「春の檻」(2)




「それにせっかくのお客様。私の自慢の桜酒を是非とも召し上がってくださいませ」
「う、うむ」
 
すこし躊躇った博雅であったが無事にもとの場所に帰れると知って桜酒に手を伸ばした。


 
「博雅さま博雅さま、起きてくださりませ」
宵春の造りに体をそっと揺すられて博雅は目を覚ました。
「う…ん」
重いまぶたをようやくのことで開けると板戸の隙間から見える外が明るい。
「む…、なんと、もう朝か」
山道に迷って疲れていたのか、いつの間にやら寝込んでしまったらしい。俺としたことが、と博雅は重い体を起こすとボウッとした頭を振った。ところが宵春の造りは博雅が吃驚するようなことを言った。
「いえいえ、もうそろそろ夕刻にございますれば、どうか昨日のお約束どおり笛をお願いいたします」
「えっ!夕刻?」
驚いて目を見開いてよく見れば、確かに明るいとはいえ、差し込む日差しがもう翳っている。
「ま、まさか、私は一日中寝ていたのか?」
「はい、昨夜はすっかりお酒をお過ごし召されたようでございますね、それはそれはぐっすりとおやすみになられておりましたよ」
そういって宵春の造りはくすくすと笑った。笑えないのは博雅のほうである。
「う、ううむ」
いくら疲れて酒を過ごしたとはいえ、丸々一日寝込けたことなど一度もない。それにそんなに酒を過ごしただろうか…。
覚えが無い。
 
「それよりどうかお笛を。日暮れまでさほど時がありませぬゆえ」
 
何かおかしくはないかと頭を傾げる博雅を宵春の造りがせかす。
 
お早くお早く、とせかされた博雅、先ほどのことを深く考える暇もなく桜の木々が並ぶ山間へと足を運んだ。
「まずはこのあたりでよろしゅうございましょう。さあ博雅さま、お笛を。」
「あ、ああ」
そう言って顔を上げて見上げれば、美しくはあるが確かにいくらか桜色というには少々色の薄い花々が目に入った。
「確かによく見れば色が薄いような気もするが…本当に私の笛などでいいのか?」
「いまさら何を仰います。勿論に決まっているではございませぬか、お吹きになられてみればわかります。さあ。」
「そ、そうか…では、参る」
自分などが本当に役に立つのかと、少々心もとなかった博雅であったが、そこまで言われれば吹いてみるしかない。宵春の造りに向かって軽く頭を下げると、博雅は約束どおり心を込めて笛を吹き始めた。

ひゅるり…

はじめの一音が木立の間に響き渡る、と、辺りの空気がピィ…ンと張り詰めた。博雅はそんなことにまったく気づいていないようであったが宵春の造りにはそれがわかった。

ひゅるりるりるり…

午後の斜光と絡まり睦みあうように桜の木々の間を渡って伸びてゆく葉二の音色。風もないのに頭上の桜の木々がザワザワと枝を揺らし始めた。
「おうおう、ようやく目が覚めたか、おまえたち」
宵春の造りがそばに立つ大きな桜の木肌をなでてそっと言った。見上げた桜の花々がまるで大きな絵筆で新しい色を刷かれたように鮮やかにその濃さを増してゆく。
「昨日、遠くから聞いたときも素晴らしいと思ったが…」
木々の間を渡る澄んだ竜笛の音色に、ブルッと宵春の造りは体を震わせた。

「これは凄い…妖しならば一撃だ」

瞳を閉じて一心に竜笛を吹く博雅に、宵春の造りは魅入られたように目を向けた。

咲き誇る満開の桜の下で笛を奏でる博雅。伏せられた睫が、高貴な生まれを示す高い頬骨に影を作り、豊かな唇がくちづけのように柔らかく笛に押し当てられている。そして少し骨ばった長い指先が流れるようにその背を滑る。桜の木下ですっくと立つその姿はあまりに高貴で清浄として。
 
「よくこのようなお方がひとなどやっておるものだ…」
宵春の造りの美しい顔に困ったような表情が浮かんだ。

 
さて、一渡り桜の色が変わったのを見て取った博雅
「本当に花の色が濃くなったなあ。私の笛など力になれるのかと心配したけれども、よかったよかった」
笛を吹くのをやめるとうれしそうに色を増した桜を見上げて言った。
「天下に名高い笛の名手博雅さま、さすがにございます」
宵春の造りも明るい笑みを見せて答えた。
「はは、持ち上げないでくれ。天狗になってしまうではないか、私の力などではない、これのおかげさ」
そう言って手にした葉二に目をやった博雅、が、そこでハタと気がついた。見渡せばすでに日は落ち、あたりは暗くなり始めているではないか。
濡れ縁で待つ恋人の姿が脳裏に浮かんだ。

