「白衣の君」(3)
遠くで祭り囃子の音が響いている。どうやら、近くの社で祭りがあるらしい。
博雅は風に乗って聞こえてくるそんな音に聞くともなしに耳を傾けながら、長崎から取り寄せたばかりの医学書に熱心に目を通していた。
そこへ。
「せんせっ!」
障子戸の影から、10歳くらいの男の子がぴょこっと顔を出した。診療所で働く小僧の将太だ。まだ、小さいくせに妙に気働きのする聡い少年で、博雅にことのほか懐いている。博雅が往診に行くときにはいつも荷物もちを買って出る子で、先日の百足法師の時にも一緒にいた子だ。
「おや、将太。なんだい、もう帰ったんじゃなかったのかい?」
もうすぐ日が暮れる。いくら近くに住んでるとはいえ、いつもならこの子はもうとっくに帰ってる時刻だ。
「な〜に言ってんのさ、せんせ。今日は八幡様のお祭りだぜ。行かなきゃどーすんのさ!」
腰に手を当てて、将太は博雅に向かって偉そうに言った。
「行かなきゃって…。」
ああ、このお囃子は少し離れたところにある八幡様か。
小僧の将太に返事を返しながら博雅はその場所を思い浮かべた。
うっそうとした木々に囲まれたその社の前を何度か通ったことはあるが、わざわざその境内に入ったことはなかった。元々この地の出ではない博雅、氏子でもないので祭りだからといって特に何の興味もひかれなかった。それに手にした医学書は今日やっと届いたばかり、じっくりとこれに取り組みたかった。
「別に行くつもりはないんだが…」
博雅の返事を将太の大きな声が遮る。
「行かないとだめだよ!だって、先生、この間八幡さまに助けて頂いただろ?そのお礼もしてないし、今日はぜ〜ったい行かなきゃ!」
大の大人の博雅が子供の将太に厳しく命令されてしまった。
「あ、ああ…」
それを言われると、博雅には言い返す言葉もない。なにしろ、でっかい穴空けちゃったし…。いや、まあ、あれは俺があけたわけじゃないけど。博雅は真ん中にでっかい穴のあいた八幡さまのお札を思い浮かべた。まさか、穴があいちゃったとは言えずに何のかのと言い訳を言って博雅はまだそれを将太に返せずにいたのであった。
「そ、そうだね…」
「ねっ?」
そして、将太は博雅の腕を引っ張った。
「ほら、行くよっ!!」
「はいはい」
博雅は、名残惜しげに医学書を文机の上にそっと置いたのだった。
テケツクテケツク…。
軽快なお囃子があちこちから響く。人でにぎわう門前通りを、博雅はまだ仕事着の白い上っ張りを羽織ったままのんびりと歩く。
博雅に買ってもらった飴を口に放り込みながら、隣を歩く将太は難しい顔をして博雅を見上げた。
「ん、なんだい?私の顔になにかついてでもいるのかい?」」
将太の視線に気づいた博雅が問う。
「着替えくらいしてくりゃいいのに。」
「はは、祭りのためにわざわざかい?面倒だよ。」
「先生はそっちのほうがかっこいいけどさ。なんだか、仕事中みたいだよ」
「仕事中だったさ、それを将太に引っ張られてきたんだろ」
「ま、そりゃそうだけどさ」
言いながら、将太の目がきらっと輝く。
「わっ!金魚すくいだ!」
生意気言ってもまだほんの子供、金魚すくいを見つけて大はしゃぎだ。おまけにそこに友達の姿も見つけてさらにテンションが上がる。
「トメ!三太!おめーらも来てたのかよっ!」
「お〜将太!」
きゃっきゃっ、はしゃぐ子供たちに目を細めて博雅は将太の肩をぽんと叩いた。
「私はこの間のお礼にちょっとお参りしてくる、将太は友達と金魚でもすくってな。」
そういって、将太の手に3人ぶんには多すぎるほどの小銭を握らせた。
「わっ!」
「すげっ!」
「お〜!」
3人がいっせいに歓声を上げた。
「いいの?先生!」
将太が頬を紅潮させて博雅を仰ぎ見る。
「無駄遣いすんなよ。」
そういって博雅はにこっと笑った。
祭りに使う金なんて無駄以外のなにものでもないけれど子供たちにとってはそうじゃない。博雅は将太のあたまをぽんと叩いてひとり境内へと向かった。
鳥居の前の縁日の立ち並ぶ通りと違って、大きな木々に囲まれた境内の中は驚くほど人気もなくシンとしていた。歩いているのは本当に参拝にきた年のいった人たちばかりだ。宮入の時刻になればもちろん人であふれるのだろうが、まだ日も暮れて間もない今はむしろ誰もいないぐらいだ。
「ふう」
今日も忙しかった博雅は、本社へと続く長い参道を歩きながら大きく息を継いだ。
「静かなもんだな」
自分の足が砂利を踏む音すら大きく聞こえる。
「将太の言うとおりだな。大事なお札にあんな穴あけちゃったからには、やっぱりお詫びしとかないと。」
でも、あの穴はいったいどうしたんだろう、と博雅は考える。
あの化け物が去ったあと、博雅は違う部屋に寝たのだ。あの部屋はめちゃくちゃになっていて、そこで寝るなんてとてもできそうになかったから。それでも無用心なので外から通じる濡れ縁には他から持ってきた戸板を嵌めた。多少ガタついてはいたが戸板はきちんとはまった。
戸締りはしっかり、やったのだ。
…それなのに。
朝、目が覚めると枕元にあのお札が置かれていたのだ。
しかも、真ん中にでっかい穴が空いて。
朝っぱらから思わず目が点になった。
なんで、八幡さまのお札がここに?しかも、穴が空いて?
