「雲 雀」





ピーピピピピー。
 
遠くで鳴くは雲雀か…。
 
彼は屋敷の濡れ縁に座っている。
 
白い狩衣を涼しげに纏い、唇に運びかけた杯を止めて鳥の鳴き声に耳を澄ますは、京の都にそのひとあり、と名高き陰陽師、安倍晴明である。
 
春だな…いや、初夏か…。
 
ピピピピピ…。
 
せわしなく鳴き続ける声。
手にした杯をコトリと床に置くと、晴明はフッと肩の力を抜いて柱の一本にその背を預けた。
見上げた空が抜けるように青い。夏の到来を思わせる入道雲が土塀の向うに盛り上がって見える。
 
この空のどこか高いところでさっきの雲雀は鳴いているのだな。
 
入道雲を背にして天高く羽ばたく小さな鳥の姿を思い浮かべた。
 
何を思って、天空にひとり鳴くのか…。
 
初夏の陽光に、晴明はそのまぶたを閉じた。
 
 
 
「晴…、なんだ、居眠りか」
 
かつて知ったる友の屋敷、案内がなくともいつもの濡れ縁にまで勝手に一人でやってきた博雅の三位、柱に背を預けて目を瞑る友の姿に掛けかけた声の音量を落とした。
 
「仕事もせずに昼寝とはいい身分だな」
たった今、内裏から下がってきたばかりの博雅、ブツブツ言ってはみるが、それ以上晴明を起こさぬように静かに正面に用意されている円座に腰を下ろした。
「勝手にやってるぞ」
たぶん自分のために用意されてあったであろう酒の弊子をとると、かわらけの杯に酒を注ぎ、一口啜る。
 
「ん、いい酒だ。またまたどこかから調達したな。」
ほう、と一息ついて、杯を眺め、瓶子の中を覗き込んで言った。
どこから手に入れたか目がさめたら聞き出さねばな、とこれまたひとりごちて。もう一杯酒を注ぐ。
 
ピピピピピーピピピ…。
 
遠くからまた、先ほどの雲雀の声が風に乗ってくる。博雅はハッと顔を上げて言った。
 
「お、雲雀だな。どこで鳴いてるのかしらんがよく通る声だなあ」
 
俺の笛とどっちが遠くまで聞こえるんだろうなあ、などと空を見上げて暢気に言った。
そうやって、しばらく空を見つめて雲雀の声など聞いていたが。
正面で微動だにしない男に目をやった。
 
 
「起きないなあ。また夜中に化け物退治でもしたかな」
そう言ってちょっと困った顔をした。確かに美味い酒だが、一人で飲んで雲雀なんぞの声を聞いていても、そうそう楽しくはない。
 
ここに来る楽しみはなんといっても、この屋敷のあるじに会えることにあるのだ。そのあるじが寝ていたのでは…。
 
「ちょっと抓ってみるかな?」
そう言って、円座からひざで一足、眠る晴明に近づいた。
ほんの少しのところに眠る晴明の顔がある。
目をつぶってもなお、整いすぎるほどに整った顔立ちに博雅は思わず見惚れた。
 
「…絶世の美人とはこういうのを言うんだろうな」
 
扇を広げたかのように長い睫毛、スッとまっすぐに通った鼻筋、紅を散らしたかのような紅い唇。白磁の肌。
 
「これが女ならばなあ」
 
はあ、と溜息をひとつ。
 
「それこそ、文を届け、花を贈って毎晩通うものを」
 
が、これは間違いなく男だ、しかも、かなりキツい…。
この綺麗な睫毛を上げれば、鬼も裸足で逃げ出すほどに眼光鋭く、花の唇を開けば怨霊もあっという間に祓われるほどの呪を紡ぐ。
 