帰らなければ。
 
「さあ、もういいだろう。桜も綺麗に色づいたようだし、私はそろそろ帰らねば。」
 
そう宵春の造りに博雅は言った。
 
「ええ、そうですね。」
 
宵春の造りもにっこりと笑みを返してくれたのだが…。
 
「でも、まだ桜は沢山ございますれば、もう暫くお手伝い願えませんでしょうか」
そういうと山の上のほうを指差した。
確かに見上げれば山のてっぺんまで桜の木々が続いている。こちらほど満開に咲いているわけではないが、その花の色がまるで白のように薄いのは薄暗がりでもはっきりと見て取れた。
「ここらのあたりは綺麗になりましたが、あそこはまだ…」
「ううむ…確かに」
そういわれると、博雅にはなんだか色が薄くぼんやりとした桜の有様がまるで自分の責任のような気がしてきた。
「で、では今から」
葉二をぎゅっと握り締めて一足踏み出したところで、その博雅を宵春の造りが止めた。
「ああ、それはもういけませぬ。刻限を過ぎてしまいました。」
「刻限?」
なんだ、それは?と聞き返す博雅に宵春の造りは、桜たちは今から眠ってしまうのです、と答えた。
「桜の花の季節は短こうございます。この春のひと時のために長い冬の間に力を貯め、桜たちは一気に花を咲かせるのです。ですから日が暮れると力尽きて眠ってしまって笛の音も何も聞こえなくなってしまうのですよ」
ですから今日はもう無理なのです、と宵春の造りは言った。
「うう…む」
完全に困り顔の博雅。その博雅に宵春の造りはご心配無用です、と続けた。
「大丈夫でございますよ博雅さま、ここにいる間は外の世界の時は止まっているのも同然ですから、誰も博雅さまがここにいることはわかりませぬ。いくらお帰りが遅くなろうと誰も気づきもいたしませぬよ」
ですから明日また。と宵春の造りは穏やかに笑った。
 
 
…さてそれから幾日が過ぎただろうか。
もといた時間にもどれますから、今日はこのあたり、明日はあそこまで、と宵春の造りに頼まれるままに博雅は笛を吹いた。
まあ、それはまだいいのだ、まだ…(かなりよくない気もするが)。問題は、夜毎にこの世のものとも思えぬ美味な酒と馳走を振舞われ、いつの間にやら眠ってしまって目が覚めると既に翌日の夕刻、という日々が続いているということだ。
無理なお願いを聞いて下さっているのだからお疲れになられたのでしょう、とか、また少し酒を過ごされましたね、などと宵春の造りは言うのだが、いくらなんでもこれはおかしい。さては桜の酒のせいかと思って勧められるのを断るのだが、ではせめて一口、などと宵春の造りはさらに勧める。そしてそれを何故か断ることができないのだ。にこりと微笑んで瓶子を傾けられると、では一口、とついつい手が出るのだ。
そんなに俺は意志が弱かっただろうか?まさか、そんな筈はない…ハズ。
どうも宵春の造りのいいようにされている気がする。
宵春の造りは私は自然の精で妖しではないと言うが、これではどちらにせよ同じことだ。確かに宵春の造りが悪いモノではないのはわかるが…。
 
それと、さらにさらにもうひとつ困ったことがある。
桜の数が一向に減る気配がないのだ。
むしろどんどん増えているように感じるのははたして気のせいか?しかも満開に咲いているのに散る気配がまったくない。花びら一枚落ちてこないのだ。
宵春の造りは春の精だと言った。

…「春」の精?
…もしや
…この世にある桜すべてがここにあるのではないだろうな…。
 
だとしたらこの仕事は当分終わりそうにない。
…いや、下手をしたら終わりがない
…かも?
 