お札を手にして朝の早くから博雅は固まってしまったのだった。
では、俺を護ってくれたのは妖しの言ってた俺の背中のヤツじゃなく、本当は八幡さまだったのか?
まさか…と博雅はその考えを否定する。
これはただの紙切れに過ぎない。しかも版で刷られた何百何千と配られたその中のたったの一枚だ。あの妖しを祓う力があるなんて到底信じられっこない。
しかも、この穴はなんだ?なぜ、穴が開く必要があるんだ?
いくら考えても答えは見つからなかった。
それでも、将太が貸してくれた大切なお札だ。せめて、このお札を社に返して新しいお札をあの子に返してやらなくちゃ。
お礼かたがた、博雅はそう考えてここまでやってきたのだった。
木々に囲まれた苔むす階段を幾段か登ると、目の前に大きな本殿が現れる。
普段は閉められたままの本殿が、今日は祭りのために大きく開かれていた。
さらに本殿に上る木の階段が3段ばかり。それをのぼるとお賽銭箱の向こうに本殿の建物の中が見えた。
賽銭を投げ入れて手を合わせる。
「昨日は本当にありがとうございました。」
お世話になったのには間違いはない、博雅は本当に素直な気持ちでそうお礼を言って深々と頭を下げた。
と。
ゴン!
博雅の足の甲になにやら硬いものが直撃した。
「イテッ!」
思わず目を開けて足元を見ると、なにやら細長い棒のようなものが落ちている。
「なんだ?」
腰をかがめて足の甲をさすりながら、それを拾った。
「笛?」
手にしたものに博雅は頭をかしげた。
博雅が首を傾げるのも無理はなかった。
漆かなにかだろうか、黒く輝く本体に金銀に輝く螺鈿でできた竜が絡みつくように装飾されたそれは、楽器と呼ぶにはあまりにも豪華絢爛なものだったからだ。が、よくよく見ればちゃんと穴が一列に空いている。博雅の知っている、お囃子に使うような簡素な横笛とはかなり違っていたが、どうやら笛には間違いないようであった。
それにしても…。
「なぜ、こんなものが??」
予想のつかない突飛な事態に博雅はさらに頭を傾げた。
…チッ…
「え?なに?誰だ?」
背後で誰かが舌打ちしたような気がして、笛をもった博雅はきょろきょろとあたりを振り返った。
先ほどの笛を手に、博雅は社の傍らで首を傾げる。
足元にこれが落ちてきた時、周りには誰もいなかったし、見上げた本殿の天井は何の凹凸もなく、誰かが投げつけたとか上から落ちてきたなど、まず考えられない。
「いったい、どこからきたんだ?」
疑問は募るが、笛などに興味はないし、どこから転がってきたにしろ見るからに典雅な造りの笛に、博雅はきっと社のものに違いないと判断した。
ならば、話は簡単。
黙って上がるのも憚られるので、板敷きの社殿に膝をつくと、よいしょと精一杯手を伸ばして間口のすぐ脇にある太鼓の下に、螺鈿で飾られた笛をそうっと置いた。楽器は楽器の傍に。
「うん、これでよし。今に宮司さんが来てちゃんとしてくれるだろ。」
満足げに微笑む。
さて、後は社務所に寄って新しいお札を買って…
そう考えながらとんとんと階段を下りたところで、博雅の足が再びピタリと止まった。
「なんで?」
博雅の足元に、さっき太鼓の下に確かに置いたはずの笛が、またしても姿を現していた。
黒漆の本体に螺鈿の龍。
「さっきの?…まさかね」
笛を拾い上げると、今降りたばかりの階段を一足飛びで駆け上がった。
バッ!とさっき笛を置いた太鼓の下を覗き込む。
「ない…」
置いたはずの笛が消えていた。
…ということは、やはり…。
「いやいや、そんなばかな。いくら昨日妖しにあったとはいえ、そんなに二日も続けて、なんてことがあるはずないじゃないか。」
きっと、置き方が悪かったかなにかして階段を笛が転がり落ちたに決まってる。…気付かなかったなんて、ありえないけど。
「ここにいろよ。おとなしくな」
まるで人でも相手にするように、笛に向ってそう言うと、博雅はもう一度慎重に笛を置いた。しばらく、じっと笛を見る。
うん、今度は間違いなくここに置いてある。見るかぎりでは動きそうにもない。
しっかり確認すると、博雅はゆっくりと階段を下りた。
が。
「何だって言うんだ…」
まるで通せんぼをするように、さっきの笛が博雅の足元に転がっていた。
「こいつも妖しかな?」
用心して、博雅は落ちていた小枝の端で笛をつつく。が、笛は笛のようで、妖しい動きも何もない。
「よっぽど俺に用があるんだな」
手にした笛をじっと見下ろして博雅はつぶやく。
本殿のとなりにあるもう一つの小さな社殿の階段に腰を下ろした博雅。こちらは八幡様に付随する何かの神様の社のようである。本殿のほうも人がいなかったが、こちらはもっと、ひとけがない。
「はて、困った。昨日の妖しみたいに喋ってくれればまだしも、ものひとつ言わずに目の前に転がられたってな。」
いったい、俺にどうしろと言うんだ。
『…吹け。』
「は?」
