牡丹(9)

「は…。なにを言ってるのだ?俺がその男になるだと?俺は俺だ。そんなことなど承知しないぞ。」
普段は穏やかな博雅が気色ばむ。
「おまえがどう思おうと関係ないのだよ。」
うっすらと笑んでぬえが言った。
「忠雅様の魂はここには半分しかなくてな。少うし魂魄がたりぬのだよ。」
だから、博雅の魂魄もほしいのだという。
「俺の魂をどうするつもりだ…。」
「混ぜるのさ。」
こともなげにぬえが答える。
「ま…混ぜる?」
「そう、お前と忠雅様の魂はとてもよく似ている。顔立ちが似ているだけではなくな。
今までにも忠雅様を再生させるべく何人も試してみたが誰もうまくいかなかったのだが…。おまえはどうやらうまくいきそうだ。」
博雅をじっと見つめる。まるでなにかを計っているかのような視線だった。
実際計っていたのだろう、満足したのかにいっと笑った。耳元まで裂けるかと思うほどの笑顔。博雅の背にぞくりと冷たいものが走った。
「俺とそいつを混ぜてしまったら、俺という存在はどうなるのだ…。」
「なくなりはしないさ。ただ、忠雅様の影として存在することにはなろうがの。殺すわけではない。まして、やんごとなき殿上人の影とならせていただくのだ。お前のような下々のものにとってはこれ以上の栄誉はないぞ。」
せいぜいありがたがるがよいと笑った。
「なにを勝手なことを…。」
動きの取れぬ身で博雅がぬえと隆季をきっ!と、にらむ。
「俺とその男の魂をひとつにして…その後どうするつもりだ。」
博雅がもう逃げられぬ身と思っているぬえは、嬉々として博雅に自分たちの計画を話した。
博雅と忠雅の魂魄をまぜて忠雅の魂を再生させ、現実の博雅の体にもどす。隆季はそのままサエコの体に入り、サエコに成り代わろうというのだ。
そうして過去に遂げられなかった隆季の想いを遂げさせたい、忠雅と今生でもう一度添い合わせてやりたいとぬえは言った。
純真といえば純真、忠義といえば忠義だが、ここまでくればそれはもう妄執といってもよいだろう。
隆季が思うだけでも充分妄執であるのにそれを助けるぬえという女。
主を思う心は見上げたものだが人としての道を完全に踏み外している。長い年月の間に人としての存在を忘れ、妖しと化してしまっていた。
「なぜ、そこまでする?何の理由かは知らぬが、たとえ封じられていたとはいえ想うお方と一緒だったならそれでよいではないか。
なぜ、もう一度人としてそこまで生きたいと願うのだ?」
薬子が前に言っていた、たとえ封じられても想う兄上といっしょなら何も辛いことなどないと。
余計なことを言うなと博雅に返すぬえを手で制し、それまで無言だった隆季が口を開いた。
「想い、想われる相手であったならな。」
「?」
「残念ながら忠雅さまには好いたお方がおられたのだ。私など目にも入っていなかった。どこぞの姫と添われたと聞いた時は胸が張り裂けそうに悲しかったよ。だが、悪いお方でなあ。その姫とやらも怪しい陰陽の術で手に入れたということだった。
ならば私が同じ手を使って忠雅様を手に入れて何が悪い?…なあ、ぬしもそう思うであろう?」
普通に話しているように見えていた隆季だったが、博雅はその目の奥に狂気が潜んでいるのを見てしまった。
(このお方もぬえという女と同じだ…。長い月日の間に狂ってしまわれたのだな。人の想いというもののなんと強いものか…。)
かわいそうだが考えたところでどうしようもない。妖しとは誰かがなれといってなるものではない。自らが妖しとなって堕ちてゆくのだ。
しかし、ここで陰陽の術という言葉が出てくるとは…。
やはり、古しえの陰陽師が誰かかかわっている。
その誰かがかけた呪ではないのかもしれないが、ずいぶんと自由に動ける封印を衣にかけたものだ…。それくらいのことは晴明と付き合いの長い博雅には充分わかった。
(もろい封印だな。)
