春の骸 (はるのむくろ)



 
「うむ、よい天気だ」
久方振りに一人で馬の早駆けに出かけた博雅。馬上から春霞に遠くかすむ都を見下ろして大きく息を吸った。
空には柔らかな光を投げかける春の日差し。草木は青く茂り、草花は暖かな風にそよぐ。それはそれは気持ちのよい春の日である。
「晴明がおればもっとよかったのになあ」
つい愚痴が口をついたが、帝のお召しとあれば仕方がない。まあ、こんな日もあるさ、と博雅はひとり、肩をすくめた。

本当ならば、晴明に付き合ってふたりで春の野に薬草を摘みに来るはずだったのだ。だが、その肝心の相手は清涼殿に蛇が出たとかで、これは何かの障りではないかと心配する帝に呼び出されてしまって、ここにはいない。
あんな男の用など俺の知ったことではない、と相変わらずの晴明をやっとのことで説き伏せて送り出したのは他でもない自分なのであるから、文句を言う筋ではなかった。。
とは言うものの、送り出してからひとり晴明の屋敷で留守番をしているのも面白くなかったので、陽気にもつられて博雅は出かけてきたのである。
晴明の屋敷に行くときには供のものは連れてこないのが普通なので、必然的に一人で出かけることと相成った。
家人が知ればさぞや喧しかろうが、それこそ知ったことでない。博雅は青葉色の狩衣の袖の括り紐を絞って馬に跨ると、ひとり身軽に春の野を目指したのであった。

それらしき草の葉など取ってくんくんと匂いを嗅ぐが、わかるのは蓬ぐらいなもの。
「これでは晴明の代わりなど、まずつとまらぬなあ」
はは、と笑って腰を伸ばすと、博雅はあたりを見回した。
向こうのほうに日差しをよけて腰を下ろすにちょうどよい大きな岩が見えた。
「とりあえず一服だな」
馬のくつわを引き、そこまで歩いた。近くに寄ってみると岩は思ったより大きくて、他には目立つものもないこの野の主のように見えた。
「でかい石だ、まあ一休みするにはちょうどよい日よけだな。」
そう言って博雅は
「やはり俺には薬草よりこっちだな」
馬の腹に下げたものいれから瓶子をひとつ取り出した。ついでに杯をひとつ。
「晴明と飲みたかったなあ」
柔らかな若草の上に腰を下ろして、一人で杯に酒を注ぎ、クイと煽るとちょっとばかり淋しげな一言が出た。
「いやいや、帝のお召しだ、文句を言うなどとんでもない。俺の大事な晴明が帝から頼りにされておるのだ、ここは喜ばねばならぬところだ。」
うんうん、と自分を無理やり納得させる。大概、可愛いオトコ「博雅」である。
と、その博雅の視線が少し離れた地面に向けられた。
「おや?」
岩陰と伸びた草に隠れるようにして、誰がいつ打ち捨てたものか少し小さなしゃれこうべがひとつ。
「こんなところに…」
そばに寄って、博雅はそのしゃれこうべを取り上げた。が、不思議なことにそのしゃれこうべには土ひとつ、苔ひとつついておらず、まるで磨いたように白く美しかった。
もとより殿上人のくせに、真夜中の羅城門にでも平気で登るほどの肝の持ち主である博雅、その骨に生きている人間に向かって話すように普通に声をかけた。
「美しいな、そなた。まるで唐渡りの白磁のようだ。それにしても、なにがあったのかは知らぬが、このように人気のないところでひとり、さぞや淋しかったであろうな」
そういうと、すぐそばに咲く綺麗な花の中にそのしゃれこうべを、そっと置き直した。
「今日はいつもの連れがいなくてな。そいつがいなくて一人で飲むのは嫌いなのだ、そなたもひとり、私もひとりだ。一緒に一杯飲んでこの景色を楽しもうではないか」
そういってにっこり笑うと、杯になみなみと酒を注いで、しゃれこうべにそそぎかけた。
しばらくそうやって酒を飲んで、花を愛で、春の芳しい風の匂いを嗅ぎ、興に任せて葉二など吹いた。
その後、しゃれこうべに土をかけてやって、花を供え手を合わせると、博雅はまた一人、都への帰路についたのだった。