どこからか声が聞こえた。
「なに?」
笛を手にバッ!と立ち上がって博雅はあたりを見回す。
「だ、誰だ?」
さわさわさわ…。
耳を澄ませど、聞こえるのは門前からの祭りの雑踏と、あたりの木々の葉が風にそよぐ音のみ。
「確かに声がしたぞ…」
笛をぎゅっと握り締めて博雅は立ち尽くす。それから、握り締めた笛をもう一度見下ろした。
「吹け…って、俺がこいつをか?」
笛なんて生まれてこのかた吹いたこともない、もっと言うなら触ったのも初めてだ。なにしろ武家の出。学問と武道は叩き込まれたが、笛や三味線などといった遊戯に関するものなど関わる機会もなかった。
「吹けばこいつから開放されるのか?」
通りの縁日で遊ぶ将太のことも心配だ、この笛が追っかけてこなくなってくれればそれに越したことはない。
「まったく。吹けって言ったって、ほんとに息吹き込むくらいしかできないからな。」
ぶつぶつと、ひとしきり文句を言ってから、あきらめて博雅は笛を唇に当てた。本人はまったく自覚がなかったが、その様は流れるように自然に見えた。
本当に触ったこともない人間であったなら、どうやって持つのかさえ、まずわからないだろうに。
「知らないからな…」
そう言った言葉が消えるように小さくなった。
知らないうちにまぶたが落ちる。長い指先が細かく震える。
ひゅるり…
風を巻き、あたりの空気を震わせて、博雅の唇からこの世のものとも思えぬ妙なる旋律が流れ出す。
社の傍らの神木の枝にポウと火が灯る。博雅の奏でる音色に合わせて舞を舞うように小さな火が次々と明滅した。
神の笛と名高い「沙王の竜笛」が、その名に恥じぬ吹き手を見つけのだ。
…が。
パシッ!
博雅の手から笛が弾き飛ぶ。石畳に、カランカラン!と乾いた音を立てて転がった。
その音に、当の博雅が、夢から覚めたようにハッ、と驚いた。
「な、なんだ!?今の??」
自分の両手に視線を落とし、それから地面に転がる笛を見つめた。
「お、俺…、なんで、笛なんて吹けるんだ…?」
ぼんやりとしたものの、自分が何をしていたかぐらい覚えている。触ったことすらない笛を自分は吹いていた。
…むしろ、なんだか、妙に懐かしくてうれしかった…ような。
いやいや、そう思うのは、きっと、この笛のせいだ。
博雅は苦い顔をして笛を見下ろした。
「やっぱり、こいつは妖しの笛だな。」
…っていうか、二日連続かよ。
「歩くたびに妖しやら、なにやらにぶつかってちゃ、仕事にならないぞ、まったく。」
社殿の階段に腰掛けたまま、博雅は大きなため息をついた。
「妖しを引き付ける体質にでも、なったのか?俺…」
さすが、腕利きの医者と評判の博雅である。その診立ては実に正しい。
…まあ、本人は悪い冗談のつもりで言っているのだが。
「にしても、なんで手の中からあれは弾き飛んだんだ?」
たぶん、あのまま笛を手にしていたら、大変なことになっていた気がする。
もしかして。
「また、俺のこと守ってくれたのか?」
誰もいない宙に向かって博雅は尋ねる。もちろん、答えなどない。
「返事は、なし…か。」
でも、きっと、そうなんだろう。正体なんて知らないが、いつも自分のためにいる誰か。
「俺の夢に出てくるやつなんだろ、おまえ?」
きっと、聞いてると、博雅は言葉を続ける。
「どんな顔なのかも、ひとなのか、妖しなのかも知らないけどさ、…俺はお前のことがなぜだか気に入ってる。」
はは、と照れたように博雅は笑う。
「まるで、恋人みたいにさ。おかげで、嫁を貰えないよ。ったく、責任取れよな。」
ひざの上に片肘をついて、困ったように目を閉じた。
…ピク。
石畳の上に転がったままだった竜笛が、わずかに動いた。
びょん!
まるで、生き物のように竜笛がしなって跳ねる。その気配に博雅がハッ!として顔を上げたときには、それはもう博雅の懐に飛び込んでいた。
「な、な、なんだ??」
あわてて自分の体を見下ろすと…。
「は?」
思わず博雅は絶句した。
竜笛が、博雅の胸の辺りに着物の上からへばりついている。あわてて引っ張ってみるが、それはまるで膠かなにかでも使ったのかと思うほどに、強力な粘着力でびったりと張り付いていた。
「この!離れろ!」
下の着物を引っ張るが、どういった具合になっているのか、着物ごと動きゃあしない。これではきっと、引っ張っても着物が破れるだけでどうにもならないだろう。
まるで、木に止まる蝉のような竜笛を胸に貼り付けたまま、博雅はすっかり弱ってしまった。
「まいった…。どうすりゃいいんだ。」
ここで、ハッと気がつく。
そうだ、後ろのヤツ。
「え〜っと。俺の後ろのひと!」
人とは限らんなあ、と少々、戸惑いつつ博雅は続ける。
「こいつがへばりついて離れない。なんとかしてくれないかな?」
その声に答えるように、博雅の背中のあたりがザワッ、と粟立つ。
「うは!」
ぷるっ、と震える。
次の瞬間。
バチバチバチッ!
