そして段々と隆季の声が小さくなっていった。やがてその声も聞こえなくなってサエコの体が地面に崩れ落ちた。
「本当ならば地獄の底に沈めて差し上げるはずだったのに、残念なことをしました。」
晴明が氷のような瞳で崩れ落ちたサエコを見下ろして言った。博雅にされたことを思えばこれくらい当然のことだと思っているのは間違いなかった。
目の前に魂の抜け殻となってくたりと崩れ落ちたサエコの体を抱きとめて保憲があきれたように言った。
「ほかにもやりようがあるだろうに。晴明。」
「なにを言われるか、保憲さま。もうすでに博雅と忠雅どのの魂がひとつに溶けはじめているのですよ。私にはこれ以上あのような戯言にかまっている暇などないのです。」
きっ、と睨まれた。
「さて、これで邪魔者も消え、敬愛の呪も滅した。さあ、二人を引き離しましょうか。」
にこりと笑って泰親のほうを振り返る。
「は、はい…」
もし、隆季と同じように博雅とか言う方の肉体を忠雅様のために奪おうと考えでもしようものならどんなことになるのだろう、一瞬ちらりと頭を掠めた。と、晴明の目がぴたりと泰親の視線を捕らえた。
「…それは考えないほうがよろしいですよ…。」
切れ長の瞳を半分伏せて長いまつげの下から泰親を見つめる。今度こそ本当に泰親の全身が総毛だった。
「晴明…。」
もうすでに保憲の手には負えない。今の晴明はまるで鎖を解かれた猛獣のようなものだ。
(博雅どの。早く戻ってこいつを何とかしてくれ。…ああ、こいつに今回のことを頼んだのは大きな失敗だった…)
まさに、後悔先に立たず。
 
晴明の桔梗紋の明かりの元、表通りからは見えない場所に晴明、保憲、そして宮司の息子の体を借りた泰親、その三人と一匹が地面に横になった男を囲んで立っている。力なく倒れているのは二人の魂魄をその身に宿らせた博雅。その博雅の体を地面に置かれたいくつかの丸い小石が囲んでいる。そして博雅の額には晴明が書いた複雑な呪の書かれた呪符が貼られている。
「…さて、では始めましょう。」
そういうと晴明は両手を複雑な形に結ぶ。その結ばれた指先が晴明の唱える呪の祭文とともにめまぐるしくいろんな形に組みかえられていった。
「如此依志奉志国中迩荒振神等乎問志賜…」
丸い小石を光の線が流れるようなスピードでつないでゆく。光の線が晴明の五亡星を闇の中に浮かび上がらせる。
その中央に横たえられた博雅の体がふわりと地面より数十センチも浮き上がった。泰親が声もなく目を見張った。
晴明が低い声で唱え続ける祭文に導かれるように博雅の体からぽうっと明るい光の玉が飛び出してきた。青白く輝くところと明るい黄金色に輝くところが半分づつ交じり合った大きな魂だった。
「本当に混じりかけていたんだな…。」
思わず保憲が呟く。
「そうはさせませんよ。さあ保憲さま、手伝ってください。」
「おう、そうであったな。」
さすがにこれは大変なことと気を引き締める。
「あ、あの私はなにをすれば…?」
稀代の陰陽師二人のその迫力に押されて泰親がおずおずと聞いた。自分などにこの凄い人たちの手伝いができるのだろうか。
「今はまだ。でも、後で必ず手伝っていただきますよ。あなたにしかできないことがありますから。」
晴明にそう言われて傍らで控えた。
「忠雅さま…」
その目がひとつに合わさった光り輝く魂魄へと向けられる。きっとあの白金に輝くのが忠雅さまだ。あの方らしい太刀のような硬質な輝き。
「語問志磐根樹立草之垣葉乎毛語止氏天之磐座放…」
晴明と保憲は声を合わせて祭文を唱えてゆく。
晴明と保憲が九字を切る。二人の指先がその両端から光る魂魄へと指し向けられた。ぶるぶると魂魄が震え始める。
「弾けるぞ!」
保憲が言った。
「承知。」
晴明が答える。
「カンゴンシンソンリコンダゲン!」
晴明が最後の呪をその唇より解き放った。光の玉が二つに弾けて飛んだ、晴明の呪が飛び散ろうとする魂魄をその呪により引き止める。
そのまま再び博雅の体へと二つの魂を引き戻した。
「ふうっ…。なんとか間に合ったようだな。」
大きく息をついて保憲が言った。晴明の大切な博雅のこと何か間違いでもあればえらいことだと必要以上に手に力が入っていたようだ。ばきばきに固まった手を引き剥がす。沙門が心配そうにその手を舐めた。
 
