秘書魂

  

彼の名は稀名明。
抜けるような白皙の面、少し茶色がかった切れ長の瞳にまるで紅を引いたかのような紅い唇。まるで女人かと見まごうほどのその美貌だが決してやわな感じではない。むしろその冷たい瞳は周りのものを怖がらせてしまうほどである。
まだ30代に入ったばかりの年齢にもかかわらず、彼は不動産やリゾート開発などを大きく扱う大会社を経営する若き社長である。
精力的に仕事をこなし、女性関係の噂の絶えたことのなかったその彼が変わったのはいつのことだったろうか。あれは二月ほど前の小さな京都のリゾート開発の話が発端だった。あの日から彼の生活が一変した。
今までの、仕事と女に明け暮れる生活が激変して、今では会社にも一カ月に何度か出てくるくらいだし、おまけに女の影がまったくといっていいほど消えた。秘書である吉本には信じられない思いである。確かに会社はきちんと利益を上げてしっかりと回っているがその社長の姿を会社で見ることはもうほとんどない。
「もしかしてもう会社をたたんでしまうおつもりですか?」
久々に出社した彼に思い切って問うと、いつもにないおだやかな顔で答えられた。
「う〜ん。それは私も考えないこともなかったんだけどね。恋人がそれはだめだというから、まず今のところは会社を処分する気はないよ、安心したまえ。」
その答えにも驚いたが恋人という言葉に一番驚いた。いったいいつの間に新しい恋人ができたのだろうか。いつもなら新しく恋人を作った時には花だの宝石だのと贈り物をこの秘書である私に頼むのに今回はそれが一切なかった。では、それも一人で?
「恋人…ですか?社長、いつのまに…?」
差し出がましいとは思ったが思わず疑問が口をついて出てしまった。あわてて口元を押さえたが出てしまった言葉はもう戻らない。きっと怖い顔でにらまれる、そう思ったのに。
「恋人…いい響きだな。ま、今のは聞かなかったことにするよ、私のプライベートなことだ。」
「は、はい。申し訳ございませんでしたっ!」
あわてて謝る吉本に稀名の笑う声が聞こえた。ついぞこの社長の笑い声など聞いた事のなかった彼女が驚いて顔を上げると、そこにはにこやかに笑う稀名の顔があった。その普段とは違うその表情に思わず見とれてしまった、とんでもなく美しかった。
「はは。そんなに恐縮するなよ、吉本君。これからは京都とこちらを往復する日々が始まるんだから君には頑張ってもらわないとね。」
「往復って?」
「私の大切な人が一緒に住みたいといってくれているのでね。これから京都に住むことになった。」
「えっ!?」
「まあ、しばらくの辛抱だが。いずれこの会社の基盤もむこうに移そうかと思っている。そのときはまたよろしく頼むよ。」
そこまで言ったところで稀名の携帯が鳴った。かかってきた相手を確認すると、その顔にこれ以上はないほどの笑みが広がった。携帯を耳に当てながら吉本にむかってひらひらと手を振った。出て行けという合図だ。秘書の吉本は驚きに胸をどきどきさせながらも低く礼をして社長室を出て行った。扉を閉める前に稀名の電話の相手と話す声が聞こえた。
「…そうか寂しいか?俺もだ、お前に会えないのがさびしい。今晩にはそちらに帰る。待っててくれ、博雅。」
しゃ、社長の相手って….
 
これは絶対口外無用!と秘書魂に火がつく吉本女史だった。


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