竜笛が強烈な閃光を放った。
「うわわっ!」
思わず顔を片腕で覆って博雅はのけぞる。熱くも痛くもないのだが、その光は強烈だった。
バチッ…しゅうう…
光が消え、竜笛の周りからきな臭い煙が立ち上る。
見下ろすとそのあたりの着物地が茶色く焦げて変色していた。が、竜笛そのものは、さっきと少しも変わらず、しっかりと博雅にくっついていた。
「なんと、まあ…」
博雅が困惑しているところに、誰かが走って来る足音。
「せんせっ!!」
ニコニコ顔で走りよってきたのは小僧の将太。
博雅は、あわてて上に羽織っていた白衣の前をかき合わせた。
「お、お、おう」
無理やり笑顔を作る。
「ま〜ったく、なんでこんなとこにいるんだよ、先生!俺、すっごく探したんだぜ!」
「は、はは、悪かった。ちょっと、静かなとこで一服したかったもんでな。」
「こんなとこで?」
後ろの社を見上げて将太はブルッと震えた。
「ここ、沙王さまの社だろ?おっかないよ。」
「沙王さま?」
博雅も振り返って社を見上げた。古ぼけてはいるが、ただの小さな建物に過ぎない。怖いと震える将太が不思議だった。
「おっかないって、ここがかい?」
「なんだ、先生ってほんと何にも知らないんだなあ。道々教えたげるから、とにかく行こうよ。」
どうにも、ここが嫌いらしい将太に引っ張られて博雅はそこを後にした。
胸に妙な笛の妖しをくっつけて。
「あそこはさあ、八幡さまの境内にあるけど、八幡さまじゃないんだってさ。」
「どういうこと?」
「八幡さまよりず〜っと前からいる神さまなんだって、うちのおかあが言ってた。で、と〜っても怖い神様だから近づいちゃいけないってさ。ちっちゃいころから散々言われたから、俺らガキんこは滅多に近づかないよ。」
なのに、先生ときたらそのお社のまん前で座ってるもんなあ、と、将太はあきれたように言った。
「そりゃ、そんなこと知らないし…」
知ってりゃ絶対近づかなかったさ、と後のせりふは心の中。おかげで、へんなのが、今ここにくっついてる。
こりゃあ、その社の関係だな…。
なんだって、また。
昨日に引き続き、だ。盛大にため息のひとつもつきたいところだが、こんな小さな子供の前でそれはできない。ただでさえ、俺に懐いていろいろ心配してくれてるのに。
「で、金魚は取れたのかい?」
博雅は、にっこりと笑うと、将太の頭をくしゃりとなでてそう言った。
「さあて、どうしたものかな」
将太を無事に家まで送り届けて帰ってきた博雅、白衣を脱いで着物の中をのぞいて、今度こそ、はあ、と大きくため息をついた。気のせい、もしくは夢なら、どれほどいいやら…。
「おまえは蝉か」
相手は神さまなのかもしれないというのに、思わずツッコみたくもなる。
「俺の後ろの誰かさんにも、こいつを引き離せなかったものな。」
それなのに俺ひとりの力じゃ、どうにもなりゃしないぞ、そう思いながら、なにげなくそれに手を触れた。
途端に、カクン…と博雅のひざが崩れた。
「え?…な…な…なに…」
クラリ、と目が回る。部屋の景色が渦を巻く水流のように自分を中心にぐるぐると回って、博雅はその渦に吸い込まれるように意識を失っていった。
「こ、ここはどこだ?」
ハッと気づいてあたりを見回す博雅。
気づけば、博雅はどことも知れぬ暗い闇の中に佇んでいた。
「…なんだ、ここ?」
上も下も左右すら定かではない暗闇の中、
「…どうか…どうか…我が願いを…」
震えるような女の声が聞こえた。
「だ、誰だ?」
何も見えない周りを、それでも目を凝らして一生懸命、見渡す博雅。その真正面、鼻もくっきそうなほど近くに、それはそれは美しい細面の女性。
「う、うわわっ!!」
普段おっとりとしている博雅が、びっくりして思わず後ろに飛び退った。
「お、お、驚いたっ!」
いったい、いつの間にこんな至近距離に?心臓バクバク。
「どうか…どうか…わが願いをお聞き届けくださりませ」
驚きに動悸を打つ博雅の胸に、女性の細くて華奢な手が滑り、ウルウルと涙にきらめく瞳が博雅を見上げる。
「う…美しい…」
吸い込まれそうなほどに美しい瞳、花びらを思わせる桜色の唇、透き通る白磁のような滑らかな肌。これほどに完璧に美しい女性など生まれて初めて見た。博雅も一応、これでも男である。思わず見惚れた。おまけに、つい視線を下げてみれば、そこには透き通る薄物一枚の艶姿。もぎたての桃を思わせる胸元に、思わずのど仏が上下する。
「どうぞ、あなたの唇を…」
「えっ?」
美しい瞳が閉じられ、扇のような長いまつげを震わせて、女性が博雅に向かって唇を差し出す。
「えっ?えっ?」
つい女性の方に手を添えてしまっていた博雅、差し出される花の唇に、思わずパニック。
ど、ど、どうしようっ!!
