花橘 (3)




「それは…?」
ひきつった笑顔をその見目麗しい顔に貼り付けて、晴明はそれを指差した。
「は?」
博雅はなんのことだと首をかしげた。
ここは晴明の屋敷の濡れ縁。すっかりとこの場所になじんでしまった博雅。杯をくいとあけた弾みに襟元から鎖骨の辺りがはだけて紅い跡が晴明の目に留まったのだ。
「それ。」晴明が自分の首の辺りを指差して聞いた。
「ああ。こいつか?」
ようやっと気づいて博雅がわらった。
「いや実はな、先日ちょっとあることがあってな。たぶんそのときにどこかにぶつけたのだろうとおもってはいるんだが不思議なことに痛くもないしかゆくもないのだ。へんな痕だろ?」
自分じゃ見えないんだよと博雅は言った。
 
つけられた自覚もないとはどういうことだ。明らかに口づけのあと以外の何ものでもないではないか…。いったいどうやってついたというのだ?
 
「あることって?」
博雅のいった一言を思い出して晴明は聞いた。
「うむ…どうも私は誰かに命を狙われたらしいのだよ」
「命を狙われた?どういうことです?」
「うむ、実はな、昨日の直居のときに家人に化けた二人組みに呼び出されて、真夜中の羅城門に放り出されそうになった」
「なんだって…」
晴明の顔が一気に険しくなった。
「妙な煙をかがされて気を失ってしまっていたから、情けない話だがあの方がいなければ本当に危なかったかもしれぬ。あの時間のあのあたりは危ない連中でいっぱいだからな。」
危なかったといいながらも博雅はけろりと話す。
「あのかた?」
博雅がどのような危険な目にあったかももちろん聞きだしたかったが、まずは助けたというやつのことを晴明は先に知りたかった。
「朱呑童子どのさ。」
「朱呑童子?何でそんな妖しの総大将などとあなたが知り合いなのです?」
まさか、ここで朱呑童子の名が出るとは思わなかった。さすがに驚いて晴明は聞き返した。朱呑童子といえばこの京に都に跋扈する妖しの中でも最強で、しかも最悪に冷酷な奴だ。そんな奴が人を助けるなど聞いたことがない。
「ああ、晴明どのには話したことがなかったか。私はあのお方とは、この笛を通して友人なのだよ。人にはあらぬ方だが、ほかのみなが言うほど恐ろしいお方ではないぞ」
手に葉双を持って笑う博雅、晴明はそののんきなのかそれとも鈍いのか、とにかくその図太い神経にあきれた。
「大江山の鬼王をよい方と言ってのけるのは、この京広しといえどあなたぐらいのものだ。」
ではその首筋のくちづけのあとはそいつか、博雅はただの打ち身のあとか虫にでも食われたくらいにしか思っていないようであったが晴明にとっては朱呑童子からの戦線布告のようなものだった。
私の博雅に勝手にしるしをつけやがって…。
博雅の命を狙ったものがいるというのもかなり心配ではあったが、それと同じほどに大江山の鬼王、朱呑童子の存在も気になるところだった。博雅を食らわぬ代わりに自分のものだという目印だけはつけたというわけだ。

まったく、気に入らない。
それにしても…。
「博雅どの、つかぬことを伺うが…」
「ん?なんだ?」
何杯めかの杯を美味そうに干しながら博雅は機嫌よく聞いた。
晴明と一緒に飲むと何故、いつもの酒がこのように甘露となるのかと不思議に思っていたところだった。
また、あの紅い痕跡が晴明を挑発するようにその襟元から覗いた。
「博雅どのはだれぞと契ったことはおありか?」
「えっっ!?」
博雅は真っ赤になって固まった。
「きゅ、急になにを…」
手にした杯が今にも落っこちそうである。
「おありか?」
ニコリともせず晴明は聞く。
「そ、それは…この歳だからないわけない!」
真っ赤になったまま博雅は答えた。その答え方を聞いただけで十分だった。
 
