「白衣の君」(2)



『待たせたな』
どこからか声が聞こえた。
「今日の法師どのか?」
部屋の片隅、行灯の明かりが届かない片隅にいつのまにやら今日の山伏が立っていた。墨染めのぼろぼろの衣に、これも薄汚れた梵天袈裟をかけ、手には鉄の輪が幾重にも嵌まった錫丈を持っている。髭に埋もれた顔の中で目だけが爛々と光っていた。
「いかにも。約定どおり、おぬしの背中のものを貰い受けに参った。」
「約定ですって?私は、あなたと何の約束も交わした覚えはないんだが。」
暗闇に光る法師の目を真正面から見据えて、博雅は言った。
「私からなにを奪おうというのか知らないが、このような夜分に来られても迷惑千万だ。お引取り願いたい。」
「わしに引き取れだと?馬鹿を言ってもらっては困るな、わしが来たことを、おぬしはむしろ感謝すべきところだ。」
「はは。夜分に勝手に家の中に上がり込まれて感謝しろと?あなたの言っていることは無茶苦茶ですよ。悪いことは言いません、どうぞ、お引取りを。」
あくまでも博雅は丁寧である。が、相手の法師は博雅の言葉など聞いてはいない。
「おぬしの後ろには良くないモノが憑いておる。そのままにしておけば、おぬしはいつか後ろのそいつに魂を食らわれてしまうじゃろう。それを助けてやる、といっておるのだ。おぬしは黙ってわしの言うとおりにすればよい。」
ガシャン!と錫丈を振って、居丈高に言い放つ。
「だから、それが余計なお世話だと…!」
立ち上がろうとして、体が動かせなくなっていることに博雅は気づいた。
「あんた、いったい私になにを!?」
まるで、見えない糸に絡まれてしまったようだ。
「ふふふ。どうじゃ、動けまい?言ったであろう?わしは修行を積んだ高名な法師だと。」
手にした錫丈がまた、ガシャリと床に打ち付けられた。
「うわっ!」
手にした太刀が、ゴトリ、と音を立てて博雅の手の中から滑り落ちる。両脇にピタリと腕が張り付いたようになって、博雅はまるで一本の棒のようにまっすぐに硬直していた。
「黙ってわしにその力をくれれば、これ以上手荒い真似はせんさ。」
暗い片隅から、近くへと寄ってくる法師。その影が行灯の明かりを受けて、部屋の天井に大きな影を映した。
 
人の影ではなかった。
 
無数にうごめく肢を持った長い体が、うねうねと蛇のように天井をくねる。
 
「私の後ろにあるものがどういったものかは知らないが、すくなくとも、どうやらあなたよりはマシのようだね。」
天井に写る影を見据えて、博雅が憐れむようにクスリと笑った。
「ほう?どういう意味だ?」
首がにゅうっと伸びたように見えた。臭い息を吐く、綺麗とは言いがたい法師の顔が、間近に博雅の顔に迫り来る。
「その蟲臭い息をかけるのは、やめてもらいたいな」
博雅が顔を逸らせて言った。
「蟲臭い、だと…?」
法師のげじげじの眉が、ぎゅうっと真ん中に寄せられた。
「あなた、大百足を退治したって言ってたが、…本当は、自分の方が退治されたんじゃないか?」
 「ほほう…」
法師が目を剥く。
「それがわかっていれば、話は早いのう…」
ぎろりと剥いた目が、ぐぐぐっ、と離れ始める。続いて、顔の色がどす黒い色に変化し始めた。
鼻がべたりとつぶれ、形をなくし、ひげに覆われた口が、横いっぱいに広がってゆく。
 