晴明は元の地面の上へと戻った博雅の額から呪符をはがし、その額にそろえた二本の指先を当てる。
「目覚めよ、忠雅。博雅。」
二人の名を呼んで唇を寄せると、その指先にふっと息を吹きかける。
「…う…ん…」
博雅の瞳がゆっくりと開く。長いまつげに縁取られた瞳、だが、今はどちらの瞳だろうか。
「あなたの名は?」
晴明に代わって保憲が聞く。
「わ、私の名は…花山…院…忠…雅…」
掠れた声が答えた。
「忠雅さま…私です」
その手を両手に包み込んで泰親が言う。
「だ…れ…?」
焦点の定まらぬ目を泰親に向けて忠雅が聞く。
「安倍泰親…あなた様のさいでございますよ。」
「泰親…か?」
「はい…」
懐かしい忠雅の声に泰親の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
「俺…は死んだのではなかったか…?」
「…ええ。」
「なぜ…こんなところに…?」
力のない目であたりを見回す。
「なんだか…ずっと…夢の中に…いたようだ…」
「ええ、忠雅さま、悪い夢の中にいたのですよ…でも、大丈夫。私がお迎えに上がりましたから…」
泰親が笑顔で泣く。
「お前も…死んだのか…?」
「ええ。」
「そうか…お前…俺の分までちゃんと生きたか…?」
「はい、あなたさまの分まで。」
「そうか…ならばよかった…」
ふっと意識が遠のき忠雅の言葉が途切れた。
「あなたがわかるようであれば大丈夫でしょう。よろしいか…?」
晴明が言った。もう送るべき時が迫っていた。
「はい、…あの晴明どの…。」
晴明が呪を唱えようとしたのを少し引き止める泰親。
「なにか?」
呪を結んだまま泰親に向かって小首をかしげる。
「はい、先ほどの問いにまだ答えていただいておりません、ぜひこの場を去る前にそれだけはお聞かせ下さい。お願いいたします。」
「問いとは?」
「あなたたちは我らの時よりも、もっと前に生を終えられた方たちのはず。なぜ再び時を同じくしてこの世に戻ることができたのか…それが聞きたかったのです。お答えいただきたい…ぜひ」
晴明が静かに話し始めた。
「私は最愛のこの男が死の神に呼ばれたとき、身を引き裂かれるほどに辛く苦しかった…。そして次の世で再びまみえたいと、そのときの自分にできる最強の呪をかけました。」
「やはり…」
これほどの陰陽師でなければ、やはりできることではないのか…。がくりと肩を落とす泰親。今、ここで魂魄となり天に召されてしまえば、もう二度と再び忠雅と会うことはないのかと心の潰れる思いがした。
「でも、そんな呪などこの男の前には何の力もなかったのです。」
博雅の頬に手を滑らす。指先から想いが溢れ出しているかのようだった。
「呪をかけた私の方がすべて忘れて、何一つ気づきもしなかった…。なのにこの男は、勝手に私を見つけたのです。どんな呪も本当に相手を想う心には決してかなわないのですよ。あの隆季にはそれが分からなかったようでしたがね。」
先ほどとは打って代わってやさしい笑みがその白皙の面に浮かぶ。この稀代の陰陽師を鬼にするのも菩薩にするのも、この博雅という忠雅様に瓜二つのこの人だけなのだと思うと泰親の目にも思わず笑みがこぼれた。
「そうですね、では、私も忠雅様をひたすらに想いましょう。いつかきっと再びまみえると信じて…、なにしろ晴明様のような陰陽師ですらその呪の威力が届かなかった時の流れというものに、私ごときの呪などかなうはずがありませんからね、でも忠雅様を想う心は晴明様にも決して負けませぬよ…。」
言いながら借りた体より泰親の霊体がすうっと抜け出した。その体を通して向こうが透けて見える。
『行けるところまで一緒に行きましょう、忠雅さま…。』
博雅に向かってすっと手を差し伸べる。博雅の体から同じように透き通った手がすいと伸ばされてその手を掴んだ。博雅の体より忠雅の霊体が抜け出す。と、博雅の霊体まで一緒についてゆこうとしているではないか。
「ばか博雅っ!」
晴明が怒鳴る。
「ありゃりゃ。」
保憲が目を覆った。
「お前はこっちだろっ!戻って来い、俺を置いてゆく気かっ!!」
半分霊体の抜けた博雅に咬みつくように口づけた。
『わあっ!!』
博雅がびっくりしたような声を上げたようだった。あっという間に博雅の霊体は自分の体へと引き戻された。
『くすくす』
泰親の笑い声が闇の中に響いた。
『なんだったんだ?今のは?』
忠雅が尋ねる声が聞こえた。
『なんでもありませんよ。それよりも、さあ、一緒に行きましょう、忠雅さま。』
『おう。そうだな。』
『今度は絶対に離れませんからね』
『今まで離れたことなどあったか?』
『ええ、ええ、そうでしたね。今までもこれからもずっとともに…』
『ああ、ともにな』
二人の仲むつまじそうな笑い声が春の夜風に吹かれて天へと消えていった。
「いったな。」
晴明のそばに沙門を肩に乗せた保憲が立った。
「ええ。散々騒がせて行ってしまいましたね。」
「まさかこんな展開になるとは思わなかった。その…悪かった!すまん!」
保憲がぺこりと頭を下げた。
「…まあ、いいですよ…とにかく解決したことですし。」
葉二からサエコの魂魄を体に移し変えるとその体を保憲に託し
「あとは頼みましたからね。」
そういって博雅を抱き上げた。
「どこに行くんだ。晴明?」
と保憲。
「野暮用。」
一言だけ答える晴明に苦笑いをする保憲。
「博雅殿をいじめたりするなよ、晴明。悪いのは俺なんだからな!」
「言われなくても分かってますよ。」
振り向きもせずに晴明は答えた。
 
