崑崙の娘 (4)
「そうか…では帰らねばな。」
耳元で人に化けた式から報らせを受けた晴明、かたんと椅子をけって立ち上がった。晴明を中心にして会議のテーブルについた社員たちが驚いたように顔を上げた。
「会議中で悪いが急用ができた。あとは適当にやっておいてくれ。」
「えっ!しゃ、社長!」
幹部職員たちのあわてる中、書類もそのままに晴明は会議室を出て行った。
廊下を秘書の吉本女史があわてて追いかけてくる。
「社長!あの…」
引きとめようと声をかけようとしたが、その声は冷たい言葉で遮られてしまった。
「書類をそのままにしてきた。ファイリングしておいてくれ。」
振り向きもせずそう言うと、晴明は式が開いたまま抑えて待つエレベーターへと乗り込んでいった。
…ウィ…ン…
静かにエレベーターが階下へと下りてゆく。
重役フロアと直結したエレベーターなので途中でとまることもないそれは一気に地下の駐車場へと、すべるように降りてゆく。
「では詳しく話せ」
静かなエレベーターの中で晴明が式に向かって言った。
「はい、二日前のことでございました。深夜、博雅様を訪ねてきたものがございました。」
「私の張った結界を抜けてか?」
「はい。そのものは一旦は弾き飛ばされたようでしたが、その後ですぐに結界を抜けて中に入ったようでございます。」
「誰もそいつを止められなかったのか?」
「私たちは主(あるじ)様より、悪しきものから博雅さまの身を護るよう命を受けております。そのものには悪意の波動がございませんでしたゆえ、命なくそのものを排除することはできませんでした。もうしわけございませぬ。」
「確かにそうだが…まあ、しかたがない。それで?」
晴明が話の先を促す。
「結界を抜けて屋敷内に入ったことはわかっておりますが、出た事が確認されておりませぬ。」
「なんだと?ということはまだ屋敷の中にいるということか?」
「いえ、それもありませぬ。屋敷の中には我ら式と博雅様以外誰もおりませぬ。」
「何だと…?」
晴明の柳眉が片方、くくっと上がった。
「博雅は深夜に何者かが屋敷に忍び込んだことを知っているのか?」
「いえ。何も知らぬようなご様子です」
「…だろうな。」
チン、と軽やかな音を立ててエレベーターが地下の駐車場へとたどり着いた事を報らせた。
式を従え足早に車に向かう晴明。その頭の中には先ほどまでの会議のことなど微塵も残っていない。その人格はすでに稀名アキラから安倍晴明へと切り替えられていた。
「で、博雅はどんな様子だ?なにか変わったことはあったか?」
「はい。博雅様にはなんのお変わりもありませぬ。今日も普段どおりお仕事に赴かれました。」
「そうか…。また自分でも知らぬ間に何かに関わったといったところだろうな。」
式に運転をまかせ、後部座席の柔らかな皮張りのシートに背をあずけると目を閉じた。
まぶたの裏ににこやかに屈託なく笑う博雅の笑顔が浮かぶ。
まったく、ちょっと目を離すとすぐこれだ。だからついて来いといったのに…。
くそまじめで頑固な博雅。
本当に振り回してくれる…。だが、博雅がいなかったら振り回されることもないが、その代わりこんなにも心を激しく揺さぶられることもなくどんなに単調な人生だっただろう。
「どっちがいいんだか…」
「なにか?」
つい口に出た言葉に式が不思議そうに頭をかしげた。
夜も更けてから京の街並みへと入ってきた晴明。空港からは自分で運転をしていた。交差点で信号を待っていると視界の片隅にあるものが目に入った。
ビルとビルの間の狭い空間に座り込む人影。周りを何人かの人影が取り囲んでいる。…いや、人の影ではない。
異形のもの。
ハザードを点滅させると後ろの車のクラクションにも頓着せずに車から降り、晴明はその影に向かってゆっくりと歩いていった。
ほんの数メートル先には深夜とはいえ人も多く歩いているこの街中、そこだけがまるで別の次元のようになっている。