あるにはあるが、数えるほどもないな、これでは。
 
「と、突然なにを言い出すのだ。ああ、驚いた」
額に汗を噴出しながら博雅は晴明をきっ、と睨んだ。
「どうしてもお聞きしたかったのでね。てっきりわざとその痕を人に見せているのかと思いましたよ。」
博雅の手から杯をそっと取り上げて晴明が言う。
「それはあまり人に見られぬようにしたほうがよろしいですよ。博雅さま。」
睨む博雅にも臆することなく晴明は博雅の首筋のあとに手を伸ばして触れた。
指先が嫉妬のあまり、ちりっ、と火花を発したような気がした。
その火花が本当に飛んだかのように博雅はびくっ、と体を震わせた。
晴明に触れられたところが妙に熱くて痛い。
「…なぜ?」
少し掠れた声で聞く博雅。
「…そいつはくちづけのあとだから。」
いつもは冷たいほどの晴明のまなざしが、今はまるで火のように燃えて見えた。
「く、くちづけ…?」
「たぶん朱呑童子が残していったのでしょう。あやつにはよくよくご用心めされよ」
「まさか…」
あとのある辺りを晴明の指先がなぞる。博雅ののど仏がごくりと上下した。
「あいつの残したあとなど、この晴明が消して差し上げましょう…」
もう、指をくわえて博雅のことを見ているだけなのはごめんだった。朱呑童子が博雅を狙っている。
盗られたくはない。
「あ!なにを…」
驚く博雅の首筋に顔を寄せ、朱呑童子が残したあとに晴明は自分の唇を重ねた。
「あっ…!」
背を反らす博雅の首に手を回し、しっかりと頭を固定すると、そこを強く吸い上げた。
「ま、まて!晴明、なにを…!」
ちりちりと痛いほどに吸われて博雅は激しく動揺した。
「代わりに私のあとを。」
うっすらと妖艶な笑みを浮かべて晴明は言った。
顔を真っ赤にしてふるりと震える博雅の鎖骨の辺りに朱呑童子の残したあとに代わって、新たに晴明のつけた新しい紅いあとがくっきりと残された。
 
「せ、晴明どの、きゅ、急になにをされるのだ!?」
ぐいっと晴明の体を押しのけて、真っ赤になった博雅はいった。
「朱呑童子のつけた痕からよくない妖気が出ておりましたのでね。僭越かと思いましたが急を要することでしたので、私がその妖気を吸い取らせていただきました。」
博雅から離れながら晴明は言った。
「よ、妖気?」
「ええ、あまりよろしくない妖気が…」
微塵のうしろめたさも見せずに言う晴明。そうなのか?となんだか納得のいかない顔をしている博雅の首筋についた己の痕跡に内心、至極満足していた。
 
朱呑童子の残した痕など、博雅にいつまでもはりつかせてたまるものか。
博雅の体に痕を(たとえどんなものだろうと)残していいのは自分だけだ。
 
今までは、この稀有な殿上人には手を出してはならぬものと自分にたいして厳格に言い続けていたのであったが、童子がそのつもりであるのならば、黙ってみているわけにはいかない。
あの妖しに張り合えるのは、保憲さまを除けばこの京には自分しかいないだろう。朱呑童子に抱かれる博雅をちらりと想像して胸が悪くなった。
 
この口づけのあとすらもろくにわからぬ純な男は私のものだ。もう、誰にも触らせたりはしない…。
 
晴明が心のうちで自分をそういう風に思っていることなど露ほども気づかぬ博雅。
晴明の唇に触れられたところがまだやけどをしたかのようにじんじんとしていた。…おまけになんだか股間の辺りがざわざわと落ち着かない。
晴明に言ったとおり契った経験はないではないが、どちらかというとあんまりそっち方面は興味のない博雅。美しい女房など見かけても文を送りたいほどの情熱を感じたことなどなかった。
晴明と初めてあってからというもの、女性(にょしょう)のことなどよりいつも頭の片隅にあるのは晴明の顔であり声であった。それがどういう意味を持つものなのか、このときの博雅はまだ、全然、気づいてなどいなかったが。
 