キシキシキシキシ…
 
平たく広がった顔に、細かい歯でびっしりと埋まった口が薄く開いて、この世のものとも思えぬ声で、法師、…いや、法師に身を隠していた妖しが笑った。
 
「やっぱり、人なんかじゃなかったな」
落ち着いた声で博雅が言った。

普通の人間なら、ここで恐ろしさに震え上がるのが常だ。が、目の前のこの人間は、そんなそぶりもない。縛されて身動きもままならぬのにも関わらず。
小さな棘のような歯を耳障りな音で鳴らしながら、大百足の妖しが問う。
「おぬし、わしが怖くはないのか?」
「怖い?…う〜ん、普通そうだよねえ。」
困ったように博雅は首をかしげた。当の妖しが言うように、今の状況を鑑みれば、怖いのが当然だと思う。が、不思議なことに、妖しを恐れる感情がどこからも沸いてこない。
本当に自分でもわからない。目の前にいるのは、もう既にどこから見たって人間ではないのに。ぼろぼろとはいえ墨染めの衣から出ているのは、へしゃげて原型をとどめぬ顔と、赤黒く光る蟲の脚。
「怖いって言うのとは、ちょっと違うかも…」
気持ち悪いなあ、とは思うが、恐怖は感じない。 
「面白い人間だの。この法師ですら、わしを怖がったというのにな。」
法師の皮をかぶった妖しが、その不気味な口の両端を引き上げた。
厳しい修行を積んだはずの法師も、徐々に体を食われゆくことに耐え切れず、最後には狂ったように泣き叫んでいた。
あれは実に楽しかった…。
そのときのことを思い出して、百足の妖しは細かい歯をきしらせて笑った。笑うたびに、重なりあった赤黒い硬い外皮が、ギシリギシリと嫌な音を立てる。

…どうせ、こいつも同じだ。
一思いに命を奪うなど勿体無い。まず、その動けぬ手の先から徐々に食らってくれよう。
この端正な顔が恐怖にゆがむのは、さぞかし見ものだろうて。
「だが、その強がりもいつまで続くものやら。もし、わしの正体に気づかぬままならば、その後ろのものの力を奪うだけで許してやるつもりだったが、気づかれた以上は、そういうわけにはいかぬな。…おぬしのその身も一緒に食らってくれよう。」
ズワ!と、大百足の背が天井につくほど伸びる。墨染めの衣が、大百足の腹に巻きついたぼろぎれのように見えた。
「わしに食らわれながらも、それでも恐ろしくないと、おぬしは言えるかのう」
キシキシキシ、と大百足が笑う。
「恐ろしさに震え上がる人を食らうのも、また一興じゃ」
鎌首をもたげた大百足が博雅に向かって飛び掛った。
 
パシイッ!
 
「ぎえっっ!!」
 
大百足の体が、ものすごい勢いで部屋の隅に弾き飛ばされた。後ろの障子がその弾みで、ばたばたと倒れる。博雅が、一人で暮らすと決めたときに自身で手に入れたこの家には、博雅以外に人はいない。大きな物音がしたところで誰も来る気配はない。
バキッと障子を踏み壊して、百足がザワザワッ、と壁に這い上がる。薄暗い部屋の土壁に、赤黒い巨大な百足が這う姿は、人でなくともゾッとする光景だった。
 
「なんとも不気味な光景だね」
大百足を見上げて博雅が言った。
「お、おぬし、今、いったい何をしたのだっ!?」 
大百足が鎌首を持ち上げて博雅をねめつけた。 
「何もしてないさ。お前が勝手に吹っ飛んだだけだろ?ああ〜あ、障子が滅茶苦茶だよ、これも私が張るんだぞ」
ぼっきりと折れた障子の桟をひらって、博雅はため息をついた。
「それとも、お前が張ってくれるのか?私なんかより、よっぽど手足の数が多そうだからな」
いつのまにか呪縛も解けた博雅がにっこりと笑う。
「わしの力が…。」
動ける博雅に、思わず言葉を失う妖し。
 「おぬし、いったい何者だ?人ごときが、わしの力にかなう筈もなかろうものを」
無数の脚をざわつかせながら大百足が問う。その動きが、ひたりと止まる。
「ははあ。わかったぞ…。おぬしではない、後ろのやつだな?そやつ、よほどおぬしが大事とみえる。これほど意思のはっきりしたヤツも珍しい…ますます、欲しくなった。」
ケケケ…と、その牙だらけの口をいっぱいに開けて楽しげに笑う。
「それほどの力のものをわが僕とすれば、さぞかし楽しかろう。きっと、わしがこの世で一番の妖しになれる。あの噂に聞く大江山の鬼王にも負けぬほどのな。」
その言葉に、博雅の背筋をザワワッ!っと、なにやらわからぬ悪寒が走った。思わずブルッ、と震える博雅。

