「あれを肌身離さず身につけていてくださいよ。博雅さま。もしあなたに何か危険が及ぶようなことがあればあの呪符がある程度は守ってくれますし、その間に私か、私の式が助けに行くことができますからね。」
厳しい顔をして説明してくれる晴明には悪いとは思うが、自分の身くらい自分で守れると博雅は内心苦笑いをしていた。もし、また何かあったとしても今度は最初からそのように命を狙われることもあると知っているのだ、心構えがまず違う。
そんな会話のあった翌日、博雅は帝の命によって吉野の金峯山寺に経文を納めに行く役目を仰せ付けられた。吉野は京より遠く離れた山の中である、少なくとも一晩は向こうに泊まって帰ってくることになるだろう行程だ。出発は明日の早朝、早くに出発しても向こうに着くのは日の暮れるころになるだろう。
本来ならば貴族である博雅は牛車で行くべきなのだろうが、武人としてはこのような長い距離は馬の訓練をかねるには絶好の機会、止める従者を振りきって博雅は馬上の人となっていた。
晴明殿のところに怪我の治療をお頼みして滞在するという手もあるな。博雅殿を失くして悲しむ晴明殿をお慰めして差し上げよう、いかに私が良い恋人になれるかさすがの晴明殿もきっと気づくであろう。
ずいぶんと勝手な思惑だが、融のような考え方をする貴族は少なくはない。この世に自分の思いがかなわぬことなどありはしないと思わせるほどに、このころの大貴族は優雅な生活を送っていたのである。広大な地所に壮麗な屋敷を持ち、荘園からあがってくる利益を湯水のごとくに使う。後の時代にその付けが回ってくることなどこのころの貴族は露ほどにも気づいていなかった。融もそんな一人である。己の思いが通らないなど考えもしていなかった。ましてや、その付けが回ってくることにも。
太陽がちょうど天の天辺にきたころ、一行はちょうどよい木陰を見つけて軽く食事をとることになった。供のもの達が天幕を張って草むらの一角を囲って毛氈を敷き、持参した簡単な食事と酒の支度をした。
博雅はひらりと馬から降りると馬の首をぽんぽんとやさしくたたき、ねぎらいの言葉をかけた。
「ご苦労だったな。」
その言葉がわかるかのようにうれしそうに首をすり寄せる愛馬に水と飼葉を与えるよう、供の者に言いつけると手甲をはずしながら融の座る天幕の中へと博雅は入っていった。
用意された毛氈の上に腰を落ち着けると、先に来てすでに食事を始めていた融に向かって声をかけた。
「融どの、あなたとこのようにお役目を一緒に引き受けたのは初めてですね」
「…ええ。」
小さく一言返すと、融は竹筒から一口、水を飲んだ。横に置かれた酒の入ったほうの竹筒には目もくれなかった。
「お顔はよく存じているのだが、あなたとは今まであまりお話もしたことがございませんでしたね。これを機会にどうぞよろしく。」
そういってにこりと愛想よく笑みを浮かべる博雅に、融はあいまいな笑みを浮かべて黙ってうなずき返した。
(なんだ…?)
その冷たいとも思える融の態度に博雅は一瞬、戸惑った。その後も天候のことや今から向かう金峯寺のことなど博雅が話を振ってみるのだが、融は気のない返事を繰り返すばかりでまともに会話にはならなかった。
(もしかして、俺は融どのに嫌われているのか?)
理由は皆目見当がつかなかったがなんとなく博雅はそう感じた。
それきり会話もなく、なんとなく気まずい雰囲気で二人は黙って食事を続けていた。やはり私からもう一度声をかけようか、と博雅が思ったいたとき、天幕の向こうから供の者たちの騒ぐ声が聞こえてきた。
何事かと、融と博雅の二人は顔を上げた。
「こら!待て!そっちにいってはいかん!」
「よいではないか、けちけちするな。俺はただ酒を一杯分けてもらえぬかと言ってるだけだぞ。」
必死で止めようとする従者をほぼ引きずるようにして天幕の中をのぞいてきたのは、小汚いなりのひょろりとした男だった。
「なんだ、こいつは!」
融が直衣の袖で鼻と口元を覆って怒鳴った。すえたような匂いが男のほうからぷうんとにおってくる。
「わけのわからぬこのような者、私のそばに近づけるな」
「申しわけありませぬ!この男め、急に現れて酒を一杯よこせとしつこくて。」
いいからこっちに来い、とぐいぐい引っ張る者たちを平気な顔をして無視する男、細いくせにずいぶんと力があった。
「ここを通りかかったらずいぶんと美味そうな酒のにおいがしたのでな、ぜひご相伴にあずかりたい。」
博雅の前におかれた酒の入った杯を指差してぺろりと舌なめずりをした。
「何でお前のようなこ汚い男に殿たちの酒を分けねばならのだ、これ以上無礼を働くと斬り捨てるぞ!」
てこでも動かぬ男に業を煮やした従者の一人が刀に手をかけた。
「ほう、俺を斬るってか…」