 
 
「宵春の造りどの」
勧められる弊子に手のひらを立てて遮ると博雅は切り出した。もう片方の手はその間を縫って杯を宵春の造りに差し出している、といった妙な格好だったが、この際そんなことには構っていられない。
「はい、なんでございましょうか?」
博雅の手のひらを避けて杯の方に弊子を傾けながら、宵春の造りはにこやかに答えた。
「酒はいらぬ。話を聞いてくださらぬか?」
「ええ、ええ、もちろん何でもお聞きしますとも。でもせめてその前に一献」
トクトクとほんのりと色づいた液体が杯を満たす。淡いが豊穣なその香りに博雅は一瞬、頭の芯がクラッ、とした。杯を持ったほうの手とは違うほうの袖で博雅はバッ!と鼻を覆った。この香りはかなりの曲者だ。
「おや、博雅さま。本当に召し上がらないのでございまするか?」
宵春の造りの柳眉が片方、ピク、と上がった。
「悪いがその酒はもう飲まぬ。それを飲むと、きっとまた私は正体なく眠ってしまう。そしてまた明日の夕暮れが来る。もう桜の花は十分に色づいたではないか。いい加減に私を元の世界に帰してくれぬか」
「おや、何を言われます。まだ博雅様に咲かせて頂きたい花はたんとございます。帰ってしまわれるなどとは仰いまするな」
「だが私には待っている友がいるのだ。」
「はは。これはまた異なことを。こちらにいればいつでも元いた時に戻れますのに」
瓶子を手に宵春の造りはくすくすと笑った。
「確かにそなたの言う通り元の時に戻れるのかもしれぬ。だが、ここでの私の時は流れているではないか。私は友に会いたくてたまらぬのだ。」
「そんなに大切なお方なのですか?友という方は」
少し機嫌を損ねたように聴く宵春の造りに
「誰よりも一番大事な友だ」
博雅はきっぱりと答えた。
「もしや…」
ことりと桜酒の瓶子を床に置いて、宵春の造りはちろりと博雅を見上げた。
「博雅さまが会いたくて堪らないというのは、友ではなく恋人なのではありませぬか?」
「う。」
宵春の造りにずばりと言い当てられて博雅の顔があっという間に真っ赤に染まる。
「おやまあ、大当たり。」
宵春の造りはそう言って少し小首を傾げると、その華奢な体を博雅のほうににじり寄せた。
「そのようにお顔に全部出てしまうなんて、博雅さまはなんてお可愛いのでしょう。少し妬けてしまいますね」
「妬けるだって?何を言わ…わわっ!」
博雅の胸元に女性(にょしょう)のようにしなだれかかる宵春の造り。突然のことに驚く博雅の鼻に、宵春の造りの髪から立ち昇った桜の花の匂いが香る。桜の酒よりもずっとずっと濃い香り。
「その方のもとにお帰りにならなくても、ここには私がいるではござりませぬか。どうです?博雅さまのお手で私の花を咲かせるというのはいかがでござりましょう?」
「な、な…??」
くらくらする香りと、女性もかくやと思われるほど艶めいたひとみで見上げられて、明らかに誘われた博雅、この手のことにはほぼ免疫がないだけにどう対処していいのやら言葉も出ない。
「花の為に一生懸命心を込めてお笛をお吹きになる博雅さまはとても素敵でございました。その凛とした気高いお姿…人などにしておくにはあまりに惜しいお方。私と契ればあなた様も私と同じになることができます。」
自分の狩衣の袷に手を入れると、宵春の造りはその雪のように白いすべらかな胸を博雅の前に曝した。
 
「あなたと一緒ならば桜も私もこれほどうれしいことはございませぬ。ともに永遠の春を生きようではありませぬか。」
「そ、そんなわけにはゆかぬ!」
衣に滑り込む宵春の造りの手を退けながら博雅は必死に言った。
「お、俺には誰よりも大事な奴が…!」
「どうせ友というのは例の陰陽師でございましょう?そのような陰陽師ふぜいなどより私のほうが何倍も博雅さまにふさわしゅうございます。さあ…博雅さま」
白く華奢に見えたはずの宵春の造りの手が、がっしりと博雅の両頬を掴む。迫りくるその美しい顔、赤い唇。

と、そのとき、ガタン!と大きく庵の板戸が開いた。
 
驚きに固まった博雅と片肌はだけた宵春の造りがそちらに振り向くと、そこに三人の若者が立っていた。いずれも宵春の造りと見劣りのしない、どこぞの貴族の令息のような見目麗しい姿のものたちである。
これ以上、いったいなんなんだ?と博雅がパニくる中、その中の一人が麗しい顔に似合わない険しい声を上げた。
 