なんだか落ち着かない気持ちになっている博雅に晴明はもうひとつ気になっていたことを尋ねた。
「それで、博雅どの、お命を狙われたとはどういうことです?」
「え?ああ。たぶんそうじゃないかなと思っただけですよ」
さきほどのことなどもう頭にないかのように見える晴明に、博雅は昨日のことを一部始終、話して聞かせた。話が進むうちに晴明の顔はどんどんと険しくなってくる。
そして、最後まで聞くと、その美しい面に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて言った。
「たぶんなどではありませぬ。明らかに博雅さまを亡きものにしようという意図がはっきりとしているではないですか」
「そ、そうかな?」
「そうかな、ではございません」
きっぱりと晴明に言い切られた。
「腹の立つことではありますが、朱呑童子がこなければ本当にどうなっていたことか」
「う、…うむ、確かに…」
「それで、心当たりは?」
「それがなあ、とんとわからぬのだよ。まあ、私は時々、自分でも気づかぬうちに人の気にさわることをやらかすことがあるらしいからな。また、何かしたのかも知れぬ。」
たった今、それをやらかしたのだという自覚もなく博雅は言った。
「それもなくはないでしょうが、それにしても…。」
ただ、殺すというのではなく羅城門のようなところに気を失わせて置き去りにしようとするそのやり方に悪意のようなものを感じる。いくら薬をかがされていても、妖しなどに食らいつかれれば人はその痛みで目覚めるだろう。そして自分のおかれた状況がわかったときどれほどの恐怖を感じるか、死の恐怖よりもそちらの恐怖のほうが大きいだろう。
 
そこまで考えてやったのか?
 
だとするなら、これは博雅に対する怨み…?
 
いったい私はなにをやらかしたのだと、頭をかしげて考えている博雅に目をやって晴明は心を決めた。
 
…護らねば。
 
晴明はぽんと手をひとつ打った。
屋敷の奥から白拍子の姿の美しい女があらわれた。
晴明の傍らにひざをつく。りんとして大層美しい女だった。
「紙と筆を。」
晴明が言うと黙ってうなずき、一旦奥へその女は引っ込んだ。
次に現れたときには手に硯箱と紙を持っていた。
「ご苦労」
それを受け取って晴明は言った。博雅のほうに向かってにこりと可憐な笑みをみせて小さく頭をさげると白拍子はまた屋敷の奥へと消えた。その背を目で追いながら博雅が聞く。
「ずいぶんと美しいおなごがここにはおるのだな。もしかして晴明どのの…?」
晴明は博雅のことばにちらりと目を上げると墨をすりながら言った。
「違います。あれは式です。」
「式?」
「この人型。これに呪をかけてあのような人に似せる。いろいろと私の手伝いをさせているのですよ、便利なものです。」
懐から人型を一枚出すとそういって博雅に説明した。
「この紙切れが今のおなごのように化けるのか、すごいものだな陰陽師というのは。いや、それにしても、きれいだったな。」
博雅は人型を手に取り、しげしげと眺めるとそういった。
「…博雅どのはああいうのがお好みですか?」
ちらりと博雅を見て言う。
「なんなら今宵でも博雅さまの閨にしのばせましょうか?」
「ば、ばかな!ちょっと綺麗だと思っただけだ。いらぬ世話だ」
真っ赤になってこばむ博雅。
「ククッ。失礼」
やはりあまりこういうことは得手ではないのだと再度確認した晴明、思わず笑いが漏れた。
「だいたい、あれは人ではないのだろ?人でないものなどの相手などいやだぞ」
「…人でないものはお嫌いか?…私も皆から狐の子だの何だの人ではないもののように言われておりますが…」
「ふん、晴明どのはどこから見たって人だ。そんな話を信じるほうがばかげている」
「さあ、わかりませぬよ」
「はは、ご冗談を。でもたとえそれが本当で、晴明どのが妖しであったとしても私は気になどしないよ。」
手酌で杯に酒を注ぎながら、博雅はなんでもないことのようにさらりと言った。
「え?」
「晴明どのは晴明どのだ。私は今のままのあなたが好きだからな」
だから、たとえ人でなくてもかまいはしないと、博雅はにっこりと笑った。
博雅のために呪符を書く晴明の手が止まった。
一瞬、博雅を見つめた晴明、その指先が細かく震えた。
ふうっと大きく息をつくと
「…博雅さまにはかないませぬな」
そういって晴明はその美しい唇に笑みを浮かべた。
 