襲そのものの封印よりも、後からされた箱の封印の方が強力だったようだ。それが破られた今、この連中はまさしく何でもできるのだ。人の一人や二人、取り込んで入れ替わるなど造作もないことだろう。
「だが、たとえ俺がその忠雅殿とやらになったとして、急におぬしのことを求めたりするだろうか?人の想いは強いぞ。たとえ魂魄が半分になったとしても想う相手を間違うことなど絶対にありはしない。」
千年の時など自分と晴明の間にはなんの障害にもなりはしなかった。博雅はそれを肌身にしみて知っている。ほかに想う相手がいる者と添い遂げようなどとは無理な相談だと思われた。
「ふん、そんなことわかっておるわ。だから、この術を使うのだ。」
ぬえが人の形をした呪符と思しきものを手にしている。
赤い糸で括られたそれ。二枚の人型が合わせてある。文字が見えた。
花山院忠雅。
藤原隆季。
「それは敬愛の術ってヤツだな…。」
昔、晴明がこんなことはするものではないと、他の陰陽師が仕掛けていったこれと同じ呪符を見せてくれたことがあった。
『こんなもので相手の心を意のままに操ったところで、それはただのまやかしにすぎない。もし、この術が何かの拍子で解けてしまえば、そこからは先はもう修羅場しかない。くだらない術だ。』
そういって、あっという間にそれを手の平の上で焼き払った晴明。
「そんなもので人の心を操って、それで本当の幸せになれると本気で思っているのか?だとしたら、ずいぶんとおめでたいヤツだな、おぬし。」
「この術をなぜお前が知っているのだ?」
いぶかしげにぬえが聞いた。はっと思い当たる。
「まさか。お前を追ってこの世界に入り込んでいるもの。あれはもしや陰陽師であったか…?」
「さあね。」
とぼける博雅。
「この男、なかなか食えぬやつ。隆季さまそいつの仲間とやらが本当に陰陽師であったなら厄介なことになります。
さあ、早よういたしましょう。」
「ああ。」
隆季はもう一度博雅のほうを向いて言った。
「うそでもなんでもいいんだ…。私は忠雅さまと一緒にもう一度幸せに生きてみたい。ただ、それだけなんだよ…。」
消えそうに儚げな笑みを見せた。
 
動けぬ博雅の目の前に無表情な自分と同じ顔の男が迫ってくる。
「…よ、よせ…。」
前に見た薬子にとりつかれて廃人同様になった男のことが脳裏を掠める。
俺もああなってしまうのか?まだ、晴明と再会を果たしたばかりなのだ。すべてはこれからなのだ。冗談ではない。
なのに、体が動かない。懐から祓の米の入った小さな袋が落ちたのにも気づかない。
「せ、晴明ーっ!!」
博雅の悲鳴のような声が響いた。
そいつは博雅の目の前でくるりと体の向きを変え、まるでスライド写真が重なるようにゆっくりと博雅にその存在を重ねていった。
「うああっ!」
博雅の頭が仰け反ったかと思うと次のの瞬間、がくりと前に倒れた。
…少しの間をおいて博雅の顔がまたスイと上がった。
あがったその顔からは先ほどまでの博雅とはまるで別人のように表情が消えていた。
 
「忠雅さま。私がわかりますか?」
震える声で隆季が聞く。
『…あなたは…隆季どの…?私は…なぜ、ここに…?』
ゆっくりと頭を回し周りを見回す博雅…いや、今は忠雅だ。
「上出来でございますね、隆季さま。あの雅とか申すものの魂魄、身分もなき卑しきもののくせに正にあつらえたようにぴったりと忠雅さまの魂に重なりましたぞ。今はただ重なっているだけですが、そのうち時がたてばすっかり混じってなじんでしまいましょう。よく似ておりますからきっと、混じり合うのもさぞや早いことでありましょうぞ。」
ぬえが満足げな笑みを浮かべて隆季につげた。
「…ようやく、忠雅さまと添い遂ぐことができるのだな…。」
隆季が声を震わせながら言った。
「…そうでございますね…。」
ぬえの思いが過去へと飛ぶ。
 
あの日、屋敷中のものを殺して回り、最後にもう一度、忠雅が本当に死んだかどうかを確かめにそうっと奥の間へと戻ったぬえ。