その帰り道のこと。
まだ、都までには程遠い野原の一本道に一人の女が立っていた。きれいな春の花をあしらった小袖を着た若い娘である。透き通るような肌をした大層美しい娘。
「こんなところに?」
馬に跨った博雅があたりを見回す。人の住む民家など、もちろん一軒も見当たらない。
「さては妖しか?」
それにしては、まだ昼を過ぎたとはいえ日はまだ高い。日の光を恐れ闇に潜む妖しにしては面妖な。
知らぬ顔をして通り過ぎようか、そう考えながら傍まで来た博雅に、女の方が声をかけた。
「もうし、お公家さま」
おやおや、先に声をかけられてしまった。これでは無視して通り過ぎるというわけにもゆかぬ。
真面目がとりえの博雅、妖しかもしれぬというのに律儀にも返事をした。
「なんだね、娘さん」
「お公家様は、この先の村をお通りになられますでしょうか?」
ずっと先にある村のほうに顔を向けて娘が尋ねた。
「ああ。来る時にあった村だな、うむ、通るがそれがどうかしたかね?」
博雅も釣られてそちらに目をやった。勿論、村はまだまだ遠くて屋根すら見えないが。
「ああ、なれば、どうか私をそこまで連れていってはいただけませぬか?」
娘が、藁をもすがるような面持ちで、馬上の博雅を仰いだ。
「私が?」
驚く博雅、人に見えるが、どうやら人外らしき雰囲気の娘にやや警戒する。可憐なおなごのように見えても、その中身まで可憐な娘とは限らない。ヘタに後ろに乗せたりしたら、背後から、がぶりとかぶりつかれるやも知れぬ。
「娘さん、そなたには立派な足があるではないか。村まであと半時も歩けば着こう。天気もよいことだし、歩いてゆかれればどうじゃ」
元来お人よしの博雅にしては、頑張ってそう言った。
ところが。
娘がよよ、と泣き崩れた。
慌てる博雅。
「お、おいおい。どうしたのだ?そんなに歩くのがつらいのか?」
妖しかもしれぬことを忘れて、博雅は思わず馬から飛び降りて娘のもとへと駆け寄った。
娘が顔も上げずにさめざめと泣く。
「私が悪かった、泣くでないよ。」
困った博雅が娘の肩に伸ばした手が、すうっとその身を通過した。
「おう…!」
突き抜けた腕をあわてて引っ込めて、博雅は目を見張る。
「そ、そなた…現し身ではないのか…」
「はい、そうでございます。」
泣き濡れた娘が博雅を見上げた。
「私は、あなた様が先ほどささを下さった骸にございます…」
「なんと…」
 
驚きから覚めた博雅が娘に聞くところによると。
娘はこの先の村の出であるという。三年前の大歳の日、奉公先の公家の屋敷からいとまを頂いて父母(ちちはは)の待つ村を目指していたそうだ。
が、村まであともう少しというところで、急な病いに倒れ、この誰もいない野原で死んだのだという。風のうわさで、父母が未だ自分のことを探していると聞き及んだけれども、この地に縛られて、帰ることも成仏することもかなわず、娘は今日の今日まで一人寂しく嘆き悲しんでいたのだった。
そこへやってきたのが博雅だった。
娘のしゃれこうべを拾い上げてくれて、優しい言葉をかけて、さらに酒を振る舞い、天上の笛を聞かせてくれた。
天にも昇る心地であったという。
今までにも娘のしゃれこうべを見つけてくれた人はいくらかいたが、そんなことをしてくれた人は、ただのひとりもいなかった。
このお方なら。
娘は思ったのだった。
自分を父母の元へ連れて行ってくれると。

「どうか、どうか、私を父母の元へとお連れくださいませ。私だけではこの野を出ることすらかなわぬのです。」
涙に濡れた瞳で、娘は博雅に懇願した。
女に泣かれると弱い博雅、思わずうなずいてしまった。
「う、うむ、わかった。私がそなたを親元へ連れていったやろう。」