ここでこの男を押し倒さない自分をほめてやりたいぐらいだ、まったく…。
 
 

 
せっかくうまく誘い出したというのに失敗してしまった。
 
自分の屋敷で融は面白くない思いで夜の庭を眺めていた。
どこでどうなったのかわからないが、羅城門で妖しに食い散らかされて肉片となっていたのは源博雅ではなく,融の命を受けた二人のほうだった。
その二人がもう死んでしまった以上、どうやって博雅だけが無事でいるのか確かめようもない。
ただ、わかっているのは失敗したということ。
おまけに面白くないことにあれ以来、晴明と博雅は頻繁に会っているらしい。博雅のほうにその気はないのはわかってはいるが、それでも面白くなかった。
私に会う時間はなくても博雅殿に会う時間はあるのか、晴明。
 
「融さま、おひとつ」
しなだれかかるように若く美しい女が融に瓶子を差し出した。薄物の絹だけをまとった女の豊かな胸が融の腕にわざと触れた。
自分で女を呼んでおきながらも融はその体を突き放した。
「いらぬ。お前もだ。下がれ!」
「は、はい」
融の刺すような冷たい言葉に女は慌てて立ち上がり走るように部屋を出て行った。
女でも抱けばこの体にくすぶる熱も冷めるかと思ったがだめだった。
やはり、あの冷たい美貌の陰陽師がほしい。
それにはやはりどうしてもあの男が邪魔だった。
 
まだるっこしいことなどせずに、さっさと斬り殺してくれようか…
 
妖しにでも生きながら食われればさぞ楽しかろうと思っていたのだが、うまくいかなかったようだし二度も同じ手には引っかからないだろう。
金さえわたせば自分の命だって売る輩がそのあたりにはごろごろしている。
いい考えが浮かんだのか、にっと笑って融は杯を干した。
 
今度は、ぜひ近くであの男の最後を確かめたいものだ。
 
 
何日か後。晴明の屋敷の濡れ縁。
 
「ちゃんと呪符を持っておられるか?」
「ああ…うむ…もちろん」
晴明に尋ねられて博雅はややあいまいに答えた。
「あれを肌身離さず身につけていてくださいよ。博雅さま。もしあなたに何か危険が及ぶようなことがあればあの呪符がある程度は守ってくれますし、その間に私か、私の式が助けに行くことができますからね。」
厳しい顔をして説明してくれる晴明には悪いとは思うが、自分の身くらい自分で守れると博雅は内心苦笑いをしていた。もし、また何かあったとしても今度は最初からそのように命を狙われることもあると知っているのだ、心構えがまず違う。
まして、晴明のようなどちらかというと武の心得のないものに守ってもらうなど、武人としてのプライドが許さなかった。
「うむ…わかった。」
晴明を安心させるように、にっこりと微笑むと、博雅は持ってもいない呪符を持っているふりをして胸のあたりをぽんと叩いた。
晴明はその言葉に少し安心したようにほっと肩の力を抜いた。
「それにしても、晴明どのは意外に心配症であったのだなあ」
杯を傾けながら博雅はからかうように笑った。
「私が心配しているのはあなた様のことだけですよ。」
晴明も博雅と同じく杯を口に運びながら、こちらは少しむっ、としたように言った。
「大体、誰ともわからぬものに命を狙われているかも知れないというのに、あなたは呑気すぎるのです」
「そうかな?」
「日の落ちた後に一人で鴨川や堀川のあたりで笛を吹きに行ったり。我が屋敷に来るのに供の一人もつけずに徒歩で来たり…」
「笛を吹きに行くのはいつものことだ。それにここにくるのにうるさい家の者などつれてきたくはない」
その言葉、うれしくはあったが時が時だけに…。
「ではせめてここにくるときには先にお知らせください、そうすればこの屋敷より博雅様をお迎えに車を差し向けますから。」
そういう晴明に博雅はおかしくてたまらぬといって笑う。
「晴明どの、私はそこらのおなごではありませんよ。過保護だなあ。はははっ」
 