な、なんだ、今のは?
「後ろ、後ろって何だよ、いったい?私の後ろに何がいるって言うんだ?悪霊が憑りついてるとでも言うのか?」
戸惑う博雅。目の前の妖しは怖くないが、自分の後ろに誰かがいるというのは、なんとも背中がざわざわして落ち着かない。
「そんなに強烈な気を放っているのに、おぬしにはわからないと言うのか?わしが最後に食らったこの法師ですら、おぬしの後ろのものには気づいたであろうに、なんと鈍い人間だ。」
「鈍くって悪かったな。」
障子の桟をぽいと放って博雅は苦笑い。人間ならまだしも、ついに妖しにまで鈍いと言われてしまった。でも、今は少しは背中がざわつくぞ。(そんなに鈍くないと言いたいのだ)
「では、教えてやろう。おぬしの後ろには強い力を持った術師が憑いておる。今もそれほどの気を持っているところをみれば、生きているころは、さぞや名のある術師であったことだろうがな。今はその体も朽ち果て、魂だけがおぬしの背中に張り付いているというわけだ。」
「術師?」
「それすらも知らぬとは、なんとも宝の持ち腐れよなあ。」
哀れむように言われて、普段温厚な博雅が珍しく、むっとする。
「妖しの世界には詳しくないんだよ、私はフツーの人間なのでね。」
「ならば、ますますおぬしにはいらぬ力だの。おぬしはともかくも、そこらの人間ですら気づく気だ。ましてや、妖しならば気づかぬものなどおらぬだろう。」
無数の脚を波のように蠢かせて、8の字を描くように、大百足が壁を這う。
「その力に釣られて、わしのような妖しがこれからも寄ってくるぞ。力を持つモノを食らえば、その力は食らった妖しのものになる。わしでなくとも、毎夜毎夜、人ならぬモノどもが、おぬしのところに入れかわり立ち代りやってくるようになろう。」
壁を這う百足がぴたりと止まる。
「…どうだ、悪いことは言わぬ、わしと取引をせぬか?その力をわしが預かってやる。おまけにおぬしの望むもの、なんでもくれてやろうではないか。金、権力、女、すべて望みのままだ。わしにその力を託せば、妖しに狙われて恐ろしい思いをすることもなく、しかも、好きなことをして一生、楽に遊んで暮らせる。なんともよい話ではないか。」
力ではかなわぬと知って、妖しは博雅を丸め込む手に出た。甘い言葉で博雅を誘う。元はただの年を経た虫けらに過ぎぬくせに、修行を積んだ法師を食らっただけ知恵がついているらしい。
が。
「う〜ん、おいしい話ではあるけどね。」
軽く腕を組んで博雅は首を傾げた。
「なにを迷うことがあるのだ。考えるまでもなかろう。わしのように話のわかる妖しなど、もうおらぬぞ。」
黒光りのする頭をもたげて大百足が焦れたように言った。
「先生は鈍くっておっちょこちょいだから、うまい話には気をつけろって、昨日も将太に言われたからね。…遠慮しとくよ。」
ひょいと肩をすくめて博雅は言った。
「お前が言う後ろの力とやらも譲る気はないよ。その凄い力とやらが使えなくっても私は今まで通り生活するだけだし、関係ない。」
一層、がさがさと這う速度を速める大百足を一瞥して、博雅は続けた。
「それに…」
「たかが人間ごときが生意気なっ!」
何か言いかける博雅をさえぎって、百足が怒声を上げる。
「せっかく良い条件を出してやったが、それもこれまでだ。金も女も権力も何もくれてやるものか!さあ、黙ってその力を差し出せっ!!」
びいん!と、壁を蹴って妖しが跳ねる。無数の脚を広げて大百足が博雅に向かって飛び掛った。
先ほどは、油断したから弾き飛ばされたのに決まっている。人間だと思って舐めてかかったのがまずかったのだ。徐々に殺すのは、もうやめだ。今度は呪をかけるついでに、あやつに巻きついて、さっさとくびり殺してくれる。
 
バキバキバキッ!!
 
