「魔 剣」 (2)
このまま、あいつの屋敷の近くまで行ってみようか。
いるはずはないと知りつつも博雅の心は晴明の面影を求める。自然と足が晴明の屋敷のほうに向いた。
月が白く照らす道をひとりゆく博雅。
おのれ以外、この世界に誰もいないかのような夜のしじま。だが、恋人を想う博雅には少しの心細さもなかった。
ところが、もうすこしで一条戻り橋、といったあたりで、道の傍らの松の木陰から黒い塊が通りに歩み出て恋人の屋敷へと向かう博雅の行く手を塞いだ。
「もうし。」
誰だ?
笛を吹いていた博雅、竜笛から唇を離すと、少しボウッとした頭を振って道をふさぐ影に目を向けた。誰一人いないような月夜に油断していたのだろうか、目の前に通せんぼをされるまで人の気配など博雅は微塵も感じなかった。
「こんな夜更けにこのような寂しいところに一人、あぶのうございますよ」
月の明かりを背にして立っているため、表情も何もわからない黒い影が言った。
「どこのどなたかは存じませぬがご心配ありがとうございます。」
少し用心しながらも、その誰とも知れぬ陰に博雅は答えた。
「あまりに美しい月に魅せられましてついふらふらと笛など吹いておりますが、もう少しで友の屋敷、どうかご心配なきよう」
笛を片手に博雅はにっこりと微笑んだ。
誰彼かまわずふりまくその人のよい笑み、もしこの先に住む友が見ていれば思いっきり眉を顰めそうである。
「そのお声、やはり博雅どのであられるな」
黒い影が言った。
「え?ああ、いかにも。」
名を呼ばれて博雅は驚いた。まさか、こんな夜分に知り合いに会うとは思わなかったからである。博雅の知り合いといえば殿上人がほとんどだ。そんな連中がこのようなところにたった一人、木の陰に潜んでいるなど考えられない。
「私のことをご存知とは、あなたは?」
のほほんとした博雅も、これにはさすがに用心深く聞き返した。
「私ですよ。」
陰はそう言うと、二、三歩、博雅に顔の見えるところまで進み出た。
月明かりで博雅にも相手の顔がようやくはっきりと見えた。
「為義どの?」
博雅は意外な人物の登場に吃驚した。確かにその顔には見覚えがあったのである。
先般、直居のお役をともにした橘為義であった。
そして、博雅の頭を先ごろ耳にした噂話がよみがえる。
確かこのお方は…。
「おや、不思議な顔をされておりますな。さては私の噂を何かお聞きになりましたか?」
博雅の頭の中を見透かしたかのように為義は言った。
「う、噂というほどではございませぬが、…あなたさまは確かお屋敷に篭られてしまったとか聞き及びました。私はてっきりお体の具合でもお悪くされたのかと」
思わずどきりとする博雅。
「まさか。見てのとおりぴんぴんしておりますよ。」
為義は口の端を小さく上げて笑うと博雅の方にズイと顔を伸ばした。
「そんなにお気を使われなくても結構ですよ博雅どの、本当は辻斬りに出会って屋敷で腰を抜かしている、と聞いているのではないですか?」
ニヤニヤ笑いながらそう言った。
「い、いや、まさかそのようなこと…。お元気であられれば何よりでございます」
ずばり、噂話の中身を言われて、自分が言ったわけでもないのに博雅は狼狽した。
「はは、あなたは本当にうそのつけない良いおひとだ。…でも、私が辻斬りに会ったというのは本当ですよ」
「えっ?」
為義の言葉に博雅はもう一度驚いた。
「それにしても、まさかこのようなところで博雅殿に会うとはねえ。」
妙に感慨深げに為義は言った。
普段、宮中で知っている為義とは何やら違う雰囲気に博雅は気づく。普段から尊大な口ききをする為義だが今はいつも以上に尊大、というか妙に自信ありげだ。
何だろう、この違和感は?
