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いまひとたびの…(8)
テレビでは連日殺人事件の話題ばかりが報道されていた、既に全国区のニュースになっている。
それでも、相変わらず晴明はわれ関せずだった。
元々、世の中がどうなろうと気にしない奴だということはわかっていたので、これ以上博雅には何も言えなかった。
パソコンの画面を見ながら難しい顔をしている晴明に行ってくると声をかけ、博雅は学校へと出かけた。
今日は弓道部の練習試合があるので上賀茂の辺りまで行かなければならない。
帰ってくるのは日が暮れてからになりそうだった。
案の定、学校に帰り着いたのはもうとっぷりと日の暮れた時刻だった。
「帰りは一人になるなよ。家の遠い子は送ってゆくぞ。」
最近の事件を考えると一人で帰すわけにはゆかない。だが、どの親も思うことは同じようで皆、誰か迎えのものが来ているようだ。一安心して、皆を送り出す。
最後には博雅一人が残った。
「なんだ、俺が結局最後か。」
とりあえず生徒達が無事帰っていったことでほっとした。弓や防具を片付け終わり部室の扉に鍵をかけたところで後ろに何かの気配を感じた。
ばっと振り向くと暗がりの中に、少しやつれた感じの男が立っていた。
「あの…?」
誰かの保護者が今頃迎えに来たのかと思ったが、様子がどうもおかしい。
暗がりの中で男の目が、怪しくぼうっと光ったのを見た瞬間、これはまずいと即座に気付いた。決して友好的とは言いがたい雰囲気である。
しかし、昔と違い腰に太刀などない。
人のように見えるが、そうではないだろう。どうやって対すればいいのか。
「俺に何の用だ?」
静かな声で用心深く尋ねる。
「兄様…どこに…?」
女の声だ。男の体に女の姿がだぶって見える。男のほうは目の焦点すら合っていない。本体はどうやら女のほうらしい。
「兄様?…何のことだ?」
その博雅の問いには答えず、
「兄様…どこにおられる…?」
その目は何かを探すように、博雅に向けられている。
だらりと両脇に下げられた手の先から、鋭く長い爪が伸びている、その刃のような爪の切っ先に、血と思しきものがこびりついているのが月明かりでも見て取れた。
血なまぐさい匂いまで漂っている。
(もしかしたら、立花たちを襲ったのはこいつか…?)
だが、なぜ俺のことはすぐに襲ってこないのだ。今までの犠牲者は考える間もなく襲われているというのに。
「おまえ、何者だ?」
「…我は薬子…藤原種継が娘…兄様はどこにおられるのか?…早うお出し。」
女の目の焦点が、はじめて博雅の目と合った。
「薬子…?藤原の薬子といえば…あの薬子か…?まさか?」
薬子といえば博雅たちの時代より更に遡る。兄と共に天下を我が物にせんと画策し、平城天皇をそそのかし兵を挙げたものの、乱は失敗に終わり兄は都へ登る途中で討たれ、薬子は毒をあおって自害し果てたと言われている。
だが、薬子と仲成の兄妹が祟ったという話は聞いたことがない。
「では、兄とは藤原仲成殿か…。しかし、その方はもう、はるかな昔に殺されて亡くなっているだろうが。出せと言われても無理というものだ。俺には心当たりなどないぞ。」
薬子が迫ってくる。その目が怒りに燃えている。
「そうじゃ!兄様は殺された!帝にっ!あと、もう少しだったのに!