「あ、ありがとうござります…なんとお礼をもうしてよいのやら…」
ワッ、と娘が泣き伏す。
触われもしない娘の背中のあたりをそっとなでるようにして、博雅は小さく苦笑した。
これも人助けだ。(まあ、もう死んでいるが)

娘のしゃれこうべを懐に入れて、博雅がその野原を出ようとしたときである。
「その娘をここから出すことはかなわぬ!」
今度は道を遮る大男がふたり。手にした長い棒でかけをして、道をゆこうとする博雅たちを止めた。もちろん、さっきまでそんな輩など、影も形もなかったのだが。
「今度はなんだ」
すんなりゆかないなあ、と博雅はため息をひとつ。
「われらはこの野の門番である。その懐に隠れている娘はわれらが主の妃(ひ)である。勝手につれだすことはまかりならぬ!」
フン!と鼻息も荒く片方が言った。
「そうだ、この先をゆきたいのであれば、娘をおいてゆけ!」
ぎろりと三白眼を光らせて、もう一方が言った。
娘のしゃれこうべが博雅のふところでカタカタと震えた。
「なるほど、そんなに遠くもないのに、そなたが帰れぬわけはこれか。」
怖そうな門番を前に、さて、どうしたものかな、と博雅は頭をかしげた。 
 「この娘は親御どのところに帰りたがっておる。お前たちのあるじが何者かは知らぬが、帰してやらなければ可哀相ではないか。」
ふところを押さえて博雅は言った。

「ならぬ!」
「ならぬ!」

二人の門番が声を揃えて、割れがねのような大声で答えた。

「娘をおいてゆけ!」
「娘をおいてゆけ!」
「困ったなあ」
今にも飛び掛ってきそうな、血走った四つの目玉に睨みつけられて博雅は、う〜む、と唸った。
こいつらこそ、まさしく妖しだろう。このような何もない野原に、門番などいるわけが無い。
野原に巣食うものといえば、鼠か地蟲か。
どうせ、そんなところだろう、とは思うのだが、これほど日の高い内から現われて止めるとは、蟲だかなんだか知らぬが、娘に対しての執着は度を超したものがあると見えた。
晴明でもいれば、簡単に追い払うだろうに。
と、思ったところで、あっ、と思い出した。
ごそごそと袖の中を探る博雅。その指先が目的のものに触れた。
「あった、あった」
にっこりと笑って博雅が袖の中から引っ張り出したのは、複雑なしるしや文字が模様のように書かれた、細長い一枚の紙切れであった。
「ん?」
「ん?」

二人の門番が目を眇めてそれを見つめた。

「なんだ、それは?」
「なんだ、それは?」
「い〜いものさ。」
さらににっこりと大きく微笑むと、博雅はそれを酒の残る瓶子に細く筒状に丸めて突っ込んだ。それから一振り二振り、瓶子を揺すり、
「ほれっ!」
立ちはだかる二人の屈強な門番に向かって、中身を、ぱしゃぱしゃっ、と、弾き飛ばした。
じゅわっ!
「うわわわあっ!」
「うわわわあっ!」
酒のかかったところから蒸気のような白い水煙が上がって、二人の門番が悲鳴を上げて飛び上がった。
「ひいいいっ!痛い痛いっ!」
「熱い熱い!ひいいいいっ!」
痛いやら熱いやら、大騒ぎである。
そのうちに大柄な二人の身体が縮み始めた。
しゅわしゅわしゅわ…
ぶくぶくと泡ぶくを立てながら、あれよあれよと見る間に縮み、やがて小さな蚯蚓(みみず)のような蛇に姿を変えた。先ほど博雅が振りかけた酒でできた小さな水溜りに、二匹の蛇がビタビタとのたうつ。
「なるほど、門番は蛇であったか。」
一匹の蛇を指で摘んた。
「おぬしらのあるじには悪いが、この娘は連れてゆくぞ。親御殿のところまで送ってやると約束してしまったものでな」
そういうとその小さな蛇を草むらに放してやった。
妖しなのだから頭でも潰してしまえばいいものを、この博雅という男、無駄な殺生は性にあわないのである。(…こういうところが往々にしてトラブルを呼ぶのだが、それも恋人の晴明に言わせると可愛いところになるらしい。)
とにかく博雅は、娘のしゃれこうべをふところにして、蛇の門番が立ちふさがっていた野原と山道の境目を馬で駆け抜けた。
 