(ちゃちだが結界か…ひとには見えないようにしてあるな)
晴明はためらうことなくその結界に足を踏み入れた
「そこでなにをしている?」
晴明の静かな問いかけに、そこにいたものたちがいっせいに晴明を振り向いた。
『なんだ、…おまえは?』
その中で一番凶暴そうなやつが晴明に向かってどすのきいた声で言った。2メートル近い大男だ。その目が暗闇で爛々と黄色く光る。
その目の光と異様に筋肉の盛りあがった肩と太い腕は決して人間にはないものだった。そのゴツイ腕の先にぐったりとなった男が胸倉を掴まれている。
まわりにいたその配下と思しき連中も晴明に向かって敵意を向けた。大男とは違ってもう少し下等なものなのだろう、小柄なそいつらは耳まで裂けた口と、ぎざぎざに細かく並んだ黄色い歯と卑しく光る小さな赤い目を持っていた。生臭い獣のような悪臭がそのあたり一面に漂っている。
「大人数でたった一人を痛めつけるとは、妖しとしても下種(げす)な部類だな。…おまけにひどいにおいだ。」
鼻先に皺を寄せて晴明が面倒くさそうに言った。
「たまには風呂に入ったほうがいいぞ、お前たち。…それとも染み付いた下種なにおいは取れぬのかな?」
長いまつげを優雅に伏せて晴明は笑った。
「なんだと!」
でかい男が手にした獲物を壁に叩きつけて晴明を睨んだ。他の連中とは違って少しはプライドらしきものがあるようだ。
晴明は叩きつけられたビルの壁にぐったりと背中を預けて座り込むものを見下ろした。かなりひどくやられているらしく、口の端からおびただしいほどの血を流し気を失っている、其の手があらぬ方向に曲がっていた。
「正義の味方という柄ではないんだが。」
こんな場面を見て見ぬふりをしたなど、博雅にはカッコ悪くて言えぬからな。
「それにどうやらお前たちはこの土地のものでもなさそうだ。殺ったところで誰からも文句も出まい。」
冷たく微笑む晴明の目に大男の背をぞくりと悪寒が走った。人間相手には今まで一度も感じことのなかった感覚だった。
『な、なにをわけのわからぬことを言ってるっ!?人間にこんなところを見られるなど我らの落ち度…北斗様にも顔向けできぬわ!お前たち、こいつ食ってしまえっ!』
大男の合図でほかの連中がいっせいに歓声を上げて晴明に襲い掛かってきた。こいつらには大男と違って、晴明のことを恐れるだけの知性も感覚もない。ひとの肉が食える、その一点だけが心を占めていた。
「勾陳土神…辰在戦闘凶将!」
眉間に指を立て式神を呼ぶ晴明。その目は静まり返った湖面のように揺らぐこともなく冷静だ。
彼の前に黒い甲冑に身を固め太刀を持った大柄な式神が現れた。
晴明に向かって襲い掛かる妖しを、すらりと抜き放った鋭い太刀で一刀のもとに斬り伏せる。
「ぎああああっ!!」
斜めに体を切り裂かれて悲鳴を上げて先頭の妖しが倒れた。切り裂かれたところから緑色のどろりとした血のようなものが噴出していた。
飛び掛ってくる妖しを次々と斬り倒す式神、勾陳。晴明の十二の式の中でももっとも戦闘能力に富んでいる。
すべての妖しを斬り倒すと息ひとつ乱さずに無言で晴明の傍らに立った。
『く、くそうっ!』
最後に一人残った大男が暗闇でもわかるほどに蒼白な顔で晴明たちをねめつけた。
『覚えておれっ!人の子よ!この恨み、必ずや晴らしてくれるっ!!』
そう言って空間の狭間に消えようとした。
「ああ、申し訳ない。私、物覚えがちと悪くてね…」
うっすらと微笑む晴明の袖から音もなく呪符が滑り落ちその手のひらにぴたりと張りつく。すっとその手を消えかけた男の方へと向けて呪を唱えた。
「妖魔殲滅。急急如律令」
目にも留まらぬスピードで呪符がそいつに向かって空を切った。その額にぴたりと張り付く。
『なんだ!これはっ…!!』
いい終わらぬうちにそのものの姿が粉みじんに砕け散った。