「勿体無い」
 
目を瞑ったまま動かぬ男を前に、博雅はひとり、ぶつぶつ呟く。それからまた、円座に腰を落ち着けると、杯を取った。
 
「でも…」
 
一人でボッと真っ赤になった。
 
「いいか…このままで」
 
何を思ったか益々顔を上気させて、博雅は庭を見ながらハタハタと袖で顔を扇いだ。
 
「暑いな…」
 
 
「もう夏だからな」
 
博雅の独り言に返事があった。
庭に向けていた顔をあわてて声のするほうに向けてみれば。
 
「晴…!」
 
眠っていたとばかり思っていた男が、その切れ長の目を開けてこちらを見ていた。
 
「お、起きてたのか…」
「正確に言うなら、起こされた、だな。あんなに目の前でブツブツ独り言されれば誰だって目も覚めよう。」
「なっ…!ということは…お、俺の独り言を…」
「聞こえたな」
「なな、ならば、さっさと目を開けろよ」
「なかなか面白かったのでな」
目を覚ましたこの屋敷の主は、その赤い唇の端をちょっと引き上げて微笑った。
「お、おぬし、人が悪いにもほどがあるぞ!」
指を突きつけて文句を言いながら、博雅はいったい自分はなんと独り言を言っていたのかと、あわてて記憶を手繰る。
 
「俺が寝ていると勝手に決め付けたお前が悪い。…ところでだいぶあせっているようだが、、何を言っていたか、思い出せたかな?」
博雅が必死で記憶を辿るのを察して、晴明はさらに面白がって聞いた。
 
「お、俺はなにも…」
「おや、思い出せないのか?」
片方の眉をツイと上げてそういうと、晴明は柱から体を起こした。片手を床についてそのまま上体を博雅のほうへと引き寄せる。
 
「へえ」
「なななな…」
 
じわり、花のごとき笑顔で詰め寄られて博雅はわたわたと慌てた。
 
「だったら、せっかくだから俺が教えてやろう。」
「い、いらぬ!」
余計なお世話だ、とブンブン首を振る博雅を軽く無視して
「俺のことを絶世の美人と言っていたぞ、おまえは。女ならば夜ごとせっせと通うとな。」
くっつきそうなほどに至近距離の美貌。が、その目は少し意地悪だ。
「それから…」
「ま、待てっ!そ、それ以上言うな!」
何を言ったか徐々に思いだして、博雅は晴明の言葉を止めた。しかし、少し、いや、かなり意地悪い美貌の男の唇は止まらない。
 
「勿体無い、と。」
そこまで言って思わせぶりに言葉を止め、博雅の目をじっと見た。
 
「それから、最後に、やっぱり今のままでいいと言った。」
 
「わわわっ!い、言うな言うなッ!」
だあっ、と汗が浮く。
博雅は真っ赤になって声を上げた。
「それを聞いてしまった以上、狸寝入りを続けるなどできなくてな」
白皙の美貌の男は博雅と違って汗ひとつかかずに、ニヤリと笑った。
 
「どういう意味か、じっくりお教え願いたいな、中将どの?」
 
言いながら床についていないほうの手が伸び、博雅のあごを取る。親指が伸びて博雅の男の癖にぷっくりと膨らんだ下唇をキュッと押し下げた。
「ど、どういう…意味って…」
答える博雅、その息が少しばかり熱く荒い。
わずかに開いた唇の間から白い歯と桃色の舌先が誘うようにちらりと覗く。
晴明の目がわずかに細められて。
 
「俺が女でなくって、どうよかったのかな」
 
「そ、それは…と、友として…」
「それだけ?さびしいな」
「腹を割って話せる大事な、と、友だ、友!」
 
「ほー」
 
どきっ!
蛇に睨まれたカエルのごとく、博雅の息が止まる。
 
「この期に及んでそんなことを言うかね。そんなわからずやには、よ〜〜く教えてやらないとな。…一から。」
 
晴明の唇が博雅の唇に重なった。
 
 
 
ピーピピピピーピー…
 
どこか遠くの草原の真ん中の空高く。
 
かの声を聞きながら彼は目を瞑る。
 
 
天高くひとりさえずる雲雀は何を思って鳴くのか。
誰もいない空の上でひとり。
 
誰も登ってくることのない虚空でひとり。
 
…ずっと、ひとりだと思っていた。そして、それは仕方がないことなのだと。
誰も自分を想ってなどくれないと。
俺を探しに、何もない虚空まで登ってきてなどくれないと。
 
いくら、ないても。
 
でもそれは間違っていた。
確かに誰も登ってきてはくれなかった。
 
降りてきたのだ。
 
それはもっと高い天から。
 
空より虚空よりもっと高い天上から。
 
雲雀など比べ物にもならぬ天上の美しい調べに乗って。
 
 
 
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