もう少しで兄様と二人、何憚ることなく生きてゆけたはずなのに…ああ!口惜しい!」
まるで遠い過去を見るように、目線が宙をさまよう。
「兄様。兄様。…どこにおられる?我はここにおるぞ!…愛しき兄様…」
この女にはいつ、豹変して襲ってくるか分からぬ狂気がある。
博雅はじりじりと扉の前から気付かれぬよう移動する、確か部室の外壁を直した時の建築廃材が横手にあったはずなのを思い出したのだ。
棒切れの一本でもあれば…。
視界の端に角材が見えた時、博雅は迷うことなくそれを手にとった。薬子がそれに気付く。獣ののような咆哮をあげて博雅に襲い掛かる。角材を手に、振り向くと同時に襲い掛かる薬子を下段からすくいい上げるようにして打つ。
「ぎゃっ!!」
薬子が跳ね飛ばされる。博雅は体勢を立て直すと、角材を剣のように正眼に構えた。
「薬子殿よ。今頃この世に、何の未練があって現れたのか?」
地面に手をつき、下から上目遣いに博雅を睨みつける薬子。
「兄様を探すためじゃ。そして兄様と共に、我らを封じた帝にあだを為さねば、恨みのあまりこの身は燃え尽きてしまうであろうよ!」
身体をゆらりと起こしながら、ぎりっと歯を噛み締めている。その口の端から長い牙がのぞいている。
「うう…我は長き間鏡に封じられていたのじゃ。我ら兄妹が都にたたりを為さぬようにと、帝の命で。
それでも兄様と一緒に封じられたのであれば、まだ許すことも出来たかも知れぬ。我は兄様と一緒ならばなにも怖くはなかったに…。」
悲しげに天に向かって泣く。まるでけもののように。
もはや、鬼になりかけているようだ。
鬼ともなれば、やがて人としての人格もなくなり、ただひたすら血を求め、人を喰らうようになる。昨今の事件を思えばかなり鬼に近くなっているのではないか。
「あわれな…。」
薬子の話に、悲しい女の気持ちを感じて、博雅の殺気が一瞬そがれた。
その隙を逃さず、長い爪を月明かりにひらめかせて、再び薬子が襲い掛かる、博雅の構える角材を一閃でまっぷたつに切り落とすと、そののど元にその鋭利な切っ先を突きつける。血なまぐさい息がかかる。
「お前からは兄様の香の香りがするのだ…。お前が知らぬと言うのなら、もしやその身のうちに兄様が隠れているのやもしれぬなあ…。」
唇を吊り上げて、ひきつるように笑う。目には狂気が浮かんでいる。
博雅の喉元に突きつけられたその鋭い先が、博雅の滑らかな首筋につつっと、赤い筋をつけてゆく。そのあとからぷっくりと血の雫が溢れ出す。
「くっ!!」
博雅は動くことが出来ない。いま少しでも動けば、自分の首はなくなるであろうと容易に想像できた。額にじわりと冷や汗が浮かぶ。
(晴明とやっと会えたばかりなのだ。こんなところで死んでたまるか!)
グッと握った右拳に力が入る。
中身は薬子でもその身体はどこかの人間のものだ。さっきの一撃だってかなり効いたのだ。殴ればそれなりのダメージを与えられるだろう。
「美味そうな血じゃ。お前の中に兄様が隠れておられぬか探すついでに、お前のその血と肉も頂こうか…お前の香りに気を取られたゆえ、今宵のにえに逃げられてしもうたからの。…しかし、格別に綺麗な色じゃ…まずはお前のこの綺麗な血をおくれ…。」
博雅の首筋に、鋭い牙をひらめかせ噛み付こうとしたその途端、薬子の身体が吹っ飛んだ。まるで何かに弾き飛ばされたようだった。
(おれが殴ってぶっ飛ばすはずだったのに…どういうことだ?)