「あ、あそこでござります!」
博雅のすぐ傍で声が聞こえた。博雅が声のしたほうに視線をやってみれば、先ほどの花の小袖を着た娘が、馬上の博雅のすぐ脇に浮かんで立っていた。
「あの大きな家がそうか?」
村の中で一番大きな構えの屋敷を指差して、博雅が聞いた。
「はい、さようにございます。」
「立派な屋敷ではないか。」
博雅は首を傾げる。
「あのように立派な家屋敷を持っておれば、そなたは都などに登らなくとも暮らし向きに不自由などなかったであろうに。…何ゆえ、都などに?」
「それは…」
娘が言いよどむ。どうやら何かわけがあるらしい。
屋敷の近くまで来ると、急に娘はそわそわとしだした。
「どうした?」
怪訝に思って博雅が尋ねると。
「なんでもございませぬ…。が…お公家さま、どうか先に行って家の様子を、少し見てきてはいただけませぬでしょうか」
手を揉みしだきながら、言いにくそうに娘は言った。
「私が先に?」
「ええ、あ!そのままで行ってくださいとは申しませぬ。私があなたさまのお姿を消しますゆえ、そうっと覗いて中の様子だけお教えくださいまし。どうかお願いでございます。」
なぜこっそり見てきてほしいのか、と博雅が尋ねても、どうかどうか、と言うばかりで娘はそのわけを決して話そうとはしない。あれほど、早く父母に会いたいと言っていたのに、不思議なことであった。
これを持っていらっしゃれば、姿が消えて見えなくなります。そういって、娘は自分が着ている野の花の模様の小袖の片隅を、びりり、と破って博雅に渡した。

「なるほど、本当に見えなくなっているようだ。」
心の中でそう呟いて、小袖の切れ端を手にした博雅は、すぐ目の前をこちらにまったく気づくようすもなく通りすぎる村人を見送った。
先ほど見えた村一番に大きな屋敷に着いた博雅。娘に教えてもらった通り、母屋の横手を回り、家屋に囲まれた中庭と思しき開けた場所に出た。そこの庭先から屋敷の中の様子が見えるはずだとのことだったが、果たしてその通りであった。
家の中はひとでいっぱいだった。
どうやら、今日この家には、親類縁者の者が大勢集まっているようである。
濡れ縁の端に腰をかけて博雅は中の様子をうかがった。

娘がどうしても見てきてほしいというのは、いったい何なのだろうか。
広間の奥にふたりの年かさの男女が座っているのが見えた。周りの人間の様子からすると、どうやら娘の両親のようである。そしてそのすぐそばには、袈裟をかけた坊主が一人座している。その坊主に向かって両親が深々と頭を下げる。
博雅の座ったところまで声が聞こえた。

「娘が行方知れずになって今日でちょうど三年でございます。探せど探せどどこにいるのやら…、きっと、もう…」
母親と思しき初老の女が涙混じりに言った。
涙を浮かべる妻に、隣に座した父親と思しきもう少し年のいった男が言う。
「おまえ、もう泣くでない。こうしてお坊様が来て尊い経を上げてくださったのじゃ、あの子もきっと今頃は喜んでおる」
その様子を見ていた博雅、
(よい親御どのではないか、いったい、あの娘は私に何を見てきてほしいと思ったのか?)
そう思って、頭をひねった。
まあ、もう少し様子を見てみるか。きっとわけあってのことだろうし。
やがて、そうこうするうちに親族を集めてのささやかな宴が張られた。酒と馳走の盛られた皿が並ぶ。初めは静かに始まった宴も、酒が入る内にいつの間にか娘のことはさておいて、だんだんと賑やかになっていった。
親族とはいえ、人の家の不幸など知ったことではないということなのだろう。
やれやれと博雅は肩をすくめる。ざわめく宴など見ていてもらちもない。何を見てきてくれと娘が言ったのかはわからないが、これ以上ここにいてもしょうがないだろう。博雅は腰を上げた。

