「白衣の君」(4)
「で、おまえは嫁を取る気がないのか?」
そう聞いたのは実光(さねみつ)という名の男である。年は博雅よりふたつ上で、まだ子供だったころ、なかなか馴染めなかった学問所で、博雅のことを何くれとなくかまってくれた年上の友。
「まあね。」
博雅は小首をかしげて答えた。
「なんでだ?おぬしの親御どのはそれを首を長くして待っておられるという話ではないか」
「俺は待ってくれなんて言ってないし、家を継ぐ気もない。」
そういうと博雅は目の前に差し出された銚子に杯を上げた。
二人が酒を酌み交わしているのは博雅の屋敷。屋敷と呼ぶには小さいが、男ひとりで住むには広すぎるほどの広さはあった。
その屋敷の中庭に面した濡れ縁に二人は藁座を敷いて対峙して座っている。
秋祭りも終わり静かになったこの時期、長年のともである実光は酒を片手に博雅の屋敷を訪ねてきたのである。
二人の前には空になりかけた大きな酒の瓶子がひとつ。それに博雅が出してきた酒の肴が幾種類か。もっぱら、酒が主なのでそれらは時々箸がつけられる程度であったが。
やさしげな風貌に似合わず、実はこの医者はなかなかの酒豪であった。そして相手もまたかなりの酒豪とみえた。
空には秋の高い月。
そばに小さな行灯をひとつ置いただけで、ほとんど月明かりのなか、二人はぽつぽつと話しながら酒を楽しんでいた。
その話がどういったわけか博雅の嫁取りの話になったのだった。
「親不孝ものめ。」
杯に酒をあけながら実光は言った。
「それを言うなよ。でも、おぬしとてそうだろう?俺より年上のくせにまだ独りものだ、おぬしのほうこそ親不孝ではないか」
博雅が言い返す。同じような奴に嫁取りがどうこうと言われたくはない。
「俺の場合はいいんだよ」
実光が答えた。
「俺の場合だって?なんだ、それは。」
ずいぶん都合のいいやつめ、と今度は博雅が相手に酒を勧める。
「俺の場合はおぬしと違って嫁にしたいのがいる」
「ほう?それは初耳だな」
傾けかけた銚子を手にした博雅の手が止まった。
「どんな子だ?」
「綺麗というよりは可愛いといった感じだな。」
実光はニッと笑みを浮かべて答えた。
「へえ、ほんとにいるんだ、そんな娘(こ)が。」
博雅は本当に驚いた。
それというのもこの実光という男、まるで役者のように端正な顔立ちと申し分ない家柄で、ぜひうちの娘を嫁に、と引く手あまたにもかかわらず、すべてあっさりと断り続けてきたという奴で、もしかして女嫌いじゃないかと噂されていたからだ。そんな奴に本命の娘がいたなんて。
しかも可愛い娘だって?
博雅は自分より背も高く体格もいい実光をじっと見た。このでかい奴の隣に小さな可愛い娘だって?
ぷぷっ、と博雅は噴出す。
「なんだ?」
実光は怪訝な顔をした。
「なにがおかしい?」
「だって、お前の隣にこんなちっちゃな可愛い娘が並ぶ姿、つい想像しちまって」
手で小さい感じを示して博雅は笑った。
「いやあ、悪い悪い。でも、それはそれでいいよなあ。どんな娘だ?一度紹介しろよ。」
「誰もその相手がちびなんて言ってないぞ」
実光が苦く笑う。
「それにまだ俺の一方的な想いだけだ。」
「え?」
「相手はまだ俺の気持ちなんて気づいてない」
「え…そうなんだ…そりゃ悪いこと言ったな…ごめん」
とたんにシュンとした博雅に向かって実光はやさしく微笑んだ。
「いいんだ、なにしろその相手ときたら超鈍くてな。目の前に俺がいたってその気持ちに気づいてくれたことがない」
「そりゃひどいな…」
博雅は同情的な目で向かいあう相手を見つめた。
「ほんとにな。」
実光はくすくすと笑った。
まったく、男の俺から見たって見栄えもいいし、頭も性格もおまけに家柄もいい、こんないい男が目の前にいても気づきもしないなんて、どこまで鈍いんだ、その娘は。
しげしげと目の前に座る男の顔を見る博雅。
そして。
「よし!わかった!俺が間に入ってやろう!」
グイと杯を一気にあおると、に〜っこり笑ってそう言ったのだ。
「は?」
実光の目が大きく開かれ、口がポカンと開いた。
「そんなにびっくりするな。俺だって仲人のまねごとぐらいできる。」