「博雅…博雅…」
だれかが自分を呼んでいる。ぴたぴたと頬をたたかれてようやく意識が戻ってきた博雅。
「起きろ、博雅。目を覚ませ!」
最後にぱちりと強くたたかれて顔をしかめてうっすらと目を覚ます。
「いてっ…。晴…明…?」
「そうだ、俺だ。気がついたか?」
ぱちっと目を開けた博雅。がばっと起き上がって晴明の腕を掴んだ。
「晴明!」
「そうだ。間違いなく俺だよ。まったく心配かけやがって…。」
博雅をぎゅっと抱きしめて晴明が言った。
「ここは?もうあの衣の中ではないのか?」
あたりを見回して博雅が言った。見上げれば中空に猫の目のような細い月。空気が澄んでいるここはどこかの庭のようだ。
「ああ。お前が意識をなくしていた間にいろいろとあったがすべて終わったよ。」
「…すまん。やっぱり今度も俺はただの足手まといになってしまったのだな。」
博雅が情けない声で晴明に謝る。
「気にするな…。」
「すまなかった。」
「何度も言わせるな。俺は気にしていない。お前も気にするな。」
それにあのぬえという女にしたことや隆季の最後を思えば博雅に意識がなくてよかったとも思う。あの場に博雅がいたらきっと当分口もきいてはくれなかったに違いないと思えた。
「とにかくお前が戻ってきて良かった…。」
初めて晴明の体から力が抜けた。ほうっと大きく息を吐いて博雅の肩に顔を埋めた。いつもにない弱気なそぶりに博雅が驚く。
「おいおい、どうしたんだ?晴明。そんなに何か大変だったのか?」
「…全然覚えてないのか?」
顔を伏せたまま晴明が聞いた。
「う〜ん、…たしかぬえとか言う女が俺とそっくりなやつを連れてきて魂を混ぜるとか何とか言い出したから、サエコだけは助けなければと思って…」
「自分よりそっちのほうを優先したか…」
「それは…そうだろう。」
「お前がいなくなった後の俺のことを少しは考えたか?」
「…いや…だが、悪いとは思った…」
語尾が小さくなってゆく。
「ばかやろ…」
晴明の唇が博雅の唇を捕らえた。罰っするかのような激しい口づけ。
博雅は自分よりも他を優先する、たとえ自分の身がどうなろうとそんなことはかまわない、それが博雅の博雅たるゆえんでありあの魂の黄金色の輝きでもある。わかってはいる、わかってはいるのだ。ただ、許せないだけ。博雅が自分の手を二度とすり抜けることのないように今宵は決して離さないと心に思う晴明であった。
 

いよいよラスト、次はエピローグです。だらだらと続きましたが読んで頂けた方々に謝謝ですっ!

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