〜薬〜
「晴明!いるかっ!?」
廊下をどすどすとやってくるのは博雅のようだ。夜も随分更けたというのにやたらとテンションの高い漢。
「うるさいぞ。博雅。いったいなんどきだと思っているんだ。」
晴明は手にした書物から目も上げずに言った。
「おう、すまん、うるさかったか?実はちょっとおぬしに頼みがあってな。…その…ちょっと早めに聞いてくれると有難いんだが…」
晴明の傍らに立ったままの博雅。
「なんだ?そこで言ってくれればそれでいい。どうせまた,,どこぞのやんごとなきお方の困りごとでも頼まれたのだろう?」
「う…ん。それが今回は…実は俺のなんだ。」
「おぬしの?珍しいな、なんだいったい?」
晴明は持っていた巻物を傍らの式にあずけるとやっと博雅の方を見た。
何事にもあまり動じない彼の目が驚きで大きく見開かれた。
「どうしたんだ!そのケガはっ!?」
晴明が驚いたのも無理はない。
博雅の直衣の袖がばっさりと切られてその腕から血がしたたっている。
流れた血が腕を伝ってその指先からぽたりと床に落ちた。
「ありゃ、すまない。床が。」
博雅が血で汚れた床を見て晴明に謝った。
「ばか。そんなのはどうでもいい!いったいどうしたんだ?」
「いやあ、おぬしのところへ来る途中で、あんまり月の光が川面に映ってきれいだったからな。ついつい堀川の川辺で葉二を吹いていたんだが。」
博雅がのんきに説明するところによると、川辺で気持ちよく葉二を吹いていたら背後から人の気配がする。
しかもあまり友好的とは思えぬ剣呑な雰囲気。
どうも殺気も漂ってくる。
それで片手で葉二をふきながらそうっと腰の太刀に手をかけて振り向いた。
「私になんぞ用か?」
と、相手に向かって問いかけたとたんに斬りつけられたという。
葉二を放り出して太刀を抜いて応戦した。
「悪いとは思ったんだ。」
と、博雅。
怪我の具合を心配そうに見て手当てを始める晴明にいった。
「悪いって何が?斬り付けられたのだろう?遠慮することなどないではないか。」
思ったより浅い傷にほっとする晴明。血を、ぬらした布でぬぐうと傷によく効く軟膏を塗りつけた。
「いたたっ!おい、もっと、そっとやってくれよ。」
「文句を言うな。心配させやがって。で、どうしたって?」
「ああ、そうそう。相手の盗賊には遠慮などしなかったぞ、なかなかの使い手だったしな。落ちた葉二に気をとられていたらこのざまだ。すぐ斬り返したがな。」
葉二が草むらに隠れて見えなくなった。
思わずそっちに気をとられていたら,
相手がその隙を逃さずに斬りかかってきた。
それを受け損ねて博雅は袖ごと腕を切られた。
博雅がもう少し鈍かったら、そのときに腕の一本もなくしていてもおかしくないほどの太刀筋だった。
それで博雅はとりあえず、葉二のことを頭から振り払ってその盗賊と思しき輩と対峙したのだ。
本気になると博雅は普段ののんびりした雰囲気からは想像もできぬほどに強い。
あっという間に相手を切り伏せた。
太刀を一振りして刃に残る血を弾き飛ばすと、騒ぎを聞きつけてねぐらから出てきた川辺に住む川魚を取る漁師にいくらかの金子をわたし、検非違使を呼びに行かせた。
ようやく来た検非違使に簡単に事情を説明すると後を任せ、その場を離れたのだが。
さっき落とした葉二がなかなか見つからない。先ほどの漁師が草むらを覗き込んでいる博雅に気づいて近寄ってきた。
「あの…お殿様。何かお探しですか?」
「うむ。いや、ちょっと大切な笛を落としてしまってな。見つからないんだよ。」
「笛でございますか…あっ!ほら、あそこに落ちてございますよ!あれではござりませぬか?」
漁師の指すほうを見れば、確かに草の陰に葉二が露にぬれて光っていた。
「おう、これだこれだ。ありがとう。」
にっこりと笑って礼を言うと、博雅はようやくその場を後にしたのだ。
「まったくとんだ道草だったな。こんなことならまっすぐ晴明のところへ行けばよかった。」
痛む腕を押さえながらここまできたのだと博雅は語った。
「本当にそうだぞ。大体、おぬしは殿上人のクセに、夜更けに一人で出歩きすぎだ。
だから色んな妖しにあったり、物騒な盗賊に切りつけられてりするのだ。出歩くなら寄り道などせずに、まっすぐ俺のところへ来い。」
晴明が怒ったように言った。博雅が怪我をした、斬られたという事がどうにも腹立たしい。
「その盗人はどうしたんだ。まさか、生きてはいないだろうな?」
「いや、怪我はさせたがたぶん、死んではいないだろう。こんなきれいな月の夜に人を殺やめるなどいやだからな。適当に力を抜いておいた。」
「どうせ、そんなことだろうと思った。甘いやつめ。」
あとでそいつに地獄を見せてやろうと心の中でメモする晴明。