ここがどこかも、相手が誰かも、まだ全然わからないのに、降ってわいた緊急事態に昨夜あれほど冷静だった男が脳内大騒ぎである。
つい、誘われるままに自分の唇を差し出しかけた…。
「ぐえっっっ!!」
背後から目いっぱい引っ張られて、端正な容姿と、落ちついた低めの声が魅力のはずの博雅から、カエルのつぶれたような悲鳴が上った。
「さすがに目の前で、そういうマネは許さない」
博雅の襟首を掴んだ、もうひとりの誰かが不機嫌そうな声でそう言った。
「はあ…」
機嫌の悪い美貌の誰ぞが深いため息をひとつ。
「あ、あの??」
なんで見ず知らずのこいつに、ため息なんぞ、つかれなければならないのだろ?と、思いつつ博雅は相手を見上げる。自分よりもアタマひとつ高いなんて、すっごい美人だが、もしかして男?
「よもや、おまえに、あんた、誰?なんぞと聞かれる日がこようとはな。」
「へ?」
って、そう仰られても…。
「まあ、仕方がない。」
「うわあ」
博雅が何を思おうがお構いなしに、もう一度引っ張られた。
「おい、そこの。これは私のものだ、返してもらうぞ。」
博雅は、白地になにやら優美な地模様の浮かぶ絹の袖の中に、体ごと囲い込まれた。
ふわり、雅びな香りが博雅の鼻をくすぐる。
…なんだろ、この香り…なんだか…懐かしい…
一瞬、ポワンとしたところで、ハッと気づく。
「ちょちょ、ちょっと待て!私のものって、お、俺のこと???」
な、なななに、ソレ?
「いいから、お前は黙っていろ。」
「むがっ…!」
絹の袖が、優雅な香りとともに博雅の口元をふさぎ、黙らせる。
じたばたと暴れる博雅を軽々と押さえつけて、その誰かがほんの目の前に立つ美しい女に険しい目を投げた。
「悪いが、お引き取りを願おうか」
その言葉に、今まで黙っていた美女がその見目麗しいおもてを上げた。続いて、そのあごが挑戦的にクイと上がる。
「ふん、何を言う。我はこの男に用がある。邪魔立てするな。」
たった今まで、真珠のような涙を浮かべていた可憐な乙女とも思えぬお言葉、顔半分を塞がれた博雅も、思わず暴れるのをやめて目を見張った。
「我こそは天空の竜宮のあるじ、空駆ける竜神沙王さまの僕べにして、天界にかの竜笛ありといわれた神の笛、沙王の竜笛の化身なるぞ。そなたのような今生身のないただの影とは違うのだ。この男を我に引き渡して、そなたこそここを去るがよい。」
黒目がちでうるうるとしていた瞳がガッ!と開く。瞳の虹彩が、まるで金の糸を思わせるほどに引き絞られた。
「神の笛だろうがなんだろうが、関係ない。邪魔だ、消えろ。」
自称、神の僕べなどお構いなしなそのものの言いように、今度こそドキンと博雅の心の奥深くが飛び跳ねた。
知ってる…。誰だかわからないけど…知ってる、コイツ!
にらみ合う二人の凄美人の間に挟まって、博雅は違うことで超ドキドキ。
「我を邪魔だと抜かすか!おのれっ!!」
女の姿が見る見る変わってゆく。首が伸び、美しかった顔の中央がガアッと前に向かって突き出し、口がカッと裂ける。博雅の目を釘づけにした熟れた桃のような胸が硬いうろこに覆われた腹にかわってゆく。
「むぎ…」
もうひとりの美人に囚われたまま、博雅は天突く竜に変わり果てた美女に目を剥いた。
「そのものをよこせっ!」
ガラガラと、いかづちを思わせるような割れ声が、どことも知れぬこの闇の世界に響く。
「色々と化けて目まぐるしいことだな。」
紅い唇の端をわずかに引き上げて白皙の美貌の男が言った。
…あの笑み。
博雅の心臓が、さらに動悸を速めてゆく。
な、なんだ、このドキドキは?