博雅は自信ありげに言う。
「俺だって家を出てかれこれ数年。いつまでも世間知らずのぼんぼんではない。おぬしとその相手とやらの間を取り持つなど造作もないことだ。俺に任せて大船に乗ったつもりでいろ。」
「ハ…」
「ん?」
相手の様子がおかしいのにようやく気づく博雅。
「ハハハハハッ!」
実光が腹を抱えて笑い出す。
それを見て博雅が、ムウ、と唇を尖らせる。
「なんだよ、俺が仲人するのがそんなにおかしいかよ」
「い、いや…そ、そうではなくて…ハハッ!」
まるで笑いの発作に襲われたように笑い続ける実光に、博雅の唇がますます尖る。
素手で、つまみの炙った魚の干物を取ると、博雅はパクッと乱暴にそれに食いついた。小魚を頭からバキバキと噛み下しながらぶつぶつと文句を垂れる。
「てんで子供扱いしてるよな」
「別に子供扱いしてるわけじゃないさ」
ようやくのことで笑いの発作が治まったらしい実光が、目の端に溜まった涙を拭きながら言った。
「いんや。ガキ扱いしてるね。俺ぁ、傷ついた」
魚をくわえたままの博雅がじろりと実光のことを睨んで言う。普段クソがつくほど真面目な博雅がここまで自分をさらすのはとても珍しいことである。それほどに実光に対して心を開いている証でもあろう。
「ガキじゃないから困る…」
「え?」
「いや、なんでもない。まあ、とにかく、だ。俺の嫁のことは俺が何とか考えるからおまえは自分のことを考えろよ。ほんとに嫁も取らずに、このままずっと独り身でいるつもりなのか?おまえのほうこそ気になる娘とかいないのか?」
博雅に聞き取れぬほどにぼそっとつぶやいた後、実光は先ほどの話題に博雅を引き戻した。
「気になる…?」
博雅は少し頭をかしげた後、
「いや、いないな」
と言った。
「頭ひねって考えなきゃ出ないようじゃ、ほんとにいないんだな。」
実光が呆れて言った。
「ま〜ったく、おまえいくつになったんだ?その年でまさか、女抱いたこともないって言うんじゃないだろうなあ」
その言葉に博雅が言葉に詰まる。
「…ぐっ」
「まさか…だろ?」
博雅の表情に実光が本気で驚く。
「ほっとけ!」
博雅の頬が真っ赤に染まる。
「おやまあ…」
「いいだろ、別に。今までそれで何の不自由もなかったんだから」
「でも、おまえ、男としてそれは…どんなもんだろ…?俺が一緒に行ってやるから吉原にでもゆくか?」
「いらないよ!」
「でも、あそこに行けば、きれいなのが手取り足取りいろいろ指南してくれるし、おまえのような色男の初心者には、きっと特別優しいぞ?」
実光はさらに言う。
「いいからほっといてくれ。興味ないんだ。」
ついに博雅は下を向いてうな垂れてしまった。
「興味ないって…女にか?」
「そう意味では…誰にも、だ…」
「なるほどな…運命の人待ち…ってヤツだな。」
ふうん、なるほどな、などと言いながら実光は手酌で酒を煽った。
「来るか来ぬかもわからぬ運命の恋人を待つ、か。ならば…」
二人の前にある杯やら酒肴の皿やらを跳ね除けて、実光が一気に博雅の襟に手を掛け引き寄せた。
「わわっ!な、なにをするっ!実光!?」
「そいつが現れるまで俺のものにならぬか、博雅?」
友人だった男が恋人志願に名乗り出た。
「お、俺のものって…、ど、どういう意味…」
「おまえのことがずっと好きだった」
「は?え?」
「小さいころからずっとな」
目を見開いて驚く博雅にニッと笑むと、実光は博雅の背に腕を回してさらに自分にその身を引きよせた。
「今日こんなことを言うつもりはなかったんだが」
引き寄せた博雅の顔にじっ…と視線を落とす。
「しばらく会わない間に何があった、博雅?」
「な、なな何って?」
友だと思っていた馴染みの男に急に迫られて博雅パニックである。
「絶対何かあったはずだ…じゃなきゃ、なんだこれは?」
実光の手が博雅の頬を滑る。博雅がぞくんと体を震わせる。
「いつのまにこんなになった?」
「こ、ここ、ここんな…って?」
「今までのお前は天真爛漫な子供のようなヤツだった。いつのまにこんな色を身につけたんだ…」
これで我慢しろというほうがどうかしてるさ、そう言うと実光の顔が博雅の顔の上に落ちて。