そこに見たものは。
袈裟懸けに斬られて事切れているわが最愛のあるじ、隆季のなきがらだった。そばには血のように紅い衣が一枚。
忠雅の姿も、一緒にいた姫の姿ももうなかった。なにがあったのかぬえには全然わからなかった。わかっているのは自分の命よりも大切に育ててきた隆季が死んでいること…。
「隆季さまっ!なぜあなた様がここに…」
隆季の胸に縋ってごうごうと泣いた。
屋敷中の人間を手に掛けた。
すべてを隆季のためにと生きてきたぬえ、隆季の亡き今、もうこの世に未練などない。隆季亡き後、誰も後を継ぐことなどない藤原の家などあっという間に廃れてゆくだろう。
「隆季さま。そこでお待ち下されませ…。いま、ぬえがおそばに参りますからね…。」
なきぬれた顔にうっすらと笑みをうかべた。そして隆季の傍に落ちていた短刀を手にとると、逆手に持ち一息に自分の喉を突いた。
ぬえの首から鮮血がほとばしり、口からもごぼっと大量の血があふれた。
「今…すぐ…おそばに…」
隆季の体に折り重なるように倒れた。
 
血を吐いて事切れている自分を見下ろすもう一人の自分。ぬえの魂がその体より抜けたのだ。
『私は死んだのだな…』
ふっと笑って自分の手を見つめた。向こうが透けて見えた。でも、血塗られた手だ。行く先は地獄か…。いや、私は隆季様の元へ…。
と、どこからか小さな声が聞こえた。
(誰か、だれか…!ここから出してくれ…お願いだ…だれかっ…)
誰かがどこかで泣いている。
『隆季さま…?』
小さいながらも隆季の声に間違いない。生きているときには聞こえなかった亡者の声。その声は隆季の亡骸の傍らに落ちた緋色の衣からきこえていた。
襲の中から助けを請う声が。
どうやったのかもう自分でも覚えてはいない。ただひたすら隆季のことが心配でならなかったのだ。姑奪鳥(うぶめ)のようにひたすらに子を思った。
気づいたときにはまるで妖しのようにこの衣に憑いていた。
 
忠雅は嫌いだ。
隆季さまの人生を狂わせた。あのように素直で清らかなお方だったのに…。
封じられた真っ暗な世界の中で忠雅の半分だけの魂を抱きしめて震えていた隆季。
私はこの子のためなら鬼になることも厭いはしない。…まさに子を思う姑奪鳥の妄執そのものである。
牡丹の模様も鮮やかな襲は衣の貴重な時代のこと、あの凄惨な場にあったにもかかわらず、いつの間にか人から人へと渡っていった。時にはやんごとなき姫の花嫁衣装としても使われたこともあった。
あのときがはじめてであったな、入れ替わろうとしたのは…。
だが、隆季が移る姫のほうは魂を抜いて変わるだけなのだから何の苦労もなかったが相手の男がだめだった。
忠雅の魂魄は半分しかない、どうしても元の体の持ち主の魂と合わせる必要があった。でも、合わなかった。
顔かたちが違うだけではない…、なんというか生まれついての魂の質が違うのだ。名ばかりの殿上人の多い中、いくら悪そうに見せていても忠雅の魂はまさに極上の雲上人のものだった。
相手の男はそのあまりにも極上の魂の輝きに己の魂を消し飛ばされてそのまま死んでしまった。なにも知らぬ姫もまた、恋する男を失ってを嘆き悲しんで病で死んだ。
それまでは思うように動くことのできたぬえだったが、加茂の陰陽師が私たちに気づいた。
だが、そのころのぬえはもう簡単に退治できるほどのものではなくなっていた。仕方なくその陰陽師は襲を箱に収め、呪をかけてさらに深くぬえたちを封じ込めたのだった。
あれからどれほどの月日が経ったのだろうか。
わからぬほどの長きときの果てについに見つけた。
これほど忠雅の魂とぴたりと合うものがいたとは…。半分とはいえ、いまだその輝きを失わぬ忠雅の極上の魂魄。殿上人でもないのになぜこの雅という男の魂は消しとばされることもなく、むしろ忠雅の魂の輝きを凌駕するほどに煌いているのだ?