「ぎやああああ!!」
 
眩い光を放って大百足が再び吹き飛んだ。今度は雨戸を蹴倒し、暗い庭へ。土の上に、ドサリ!と、その大きな体が打ち付けられた。
家の中の行灯の明かりを背にして、博雅が濡れ縁に立つ。
 
「私、ちょっと考えたんだけどね。それほどまでに、君たち妖しとやらが喉から手が出るほど欲しい力ってやつに、今まで気づいたものが本当にいなかったのかな、ってさ。」
ヒクヒクと引きつる百足の腹に向かって博雅は言った。
「いなかったわけないと思うんだよ。」
ひょいと裸足のまま庭に下りると、手にした刀の鞘の先でチョンチョンと、ひっくり返った百足の腹をつつく。
「ううう…」
百足の妖しが苦しげに唸った。赤黒く光る腹が、ビクビクと痙攣する。
「そしたら思い出したのさ。…小さいころに変な女の人に浚われそうになった時のことを。その女が私の手を引いて行こうとしたとき、今みたいに光を放って吹っ飛んだんだよね。」
はあ、と博雅はひとつ、ため息をついた。
 
「吹っ飛んだその女の人の顔も今、思い出したよ。…っていうか、その女には顔がなかったんだ。」
 
「うううう…う…。」
再び妖しが唸る。
「後ろのやつの力とやらは確かに使えないよ、私にはね。」
でも、と博雅は続ける。
「なんで、術師とやらが憑いてるのか知らないけどさ、でも、どうやら、そいつは私を護るつもりみたいだよ。大百足どの。」
もうひとつチョンと突く。
途端にガバリと裏返って、大百足は庭の茂みの中に、ざわざわと無数の脚を動かして素早い速さで潜り込んでいった。
 
キシキシキシ…。
 
藪の中から、悔しさに歯をかみ鳴らす大百足の音が聞こえた。
 
足の裏についた土をパンパンと払って博雅は家の中に戻った。
「まったく、なんて騒がしい夜だ」
それから、木っ端微塵に壊れた障子と雨戸に交互に目をやると、博雅は、今夜一番の大きな大きなため息をついたのだった。
 
 
 
…数刻の後。
 
「うう…、おのれ、たかが人間ごときが…。」
法師の姿にまたしても化けた百足が、青い月夜の街をふらふらと歩く。日中は人通りの多い町の通りも、このような深更にはさすがに人影もない。時折、遠くの方から、夜回りの拍子木の音がかすかに風に乗って聞こえてくるぐらいである。
杖代わりについた錫丈に、よろよろと傷めた体を預けて一息つく。
今来た道を振り返ったその目が、殺意に燃えている。
「くそう。人のひとりふたり食らって力をつけたら、今度こそ殺して力を奪ってくれよう。待っておれ、あのガキめが」
ひげ面の顔に、人ではない真っ黒な目を不気味に光らせて、大百足の妖しは博雅に復讐を誓った。
 
…ざり。
 
法師の行く手に一人の人影。月の光を背に受けて顔はわからない。
 
「…誰だ?」
 
目を細めて法師に化けた百足が誰何する。
この姿をただの坊主と間違えた辻斬りや盗人であるならば、かえって好都合だ。
最初のメシだ。
法師の口がググッと横に伸びる。ヒヒ、と笑った口に細かい歯がびっしりと見えた。
ずびり、と口の端に零れ落ちる涎を啜る。
 