そんな会話のあった翌日、博雅は帝の命によって吉野の金峯山寺に経文を納めに行く役目を仰せ付けられた。吉野は京より遠く離れた山の中である、少なくとも一晩は向こうに泊まって帰ってくることになるだろう行程だ。出発は明日の早朝、早くに出発しても向こうに着くのは日の暮れるころになるだろう。
急なことにあわてて用意をした博雅、晴明に今回のことを伝えるのを忘れていたのに気づいたのは都をはるかに離れたところだった。
「しまった…晴明殿に今度のことを話すのを忘れてしまった。」
しばらく馬上で躊躇したが、いまさら戻るには遠すぎてもいたし、なにより一人の道中でもないのでそれはかなわぬことだった。
「どうされました?博雅どの。」
牛車の御簾を手にした桧扇で優雅に持ち上げ、顔をのぞかせたのは源融。
「いや、何でも。」
馬の首を行く先の方向にとって返すと、博雅は自分とは違う雅雅な融に返事をした。
牛車の横に馬をつける博雅。
本来ならば貴族である博雅は牛車で行くべきなのだろうが、武人としてはこのような長い距離は馬の訓練をかねるには絶好の機会、止める従者を振りきって博雅は馬上の人となっていた。
袖を絞った直垂姿に、太刀を佩くための唐組の平緒の帯を締め、頭には折り烏帽子をつけた博雅は中将の名に恥じぬきりりとした武官姿であった。
牛車の中から御簾ごしにその博雅の姿を苦々しく見つめる融。博雅にはそのつもりなどまったくないのに融のイライラはさらにかきたてられていた。
 
裏から手を回し何とか一緒にお役目をいただくことができた融。
京より離れたところで賊に襲われたように見せかけて博雅だけを殺るつもりでいた。
 
お役目の途中で殉職、これなら博雅どのも悔いもなく死ねるというものだろう?
ついでに私も少しだけ怪我でもしないとな、少し痛い目にあうが仕方がない、あまり私だけ無傷でも怪しまれる。
晴明殿のところに怪我の治療をお頼みして滞在するという手もあるな。博雅殿を失くして悲しむ晴明殿をお慰めして差し上げよう、いかに私が良い恋人になれるかさすがの晴明殿もきっと気づくであろう。
 
ずいぶんと勝手な思惑だが、融のような考え方をする貴族は少なくはない。この世に自分の思いがかなわぬことなどありはしないと思わせるほどに、このころの大貴族は優雅な生活を送っていたのである。広大な地所に壮麗な屋敷を持ち、荘園からあがってくる利益を湯水のごとくに使う。後の時代にその付けが回ってくることなどこのころの貴族は露ほどにも気づいていなかった。融もそんな一人である。己の思いが通らないなど考えもしていなかった。ましてや、その付けが回ってくることにも。
自分の練った計画がすべてうまく行くと信じていた。
 

 
太陽がちょうど天の天辺にきたころ、一行はちょうどよい木陰を見つけて軽く食事をとることになった。供のもの達が天幕を張って草むらの一角を囲って毛氈を敷き、持参した簡単な食事と酒の支度をした。
 
博雅はひらりと馬から降りると馬の首をぽんぽんとやさしくたたき、ねぎらいの言葉をかけた。
「ご苦労だったな。」
その言葉がわかるかのようにうれしそうに首をすり寄せる愛馬に水と飼葉を与えるよう、供の者に言いつけると手甲をはずしながら融の座る天幕の中へと博雅は入っていった。
用意された毛氈の上に腰を落ち着けると、先に来てすでに食事を始めていた融に向かって声をかけた。
「融どの、あなたとこのようにお役目を一緒に引き受けたのは初めてですね」
「…ええ。」
小さく一言返すと、融は竹筒から一口、水を飲んだ。横に置かれた酒の入ったほうの竹筒には目もくれなかった。
「お顔はよく存じているのだが、あなたとは今まであまりお話もしたことがございませんでしたね。これを機会にどうぞよろしく。」
そういってにこりと愛想よく笑みを浮かべる博雅に、融はあいまいな笑みを浮かべて黙ってうなずき返した。
(なんだ…?)
その冷たいとも思える融の態度に博雅は一瞬、戸惑った。その後も天候のことや今から向かう金峯寺のことなど博雅が話を振ってみるのだが、融は気のない返事を繰り返すばかりでまともに会話にはならなかった。
(もしかして、俺は融どのに嫌われているのか?)
理由は皆目見当がつかなかったがなんとなく博雅はそう感じた。
 それきり会話もなく、なんとなく気まずい雰囲気で二人は黙って食事を続けていた。やはり私からもう一度声をかけようか、と博雅が思ったいたとき、天幕の向こうから供の者たちの騒ぐ声が聞こえてきた。
何事かと、融と博雅の二人は顔を上げた。
 