実は隆季には言わなかったが、この雅という男の魂魄を抑えるための呪力は並ではなかった。半分妖しとなったぬえの力を総動員するほどに大変なことだった。
(早く混ざってしまえ。でないと私の力が及ばなくなってしまう)
うれしそうに忠雅を見上げる隆季には言えなかった。
「さ、隆季様、今度はあなた様の番でございますよ。あの女の身体は現の世に眠っています。私がお送りしますゆえ、どうぞ行かれませ。」
「うん…でもぬえ、おまえはどうするのだ?お前も行かぬのか?」
隆季が聞いた。
「私も後から行きますよ。ご心配なさらなくても大丈夫でございますから、さあ。」
ふらふらとゆれている忠雅と隆季の二人の背を押した。
「ぬえ…」
不安そうに隆季が振り返った。
 
 
 
そのしばらく前。晴明は博雅の通った後をまるでドーベルマンよろしく、ぴたりと追いかけていた。
まず、まわりがもやのようなもので真っ白で右も左も果ては上下すらわからないところに出た。
「ふむ…。」
ひとつうなずいて上着の内ポケットから桧扇を取り出した。ぱきりとわずかな音を立ててその扇を半分だけ開くと、小さくはたはたと自分の前を扇いだ。
白いもやが揺らめいてまっすぐに一本の道が現れた。
その上をゆらゆらと金の糸のようなものがたなびいている。それに手をかけると小さくひゅるり…と音がした。博雅が吹いていった葉双の音のかけらだった。
扇を懐に戻すとそこを歩き始めた。
「あいつ、この道を葉双を吹きながら行ったのだな。まったくおかげで後をつけるのは楽だが…。」
のんきなやつだとあきれた。たなびく金糸に手を触れながら歩く。
「神経が太いというかなんというか…。」
やがて周りの白いもやがゆっくりと消えて行く。
周りにまるであぶり出しのごとくに、はるかないにしえの京の大路が現れる。
物売りが行きかい、牛車がごとりごとりと通って行く。
「さて…、なんともご大層なものを作ったものだな。よっぽど暇な妖しか、それとも生きることによほど強い執着を持ったものか…。」
晴明は周りをみわたしてつぶやいた。
昔の装束に身を包んだ人々に囲まれて一人スーツ姿の晴明。だが、周りを行くものは誰も晴明に目をやったりしない。まるでプログラムされた人形のように動き回っている。
晴明が唇に指をあてて小さく呪を唱えると、周りのにぎやかな景色が変わり始めた。行きかう人々の本当の姿が現れる。
骨に身がついただけの骸骨のようなぼろぼろの姿。手がちぎれ目玉が落ちかけた歩く死体のような姿。
およそ、この世に生きてある姿ではない。そのものたちがうつろなまなざしで、ふらふらと行きかう。
「この世界に取り込まれてその魂魄を搾り取られたなれの果てだな。どういうものがここの主をやっているのかは知らんが、けっして嫁に行き損ねた姫などではあるまい。」
そんなかわいらしい姫が、こんな魍魎どもを集めてわざわざ擬似世界を作るものか。
とにかく、曲りなりにもこのようなものを作る力は持っている誰か。
「こんな調子では、いつまでたっても博雅のところへたどり着くことなどできないな…。」
と、いつの間にか周りをぼろぼろの幽鬼どもに囲まれていた。晴明にみなで襲いかかろうとしていた。
はんぱな人数ではない。いくら弱そうに見えても相手は多数。が、晴明はその紅い唇の端に小ばかにしたような笑みをうっすらと乗せた。
「こざかしい…。」
手にした桧扇を片手を振ってばっとひらくと、自分の周りを大きく仰いで、もう片手を印に結び呪を唱えた。
「悪霊退散。さまよいし魂よ帰るべきところに還れ。アビラウンケンソワカ…ウン!」」
まるで砂が崩れるように、霧が吹き飛ぶように、あれほどまでいた魍魎どもが跡形もなく消え果てた。
「俺を襲わせるつもりならもう少しましなのをよこすがいい。」
さて、それより博雅だ。先ほどからわずかだが博雅の気配が強くなってきている。近い。