スーツの前身頃に飛び散ったそいつの破片がほんの一辺当たって跳ね返った。晴明の目が嫌そうにそれを見た。
「汚いなあ、まったく」
ポケットからきれいに折りたたんだハンカチを出して、まるで何事もなかったかのように優雅なしぐさでそれを拭った。
地面に転がる妖したちの骸。やがてその体がさらさらと灰のように砕け散り風もないのに消えていった。
「ご苦労だった勾陳。さて…次はこちらだな。」
ぐったりと意識をなくしているもう一人の男を見下ろした。
「おい、大丈夫か?」
手のひらの背でぺしぺしとそのものの頬を軽くはたく晴明。
「…う…ん」
その男がようやく目をうっすらと空けた。
「気づいたか。」
『あ、あんた…誰…?』
血の滲んでひび割れた唇をこじ開けるようにして男が掠れた声を出した。聞きなれぬ外国の言葉。
「おまえもその言葉を使うのか」
軽く眉間にしわを寄せて晴明が言った。どうやらほんの2,3日留守にしただけで、この街にいろんな連中が押しかけてきているようだった。これももしかしたら博雅に関係あることなのだろうか。関係してないわけもなかろうな、あいつのことだ…。
『私は稀名。あいつらは何者だ?おぬしはなぜ襲われていたのだ?』
晴明もこの言葉が遠い過去の大陸の言葉だとすぐに気づきその言葉で男に語りかけた。そして、もちろん本当の名など名乗るわけもない。だが、傷つき弱りきったその男のほうは何も考えずに素直に答えた。
『あいつらは私を追ってきたんだ。私の後を追えばメイリン様のいる場所がわかるから…。うかつだった…久方ぶりにお声をかけられて…つい、うれしくなってしまって…』
『そうか…それは大変だったな。で、おぬしの名は?』
さりげなく話をあわせながら晴明が問う。
『私の名は、風伯…。先に雨伯が来ているはずだ…頼む、私をあいつのところへ…』
そこまでいうとうっ、とうめいて気を失ってしまった。
「風伯に雨伯だと…?」
晴明は腕の中でぐったりと意識をなくした男の、血にまみれてはいるがそれでもわかる端整な顔を見下ろした。
…まさかこの日本でその二人の名を聞こうとは思わなかった。
「ずいぶん大変なことになっているようだな…」
晴明の顔にいつもとは違う真剣な表情が浮かんだ。
「とりあえず家につれてゆくか、どうせこの国のものではないこの男には行くあてがあるとも思えぬしな。」
本当なら寝泊りすることすらいらない筈のその男を式に担がせると、先に屋敷へと送り出した。
「俺は車で後を追う。おまえは先に行っておれ。」
式神勾陳はだまってうなずくと意識をなくした風伯を肩に担ぎあげ、ふわりと浮き上がった。博雅と自分の住む屋敷へと式が飛び去るのを見送ってから、晴明は腰のポケットに手を入れ携帯を取り出した。
博雅の番号を押す。
トゥルルル…。
何回目かコールの後、よく聞きなれた声が返ってきた。
「もしもし晴明かっ!?」
「博雅、今どこにいる?」
前置きもなく晴明は聞いた。
「えっ?今か?今は保憲様のところだ。その…ちょっと問題が起こってな。」
「やはり…今度はいったい何にかかわったんだ、博雅。」
「別にかかわりたくて関わったわけじゃないぞ。向こうから勝手にやってきたんだ。おれのせいじゃない。」
怒ったようにいう博雅の後ろから甘えた声が聞こえた。
「博雅〜なにしてるか?これ、なに?」
「こ、こら、今、話してる最中だ、ひっぱるんじゃない」
電話口の向こうでごそごそともみ合う音が聞こえる。
「おい…博…」
「いや〜んんんっ」
晴明の声をさえぎって甘えた声が携帯から響き渡った。その甲高い声に一瞬、携帯から耳を離した晴明だったが、すぐにまたそれを耳に当てた。冷たく冷め切った声で一言言った。
「…今すぐそっちに行く…」
「えっ?何だって?」
ツーツー…。
博雅がメイリンの手から携帯を奪い返したときにはもう電話は切れていた。
「これは大変だ」
傍で黙って眺めていた保憲がにやりと笑った。