「こら!待て!そっちにいってはいかん!」
「よいではないか、けちけちするな。俺はただ酒を一杯分けてもらえぬかと言ってるだけだぞ。」
必死で止めようとする従者をほぼ引きずるようにして天幕の中をのぞいてきたのは、小汚いなりのひょろりとした男だった。
「なんだ、こいつは!」
融が直衣の袖で鼻と口元を覆って怒鳴った。すえたような匂いが男のほうからぷうんとにおってくる。
「わけのわからぬこのような者、私のそばに近づけるな」
「申しわけありませぬ!この男め、急に現れて酒を一杯よこせとしつこくて。」
いいからこっちに来い、とぐいぐい引っ張る者たちを平気な顔をして無視する男、細いくせにずいぶんと力があった。
「ここを通りかかったらずいぶんと美味そうな酒のにおいがしたのでな、ぜひご相伴にあずかりたい。」
博雅の前におかれた酒の入った杯を指差してぺろりと舌なめずりをした。
「何でお前のようなこ汚い男に殿たちの酒を分けねばならのだ、これ以上無礼を働くと斬り捨てるぞ!」
てこでも動かぬ男に業を煮やした従者の一人が刀に手をかけた。
「ほう、俺を斬るってか…」
垢や埃で薄汚れた男が腕組みをして、にやっと笑った。武器のようなものを何ひとつ持たぬこじきのようななりのくせに随分と尊大な態度だった。
「おいおい、そのような物騒なものを振りかざすものではない。」
一触即発なその場の雰囲気を、博雅のやや間延びのしたのんきな声がさえぎった。
「たかが酒一杯だ。ほら、こっちに来ていっしょにやらぬか?」
酒の入った竹筒を振って博雅はことさら陽気に言った。仮にも寺に経文を収めにゆくのだ、この場で血なまぐさい騒動を起こされるのは願い下げだった。
「博雅どの。まさか、このような汚らしい男と同じ席で酒を飲むおつもりか?」
眉間に不快そうにしわを寄せて融が聞いた。
「おや、いけませぬか?たかが酒、されど酒、私も酒には目のないほうなのでね。このよい匂いがすれば飲みたくなってもしょうがないというもの。一緒に飲めばよいではないですか」
「信じられぬ感性だな、あなたは…。悪いが私にはこのような下賎なものと席を同じにする趣味はない。失礼させていただく」
はき捨てるように言うと、融は博雅と男をにらみつけて天幕の外へと足音も荒く出て行った。
あわてて融の連れてきた供のものがその後を追った。
「あらら。もしかして、俺、悪いことしたかね?」
融の出て行ったほうを見ながら男が言った。博雅はちょっと困ったように首をかしげた。
「なに気にせずともよい。なんだか私はあの方の嫌われているようなのでね、かえって助かった。それより、ほら。」
男の前に杯を差し出した。おっ、と男はうれしそうな顔をして博雅の前に座り、それを受け取った。その杯に博雅は竹筒から酒を注いでやった。
「いいにおいだ…。」
男は杯に鼻を近づけて胸いっぱいに匂いをかぐと
「では、遠慮なく」
そういってぐいっと一息に酒をあおった。
「う〜ん、甘露甘露」
汚い薄汚れた顔に満面の笑みを浮かべて男は笑った。それに釣られて博雅も笑顔になった。
 