博雅には何がなんだかわからない。
食いつかれそうになった首筋をさすりながら、うめき声を上げている地面に突っ伏している薬子を見る。
その時、少し離れた木の影から、静かな声が響いた。
「おれの博雅に断りもなく触れようとするから、そう言う目にあうのだ。」
暗がりから月明かりのあたる場所に姿を現したのは、険しい顔をした晴明。
「晴明!!」
博雅の顔がぱっと明るくなる。
「大丈夫か?博雅。」
「おう!…だが、なぜここに?」
「お前があんまり遅いから心配になって迎えに来たんだ。来てみれば案の定だ。
危うく食われるところではないか!」
晴明は少し怒っている。
「俺はこの女の夕飯になるつもりなどないぞ。今からぶん殴ってやろうと思っていたところなんだ。」
握り締めた拳を見せて博雅がニッと笑う。晴明が呆れたように溜め息をつく。
「お前という奴は…」
鬼を相手にけんかでもするつもりかと、苦笑いをする。
「それにしてもなぜ、薬子殿は殴ってもいないのにふっとんだんだ?」
「おれのかけた呪がおまえを守ったのだ。あの時いっただろう?あらゆるものからおまえを守るはずだと。」
「あ…!これか…。」
首筋をさする博雅。自分では見えないが、そこには晴明がつけた紅い印があるはず。
他のものは日々薄れてゆくのに、呪をかけたそれは何日たっても薄れることがないのだ。
晴明の目がその首筋に流れる血に気付く。瞳が冷たくすっと細められる。
「怪我をしたのか?…博雅。」
博雅の首筋の傷にそっと手を触れる。
「ああ、ちょっとひっかかれた。でも、これくらい舐めときゃ直る。大丈夫だ。」
博雅はけろっと言うが、晴明は同じようには思っていないようだった。指についた博雅の血を険しい顔でみつめる。
「…これはやはり、許すわけにはいかないな。」
倒れていた女が晴明と博雅の二人を睨みつける。その目は血のように赤い。口から緑の炎と共に瘴気を吐きながらゆらりと立ち上がる。
「晴明、その女は自分を薬子だといっているんだ。兄を探しているらしい。」
博雅が女から油断なく目を離さず晴明の横に立つ。手にはもう一本見つけた角材。ふたたび正眼に構える。今度は油断しない。
「薬子か…確か兄は死罪になった後、その霊を香炉か何かに封じられたと昔、陰陽寮で聞いたことがあるが…。その兄を探しておるのか?」
「知っているのか?…おまえ…、兄様を封じた香炉はどこだ?」
再び飛びかかろうとするが、晴明が二本の指を立て、小さく呪を唱えるとまた地面の折り伏せられる。
「くああっっ!!」
苦しさと悔しさに身悶えるようにもがく。晴明は更に、印を結びはじめた。このまま一気に退治てしまうつもりらしい。
「一字金輪、金峰山、蔵王権現、龍蔵権現、葛木七体金剛童子。奇妙奇妙と名にも竜田…」
晴明が祭文を唱え始めると女の姿が激しく明滅し始め、のたうちまわって苦しがる。
しかし、苦しそうにもがきながらも兄を呼ぶのをやめようとはしない。
「兄様…にい…さまあ…」
兄を呼ぶその顔は先ほどの怖ろしげな鬼のような顔ではなく、元はそうだったであろう美しい顔に戻っている。
その顔が涙と苦痛に歪むのを見ていた博雅が、思わず晴明を止める。
「晴明、ちょっと待ってくれ!」
「何だ博雅?これはお前を喰らおうとしていた鬼だぞ。」
何より許せることではない。その身に傷をつけただけでも退治するに値する。と、晴明は思っている。
それなのにこのお人よしは、たとえ悪霊だろうが鬼だろうが、苦しむのを見ていられないらしい。
「彼女は俺から兄ぎみの香りがすると言っていたであろう?それって、もしかすると昨日の香炉の香りではないのか?」
今の自分に関係のある香炉といえば、それしか思い当たる節は無い。
「あれにもし薬子どのの兄ぎみが封じられているのであれば、会わせて差し上げればよいではないか。」
そうすればきっと、薬子どのも成仏できるはずだと晴明に訴える。
晴明は苦い顔をしていたが、諦めたように息を吐いた。
「このお人好しめ…。仕方が無い…。式に持ってこさせよう。」
それまではと、緊縛の呪で薬子を縛り上げておく。
「おんきりきり、縛せ縛せ…」
薬子は先ほどの呪でかなり弱って小さく呻いているだけだ。
やがてしばらくの後、陰態を通って晴明の式が手に小さな香炉をのせて来た。
それを手に取り、博雅が大人しくなった薬子のところへゆく。