黒のカマロの低いエンジンの音が外から響いてきた。
晴明が到着したようだ。
「来たねえ」
これは一もめあるかなと保憲は楽しそうだ。
「あんまり煽らないでくださいよ、保憲さま」
博雅が困ったように言った。
「さっきの電話口でキンキン声で騒いでいたのはお前か?」
部屋に入ってくるなり晴明がメイリンに向かって聞いた。
「晴明」
迎えに立ち上がろうとした博雅を制して、博雅にぺったりとくっついたメイリンが不審げに声を上げた。
「博雅、…誰?このひと?…我の張った結界どうやって抜けた?」
この保憲の屋敷には彼の張った結界があったのだが、それでは足りないと勝手にもう一重結界を張り巡らせたメイリン。それを破るものがいるなど信じられなかった。
「結界?そんなものあったか?」
尊大な態度で馬鹿にしたように晴明が答えた。ふふんと鼻で笑い飛ばす。
「…結界、ちゃんと張ってあった筈!オマエ我を馬鹿にするか?」
気色ばんでメイリンが声を荒げた。さっきまでのなよなよとしたか弱い雰囲気が一変した。
「おいおい、来るなり我が家で揉め事はよしてくれよ。」
あいかわらず嫉妬深い男だとあきれたように保憲は晴明を見た。だが、その目は注意深くメイリンをうかがっていた。
(どうやら、先ほどまでの姿は猫をかぶっていただけのようだな。猫嫌いの癖に猫をかぶるとは…)
さりげなく口元を隠してこっそり笑った。
(いったい本当はなにものだ?この娘…)
「初めて会ったお前を馬鹿にするほど、私はお前のことなど知らない。」
晴明は博雅に張り付くメイリンを見下ろして言った。
メイリンも負けずに見返す。
「晴明、女の子に「おまえ」呼ばわりはないだろう?」
ふたりの間に割って入って、博雅がたしなめるように晴明に言った。
「ふん…どうやらわかっておらぬようだな、博雅。だが、まあ、それは後でいい。」
どういう意味だと問う博雅を黙らせて晴明はメイリンにもう一度向き直った。
「とにかく、お前!いろんな奴らがお前を探し回ってこの京の街にうろうろしてるぞ。おまえ一人の話ならば俺もかかわる気はないが、この博雅がもうすでにかかわってしまった。…さあ、色々と説明してもらおうか?」
言い終わった途端、べりっと音がしたかと思うほどに乱暴に博雅をメイリンから引き剥がし、自分の胸にその身を引き寄せた。
「だが、その前にこの男は返してもらうぞ。私のだからな」
「こ、こら!年端もいかぬ娘の前でなにを言うか!」
博雅が真っ赤になって抗議した。
その唇を捕らえてすっと口づけると、あわてまくる博雅をその腕に閉じ込めて、晴明は冷たい笑みをその紅い唇にのせて言った。
「年端もいかぬ娘だと…?勘違いもはなはだしいな。博雅…」
「おいっ!!今の!」
「‥ああ、確かにリンメイさまの気。」
二手に分かれて京の町をリンメイをさがしまわっていた朱雀と青龍組。晴明が結界を破ったわずかの間にその中に隠れていたメイリンの気を感じ取った。
「どこかわかるか?」
朱雀の千里眼に青龍が聞いた。
「…ちっ!だめだ。あっという間に気が消えた、また、どこかに隠れられてしまった…。」
「なんということだ、あのおてんばめ。‥だが、この町にいらっしゃるのは確実だ、どちらの方向かぐらいはわからないか?」
「ああ。それぐらいはな、…こっちだ。」
「ではゆこう。」
「おう。」
ふたりは保憲の屋敷のあるほうへと足早に歩き出した。
「勘違いって…?」
「こやつは娘などではない。まして年端もいかぬなどとはとんでもない。」
晴明は博雅を守るようにその腕に包み込むとメイリンに向き直った。
「人にあらず、妖しにあらず…なにものだ、おまえ?」
切れ長の目を何かを探るように細めて晴明はメイリンを見た。
「われは…」
腕の中にきらきら光る宝玉のついた杖をぎゅっと抱きしめてメイリンは言葉に詰まった。
なんだか油断のならない人間…、