「なんなんだ、あの男は!」
牛車のほうへと戻りながら融がはき捨てるように言った。
「申し訳ありませぬ、融さま。一所懸命止めたのですが、やたら力の強い男でして…」
融についてきた融の腹心の従者が言い訳するように言った。それをさえぎって融は怒鳴った。
「あの汚らしいやつのことではない。もう一人のことだ!」
「もう一人…中将さまのことですか」
「そうに決まっているだろうが。おい、手はずはどうなっているのだ?いったいいつになったら計画を実行するつもりだ」
「は、この先をもう少し行ったところにちょうどよい場所がありますので、そこで仕掛けることになっております。」
低く声を落として供のものは融に耳打ちをした。
「そうか…ならばよいのだ」
博雅のいる天幕のほうを見て、ようやく融の顔に笑みが浮かんだ。
 
杯を口元まで運んだ男の手が、ぴくりと止まった。
「…」
そのまま黙ってじっと何もない天幕のほうを見つめた。それから博雅のほうをちらりと見る。そして何事か思うことがあったらしく、小さくひとりでうなずいた。
「博雅さまはこの後、どちらまでゆかれるのか?」
男が何気ないふうに博雅に尋ねた。
「わたしか?私と融どのはこれから吉野の金峰寺まで帝の経文を納めにゆくのだ。暗くなるまでには向こうにつくつもりでいる」
そういって博雅は、もう出立しなければならないなと言った。
「ふうん…。それに俺もついていってはだめかな?」
「おぬしが?」
「俺の住処は吉野の山の中にあるんだ。帰るついでだ。酒の礼に護衛もかねてついていってやろう」
太刀も把いていない癖に男はそういった。
「…おぬしに不都合がないのであれば、私には異存はない。では、吉野まで護衛をたのもうか」
悪そうな人物でもないし、見れば乞食のような格好、後で護衛の礼としていくらかの金子を渡してやろう、そう思って博雅は男を一向に加えることにした。
いくらか金も入れば、もっとましな暮らしの足し前にはなるだろう。それにこの男は本来、このような格好をしているべき者ではないような


 
「一緒にしばらくとはいえ同行するのだ、名をうかがえないだろうか?」
そういって聞く博雅に、
「自分のような素性も知れぬもの名など聞いてどうする。あなたはほんとに変わったお公家様だ」
と男は笑った。
「それでも名もわからぬでは呼びようもなかろう。」
「それもそうだ」
そういって男は名乗った。
「犬神。そう呼んでくれ」