「宵春!おぬし一人だけよい思いをしようとは何ごとぞ!」
残りの二人が険しい表情で、そうだそうだ、と声を揃えて頷いた。
「よい思い?何を言っているのですか初冬。そなたたちこそ人の屋敷に招きもせぬのにあがりこんで突然の罵倒、そちらこそいったい何事です」
はだけた襟を直しながら宵春の造りは冷たい声で答える。
「ここに天に愛でられた楽師がいるそうではないか。その楽の音を聞けばボケた桜が色を増すという話を聞いたぞ!」
「昨今はどの季節も木々や花々はぼんやりとして色づかぬ。われらが天部の神の御鞍を色づかせるのにどれほど腐心しているか、おぬしとてよく知っておろうが!」
「なのに一人だけ抜け駆けするとは卑怯じゃ!」
詰め寄った三人がそれぞれに宵春の造りを指差して糾弾する。が、宵春の造りは白々しく答えた。
「ハッ!なんのことやら?私はいつものとおり桜酒を木々に振舞っておるだけ。抜け駆けなどとは言いがかりも甚だしい。そちらのところの花の色が悪いのはそなたらの心がけが悪いせいではないのか?」
「な、なんだとっ!!うそをつけ!楽師の奏でる楽の音は私の季のところまで聞こえてきたわ!」
その言葉にカッときたらしい一人が怒声を上げた。
「私のところの椿もその音が聞こえているところは今までで一番色濃く色づいたぞ!」
一番初めに声を上げた若者も顔を赤くして怒鳴った。
「椿」だって?

もしや、冬?
黙って傍らで聞いていた博雅。どうやら今やって来た三人がほかの季節の精らしいと気づいた。
…ということは。
たまたまここに紛れ込んだが、どうやらここは外の世界が春だから春というわけではないらしい。
まさしく春の世界。
さっき、宵春に造りが言った…「永遠の春」
一生、笛を吹き続けても桜の花は減らない。
 
博雅は懐に葉二があるのを確かめると、そう…っ、と後ずさった。
 
 
あとはどこをどう走ったものやら。
気づくと周りに桜の花が見えなくなっていた。
代わりに天を覆うのは透き通るような美しい緑の若葉であった。
 
 
「ほー、それがあなたさまが行方知れずになったことの顛末でございますか」
「まあ…な。」
目の前に男の視線が痛くて博雅はごにょごにょと答えた。
こちらを睨んでいる男の屋敷の庭はもうすっかり皐月の季節である。桜の木も花はすっかり落ちて今は鮮やかな緑だ。
「元いた時に戻れると言っていたのだがな…」
「それはその春の精がそうしようと思えば、という条件での話しです」
「あ、そうなのか?」
「…まったく」
へえ、とのん気に驚く博雅に、目つきの悪くなってしまった陰陽師は肩を落とした。この男には怒るだけ無駄というものだ。何しろ何をやっても邪気がないのだから。
春の精なんぞに気に入られて帰れなくなったなどという話は聞いたことがない。自然の精なんて神の次ぐらいに人には手の届かぬ存在だ。
いやあ、実際なんとか帰れてよかったよ、なんていいながら旨そうに酒を飲む恋人に都一の陰陽師はズイと顔を近づけた。
 
「博雅さま」
「な、なんだ?」
 
正面から名前を呼ばれて博雅は杯を持ったまま少し身を引いた。
 
「しばらく笛を吹いてはなりませぬ。」
「な、なぜだ?」
「そいつがいつまたあなたを取り返しにくるやもしれませぬ。しばらくは駄目です」
「で、でもそれは無理というものだ…」
月を見れば吹きたくなるし、風が香れば吹きたくなる、止められるものではない。
 
「そうですか…では、笛も楽も忘れるほどに私が呪を掛けて進ぜましょう」
 
 えっ、どうやって?と聞く間もないうちに、屋敷の奥へと博雅が引きずりこまれたのは当然と言えば当然のなりゆき。
 
 
 
「博雅様の肌に散る花びらのほうが、桜などより何倍も何倍も綺麗でございますよ」
 
うむむ、と唸る博雅の胸に散る紅い跡に晴明の白い指がツツ…と這った。


           了。





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「ちょいやば」に続きあります。