晴明のことをそう警戒した。この男に自分の本当の素性を知られるのはなんだかまずい気がする。
でも、いざとなれば消してしまえばいい。人一人消すなどメイリンの力をもってすればなんでもないことだ…やったことはないけど…。
「このこはそんなに悪いものではないよ、晴明。」
晴明をこの世から消す気でいたメイリンをかばって博雅が口を挟んだ。
「このあいだ歴史クラブの生徒たちを連れて美術展に行っただろ?あそこにこの子はいたんだよ。俺がうっかり言葉をかけてしまったばっかりに、ついこんなところまで追いかけてきてくれることになってしまって…。悪いのは考えもなしにだれかれかまわず声をかけたりする俺なんだよ。」
「博雅…」
一生懸命に自分をかばってくれるその姿にメイリンは瞳を潤ませた。
本当にこのひとはなんてやさしくて心がきれいなんだろう。うっとりと博雅を見つめる。が、晴明のほうはその逆にますます表情を険しくしていった。
「そんなに険しい顔をするなよ、晴明、せっかくのいい男が台無しだぞ。」
晴明の頬をぴたぴたと軽くはたいて博雅は屈託なく笑った。
「まったく…おまえは警戒心というものがなさ過ぎるぞ、博雅。このものがお前を食らおうとしている妖物でないという保証などこにもないのに。」
「われには人を食うなどという、いやしい癖などないぞ!」
晴明の言葉にメイリンは声を荒げた。
「ほう、人など食わないというか…では、お前はなにを食って生きているのだ?まさか人のようにめしではあるまい?」
「われだとてちゃんと食べることぐらいある!…そう!桃などよく食するぞ。」
ほらごらんとばかりにメイリンは言った。怪しまれないつもりだった。が。
「桃といえば仙果‥神仙か…」
今までじっと聞くばかりだった保憲がポツリと言った。
「えっ!?」
メイリンが驚く。桃といっただけなのに、そこからそんな答えを導き出すなんて。
「言葉から行けば、おそらくは…泰山?…いや、違うな…雨伯と風伯を操るものといえば…崑崙。」
晴明がじっとメイリンから目をそらさずに言った。それは確信に満ちた言葉だった。
崑崙そして雨伯、風伯の名が出たとたんメイリンはハッと顔をあげた。
「なるほど…妖しにしてはなにか違う気を持っているなとはおもってはいたが、崑崙からのおかたとあればさもありなん、だな。」
保憲もそういった。
「お前たち…なに…?人間のくせになんで我のくにのことを知っている?それになぜ雨伯と風伯のことまで…」
メイリンにしてみれば初めてきた大和の国、たった一人で心細く思っているところにやさしく声をかけられ、その声の主に惹かれてここにいるだけのこと。まさかそこで自身の身元がばれるなど思ってもみなかったことであった。
人間のくせになんだこのものたちは。何故崑崙の名を知り、そこに住むものたちのことを知っているのだ?
「雨伯殿はどこにおられるのか知らぬが風伯どのは私と博雅の屋敷に今、休まれている。」
晴明が静かにそう言った。
「え…なぜ風伯がお前のところに…」
「あのお方が何者かに襲われて怪我をされてしまったのでね。」
「風伯が怪我…そんなことはありえない。あれにかなうものなど、そうそういるわけがない」
メイリンがひどく動揺して言った。
「では、それほどに強いものが襲ってきたということでしょう。腕を折られ、かなりのダメージを受けられて血まみれでしたよ、風伯どのは。」
見る間にメイリンの顔が青ざめてゆく。
「しかもどうやらそいつらの目的は風伯殿ではなく…あなたのようだった。」
メイリンがバッと顔を上げた。その目が恐怖に見開かれている。
「わたし…」
「そう、あなたを探しているようだった、そのために風伯どのを捕らえ痛めつけていた…。さあ、あなたは何者です。なぜあのようなものたちに追われている?」
晴明の鋭い視線にメイリンは宝玉のついた杖をぎゅっと引き寄せた。
「そこまでにしていただこうか」
ガタンッ!!