未だこの歳になるまで恋愛感情など経験したことのない博雅、医師のくせにその胸を打つ感覚の意味を知らない。
「なにゆえ、そこまでこの男を欲しがる?確かにとびきりの魂の持ち主ではあるが、これはただの人間だぞ。おぬしら竜とは縁もゆかりもないはず。」
低いが凛と響き渡る声で男が言った。天突く竜を恐れるそぶりも見せずに。よほどの豪胆なものでもなければ竜の威容に恐れを抱くのが当たり前であろうに、やはり人ではないのか。では、この胸のあたりが動悸を打つのは人外のものに捉われているゆえか?いい年して経験不足の博雅は、男の腕の中で大いに戸惑う。
「そなたに説明するいわれなどないわ!さあ、そこをどきやれ!」
竜がクワッと耳まで裂けた口を開けて吼える。辺りの空気がビリビリと震えた。
「なるほど。説明する気はないか。なら、仕方がないな。」
片腕の袖の中に博雅を絡めとったまま、男が言った。
「今の私は前とは違うのでな、…手加減がきかないかもしれない、悪く思うなよ」
男がクスリと笑った。
今度はさっきとは違った意味で博雅の背をぞくりと何かが駆け上がる。それが恐怖からきたものだということはすぐに証明された。
「きあああああぁぁっっ!!」
まるで鋼鉄の鋼に締め付けられたように竜の体が棒のように硬直、バキバキと骨のきしむ嫌な音が竜の悲鳴とともに闇に響いた。まるで雑巾を引き絞るように竜の身体がギシッと捻られ、その裂けた口から真っ赤な鮮血が溢れた。
「むむっ!」
ふさがれた博雅の口からも声が上がる。ハッと気づいて見上げれば自分を絡めとった男が片手を挙げて竜を指差しているのが見えた。
「むがっっ!」
口を塞ぐ男の腕を力任せに振りほどいて、博雅は思わず声を荒げた。
「や、やめろっ!!」
竜を指差す男の腕に手をかけて引きおろす。
「ガハッ…!」
竜が苦しげに声を上げて、ドウ…と崩れ落ちた。
「なにをする、博雅」
切れ長の瞳を博雅に向けて男が言う。
「なにって!いくらなんでも今のはないだろう!見ろっ!あんなに血が出てる。人を救うのが私の仕事だ、人が傷つけられるのを黙って見ているなどできるかっ!」
「人?あれがか?」
男が崩れ落ちて小山のようになった竜をちらりと見て、ふんと鼻で笑った。
「どこからどう見たって化け物だ。」
「ううう…」
大きな竜の姿がみるみる縮んで元の女の姿に戻った。
つかつかと男が女に歩み寄る。そして、博雅が止めるまもなくその流れる黒髪をグイと掴んで女の顔を上げさせた。
「うっ!」
女が苦しげに眉を寄せた。
「さあ、なにゆえ博雅にまといつくのか説明してもらおうか」
「おい!やめろって!」
博雅が、また男を止めようとする、が、男は取り合わない。
「わ、私は…て、天に…か、帰りたいだけ…なのだっ…」
言った女の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「天?天の竜宮のことか、そんなもの勝手に帰ればよかろうが。博雅といったい何の関係があるというのだ」
「私の力では…帰りたくとも…帰れないのだ…」
男が髪から手を離すと、女は顔を覆って、ごうごうと泣き崩れた。
「ぬしは沙王のものであろうが。天に帰る力ぐらい持っていよう」
「帰れないのだ…これを見よ」
女が自分の足元を震える指で指差した。
「あ」
のぞきこんだ博雅が驚きの声を上げた。
女のきらびやかな衣装のひだに隠れて、銀色に光る細い細い紐が見えた。美しい光沢を放ってはいたが、それはよくよく見れば、まるで針金のようにぎりぎりと女の足にきつく絡み付いてるではないか。紐に絡みつかれたその足首は、青黒く変色していた。
「これは、いったい…」
博雅が目でその紐に行方をたどるが、それはどこまでも長く伸び、この暗い空間の闇の向こうへと消えていた。
「なるほど…人に囚われたか」
男が、すべてわかった、というようにうなずいた。
「ううう…」
女がさらに激しく声を上げて泣く。
「くやしや…くやしや…人ごときに囚われて…どれほどの長き年月、この地にとどまらせられておられるものか…、ああ…口惜しい…」
「いつの昔にか、この地の神として祀られたのだな、ぬしは。」
天の竜王沙王が愛した笛、いったいどういう経路であったかはわからないが、それが人の世に姿を現したとき、その人外の霊力に人は神の姿を見、そして崇め奉ったのだろう。その思いが楔となり、この地にかの笛を縛り付けた。
天の竜王のもとに帰りたかった神の笛は、自分を勝手に祀った人に恨みを抱き、人を救うどころか、かえって祟り神となった。
「将太が、ここの神様は怖いから近寄っちゃいけない、って言ったのは、あなたのことだったのか…」
と、博雅。
その博雅を見上げて女、竜笛の化身は言った。
「人の子よ…私を助けておくれ」
「助ける?私が?」
博雅、心底びっくりである。
「博雅に、お前を吹けというのか」
男が難しい顔をした。
「そうじゃ。このものは確かに憎っくき人の子にはちがいない…が、私にはわかるのだ…、人の子でありながら、このものは楽聖でもあると…」
女は真剣な目をして博雅と男を交互に見つめた。
「が、楽聖??この私が??」
驚く博雅と、それがどうした、と言わんばかりの男。
「これが、楽の神に愛されたものだということは承知している」
で?と、男。
「このものが吹く笛の音は、天に階を架けることができる、私はその階を登りたい…たとえ、この身が千切れようとも…」
足首に絡みつく銀の楔を恨めしげに見下して、女は言った。
「なるほど…」
ふむ、と男はうなずいた。
「まあ、条件次第では、協力してやらぬこともないな」
「は?」
自分を埒外に置いて返答する男に、驚く博雅。
「では、元の姿に戻ってもらおうか」
男が女に言った。
「まさか、その姿に何かさせるわけには、ゆかぬからな」
男の言葉に女はうなずいてその身を変化させた。
博雅と男の足元に、一本の美しい竜笛が転がった。