「…。」
 
相手は答えない。
それも結構。格好から見てどうやら武士のようだ。ならば、辻斬りか。食らったところで誰にも騒がれまい。
 
よい餌だ。
 
「おぬし、このような夜更けに何をしておる?おや?その背に憑りついているのは何だ?」
錫丈につながった背を無理やり伸ばして、居丈高に声を放った。
「お前にはなにやら良くないものが憑いておるな。このような夜に出歩くのも、その背のものの障りであろう。どうじゃ、わしは徳の高い法師である。わしがその背のものを祓って進ぜよう」
食らいつきたくなる逸る心を抑えて百足の妖しがゆっくりと人影に近づく。もし、相手が焦れて斬りかかってきたら、なおしめたもの、頭のてっぺんからかぶりついてくれよう。
 
「いつもその手なのだな。なんと芸のない。まあ、所詮、蟲だ、それもいたし方がなかろう。」
 
男が声を発した。
この声には聞き覚えがある。
…さっきまで聞いていた声だ。
 
「…おぬし、さっきの医者だな。なぜここに?」
自分を追いかけてくるなど、夢にも思わなかった妖しの声が戸惑う。
「お前を退治するために。」
「は?わしを退治だと?ふざけたことを抜かすな、小僧。おぬしには手が出せないが、おぬしもわしには手など出せぬだろうが。おぬしは護られているだけでただの人間にすぎぬ。わしを退治ようなどとは笑止!」
 
「そりゃあ、博雅には無理さ。」
 
そう言って博雅はにやりと笑った。
 
「お前の言うとおり、ただの人間だからな。」
その目が、すうっと細められた。
「…そして私の一番大切な人間でもある。その博雅を食らおうなどとは…、ふざけた蟲だ。」
「お、おぬし…誰だ?…本当にさっきの医者か?」
本能的に何かやばいものを感じたのか、妖しは一歩、じりっ、と後ずさった。
「さあね」
こちらは、じりっ、と一歩前へ。
「さ、さっきまで後ろにいた、あの術師の霊はどこへ行った?」
妖しの真っ黒な目が見開かれた。
「おまえは博雅と違って、鈍くないのだろ?」
体の前で軽く腕組みをすると、博雅はくすくすと笑った。
その体が、月の明かりのもとでぽうっと青白く発光した。
「後ろにいたヤツだな。おぬし。」
変化を始めた法師が、博雅を指差した。その指先が赤黒く光る百足の脚に代わってゆく。
「いつの間に入れ替わった?それとも、もうその医者の体を自分のものにしたのか?」
「はは。面白いことを言う。ま、ある意味違ってはいないけれどな。でも、今はこれがようやく眠ってくれたから、体を借りてるだけさ。」
「ハ!どちらでも構わぬわ。せっかく追いかけてきてくれたのだ、その体もおぬしの力も、わしが貰ってくれる!」
ゆったりと構えている博雅の姿に、油断している今が絶好の機会と、大百足の妖しは目にも留まらぬ速さで攻撃をしかけた。
 
ズンッッ!
 
鈍い音が夜の闇に低く響く。
 
「やった!!」
 
そこだけ赤黒く光る大百足の脚に変化させた法師の腕が長く伸び、一間近く離れている博雅の腹のど真ん中を貫いていた。
 博雅の口から血が溢れる。突き刺された腹からも夥しい真っ赤な鮮血が流れ出す。
貫かれた腹を押さえて、博雅が呆然とした表情で立ち尽くす。
「ヒヒヒッ!油断したおぬしが悪い。おぬしの持つ力もそいつの体も、全てわしのものだっ!!」
顔いっぱいに広がった口に、細かい牙を光らせて法師が、いや、大百足が嗤う。
「このぼろ法師の姿ももう飽きたところだった。今から、わしはおぬしに成り代わる。誰も、わしがおぬしの皮をかぶった妖しだとは気づくまいよ。ましてや、おぬしのように見てくれがよければ、さぞや嘗になる人間にも不自由しまい。食らいたい放題だ。ウヒヒヒヒ」
  