「薬子どの、あなたが探しておられたのはこの香炉ではないだろうか?」
薬子がぼんやりと顔を上げる。その目の焦点が香炉に合うや、目が大きく見開かれる。
「兄様の香炉っ!!兄様!兄様っ!」
涙に咽びながら兄を狂ったように呼び続ける。しかし、博雅の手の中にある香炉からは何の反応もない。
「その香炉の中にはお前の兄はもうおらぬ。確かに何かが封じられていた痕跡はあるが…」
晴明が静かに言う。
「なんだと…。どうにかならぬのか…晴明?」
「まあ、ならぬことも無い…。少しだが魂魄の糟のようなものが残っておるから仲成の霊を呼び出すことくらいは出来ないことも無いだろう。」
「では、それをしてやってくれ。このままでは薬子どのもたとえ、お前に退治されたとしても成仏などできぬだろう。」
「仕方がない…。ただし、どれくらい意思の疎通が出来るか保障はせぬぞ。」
晴明は地面に五芳星の陣を指で描くと、その真ん中に香炉を置き、招魂の呪を唱えた。やがて、香炉から薄い煙のもやのような物が音もなく出てくる。それはゆっくりと人の形をとりはじめた。博雅たちの時代より古い衣装を着た凛々しく若い男の姿になってゆく。
「にいさまっ!!」
縛されたままの薬子が膝で必死にその足元へ這って行く。博雅が目で晴明を促す。
「わかったよ…。ほんとにおまえという奴は…。」
晴明が緊縛の呪を解く。身体が自由になった薬子が兄に手をのばす、が、靄のようなその身体には触れられない、手はその身体をすり抜けてしまう。
「にいさま…。ううう…。」
泣き崩れる薬子に兄の仲成が言葉を発した。
「そこにおるのは…薬子か…?」
靄のようにボンヤリと遠い声であったが…。
「ほう、話せるのか…」
と、晴明。
「兄様っ!薬子でございます!!…兄様を探して探して…、どこにおられるのですか、兄様?薬子は兄様に会いたい…。」
「我はもうこの世にはおらぬ…永きにわたってこの香炉に封じられてあったが、今はそこな博雅様の笛に癒され、天に昇ることが出来た。ただ、おまえのことだけが気がかりであった。…ようやく会えたな…。」
薬子をみつめる仲成の目には、溢れんばかりの愛情が見て取れる。
その穏やかな目を博雅に向ける。
「一度、お目にかかってお礼が言いとうござりました…博雅様。…ありがとうございました。…あなた様の笛の音に私の恨みで凝り固まった心も全て溶けて…こんなに心穏やかにいられる等、夢のようでござります…」
博雅に深々と頭を下げる。
「いや…私には何も心辺りがないのですが…?」
思わぬ成り行きに博雅のほうが驚いてしまった。
「そうでしょうね。あなたさまは心の赴くままに笛を奏でられる…でもその音は聞くもの全てを癒してくださる…。」
「兄様っ!帝への恨みお忘れですかっ?!兄様とわたしを引き剥がし、成仏することも叶わず長き年月封じられたこと!
あの方は私たちの気持ちを知っていながら、わざと別に封じたのですよっ!」
薬子は兄に必死に訴える。
「もう、良いのだ。薬子よ。我らのときはもうはるか彼方に去ってしまったのだよ。
今更、誰に復讐するというのだ…。」
穏やかな声で言うと薬子の頭にやさしく手をおく。
「私とと共にゆこう、薬子…。おまえがいれば私はもう何も要らないよ。」
「兄様…。」
「博雅様、お願いがございます…。今一度、ここで笛を奏してはいただけませぬか?」
自分の足元にひざまずく妹を見やる。
「我が妹のために…。この子と私とは早くに両親を亡くし、幼なき頃より互いしかおりませんでした。
長じるにつれ、それは男女の愛へと変わってゆきました…。誰にも邪魔をされず二人で生きていきたかった…。
しかし、美しく育った薬子は帝のお目にとまってしまい、我らは引き離され、この子は帝のもとへ…。少しでも近くにと、私も帝の傍近く仕えて参りましたが、その帝が乱を起こされ、それに巻き込まれた私は都へと攻め上る途中で討たれました。
引き離され、死してなお別々に封じられて…。どんなにか帝を怨んだことか…。
わたしも博雅様に救われなければ、この子のように鬼と化して人にあだなしていたやも知れませぬ。」
妹をいとおしそうに見る。薬子も兄を見上げる。お互いが大切に想っているのが見ているだけで分かるようだった。
(俺達と同じではないか…)
ただ、自分達はまだ幸せだったのだと思う。
周りから理解されてもいたし、何より晴明のおかげで色々と楽だった。それにくらべてこの二人はどんなに大変だったのだろう。