もう日も影りはじめた。娘をこの屋敷まで連れてきて早く都まで戻らねば。
ガシャン!
何かの割れる音がした
なんだ、いったい?と、博雅がそちらに顔を向ける間もなく、誰かの罵声がその後に続いた。
「何をやってるの!!」

さっきまで涙を浮かべていた娘の母親が、鬼の形相で甲高い声を荒げた。

「この愚図がっ!この皿はお前などより、もっと高い値打ちのあるものなのだぞ!」

恐ろしげな大声で、今度は娘の父親も、皿を落として割ってしまった下女を怒鳴りつけた。
割れて粉々になった皿の欠片を必死にかき集めて、下女が「申し訳ございませぬ、申し訳ございませぬ」と泣きながら謝るのにもかかわらず、屋敷の主人夫婦の激しい叱責は止まらない。
「どうしてくれるのだ。それは、都から取り寄せた、そりゃあ珍しい唐渡りの上物だというのに」
「この分はおまえの給金から差っぴいとくよ。まったく…これだからお前って子は」
いつまでも、ねちねちと続く叱責に、さすがの博雅も顔をしかめた。
最初は怒りから始まった叱責が、いつの間にかこの下女に渡す給金を渋る話にすり替わっている。
「おやおや、また始まったよ。」
「あいかわらず金に汚い夫婦だ」
「まったくじゃ」
下女を怒鳴りつける主人夫婦に、集まった親族の者たちが酒の杯を片手に、ひそひそと噂しあう。
「今日だとて、誰がどれだけ布施の金を持ってきたか、こそこそ喋っておったよ。」
「坊主に渡す布施だとか言うておるが、どうだかな。おのれらの懐に入る金子のほうが多いのではないか」
「この酒にしても水で薄めてでもあるのだろ、不味いもんだ。」
一人が顔をしかめて杯を開けた。
「ま、渡した布施分ぐらいはせっせと食っていかんとな。」
「そうじゃそうじゃ、どうせ帰りに何か持たせてくれるわけでもないに決まっておるからな」
なるほど、そういうことか。
ようやく博雅は納得した。
 
博雅が村の外れまで戻ってくると、松の陰から娘が不安そうな顔を覗かせていた。
「どんな様子でござりましたでしょうか?」
「うむ、今日はそなたが行方知れずになってから、ちょうど三年めにあたるらしいな。親御どのが坊主を呼んで、そなたのために経を上げてもらっておったぞ。」
今来た道のほうを振り返って博雅は言った。
「まあ、父さまと母さまが私のために…」
「なかなかよい親御どのではないか。」
にこりと微笑む博雅。
「私のためにお坊様を…。あの…それだけでござりましたか?」
「というと?」
「その…」
娘は下を向いて手を揉み絞る。その様子に博雅はぴんときた。先ほどの様子を、この娘はもうすでに予感しているのだということに。
「あ〜…なんだ、その、こういう言い方がよいのか悪いのか、私にはよくわからないのだが…」
博雅は娘とは逆に空を見上げる。
「そなたの親御どのは少々感情的だな」
「…!」
バッ!と娘が顔を上げる。
「やっぱり言い方がよくなかった…かな?」
娘の今にも泣きそうな瞳に見つめられて、博雅は困ってしまった。
「いえ!いえいえ!お公家さまの仰られるとおりでございます。」
激しく首を振って娘は博雅の言葉を止めた。
「私はすっかり忘れていたのです…。あのような死に方をして寂しくて寂しくて…その上、あの地の妖しに捕らえられて成仏することもかなわず…」
娘の青い唇がふるふると震えた。
「それが思いもよらぬあなた様のやさしい心に触れて、矢も立てもたまらず助けを乞うてしまいましたが…」
見る間に娘の瞳に涙の粒が盛り上がる。
「長い月日、わが身のことばかりを心配していたばっかりに、私は父と母が本当はどのような人たちだったかを失念しておりました…、私を傷つけまいとするおあなたさまのお心、本当にうれしゅうございます。でも、お公家様がお察しのとおり、父と母はとてもとてもけちなのです…恥ずかしいほどに。」
人としての姿をなくしてしまったものは、生きているころのことはあらかた忘れて、自分の思いだけが何よりも残るという。
その点ではこの娘もご他聞にもれなかったのであった。
風のうわさで父母が自分のことを心配していると聞き、毎夜毎夜そのことばかりを思っていたせいで親の本当の姿を忘れていたのだ。が、村が近づき、昔、見慣れた田畑や家並みが見えてくると、急に生前のことを思い出したというわけだ。
 