突然、庭に面した大きな窓が勢いよくあいて二人の黒服に身を包んだサングラスの男が部屋の中に飛び込んできた。靴をはいたまま室内に降り立つ。
晴明も保憲、博雅がいっせいに身構えた。
保憲と晴明の手にはすでに呪符が握られ、博雅は晴明の前に立って身を挺して庇っていた。一瞬腰に手がゆくのは武士だったころの癖だ。そこに太刀がないのに気づき、ちっ、と舌打ちをした。
「誰だ?」
外から結界をものともせずに飛び込んで来た者たちに保憲が誰何した。
「お前たちに名乗る義理などない、我らが用があるのはそちらのお方さまだけだ。」
二人のうち一人が口の端から牙を光らせて言った。
もう一人がメイリンの前に片ひざをついて深く頭を下げた。
「リンメイさま、お迎えに上がりました。さあ、このようなところにいてはあぶのうございます、どうかお戻りを。」
「朱雀…」
小さな声で答えるメイリン。
「人のうちに勝手に土足で飛び込んできてずいぶんな態度だな。これが崑崙の礼儀か?」
博雅を逆に自分の後ろに庇いなおしながら晴明が挑戦的に言う。
「おいおい…晴明、俺のうちだぞ。」
保憲も穏やかな口調とは裏腹にぼきぼきとこぶしを鳴らせて言った。
「人間の癖に小ざかしい。我らにかまうな。」
先ほど晴明たちに名乗る義理がないと言ったほうの男がサングラスの向こうから晴明たちをにらみ付けた。
「小ざかしいとはずいぶんな言われようだな、晴明?」
「確かに…、ずいぶんと馬鹿にしてくれますね。たかが、四神のくせに。」
晴明と保憲には二人が何者であるか見当がついたらしかった。
「!…なんだ、お前たち…」
にらみつけてきたやつが晴明たちに向かって静かに手を上げた。
晴明と保憲の呪符を持つ手も挙がる。
「ま、待って!やめて青龍!」
メイリンの声にぴくっと青龍と呼ばれたものの手が止まる。
「その人間たちは我に何もしていない、手を出してはならない!」
「リンメイさま…」
振り上げた手を渋々下ろす青龍。だがその顔はまだ晴明たちにむけられたままだ。
「迎えもきてしまった…もう我の遊びの時間はおわりじゃ。名残惜しいが博雅、これで…。」
本当にさびしそうな笑みを浮かべたメイリンの目にうっすらと涙が浮かんだ。
それでも、きっ、と表情を引き締め、二人に向かって言った。
「風伯が何者かに襲われたそうだがお前たち何か聞き及んでおるか?」
その声は先ほどまでの心細げな声とは少し違って、精一杯の威厳を保っていた。
「はっ。それは存じませんでした。」
「姫、風伯をお召しになられたのですか?…恐れながら無用心にすぎませぬか?」
晴明たちと最初ににらみ合った青龍と呼ばれた方がサングラスを外してメイリンに険しい目を向けた。
「だって…」
ちらりと博雅のほうを見る。朱雀がその視線に気づくとあきれたように言った。
「もしかして、ほれた男のために風伯をお呼びになったわけではないでしょうね、姫?」
「もしかしなくてもそのようだぞ、すでに雨伯も呼んだらしいからな。」
博雅を背にした晴明が口元にうっすらと笑みをのせて言った。このまま事情も聞かずに帰すつもりなど毛頭なかった。博雅をここまで巻き込んだのだ、トラブルの芽は一刻も早く摘むに限る。
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