「だああっ!ちょっと待てっ!!」
迫り来る実光のあごを色気もなく、がしっ!とせき止めて博雅は必死の形相。
「お、俺は、お、おおお男だぞっ!間違えるなっ!」
頬を真っ赤にして声を上げた。
「間違えてなぞおらん。」
あごを押さえられたまま、実光は実に余裕にニヤリと笑った。
「おまえのことが、小さいころから好きだったと、今、言っただろ?」
「す、す好き、ってゆーのは、と、ととと、友としてだろうがよっ!」
言ってる意味が違うはず、と、博雅。
が、
「俺とおまえでは、「好き」の意味が違ったらしいな」
実に、あっけらかんと言う実光に、博雅は丘に上がった金魚のように口をパクパクとさせて言葉を失った。
そんな博雅に目を細めると、実光は、自分のあごに当てられた博雅の手を取って、やんわりと自分に引き寄せた。
「驚かせちまったようだが、俺が嫁にしたいと思っているヒトというのは、実はおまえのことだったりしてな。」
「よ、よよよよ。よめっっ!?」
博雅の動揺は収まらない。普段、冷静沈着でならす腕利きの医者とは思えないうろたえぶりである。
「これも言うつもりはなかったのだがな。いつもと違う…今宵のお前に俺の理性ももたぬというものだ…」
実光の整った顔が迫る。
「お、俺はいつもと、か、変わらぬ!」
じりじりと、濡れ縁の柱の一本に追い込まれてゆく博雅。
「違っているともさ。俺は一目で気付いたぞ。」
実光の親指が博雅の下唇をクイ、と引き下げた。薄く開いた唇から、なまめかしく濡れる桃色の舌先が見えた。
「おまえはさっき誰も抱いたことがない、と言ったが…」
実光の目がすっ、と細められた。
「この唇は、くちづけを知っている唇だ」
「ば…」
今度こそその頤をしっかりと逃がさぬように捕らえて、実光の硬い唇が博雅の柔らかな唇にかぶさった。
「むむむむっ…!!」
唇を塞がれて博雅が目を白黒させる。実光の体を押し返そうとするが、自分より体格も骨格もある男の力にあと少し及ばない。
やめろ、と言おうと、開いた唇を割って実光の熱い舌がするりと、博雅の咥内に滑り込む。
後頭部をしっかり押さえつけられて、博雅の意思に反して深まるくちづけ。おびえて引っ込む博雅の舌に絡む実光の熱い舌。酸欠と衝撃に、博雅の瞳がくるりと反転した。
クタリと力を失い腕の中に崩れ落ちる博雅に気づいて、実光は唇を離した。
「しまった。さては刺激が強すぎたか」
おい、大丈夫か、とポウッ、と赤らんだ博雅の頬をぺちぺちと、やさしくはたいてみる。
「これしきのことで気を失うとはウブなやつめ」
にんまりと満足げに微笑む実光。
「少しは経験を積んだと思ったが、気のせいだったかな」
まあ、それも仕方がない、これからは俺がいくらでも手ほどきをしてやろうさ、などと機嫌よく腕の中の想い人を見下ろした。
パチ。
急に博雅が目を開けた。と、同時に実光の胸倉をグイッ!と掴んだ。
「おわっ!」
びっくりする実光の胸倉を掴んだまま、ガバッと起き上がると、博雅は氷のような笑みを浮かべて言った。
「博雅に手を出すなと言ったはずだ」
地を這うような、普段の博雅とは似ても似つかぬ低い声。
「久しぶりだな」
実光も二ヤ、と笑む。
「昔、そんなことも聞いた気がしたな。」
こちらも、今さっきまでの博雅に対する態度とは打って変わって、ひどく冷たい。
「今も、だ。」
博雅の手にギリ、と力が入る。
どうやら、博雅が気を失ったために、背後の者がその体を借りて表に出てきたようである。
「でも、アンタが何もできないうちに、コイツは誰かとなんかあったらしいぜ。アンタも誰とも知れぬヤツにこいつを盗られるぐらいなら俺のほうがいいだろ?」
実光の冷たい瞳と、博雅の冷たい瞳がバチッ!と、氷の火花を散らす。
「これの相手はどこかの誰かでも、おぬしでもない。この私だ。」
博雅の目が険悪に細められた。
「実体もないクセにかい?」
この実光という男、博雅の後ろに憑いた者と、どうも知り合いのようである…。
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