牡丹(エピローグ)

 

「本当にごめんな。」
晴明からようやく腕を解いてもらった博雅が再び言った。
「だから、もういいと言っただろう。」
謝るなといったそばから同じ言葉を繰り返す博雅に晴明が不機嫌な顔を向けた。
「ああ、わかってるって。俺はこれ以上謝るわけではない。…どっちかというと…う〜ん、逆だな。」
「逆?」
「おう、そうだ。つまり俺が言いたいのはだな、たとえ足手まといになろうとやっぱり晴明、お前の後を金魚のフンみたいについてくぞっ、てこと。」
底抜けに明るい笑顔でしれっと言ってのける博雅。まったく悪びれるところがなかった。
「ほんとにお前ってやつは…」
ニコニコと笑顔を向ける博雅につい、つられて晴明も苦笑する。
危うくこの世から消えてしまうところだったのに、なんだろうこの明るさは。意外と俺の助けなどなくてもなんとなく助かったのではないかという気すらしてくる。
「クッ、ククッ…。」
「なんだ?笑ってるのか?」
博雅がうつむいた晴明の顔をのぞきこんだ。…と、博雅の視界が一瞬でひっくり返った。思わず大きく叫んだ。
「うわあっ!」
晴明が博雅の腕を取って自分のほうに引っ張るとあっという間にその体を自分の下に押さえつけたのだ。柔らかな草の上に押し倒されて博雅が驚きで目を丸くした。
「な、なにするんだ!?こらっ!」
「なにがこら、だ。心配のあるだけかけておきながら…この天然トラブルメーカーめっ!」
そういう晴明もまた明るい笑顔だ。このような笑顔をどこに隠していたのかと思うほどに。
「ト、トラブルメーカーだとっ!?気にしてるんだからその名でよぶなよっ!」
博雅が眉をしかめて、ぷっ!と頬を膨らませた。
「ホントにホントにお前ってやつは…」
ふいに真剣なまなざしになる晴明、博雅の目の前が暗くなる、月のほのかな明かりを遮って晴明の顔が降りてくる。
「せい…」
「黙ってろ。」
一言そういうと再び博雅の唇に自分の唇を重ねてゆく。少し厚めの博雅の暖かい唇を晴明の冷たい唇が隙間もなくぴたりと塞ぐ。晴明の、唇とは違って熱を持った舌が博雅の口内をゆっくりと侵食してゆく。博雅の鼻から甘えるような声が漏れ始める。と、晴明の右手が博雅の体から離れて上に向かって上げられた。人差し指と中指をそろえてぴっと立てる。晴明の唇が名残惜しそうに少しの間博雅の唇より離された。そして博雅の唇とくっつきそうな近くで呪を唱える。
「急急如律令。…結界。」
柔らかな草の上で重なる二人の周りに光の輪が一瞬浮かんで消えた。晴明の手が器用に博雅の体から服をはいでゆく。その間にも晴明の唇は休むことをしない。唇から耳、あごを伝って喉元にくだり、広げられた博雅のシャツを押しやりながらその滑らかな胸へとたどり着く。
「博雅の心はここにある。今もこれからもな…」
左の胸の突起をその舌でさわりと撫でながら晴明が言った。
「…あ…それは違う…ぞ。晴明‥。」
甘い吐息を漏らしながら博雅が異を唱える。
「どういうことだ‥?」
博雅の顔を見上げる晴明。
「‥ばかだな‥そんなこともわからないかよ…。天下の陰陽師ともあろうものが。」
にやりと笑う。
「俺の心はここに預けてあるのさ。だから何があっても必ずここへ帰る。たとえ誰かにその魂が奪われることがあったとしても、心は誰にも渡さない。晴明、お前だけのものだ。」
晴明の左胸を指差す。
心と魂、似て非なるもの。それが本当にわかっていたのは誰でもない博雅だった。よくよく考えれば忠雅とてそうだった。魂は隆季に奪われていたが敬愛の呪などなければその心はどこにあるかは明白ではなかったか。
「‥やっぱりお前にはかないっこない。」
天下の陰陽師も博雅の前にはお手上げだと笑ってみせる晴明。
二人の影が月夜の元で再び重なっていった。
 