 
「やはり、私は家には帰りません」
娘がしょんぼりとうなだれる。
「帰って父母のあさましい姿など見たくございませぬ。」
もう成仏など望みませぬ、と言って、娘の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「ああ、泣くでない。」
博雅がなだめる。
「私がなんとかしてあげよう。」
後先も考えずに、またしても、つい口をついて出た。
 
 
約束した手前、もう引っ込みがつかない。
娘を後ろに従えて博雅は再び屋敷を訪れた。今度は博雅は普通に見えているが、後ろの娘は誰にも見えないかった。もちろん、博雅にも。
「もうし、誰かおられぬか」
屋敷の入り口に立って博雅は誰何した。
はいはいと言って出てきたのはここの主人の妻、娘の母親であった。このような田舎家に突然に現れた博雅の姿に驚く。
いつもとは違う簡素な狩衣を身に着けていても、博雅が身分のある人間だというのは一目瞭然だ。
きりりと濃い眉とすっきりとした広い額、涼やかな瞳。いくら大きいとはいっても、田舎家にはあまりにもそぐわない貴人の雰囲気を博雅はまとっていた。
「あ、あの…」
見るからに身分の高そうな博雅に母親がうろたえる。
「ああ、すまぬ。私は怪しいものではない。源博雅というものだ。実はそなたの娘御のことで話があるのだ」
「娘?」
母親がさらに驚く。
「娘はここにはおりませぬ。あの子は3年前に行方知れずに…」
「知っておる。本人に聞いたからな」
そう言って博雅は後ろを振り返った。つられて博雅の後ろに目をやった娘の母親。目を間円に見開いてあまりの驚きに腰を抜かしかけた。

「母さま…」

そこには、長い間行方知れずになっていた娘が、青い青い顔をして立っていたのだから。
「お、おまえ…」
博雅を押しのけて娘の元へと走りよる母親。いくら金に汚くても、そこはやはり母であった。
が、博雅の時と同じようにその手が娘を突き抜けた。
声もない母親に博雅が言った。
「残念だがそなたの娘はもうこの世のものではないのだよ」

後から出てきた父親と母親の二人に、博雅は今まであったことを話した。
都からの帰り道に病いに倒れて儚くなったこと、死んでなお、妖しに捕われて成仏できずにいたこと…。
二親を前に押し黙ってしまった娘に代わって話した後、
「だが、そんな目にあっていたのに、そなたらの娘は、今はもう家には帰りたくないと言っておるのだ。なにゆえかわかるか?」
通された奥の間で博雅は言った。
「…」
娘の両親は黙っていた。
「わかりませぬ…」
ようやく搾り出すように父親の方が言った。
「私どもはいつでもあの子のためを思ってやってまいりました、なぜ、戻りたくないなどと…」
家に戻れば位の高い坊主を呼んで最高の供養をしてやりますのに、と母親も泣いた。
「位の高い僧を呼んで、徳の高い経をあげてもらっても、そなたたちがそれに値しなければ、御仏のこころはただ屋敷の中を通り過ぎてゆくだけのだよ。」
「それはどういう…?」
「そなたらは少しばかり…いや、かなり、金や物に対しての執着が強すぎはしないか」
それがあの娘はいやなのだよ、と博雅はやさしい口調で言った。
「いくら坊主を呼んで経を唱えようと、そなたたちの心が金品にへばりついていたのでは、あの娘も成仏しようにもできぬというものだ。」
博雅の言葉に、両親は何も言えずにただ泣き崩れるばかりであった。
 