垢や埃で薄汚れた男が腕組みをして、にやっと笑った。武器のようなものを何ひとつ持たぬこじきのようななりのくせに随分と尊大な態度だった。
「おいおい、そのような物騒なものを振りかざすものではない。」
一触即発なその場の雰囲気を、博雅のやや間延びのしたのんきな声がさえぎった。
「たかが酒一杯だ。ほら、こっちに来ていっしょにやらぬか?」
酒の入った竹筒を振って博雅はことさら陽気に言った。仮にも寺に経文を収めにゆくのだ、この場で血なまぐさい騒動を起こされるのは願い下げだった。
「博雅どの。まさか、このような汚らしい男と同じ席で酒を飲むおつもりか?」
眉間に不快そうにしわを寄せて融が聞いた。
「おや、いけませぬか?たかが酒、されど酒、私も酒には目のないほうなのでね。このよい匂いがすれば飲みたくなってもしょうがないというもの。一緒に飲めばよいではないですか」
「信じられぬ感性だな、あなたは…。悪いが私にはこのような下賎なものと席を同じにする趣味はない。失礼させていただく」
はき捨てるように言うと、融は博雅と男をにらみつけて天幕の外へと足音も荒く出て行った。
あわてて融の連れてきた供のものがその後を追った。
「あらら。もしかして、俺、悪いことしたかね?」
融の出て行ったほうを見ながら男が言った。博雅はちょっと困ったように首をかしげた。
「なに気にせずともよい。なんだか私はあの方の嫌われているようなのでね、かえって助かった。それより、ほら。」
男の前に杯を差し出した。おっ、と男はうれしそうな顔をして博雅の前に座り、それを受け取った。その杯に博雅は竹筒から酒を注いでやった。
「いいにおいだ…。」
男は杯に鼻を近づけて胸いっぱいに匂いをかぐと
「では、遠慮なく」
そういってぐいっと一息に酒をあおった。
「う〜ん、甘露甘露」
汚い薄汚れた顔に満面の笑みを浮かべて男は笑った。それに釣られて博雅も笑顔になった。
「なんなんだ、あの男は!」
牛車のほうへと戻りながら融がはき捨てるように言った。
「申し訳ありませぬ、融さま。一所懸命止めたのですが、やたら力の強い男でして…」
融についてきた融の腹心の従者が言い訳するように言った。それをさえぎって融は怒鳴った。
「あの汚らしいやつのことではない。もう一人のことだ!」
「もう一人…中将さまのことですか」
「そうに決まっているだろうが。おい、手はずはどうなっているのだ?いったいいつになったら計画を実行するつもりだ」
「は、この先をもう少し行ったところにちょうどよい場所がありますので、そこで仕掛けることになっております。」
低く声を落として供のものは融に耳打ちをした。
「そうか…ならばよいのだ」
博雅のいる天幕のほうを見て、ようやく融の顔に笑みが浮かんだ。
杯を口元まで運んだ男の手が、ぴくりと止まった。
「…」
そのまま黙ってじっと何もない天幕のほうを見つめた。それから博雅のほうをちらりと見る。そして何事か思うことがあったらしく、小さくひとりでうなずいた。
「博雅さまはこの後、どちらまでゆかれるのか?」
男が何気ないふうに博雅に尋ねた。
「わたしか?私と融どのはこれから吉野の金峰寺まで帝の経文を納めにゆくのだ。暗くなるまでには向こうにつくつもりでいる」
そういって博雅は、もう出立しなければならないなと言った。
「ふうん…。それに俺もついていってはだめかな?」
「おぬしが?」
「俺の住処は吉野の山の中にあるんだ。帰るついでだ。酒の礼に護衛もかねてついていってやろう」
太刀も把いていない癖に男はそういった。
「…おぬしに不都合がないのであれば、私には異存はない。では、吉野まで護衛をたのもうか」
悪そうな人物でもないし、見れば乞食のような格好、後で護衛の礼としていくらかの金子を渡してやろう、そう思って博雅は男を一向に加えることにした。
いくらか金も入れば、もっとましな暮らしの足し前にはなるだろう。それにこの男は本来、このような格好をしているべき者ではないような
「一緒にしばらくとはいえ同行するのだ、名をうかがえないだろうか?」
そういって聞く博雅に、
「自分のような素性も知れぬもの名など聞いてどうする。あなたはほんとに変わったお公家様だ」
と男は笑った。
「それでも名もわからぬでは呼びようもなかろう。」
「それもそうだ」
そういって男は名乗った。
「犬神。そう呼んでくれ」
やがて日も暮れかかり、もうそろそろ吉野の里に入ろうかという薄暗い切通しの道。
融と博雅、従者たち、それから犬神と名乗った男のあわせて8人の一行の前に両脇のがけより飛び降りて行く手をさえぎるものたちが現れた。
「誰だっ!?」
先頭を行く徒歩の従者が刀に手をかけて誰何した。
後ろに続く博雅やほかの従者も腰の太刀に手をかけてさっと身構える。手に何も持たぬ犬神はみなより少し下がったところで黙って腕を組んで全体を眺め回した。その目が融の乗った牛車に止まり薄く細められた。