まして、血の繋がった兄妹となれば、今も昔も周りからは分かってなど、もらえないに決まっている。悲しすぎる愛だ。
博雅の瞳から、つうっと一筋のあたたかい雫が零れ落ちる。
二人を思って零れた涙だった。
「博雅さま、どうぞ笛を…。」
博雅に請う。
仲成は妹と共に天に召されたいと、心からそう願っていた。
これ以上、血を求めてさまよっていたら妹はきっと、兄である自分のことも忘れ、ただの鬼に成り下がってしまう。
仲成は、妹の姿に鬼に近いものを感じていた。
「博雅、吹いていやるといい。俺の出番ではなさそうだ。」
晴明が口元に笑みを乗せて言う。
「ああ。」
一言短く答えると、懐から葉双を取り出し唇をあてた。
月明かりに照らされて博雅が笛を吹く。高く澄み渡ったその音が、月の光を駆け登るように伸びやかに響く。
仲成の身体がぽうっと光りはじめる。足元に伏していた妹の手を取る、今度は通り抜けたりはしなかった。しっかりと妹の手を握ると,立ち上がらせる。
男の身体を残して、薬子の幽体だけがすっと兄の手をとり立ち上がる。その身体も兄と同じようにぽうっと光りだす。顔はすっかりもとの若く美しいものに戻っている。
両手で仲成の手をしっかりと握り締める。
「兄様…。」
兄は妹の身体に腕を回し、その胸に彼女を抱きしめた。
「会いたかった、薬子よ。我が愛しき女よ。」
「兄様…お会いしとうございました。愛しき背の君。」
お互いをしっかり見つめ合い口づけを交わす。
それから仲成は博雅たちのほうを見ると、にこりと微笑んで深々とお辞儀をした。
「ありがとうございました。博雅さま。二人このまま永劫に離れることなく共にいられること、すべて博雅様のおかげと感謝しております。」
だんだんと声が小さくなってゆく。
「本当に…ありがとうございました。博雅様も…晴明様と離れることな…どございませんように…」
笛の音に送られるように二人の身体が宙に上がってゆく。そして、月明かりのなかに溶けるように消えていった。
博雅が笛から唇をそっと離す。その瞳が潤んでいる。
その肩を晴明が、そっと自分の胸に引き寄せる。
「…全く、お前にはかなわない。いくらおれが陰陽の術を駆使しても、お前の笛には一生、勝てない気がしてきたぞ。」
「そんなことはないぞ、晴明。俺はただの笛吹きだ。」
ぶんぶんと首を振って、俺には力などないと言う博雅。
「…ところで、この人はどうする?」
足元で倒れこんでいる男を見て聞く。どこの誰かは知らないがとんでもない目にあったものだ。
「怪我もさそうだし。このままにしておけばよい。少ししたら気付くだろう。下手に俺達などいないほうがよい。」
男を見下ろして淡々と答える晴明。
「しかし…」
「なんて説明するのだ?お前は鬼に取り付かれて人間をくっていたとか…?説明などできないだろう?そっとしておくのが一番なのさ。」
多分もう、廃人同様だろうが、博雅をこれ以上面倒なことに関わらせたくなかった。密かに式に命じて、その者の家まで連れて行かせることにする。後は家人の考えるところだ。
博雅の手を引っ張って強引に歩き出す。
「おいおい…。ほんとに、いいのか、あのままで…?」
引きずられながらも、心配そうに聞く博雅。
しかし、晴明はもうそんなこと聞いてもいない。他に気がかりなことがあったのだ。
「それより、なぜあの香炉がお前の所にあったかだ…。タイミングがよすぎはしないか?」
しかも、そのことに気付かなかった自分に腹が立つ。
あの大江山の鬼王は、わざと俺の目につくところにあの香炉を置いたに決まっている。しかも、それにうっかり乗ってしまうとは…。
博雅を守ろうとして返って危ない目にあわせてしまった。博雅がもし、あの女にかじられでもしていたら…。
「むかつくな…。」
「何を怒っているんだ?薬子殿も仲成殿と成仏されて、喜んでいかれたではないか。」
「あの二人のことではない。」
「では、何にそんなに怒っているんだ?」
晴明に引き摺られるように歩く博雅。
「あの方はどうやら俺の力を試したかったようだ。」
「あの方って…?」
どうやら博雅にはピンと来ないらしい。
「決まっているだろう。お前の家に出入り自由なアイツだ。朱呑童子!」
絶対問い詰めてはかせてやると怒っている晴明であった。
月は煌々と青い光で地を照らしている。
今夜も何事もなかったかのように…。