たぶんこの先にいる。
と、なにか聞こえた。
『せい…めいっ…。』
小さな声だったが確かに自分を呼ぶ声。
「博雅、博雅か?」
おもわず問い返すが、その一言を境にもうその声も気配もなにも感じられなくなっていた。
あれほど近くなっていた博雅の気配がきえた…。
「あいつに何かあったな…」
ここの主とやらがどんなやつかは知らないが、たった今、その運命は決まった。
「絶対許さない…。」
切れ長の瞳がくっと狭められ刃物のように凶悪な輝きを放つ。
晴明の総身から暗くて紅いオーラが立ち上がった。
桧扇を腰に挿して戻すとその左手をそのまますいと体の横に下げ伸ばす、と、その手のひらにスーツの袖口から呪符が滑り落ちる。それは手のひらに吸い付いたように落ちることなく止まった。
晴明はそれを顔の前にかざし、もう片方の手で印を結び九字を切ると、低い声で呪を唱えた。怒りを含んだ地を這うような恐ろしい声。唱えながら呪符のある手を前へと差し出す。
「急急如律令。天に在す楽神よ貴方の和子の所へ我を導きたまえ。」
博雅を探す最終手段だ。天の楽神に愛でられた男だ。その神に探していただくのが一番早い。神を使い物にするなと博雅に怒られそうだがこの際そんなことなど言ってはいられない。
やがて前方の空間にまるで裂け目が入るように別の入り口が開きだした。向こうに博雅の姿が見えた。
「感謝しますよ神様…。博雅っ!!」
晴明が言った。
だが、博雅はこちらをちらりと振り向いただけで、その表情は何も映してはいなかった。博雅の隣に立つ小柄な老女が晴明のほうを見た、そして晴明に向かってにいっと笑った。勝ちほこったような笑み。博雅と横に立つもう一人の背をトンと押した。老女があけたであろう別の入り口に二人の姿が消えた。
「まてっ!!」
晴明がその空間に足を踏み入れたときはもううすでに博雅の姿はなく、老女がただ一人残っているだけであった。
「そこのおんな。博雅をどこへやった…?」
白皙の面に静かな怒りをたぎらせて晴明が問う。老女は晴明の気に気おされながらも薄く笑った。
「誰かは知らぬが、もう遅い。かの方はわが主、隆季さまとともに現世へと戻られた。こんどこそ思いを遂げるのじゃ。ぬしなどに邪魔などさせぬ。ここまであのお方を追ってきたのはたいしたものだが、お前は私とこの閉ざされた世界でともに滅びるのだ。」
老女が晴明に向かって指差すと、どこからか大きな真っ黒な蛇が現れ、目にもとまらぬすばやい動きで晴明の細身の体にぎりっと巻きついた。一瞬、顔をしかめた晴明だったがそれでも老女に向かって問いかけた。
「隆季?それがこの襲に封印されたものの名か。」
「隆季様はおかわいそうなお方なのだ。けっして、このようなところに閉じ込められなければならぬようなお方ではなかった。」
「…だから、博雅の体に乗り移ったのか?」
晴明の声は静かだ。
「…ああ。そうか。お前は何も知らぬのだなあ。隆季様はその博雅様とやらには移ってはおらぬよ。
隆季様は今度は女ごとして忠雅様の下へ行かれたのだ。お前の大切な博雅とやらにはもう一人のお方が入られた。だが、忠雅さまはもともと半分しか魂魄が残っておられなかったのでな。博雅どのの魂魄とあわせて一人の魂魄となるように呪をかけた。」
「なんだと…」
晴明の目がナイフのように光った。
「人として再生するにはあまりにその量が足りなかったのでな。今まではどうしても忠雅様と合う魂がなかった。だが主の博雅どのとやらは、これがまるでうそのようにぴったりと合ったのじゃ。その姿もまるで忠雅さま本人かと思うくらい瓜二つでなあ。隆季様もお喜びじゃ。」
隆季とやらは本当に喜んだのであろう。老女の顔が喜びで輝いていた。
「…混ぜた…だと…?」
晴明が静かに…、静かにつぶやいた。