 
「まあ、そういうわけで娘はそのあと、ようやく親たちとも話してな。お互い泣くやらなにやら大変なさわぎであったよ。」
博雅はそういって、はははと笑って杯を傾けた。
ここはかつて知ったる陰陽師の屋敷の濡れ縁。とっぷりと日が暮れてから帰ってきた博雅、晴明が屋敷に戻っていると知って、今日の話をしようと訪ねてきたのであった。
が、面白い話をしたと思っていた博雅、向かいに座る男の反応がないのに、ハタ、と気づいた。
「あ、あれ?」
杯を持ったまま晴明に目を向けた。
「どうした、晴明、よいことをしたと言ってはくれぬのか?」
「悪いことをしたとは言わぬがな。」
無表情に、というよりはムッツリとして白皙の陰陽師は答えた。
「なんだ、その言い方は」
こちらも少しムッ、として博雅が答えた。
「俺がいないばかりに、また妙なものと関わりおって。」
「し、しかたがないではいか、おまえは帝に呼ばれておったのだから。」
「俺はあの男のところなど行きたくなかった」
切れ長の目をギロリと光らせる晴明。
かなり怖い。
「い、行きたくないなどと。帝のお召しだぞ。行きたいも行きたくないもあるか、行かねばならぬのだ」
帝命の博雅が強く言う。
「それでも行くべきではなかった。…おまえがこんなものを連れてくるぐらいならな」
そういうと晴明は、庭に向かって手にしたかわらけの杯を投げた。
 
パシィッ!
 
「ギイイイッ!!」
あたりに響き渡る大きな悲鳴。
 
えっ?と、びっくりする博雅の見ている前で、晴明の庭に黒い影がむくりと起き上がった。
 
しゅうう…。
 
頭をもたげた黒い影。
それはとんでもなく大きな蛇であった。大の大人で一抱えもあろうかという太い身が、まるで柱のように晴明の庭に立ち上がる。ぬらぬらと光る体にびっしりと並ぶ細かな鱗が、月の光を浴びて禍々しく光った。
「ギ…ギギギ…」
鋼がきしむような音を立てて蛇が体を苦しげに捻る。
よく見れば、燐光のように黄色く光る瞳の片方がつぶれている。晴明の投げた杯が割れてその目にぐさりと突き刺さっていたのだった。
刺さった杯の下から、だらだらと夥しい血が流れていた。
 
「おのれ、陰陽師!よくも我の目を…っ!」
ばくりと端まで裂けた口を開けて、蛇がひとの言葉を話した。
「そのようなところに潜むおまえが悪い。」
晴明が瞳を細くして言った。
「私の屋敷にもぐりこむとはふざけた蛇め。もうひとつの目も潰されたくなかったら、さっさとここを立ち去れ。」
蝙蝠を手に晴明がゆらりと立ち上がる。
「我はそいつに用がある、ここを立ち去るわけにはゆかぬわ。それにこの目の代償もいただかねばならなくなった。そこの男の命とお前の目。そのふたつ、貰い受けようぞ。」
蛇の大きな口から、先が二つに裂けた舌がしゅるしゅると音を立てて出入りする。
「せ、晴明。こいつはいったい?」
博雅も立ち上がって晴明に並ぶ。その手にはすでに抜き身になった大振りの太刀。
「おまえの後を追ってきた蛇だ。」
「俺の?」
「おまえ、先ほど言っただろう、野原で二匹の蛇を追っ払ったと。」
「あ、ああ」
確かに言った。博雅はあの野原の入り口を守っていた小さな蛇の妖しを思い出した。
「そいつらの主がこいつだ。おまえに妻を取られて怒って追いかけてきたのさ。」
「それは逆恨みというものだ。娘は人の子、いくら死んでしまっているとはいえ妖しの妻になどなるものではない。」
博雅は、そんなのは当たり前ではないか、とこれもまた、怖いもの知らずに蛇の妖しを睨みつけた。
「あの娘は父母の下に帰りたがっておった。それをあのような淋しい場所に引き止めおって。どう考えてもおまえのほうが悪い。私をおいかけるなど筋違いもいいところだ。」
「うるさい!あれはわが妻、我の妃じゃ!」
この蛇の妖し。博雅たちの後を追って娘の家を訪ねたのだが、そのころには博雅の口ぞえに寄って心を入れ替えた父と母の姿に満足して、この世に何の未練もなくなった娘は、坊主の読む経に乗って成仏してしまった後だったのだ。
娘を取り返すことのできなかった蛇は怒りのあまり、博雅の匂いを辿ってここまで追いかけてきたのであった。
「あの娘の腐れた肉をすべて食って、残った骨を綺麗にしてやったのは我じゃ!苔などつかぬよう、泥などに汚れぬよう、毎日毎日綺麗に舐めてやったのは我じゃ!その我が妃をよくもっ!!」
カッとあけた口に光る長い牙から、毒液が博雅に向かってビュッ!と飛んだ。
 