それを無造作に拾うと、男は博雅にその竜笛を差し出した。
「これがあの女の姿になるかと思うと、決して面白くはないが…」
ちょっと難しい顔をして、とにかくこれを吹け、と博雅に言った。
「吹けって…。俺はこういったものの、たしなみはないんだが…」
困って首を振る博雅。確かにこれを吹いた覚えはあるにはあるが、あれはこの笛の力のせいだったと思い込んでいる博雅、自分に笛など吹けるはずがないと思っている。
おまけに、ここがどういった場所なのか、自分に指図するこの男は誰なのか、何もわからないときている。
「だいたい、あなたは誰で、ここはいったいどこなんだ?」
声が響くわけでもないのに、どこまでも広がる闇に博雅は目を巡らす。
「その説明は後にして、とにかくこいつを吹け。話はそれからだ」
男は、博雅の目の前に竜笛を突き出した。
「だから、そんなもの吹けっこないって言ってる…むが」
「いいから、とっとと吹け」
男は有無を言わせずに博雅の唇に竜笛を押し付けた。
「ほら、ちゃんと持て」
博雅の手を取り、笛を持たせる。
「だから無理だって…」
さらに一言、言おうとした博雅、その目が驚きで見開いた。
目の前に、男の指先があった。
「お前の過去を引きずり出すには及ばないが…これぐらいはよかろう」
「な…?」
男の薄い唇から、低く声が響く。それは何かの音調のように、わずかに節をつけて聞こえた。
「あ…え…?」
博雅のまぶたがすう…と下がる。その手が竜笛に沿って滑るように移動して、正しい位置に指先を据えた。
「吹け…博雅」
男の命ずるままに、目を閉じた博雅は笛に息を吹き込んだ。
ひゅるり…り…り…
最初は地を這うように低く、それから徐々に徐々に、その音色が高く高く伸び上がってゆく。目を閉じ恍惚とした表情を浮かべる博雅からは、意識らしいものは感じられない。まるで自身が楽器そのもののようになって、楽の音と一体化しているようである。
りりりり…
その音がさらに高度を増したとき。
きらり。
暗い空間にぽん!とぽっかり穴が開いた。丸いその穴から、蒼い月と煌めく星が見えた。
そして、銀と金に輝く天にかけるきざはしが…。
「ああ…!」
博雅の手を竜笛がすり抜ける。その姿が先ほどの女へと、流れるように変わってゆく。
「ああ、ああ…!やっと帰れる…、沙王さまのもとへ…、やっと…!」
金銀に輝く天かけるきざはしを、女が駆け上がる。
が。
「あっ!!」
女がその途中で転ぶ。見れば足首に絡みつく楔がビン!と張り、女がこれ以上、上に上がれぬようにその身を地上に引き止めていた。
「ああっ!!このようなもの!」
女の手が楔を引きむしるが、くもの糸のように細いそれは、もちろん外れない。
「おのれっ!!私は天に帰るのじゃ!絶対絶対!なんとしてでも!!」
女の手が見る間に竜の手と変化し、その刃物のような爪で、己が足首をかき斬ろうとする。
「あ!だめだっ!!」
我に返った博雅が届くはずもない手を上げ、声をあげた。
「俺に任せておけ」
博雅の前に男が立ちはだかる。
面前に二本の指を立て、その唇からまじないのような言葉を呟くと、その指先をツイと女の方に向けた。
「この地に眠る地の神よ、わが願いを聞き届けよ。…囚われし天の使いを解き放て」
パシッッ!!
まぶしいほどの蒼い光を放って、女の足元が輝いた。自らの足をかき切ろうとしていた女も思わず顔を逸らした。
「あっ!」
「おう!」
光が消え、女と博雅は同時に声を上げた。
女を捕らえていたあの銀の戒めが、その姿を完全に消し去っていた。
「ああ…なんという…!」
女が何もなくなった足首を涙ながらに擦る。博雅と男を振り返って何か言おうとするのだが、涙で言葉にならない。
「よいから、ゆけ」
さっさと登らぬと、その階が消えてしまうぞ、と男が言う。
「あ…ありがとう…なんとお礼をすれば…よいのか…」
煌めく階を駆け上りながら、女が涙で途切れながらも必死で言葉を繋ぐ。
「そうだな…礼をくれるというのなら…この場所を俺に譲れ、竜よ。天に帰るおぬしにはどうせいらぬものだろう?」
「行ってしまった…」
竜の消えた夜空を見上げて、博雅が放心したように言った。
それから、さっきまで竜笛を奏していた自分の手を見る。
「なんで、俺があんなことできるんだ…?」
笛を吹けるということもさりながら、天に向かって金銀に輝く階、あれを作り出したのは間違いなく自分だった。すべてが博雅の理解の範囲を超えていた。
先日来続く、この常識はずれな事態はいったいなんなんだ?
自分も含めて、いったいなにがなにやら…
「さて、邪魔者は消えたな」
少し離れて立つ男が言った。
その声に、博雅が振り向く。
「そ、そういえば、あなたはいったい誰だ?さっき後で説明すると言っただろう?この変な場所やら、俺のまわりで立て続けで起きている変なことはあなたに関係あるんだろう?説明してくれ」
思わず男に詰め寄る。
「まあ、そう熱くなるな、博雅。」
博雅のことを手で制して、男はゆっくりと微笑んだ。
「せっかくこの空間を手に入れたのだ。まずは、それを有効に使わねばな」
「は?なにをのんきなことを…」
言いかけた博雅の言葉が途切れる。
…博雅の唇を男が塞いでいた。
博雅より少し背の高い男の手が博雅のあごを捉え、その血のように紅い唇が博雅の男の癖に柔らかな唇に、ぴったりと隙間なく合わされる。
「ん…っ!」
びっくりして目を見開く博雅、が、次の瞬間には男の手から逃れようと、じたばたと暴れた。その博雅の腰をグイと、男のもう片方の腕が押さえる。博雅とさほど体格も変わらぬように見えたのに、意外に強い腕で体をしっかりと密着されて、博雅は身動きもままならなくなってしまった。
動けぬ博雅に、男の口づけが執拗に続く。あごを押さえた男の手が、博雅のおとがいを押さえて無理やり口を開けさせる。
「噛むなよ」
わずかに唇を離して言うと、男の舌が博雅の口内へと滑り込んだ。
何、言ってる…!これ以上なにかしてみろ。ただじゃおかない!