はっと晴明に目をやる老女、隆季の乳人ぬえ。
「私の博雅の魂に、どこの誰かもわからぬやつの魂を混ぜたと…そうぬかしたか…おまえ?」
ぎらりとぬえを見るその目はどんな鬼よりも凶暴さを放っていた。
だが、どんなににらもうと相手はわが術によりその身を縛された身。この世界では自分にかなうものなどあるわけがないと思っているぬえは、そんな晴明を鼻であしらった。
「ふ、ふふん…。そんなににらまずともお前はここで私とともに永遠におらねばならぬのだ。われの僕となっていう事を聞くほうがよいぞ。」
「笑わせるな…。お前ごとき者にこの私が縛されたとでも思っておったか。」
晴明の体から縛していた黒蛇がぼたりとおちて、ひとしきりもがいたかと思うと黒煙を上げて燃え出した。
晴明の袖からもう一枚の呪附が晴明の手に滑り落ちてきた。それを驚いて逃げ場を失っているぬえに向かって投げる。
空気を切り裂いて呪附が飛び、ぬえの額に張り付いた。じゅうっと音をたててぬえの額から煙と炎が上がった。その炎はそのままぬえの全身に回っていく。悲鳴を上げ燃え続けるぬえを、晴明は感情のこもらぬ冷たい目で見下ろした。
「博雅のあの無垢な魂によくも手をかけたな…。お前も、お前のあるじ隆季とやらも絶対許さないからな。とにかくおまえ。このまま自分は消滅すると思っているだろう?」
ひいひいと泣き叫ぶぬえ。その身は魂だけの世界とはいえ焼けとけてぼろぼろだ。
「だが、このまま消滅などさせてやらぬよ。お前はこの封印された世界で毎日その身を焼かれ続けることにしてやった。未来永劫苦しめばよい…。」
ぞっとするような笑みを見せて晴明が言った。
「…ひいっ!!ま、まって、待って!そんなことしないでっ!!」
焼け爛れた身で必死に晴明を追いかけるが晴明は振り返らない。
と、その足元に何かがこつんと当たった。
晴明がそれに気づいて見下ろす。絹の袋に収められた葉双だった。その傍らには博雅が落としていった祓の米の小さな袋…。
さっきまでは確かにそこには何もなかったはずだった。
晴明がそれを拾い上げる。
「…博雅のやつ、あの女の子だけは何とかがんばって助けたんだな。」
葉双の中にサエコが隠れているのがわかった。葉双は晴明の姿を見つけて自らここに姿を見せたのだ。
「よくやった、といいたいところだが…自分を犠牲にするなんて…。」
サエコの無事よりも博雅が自分を犠牲にしたことに腹が立った。
「お前に何かあったら俺はどうしたらいいんだ…。くそっ!ばか博雅…。」
葉双をぎゅっと握り締めた。
まだ足元にあった米の袋を拾い上げる。
「せっかく持たせてやったのに…。」
悔しそうに言った。
背後でぬえの苦しげな声が聞こえる。
「た、たすけ…て…。たす…けて…ひいぃ…」
「うるさい…」
晴明の目が凶暴な光を放つ。手にした祓の米の袋を持ってぬえのところへと歩を運ぶ。
必死に晴明に向かって手を伸ばすぬえを冷たく醒めた目で見下ろすと、その燃え続ける体の上に米の袋を開けた。
ざあっと音を立てて米がぬえに降りかかる。その一粒一粒がまるで酸のようにぬえの体を溶かし穴を穿ってゆく。
「ぎゃあああっ!」
まるで獣のようにぬえが叫び苦しさにのたうつ。
晴明は氷よりも冷たいまなざしで苦しみもがくぬえを見ていた。
「ふん…」
やがて懐に葉双をしまうと黙ってぬえから背を向け、唇に指を当てて呪を唱えた。今度こそ二度と振り向くことなく晴明はこの閉ざされた世界から出て行った。博雅を追って現世へと戻っていったのだ。
「おね…がい…たすけてぇ…おね…が…」
その誰もいなくなった世界でぬえの晴明に許しを請う声だけが響いていた。
 


晴明、追いつきそうでまたしても間に合わず。ストレスでかりかりしております。コワイです…。
次回は現生界に戻ってのお話となります。

へたれ文へのご案内に戻ります。