「金峰寺に行かれる一行か?」
十人ばかりの人相の悪い男たち、腰に挿した大ぶりの太刀をすらりと抜き放って一番前にいた男が聞いた。
「いかにも…だが、それがおぬしたちと何のかかわりがある?」
馬からひらりと下りた博雅は、そういいながら前で必死の形相で刀に手をかけている従者の肩をぽんとたたき下がらせる。
「関わり?おおいにあるなあ。あんた、お公家さまの源博雅さまだろ?まさに俺たちが待っていたのはあんたなんだな」
にやにやと下卑た笑いをその凶暴そうな顔に浮かべて、首領格と思しき男が答えた。
「狙いは私か…。こっちはお前たちになど待っていてもらわなくても結構なんだがな。」
博雅はわざとゆったりと構えて言う、その足がじりっとわずかに広げられた。
「残念ながらそうもいかなくてなあ、おぬしを殺ればいい稼ぎになるんだよ」
黄色い歯を見せて笑う男の目がギラリと光る。
「困った連中だな…」
博雅はのんきそうにいいいながらも太刀の柄に手をかけた。小さくかちりと鯉口を切る。
「源博雅!その命、貰い受けるっ!!」
男の掛け声で十人ばかりもいる連中がいっせいに刀を抜いて、博雅めがけて斬りかかる。
が、博雅はもうすでに太刀を抜き放っていた。上段から構えも何もなく力任せに降りかかる白刃をギンッと跳ね返す。跳ね返した刀でもう一方から斬りかかってきた右側の男を横様に斬って捨てた。
「ぎあああっ!」
斬られた男が断末魔の叫びを上げてどうっと倒れた。
「私はあまり殺生はしたくないんだよっ!」
そういいながらもう一人を袈裟がけに斬り下ろす。普段ののんびりとした博雅からは考えられぬ鋭い太刀筋である。
「なんだ、こいつ!公家の癖に強えっ!」
「話と違うじゃないか!」
口々に文句を言う連中に首領格の男が怒鳴った。
「囲め囲めっ!どんなでもぶっ殺せばいいんだ!やっちまえっ!」
「博雅さまっ!」
博雅の従者が必死にその加勢をしようとするが多勢に無勢、自分の身を守るのにせいいっぱいで傍にも近づけない。周りを何人もの荒っぽい連中に囲まれて博雅は段々と追い詰められてゆく。
「く、くそっ!」
片手で一方から斬りかかる奴の腕を取って引き倒しながら、もう片方で太刀をふるい白刃をはじき返す。その両手のふさがった博雅の背後に斬りかかる危機一髪の一太刀を軽く跳ね飛ばしたものがあった。
「危ないあぶない。やーっぱ、俺が護衛についててよかったねえ、博雅どの?」
そう言って、にいっと笑ったのは犬神。確かに太刀などもっていなかったはずなのにいつの間にかその手には体躯ににあわぬ長大な刀が握られていた。その刃の先が不思議な光を放っている。
「犬神どの、おぬし、太刀など持っていたのか?」
博雅は応戦しながら聞いた。
「能ある鷹は爪を隠すものなのさ!」
襲い掛かる太刀を下段から掬い上げるようにしてはじき飛ばし、返す刀で敵を肩口から一刀両断に斬りつけた、すさまじいまでの太刀筋、とてもその細い体から出るとは思えぬ力技だった。
「すごいな、おぬし。」
背を犬神のほうに預けながら博雅は感心して言った。
「あなたさまもね、博雅どの。お公家さまにしてはなかなかの使い手だ、たいしたもんだよ。」
博雅ひとりでも充分に手ごわかったのに、それを上回るほどの剣の使い手が加わったことで襲ってきたほうの連中がむしろ守勢に回りつつあった。
「ちくしょう!これでは話が違うっ!」
リーダー格の男はそういうと牛車の方を見た。
「こいつらみたいなむちゃくちゃ強いやつらを相手になどできるかっ!おい!あっちだ!」
博雅らに背を向けると牛車のほうへと駆け寄った。
車の中には斬りあいが始まってから顔さえも覗かせていない融が乗っている。
「しまった!あの中には融どのが!」
あわてて博雅もそちらに向かおうとしたが、時すでに遅く、車の中に身を潜めていた融とその従者が男らによって引きずり出された。
「なにをする!やめろ!その汚い手で私に触れるな!」
「融さまっ!」
羽交い絞めにされて融が怒鳴る。
そんな融の言葉など聴き飛ばして首領格が博雅に向かって言う。
「お前を殺るのはやめた!おまえとそのもう一人、お前らみいたいな強い連中、殺ろうとした日にゃあこっちの命がいくつあっても足りゃあしないからな。代わりにこいつを預かってゆく、明日の朝までにこの男に見合うだけの金を用意して持ってきな。もし持ってこなかったり、その額が少なければその場でこいつの首を掻っ切ってやるからそのつもりでな!」
そういい捨てると融の体を担ぎ上げてその場から走り去った。
「わあっ!やめろっ!!」
融が叫ぶ。
「ま、まてっ!」
博雅と残った供のものがその後を追ったが、このあたりに慣れた連中なのかその姿はあっという間に木々の間に消えてしまった。
花橘(4)へ。