「まあ、よいではないか。済んだことだ。それより、困りごとというのがな、この葉二のことなんだ。」
博雅が懐から葉二を取り出す。
「いつもの葉二ではないか。」
それがどうしたと晴明。
「なんだか、おかしいのだ。」
「なにが?」
「鳴らなくなった。」
博雅の言うところによると、腕を斬られて怪我しているのにもかかわらず、さっき途中まで吹いていた曲が途中までだったのがどうにも気が済まなかった博雅。
晴明のところへとゆく道すがら、さっきの曲の続きを吹こうとしたら葉二が音を出さなくなっていたという。
「そんな大怪我しているくせに、笛を吹こうとしたっていうのか。」
ほんとに楽馬鹿とはおぬしのことだ、と晴明があきれていう。
「だが、何事も中途半端で終わるというのは、なんだか気持ちが悪いではないか。」
「それもそのときによりけりだと思うが。」
「む。…と、とにかくだ。それからこいつが鳴らないんだ。…怪我してたから吹き方が下手だったのかな?」
この笛は吹き手を選ぶのだ。生意気にも。
「ほら、ここをよく見てみろ博雅。」
葉二を手にじっくりと眺めていた晴明が言った。
晴明が葉二を灯明の灯りにかざした。
「?なんだ?」
「ほら、ここだ。」
晴明が葉二の名の由来となっている二枚の葉の飾り彫りを指差した。
「お?」
灯りの下でよくよく見れば、本来ならば赤と緑のはずの葉がなぜか両方とも赤になっていた。
「博雅、なぜだかわかるか?」
俺にはさっぱりわからんと博雅が首をかしげた。
「怒ってるのさ。」
「怒る?葉二がか?」
「俺と一緒さ。お前があんまり無防備に夜な夜な歩き回って、危険な目にあったことを怒っている。」
「なんだって?こいつはただの笛だぞ。そんな感情なんてあるわけないだろう?」
「忘れたか、博雅。沙羅のことを。」
「いや、ちゃんと覚えているが?…まさか沙羅と同じだと言うのか?」
「人の姿をとって出るだけにの力はないが、まあ、同じようなものだな。」
「こいつが…。」
まじまじと感心したように葉二を見つめる博雅。
「今は怒っているが、沙羅にしたように毎日、やさしく言葉をかけてやればそのうち機嫌も直るさ。」
まあ、あんまり怒らせぬことだなと言いながら、晴明は博雅の怪我に式に用意させたさらしを巻き始めた。
「まったく。葉二でなくとも俺だって怒りたくもなる。こんな怪我しやがって。」
きついくらいにさらしを巻き終えると、その端をぎゅっと結んだ。
「痛てっ!なんだ。おぬしも怒っているのか?晴明。」
「当たり前だ。今、化膿止めの飲み薬を調合するから、ちょっと待ってろ。」
ぺしっとさらしの上から傷をたたくと、ついと立ち上がって奥へと入ってゆく。
「いってぇっ!」
叩かれたところを押さえて博雅が飛び上がった。
「まったく、あいつめ。心配ばっかかけやがって。」
ぶつぶつ独り言をいいながら棚からさまざまな薬を取り出す晴明。
「おい、まさか、その大量の薬を全部飲め、というのではあるまいな。」
背後から声をかけられて晴明が振り向けば、狭い戸口をいっぱいにふさいで博雅が立っていた。
灯明の明かりを受けて、腕組みをしながらにやにや笑っている。
その袖はまだ血がついて、切り裂かれたままだ。
「どれが一番効くかわからぬからな。いろんなものを少しずつ混ぜようかと思っている。」
「なら、俺はそいつはどれも要らない。」
「なに言ってるんだ。ちゃんと飲まないと化膿したら大変だぞ。」
腕組みを解き、晴明の元へ一足で近づくと博雅は晴明の腕を取って
「俺にとっては、おぬしが一番の薬だ。」
「ばか…なに言って…。」
晴明の声が途中で途切れた。
その紅い唇は博雅によって、あっというまに塞がれた。
博雅の強引な舌が晴明の唇を割って滑り込む。
「…んんっ。」
背を棚に押し付けられて逃げ場を失った晴明に、覆いかぶさるように博雅の口づけは続く。
「…はっ…。」
博雅がようやく晴明の唇から離れた。
「ば、ばかもの…いきなり、なにをするのだ!」
目をきらめかせて怒る晴明。
だが、怒りがすべてではないのも博雅にはわかっていた。目のきらめきは怒りばかりではない、その奥に濡れたような艶が見えている。
「俺なんかが、薬の代わりのなるわけなどないではないか!」
「そうかあ?俺はおぬしとヤレればそれで充分だと思うがなあ。でも、どうしてもそいつを飲めというなら、おぬしの口移しがいいな。」
けろっと言う博雅に晴明の本当の怒りが爆発した。
「や…ヤルって…。こ…、この痴れものめっ!!」
「ははは。怒るな怒るな。」
怒りに震える晴明の抵抗などものともせず、博雅はその場で晴明を押し倒していった。
今度、怪我をしたってもう二度と手当てなどしてやらん!と後々、うるさく言われ続けた博雅であった。
リバース