「うわっ!」
間一髪で毒液をよける博雅。その顔のすぐ脇を飛んだ毒液が後ろの几帳にかかった。じゅわ…と絹の布が破れて溶けおちる。
あんなのかかったら堪らないな、と首を振る博雅の視界を白い袖が遮った。
「晴明?」
「私の博雅に牙を向けるとは…」
晴明の紅い唇の端がクイと上がって。
「許すわけにはゆかぬな」
低い声が言った。
「許すわけにはゆかぬだと?それはこちらの台詞じゃ。」
蛇の妖しが、牙の先端から毒液をぼたりぼたりと垂らしながら言った。
「ぬしらこそ許すかっ!」
蛇が再び鎌首をもたげ、今度は博雅と、博雅を庇うように立つ陰陽師の二人をねめつけた。
「今度は二人まとめて縊り殺してやる。そしてぬしらの首をを我が屋敷に飾ってくれるわ」
「言いたいことは、もうそれで終わりか?」
静かな冷たい目でそう言うと、晴明は立てた二本の指先の影で小さく呪を唱えた。
それから片手を伸ばし、庇まで届いている庭木の葉を一枚引きちぎるともう片方の手のひらに乗せた。
「斬れ」
静かに命ずる。そして木の葉の表を人差し指でスッと撫で、襲い来る蛇の妖しに向かってふっと吹いた。
晴明の息に乗って、木の葉がサアッ、と空気を裂いて飛ぶ。葉は少し上に向かって飛んだと思うと、くるりと輪を描いて反転し急に速度を上げた。その勢いのまま葉は蛇の首に向かった。
「あっ!」
博雅が驚きの声を上げるのとほぼ同時に、妖しの悲鳴が上がった。
 
「ぎゃああああっ!!」
 
空気を劈く鋭い叫びとともに蛇の首がすっぱりと胴体から引き離れて飛んだ。
 
ところが、ことが終わって見てみれば、ドウと土ぼこりをあげて崩れ落ちたはずの妖しの姿が見当たらない。
「おい、晴明、さっきのヤツはどこに行ったのだ?」
庭の端の方にまで目をやっていた博雅が聞いた。
「そこだ。」
晴明はすぐ足元を指差した。
「え?」
博雅は晴明の指差す足元を見下ろす。
「なんだ、意外にちっちゃかったんだな」
思わず拍子抜けした声が出た。
地面に落ちていたのは、首が断ち切れた少しばかり大きいだけの一匹の蝮であった。
「だから長虫だと言ったのだ。こんなのは大蛇とは言わない。それにしても…」
晴明がじろりと横に立つ博雅を見る。
「な、なな何?」
視線にうろたえる博雅。
「妖しやら亡者やら…。おぬしに少しばかり話がある」
言うなり、晴明は博雅の左耳を引っ張った。
「イタ、イタタッ!せ、晴明、痛いっ!」
「うるさい、黙ってついて来い」
晴明は振り向きもせずにそう言って博雅を屋敷の奥へと引きずって行った。
たかだか原っぱの蛇ごときに、機嫌の悪い陰陽師の相手などハナから無理な相談なのであった。
 
 
「ちょ、ちょっと待て、晴明!」
塗込の奥に追い詰められる博雅。角の柱を背に両手を上げて晴明を制する。
「な、なんで俺が追い詰められなければならんのだッ?」
「ほー、心あたりがないとぬかすか、博雅?」
 
 
 
       続く。


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