 
やがて日も暮れかかり、もうそろそろ吉野の里に入ろうかという薄暗い切通しの道。
融と博雅、従者たち、それから犬神と名乗った男のあわせて8人の一行の前に両脇のがけより飛び降りて行く手をさえぎるものたちが現れた。
「誰だっ!?」
先頭を行く徒歩の従者が刀に手をかけて誰何した。
後ろに続く博雅やほかの従者も腰の太刀に手をかけてさっと身構える。手に何も持たぬ犬神はみなより少し下がったところで黙って腕を組んで全体を眺め回した。その目が融の乗った牛車に止まり薄く細められた。
「金峰寺に行かれる一行か?」
十人ばかりの人相の悪い男たち、腰に挿した大ぶりの太刀をすらりと抜き放って一番前にいた男が聞いた。
「いかにも…だが、それがおぬしたちと何のかかわりがある?」
馬からひらりと下りた博雅は、そういいながら前で必死の形相で刀に手をかけている従者の肩をぽんとたたき下がらせる。
「関わり?おおいにあるなあ。あんた、お公家さまの源博雅さまだろ?まさに俺たちが待っていたのはあんたなんだな」
にやにやと下卑た笑いをその凶暴そうな顔に浮かべて、首領格と思しき男が答えた。
「狙いは私か…。こっちはお前たちになど待っていてもらわなくても結構なんだがな。」
博雅はわざとゆったりと構えて言う、その足がじりっとわずかに広げられた。
「残念ながらそうもいかなくてなあ、おぬしを殺ればいい稼ぎになるんだよ」
黄色い歯を見せて笑う男の目がギラリと光る。
「困った連中だな…」
博雅はのんきそうにいいいながらも太刀の柄に手をかけた。小さくかちりと鯉口を切る。
「源博雅!その命、貰い受けるっ!!」
男の掛け声で十人ばかりもいる連中がいっせいに刀を抜いて、博雅めがけて斬りかかる。
が、博雅はもうすでに太刀を抜き放っていた。上段から構えも何もなく力任せに降りかかる白刃をギンッと跳ね返す。跳ね返した刀でもう一方から斬りかかってきた右側の男を横様に斬って捨てた。
「ぎあああっ!」
斬られた男が断末魔の叫びを上げてどうっと倒れた。
「私はあまり殺生はしたくないんだよっ!」
そういいながらもう一人を袈裟がけに斬り下ろす。普段ののんびりとした博雅からは考えられぬ鋭い太刀筋である。
「なんだ、こいつ!公家の癖に強えっ!」
「話と違うじゃないか!」
口々に文句を言う連中に首領格の男が怒鳴った。
「囲め囲めっ!どんなでもぶっ殺せばいいんだ!やっちまえっ!」
「博雅さまっ!」
博雅の従者が必死にその加勢をしようとするが多勢に無勢、自分の身を守るのにせいいっぱいで傍にも近づけない。周りを何人もの荒っぽい連中に囲まれて博雅は段々と追い詰められてゆく。
「く、くそっ!」
片手で一方から斬りかかる奴の腕を取って引き倒しながら、もう片方で太刀をふるい白刃をはじき返す。その両手のふさがった博雅の背後に斬りかかる危機一髪の一太刀を軽く跳ね飛ばしたものがあった。
「危ないあぶない。やーっぱ、俺が護衛についててよかったねえ、博雅どの?」
そう言って、にいっと笑ったのは犬神。確かに太刀などもっていなかったはずなのにいつの間にかその手には体躯ににあわぬ長大な刀が握られていた。その刃の先が不思議な光を放っている。
「犬神どの、おぬし、太刀など持っていたのか?」
博雅は応戦しながら聞いた。
「能ある鷹は爪を隠すものなのさ!」
襲い掛かる太刀を下段から掬い上げるようにしてはじき飛ばし、返す刀で敵を肩口から一刀両断に斬りつけた、すさまじいまでの太刀筋、とてもその細い体から出るとは思えぬ力技だった。
「すごいな、おぬし。」
背を犬神のほうに預けながら博雅は感心して言った。
「あなたさまもね、博雅どの。お公家さまにしてはなかなかの使い手だ、たいしたもんだよ。」
博雅ひとりでも充分に手ごわかったのに、それを上回るほどの剣の使い手が加わったことで襲ってきたほうの連中がむしろ守勢に回りつつあった。
「ちくしょう!これでは話が違うっ!」
リーダー格の男はそういうと牛車の方を見た。
「こいつらみたいなむちゃくちゃ強いやつらを相手になどできるかっ!おい!あっちだ!」
博雅らに背を向けると牛車のほうへと駆け寄った。
車の中には斬りあいが始まってから顔さえも覗かせていない融が乗っている。
「しまった!あの中には融どのが!」
あわてて博雅もそちらに向かおうとしたが、時すでに遅く、車の中に身を潜めていた融とその従者が男らによって引きずり出された。
「なにをする!やめろ!その汚い手で私に触れるな!」
「融さまっ!」
羽交い絞めにされて融が怒鳴る。
そんな融の言葉など聴き飛ばして首領格が博雅に向かって言う。
「お前を殺るのはやめた!おまえとそのもう一人、お前らみいたいな強い連中、殺ろうとした日にゃあこっちの命がいくつあっても足りゃあしないからな。代わりにこいつを預かってゆく、明日の朝までにこの男に見合うだけの金を用意して持ってきな。もし持ってこなかったり、その額が少なければその場でこいつの首を掻っ切ってやるからそのつもりでな!」
そういい捨てると融の体を担ぎ上げてその場から走り去った。
「わあっ!やめろっ!!」
融が叫ぶ。
「ま、まてっ!」
博雅と残った供のものがその後を追ったが、このあたりに慣れた連中なのかその姿はあっという間に木々の間に消えてしまった。
 






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