そう心の中で叫んだ…のに…
滑り込んできた舌を噛み切るどころか、博雅は、あっというまに意識をさらわれた。
熱く絡みつく舌。
互いに飲み込む唾液…。
我慢できずに洩れる呻き…。
なんだなんだなんだ???
途切れそうな意識をかき集めて博雅は問う。
なんだ、この胸の痛みは?なんだ、この切ない泣きたくなるような気持ちは?
知らずに頬を涙が伝う。
「相変わらず泣き虫だな」
濡れた博雅の唇を、冷たい指先でそっとなぞって男が言った。
「あ、あなた…誰だ?俺の知ってるひとか…?」
伝う涙に戸惑う博雅。
「さあてな。知っているかもしれぬし、知らぬかもしれぬ。…でも、今はどっちでもよい。ここでのことは、おまえにとってはすべて夢の中のことのようなものだ。」
男の手が、すうっと、博雅の白衣の袷の中を滑り落ちた。
「ア…っ…」
男の指先に、平らな胸に咲く小さな蕾をつままれて、博雅はピクリと、あごを小さく仰け反らせた。
男の顔が下がり、先ほどまで博雅の舌と絡まりあっていたそれが、指先の後を追って小さな蕾にたどり着く。
「えっ…?な、なに…?あっ!…ア…あっ…っ」
「こちらも相変わらずだな…感じやすさも変わってない」
片方を指先で転がしながら、男がくくっ、と笑う。
「いつもの夢の中とは違う、本当の博雅を、よもやこの腕に抱けようとな。感謝するぞ、沙王の笛よ」
小刻みに震える博雅をその腕に閉じ込めて、男は不思議なことを言った。
「あ…っ…」
上も下も定かではない不可思議な空間で、博雅は名も知らぬ男にその身を貫かれた。男の熱く熱をもったそれが博雅の双丘の中心を割って、その奥深くまで突き込まれた。汗に濡れる博雅の胸を、男の舌がざらりと這う。硬く突起した胸の蕾をその舌が捕らえ玩ぶ。
「や…アッ…あ…」
男の長い髪を掴んで、博雅が実も世もなくその若い体を震わせる。きつく閉じられたまぶたに滲む涙、口づけに濡れて膨らんだ唇、桜色に上気した頬…そこにいつも爽やかで、きりっとした青年医師の姿は影も形もない。絶世の美女もかくやとばかりの華のような艶姿。
博雅の長い足を己の体に巻きつけさせて、さらに奥へと自身を打ちつける男。名も名乗らぬ男が、そんな博雅を見下ろしてその赤い唇に笑みを浮かべる。
「私の博雅…」
「ああ…だ…誰…あっ…あな…たは…っ…」
涙でかすむ目を空けて博雅が霧散しようとする意識をかき集める。
「おまえを誰よりも愛しく想うもの、それが俺だ。今はそれだけを知っておいてくれればそれでいい」
男の手が、硬く立ち上がって蜜で塗れそぼる博雅の熱茎を掴んで擦り上げる。
「あっ…くうっ…」
かき回される後孔、擦り上げられる屹立。身を貫く痺れるほどの快感に、博雅はそのしなやかな体を大きく反らせた。
「ここでのことは俺にとっては本当のことだが、悲しいかな、博雅、おまえにとっては夢の中のようなものに過ぎない。」
傍らにぐったりと横たわる博雅の、汗で張り付いた一筋の髪を後ろに掻き寄せて男が静かに言った。目を閉じた博雅がそれを聞いている様子はない。今さっきまでの激しい交わりに、気を飛ばしてしまっているのだ。意識を失っているとわかっているのに男は言葉を続けた。
「まあ、それも仕方のないことだ。俺はおまえとの約束を守れなかったのだからな。」
そう言った男の目はとても悲しい色を湛えていた。
思うように生きろ…博雅…。
再びまみえるその日まで、俺は必ずお前を護ってみせるから…
低くささやくような声に、博雅はハッ!と目を覚ました。
「だ、誰だ!?」
ガバッ!と起き上がって傍らの刀を掴んだところで。
「イッ!イデデデデッッ!!」
取った刀を支えにして博雅は盛大に呻いた。
「こ、ここ、腰がっ!」
ついでに、あらぬところが痛いのなんのって。
「あうううっ!な、なんだ?いったい、どーしたんだっ??つ、痛っ!」
と、あまりの痛さにうつむく博雅、そこで肌蹴た寝巻きの内側がその視界に入った。
思わず素っ頓狂な声が上がった。
なぜならば。
「うわっ!!」」
体のあちこちに派手に散る、赤い花びら…のようなあと。
自分でガバッ!と寝巻きをはだけた博雅の目が真円に見開く。
「な、なな、なんだ?コレ???」
…しまったな。
どこかで誰かの声がした。
きっちり改稿しようと思ったのですが、挫折。書きっぱです。スイマセン(汗)
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