「で、言いたいことはそれだけか?」
 
「ひっ!…お、おぬしっ!」
 
大百足の笑いが引きつったように止まる。
博雅が、そのすぐそば、一尺も離れていないほどの近さで立っていた。確かにこの男は今さっき、自分の鋭い一突きでやられたはず。見れば目の前に確かにあの医者はいる。あの腹を貫いている感触は間違いなくこの腕を伝わってくる。
 
「!?」
おどおどと、その光のない目が動揺した。
「私がふたり…。蟲ごときには理解できぬだろうさ」
博雅の手がすいと上がる。
その手に光る医師用の小刀。
口の中で小さな呪を唱えると、その小刀がポウ…とほのかな燐光を上げる。
 
サク…
 
まだ、法師の顔をとどめたままのその額の中央に、博雅が静かにその小刀を突き立てた。
 
「ひ!」
 
大百足の妖しが全身を引きつらせて固まった。
 
「ひ、ひ、ひ…」
黒い目がさらに見開かれ、その人間ではない裂けた口の端から黒い泡がぶくぶくと沸き立つ。
 
「おまえのようなのがいるから、私はゆっくり寝ているヒマもない。」
大百足の耳元で低い声が囁く。
 
「お、おぬ…し…だ、誰…だ…」
がくがくと震えながら百足が問う。
 
「名などどうでもよかろう?お前の思うとおり、ただの術師さ。ま、正確に言うと陰陽師だがな。」
「お…お、陰陽師…っ…!」
目や鼻からも大量の黒い泡を吹き出したかと思うと、大百足の妖しは堰を切ったようにグダグダと黒い泡の中に崩れ去っていった。
 
「そう、ただの陰陽師さ…あいつ専用のな。」
 
まだ、ぶくぶくと小さく粟立つ黒い泥のような妖しの名残から、医師用の小刀を拾い上げると、博雅はそう一言、付け足した。
小刀を軽く懐紙で拭うと、目の前に今だ立つ、もう一人の博雅のもとへと歩み寄る。
「偽者とはいえ、ひどい目に合わせてしまったな、すまない…博雅。」
物言わぬ博雅の口からこぼれる真っ赤な血を、指先でそっと拭う。
その頬に手を滑らす。
 
「…博雅」
 
小さくその名を呼ぶと、その唇に自分の唇を重ねた。触れ合うだけのわずかな口づけ。
頬に手を添えたまま唇を離すと
「自虐だな」
そう言って、フッともう一人の博雅は笑った。
 
「解」
 
眉間に指を立てそう唱えると、目の前にいた博雅の姿が煙のように掻き消える。
地面の上には一枚の白い紙。
それを拾うと、博雅は後も見ずにその場を後にしたのだった。
 
 
 
翌日。
 
「はあ、コレを直して貼るのかあ」
木っ端微塵になったように見える障子と雨戸の残骸を前に、博雅は大きな溜息をついた。
そこへ。
 
「せっ、先生っ!大丈夫だったあ?」
 
小僧の将太が駆け込んできた。
 
「ああ、おはよ、将太」
にっこり微笑んで朝の挨拶なんてのんびりする博雅に、将太のボルテージが上がる。
「おはよ、じゃないよ!昨日の化け物、大丈夫だった??」
「うん、大丈夫だったよ、ただ、障子壊されちゃったけどね」
「障子ぐらいなら良かったよ〜!でも、やっぱり来たんだ、あいつ!」
俺は先生心配で寝れなかったよ、と将太は心配げに眉を寄せた。
「でも、どうやって追い出したのさ…って、あっ!俺の置いてった八幡さまのお札が効いたんだねっ!」
パアッと顔を輝かせて将太が言った。
「よかったあ。やっぱ、さすが八幡さまだ!」
「う、うん、そうだね」
困ったようにうなずく博雅。
 
その後ろの床の間には、真ん中に大きな穴のあいた八幡さまのお札が一枚。
 
なぜ、そこに穴が開いたのかもわからないが、さて、将太にどうやって謝ろうか…。


                   終。




   なぜか、好評につき、続くことになりました。続きは雑記にて。


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