翌日。
晴明神社の裏手の一角、人払いをした中、晴明と博雅、そして肩に沙門を乗せた保憲。その三人と一匹が一枚の襲を囲んで立っていた。昨日まであれほどに色鮮やかだった衣が、今日はまるでぼろ雑巾かと思うほどに色が褪せ生地がズタズタになっていた。泰親が去り、残すはぼろぼろになったぬえを残すのみとなったその衣には、もう前のような姿を維持できる力はなかった。
「送ってやれよ、晴明。」
保憲が言う。明らかに嫌そうな顔をする晴明。
「そんな顔するなよ、隆季殿の乳人だって好きで妖しにまで落ちたわけではないのだろう?ならばきれいに成仏させてやったほうがいいぞ。」
博雅も言う。というより嫌がる晴明をここまでひっぱって来たのが博雅だった。保憲からあらかたの事情を聞いた博雅。特に晴明が隆季にしたことが気に入らなかった。いくらなんでもかわいそうだろうと晴明に文句を言った、と、それからぴんときた。この分ではあのぬえにも何かしたに違いない。そう思って問い詰めてみれば案の定。しかも隆季とは違って今もなおその苦しみの中にいるはずだという。
『ゆくぞ!晴明!』
『なぜ?』
『だってあんまりじゃないか。彼女を救ってやらなければ。』
『だが、あの女がお前にしたことは許されることではないぞ!』
『もうすんだことだ。誰もこれ以上苦しんではならない。違うか?晴明?』
そうやって博雅は晴明の手を無理やり引っ張って文字通りここまで引きずってきた。
 
「わかったよ。でも、俺はやりたくない。保憲さま、今回の罪滅ぼしにそれぐらいやってください。」
「俺がか?…わかったよ。」
晴明に睨まれてちょっと罰が悪そうにうなずいた。
 
「如此久可可呑氏波…」
保憲の唱える呪に送られながら衣の牡丹の花が炎に包まれてゆく。それを離れた所から見ていた晴明、前に立つ博雅の袖をついと引いた。
「なんだ?」
と、小さく問う博雅に晴明がこっちへ来いと目で合図した。保憲と沙門を残しその場から離れるふたり。
 
「おい、いいのか?保憲様に任せたままで?」
「いいに決まってるだろ。あの人は俺よりもああいうのに向いてる人だ。」
博雅の手を引いてさらに裏のほうへと回ってゆく。本当に神社の最奥の片隅にまでやってきた。
「なんだ。こんなところにひっぱてきて…あ!だめだぞ!いくらなんでも!」
昨日のことを思い出して真っ赤になる博雅。昨日はついつい流されてしまったがいくらなんでも今はまずい。
「ばか。違う。ただお前に見せたかったものがあるんだよ。」
やわらかく笑う。
 
「ここを覚えてるか博雅?」
晴明が周りを手で指し示す。
「ここって?」
見ても何の変哲もないただの草っ原である。
「その昔、俺とお前が酒を酌み交わしたあの濡れ縁を覚えているか?」
「ああ。」
まさか…。
「確かにこの神社は俺の屋敷からずれた場所だった。でも、完全にずれていたわけでもなかったのさ。ほら。」
晴明の指差す先に丸い石が草に埋もれて地面からわずかに顔を覗かせていた。博雅がそこに視線をやる。
「おぼえているか、俺の庭の片隅にあったあの石。お前がよく葉双を吹くために腰かけたあの石を。」
木漏れ日を受けて年月を経て滑らかになった石の表面が明るく輝いて見えた。
博雅の目に大粒の涙が盛り上がった。
「覚えているとも…。」
晴明が博雅の肩を引き寄せた。
「ここはお前と俺の大切な場所。思い出の場所だ。」
うんうんと黙ってうなずく博雅を抱きしめて晴明がうれしそうに微笑んだ。
「保憲様の言うとおり、やっぱりここは俺の縄張りだな。」
「ははっ…ほんとにな。」
そういって涙にぬれた顔を上げて笑う博雅に晴明のくちづけが降ってきた。
 
おまけ。
京の街の一角。お隣通しの二つの家に同じ年、同じ日に赤ちゃんが生まれたそうな。
ひとりは眉もきりりとしたやんちゃな男の子、もう一人は色の白い優しそうな顔のこちらもやっぱり男の子。さて、どこかで見たような…。
 
 
              「牡丹」 完。



はい、やっとこホントに「終わり」です。乙でっす。

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