心の中で首をかしげる博雅に為義はさらに言葉を繋いだ。
「初めて対峙する顔見知りがあなたとは…何と不思議なこともあるものだ。これも天啓かな。」
為義はさらに一歩博雅に近づく。なにやら嫌な予感がざわりと胸を騒がす。
「せっかくですから少し面白いお話をして差し上げましょうか」
満面の笑みを浮かべて為義は言った。その腰にさされた為義には似合わぬ大振りの太刀の鞘が月明かりを受けて黒く光る。
「あの夜は今宵と違ってまるで墨でも流したかのような暗い暗い晩でしたね」
月を仰いで為義は話し始めた。
それはあの直居の次の夜の話だった。為義はうわさどおり本当に出かけたのであった。
為義はまだ若い童のような供を連れて夜の都に出掛けたというのである。真夜中を過ぎた時刻であったという。
先日の夜、辻斬りが出たというあたりを目指して暗闇の中を松明ひとつ点して歩く。あえて牛車には乗らなかった
辻斬りの噂を知っている供のものは大層怖がって何度も為義を止めようとしたが、この偏屈なあるじはその賢明な忠告など聞き入れなかった。むしろ、止めようとしたことに腹を立て供を足蹴にした。
「うるさい!お前は黙ってついてくればよい、ぐだぐだぬかすでないわ!」
「は、はい…」
蹴られた供の唇から血が一筋。若い供は主人の怖さにその血を拭くことも忘れて小さく項垂れた。人斬りの出たところなど恐ろしくて仕方がないが、とりあえず主人は一緒だし、その主人はちっとも怖がっていない。怖いのを我慢さえすればそれで帰れる、まだ童ともいえる年端もゆかぬ供は小さな頭で必死に自分を納得させた。
深更もさることながら、辻斬りの噂のせいか夜の都に人の姿はない、家を持たぬ乞食たちですらどこかにもぐり込んで身を潜めているようである。
ぶつぶつとなにやら一人ごとを呟やきながら歩く為義、明かりを持って前を歩く供は背後の主に言い知れぬ不安を感じ始める。
が、その為義がふいに足を止め、言葉を途切らせた。
半べそをかいていた供は、急に黙った主人を不安げに振り返った。
松明に照らされた主人は実に楽しそうな笑顔を浮かべていた。明かりに浮かぶ主人の顔にぞくりと背中があわ立つ。
「血の匂いがするな」
ぼそり、一言。
供は声にならぬ声を上げて主人から半歩退いた。
非情な主人だとは知っていたが、これは非情とは違う。
たぶん…主人は血が好きなのだ。
なんと恐ろしい…。
すぐそばで供がそのように自分を見ていることなど気付きもしない、いや、気づかれても何とも思わないのだろう為義は、嗅ぎつけた血の匂いに束の間うっとりと浸った。
昨晩この近くで人が切り刻まれた、その血が地面に染みてでもいるのか確かにあたりはなんとも言えぬ嫌な生臭い匂いに包まれていた、これを血の匂いと嗅ぎ分けるなど、およそ殿上人とは思えなかった。
が、供は考え直す。
いや、むしろこれこそ殿上人なのかもしれない。自分たち以外は人とも思わぬ種類の人間たちこそ貴族…殿上人だ。
殿上人こそ人ではない、美しく着飾ってはいるが血を好み争いを好む欲にまみれた化け物…。
普段から近くで貴族たちを観察する機会のある供には若くてもそれぐらいはわかる。
特にこのご主人さまはそういったお方だ…。
恐る恐る供は主の顔を窺った。
暗い夜の中、手にした灯かりに浮かぶその顔は、ゆらゆらと炎影に揺れてまるで妖しのようで…
じろり。
灯かりを受けた為義が供を見下ろす。
「なんだ?」
「い、いえ…何でもございませぬ…」
「…ふふ、ここが恐ろしいか?」
為義は口元に扇を当てて聞いた。実に楽しそうである
「は、はい…恐ろしゅうございます…」
声を震わせて供は言った。
なによりもあなたさまが…
声にならぬ心の声はそう付け加えていたが。
「なあに、そなたは今にここが怖くなくなるであろうよ、心配するな」
扇を外して、にやあ、と笑うと為義はまた歩き出した。
その背を見ながら年若い供は瞬時に悟った。若い自分をわざわざ選び今宵に連れてきた意味。
殺される…。
ガタガタと体中が震える。
このお方の後についていったら…殺される。
まるで獣のようなカン。供は震えながら、そうっと主人から後ずさった。
「これ、どこへゆく…」
歩を止め、あちらを向いたままのあるじが静かに言った。
「ひ…っ!」
若い小柄な供は小さく声を上げてその場に張り付いた。
あるじがゆっくりと振り向く。
「人を斬ってみたいと思ったのだ」
「ご、ご主人さま…」
あるじの手が腰の太刀にかかっているのを認めて供は掠れた声を上げた。その手から松明が落ちる。
地面に落ちた松明の明かりが為義と供の二人を照らし上げる。
「だが、私は内裏に上がる大切な体、人など斬って罪も無い咎を受けるのも困るからな、だから初めは辻斬りを飼おうかとも考えたのだが…」
気が変わった、と為義は言った。
スラリ、太刀を抜く。
「ここで斬れば私がやったなど誰も思わぬだろう、よい考えではないか?辻斬りを見物に出掛けて代わりにつれて来た家人を斬られてしまった。話の種も出来て人を斬る醍醐味も味わえて…一石二鳥とはまさにこのことではないか、なあ?」
「ひ、ひい…っ!」
真っ青になる供。逃げようとするが恐ろしさのあまり足が震えてもつれる。
「逃げるなよ…斬らせろっ!」
ガッと振りかぶって為義は力任せに太刀を振り下ろした。が、そこは普段から太刀など振るったことの無い為義。重い刀は逃げようとする供の肩口をわずかに掠っただけで、斬り殺すなど到底出来るものではない。理想と現実は違うのだ。
「ええい、くそっ!上手くゆかぬっ、逃げるな!!」
ぶんぶんと滅茶苦茶に太刀を振り回すが、逃げるほうも必死である。
「お、お助けをっ!!」
かすり傷程度は負わせられても致命傷までには至らない。
はあはあ、と息切れしながら太刀を振るう為義の頭の中を先日見た場面が浮かぶ。どこぞの貴族の依頼か、帝の寵姫を狙った刺客を同じ近衛府の源博雅が一太刀の元に切り伏せたことを。
まるで一陣の旋風のごとき太刀筋であった。
笛を吹くぐらいしか能がないと思っていたあの博雅が。
…無性に腹が立った。
「あんな奴にできて、私にできぬことなどあってたまるか!」
額に汗を浮かべて大きく振りかぶり、鬼のような形相で、悲鳴を上げて逃げ惑う供に渾身の力を込めて斬りつけた。
ガキンッ!
わずかに避けられた太刀は、供の背後にあった岩にぶつかって鈍い金属音を響かせてぼっきりと折れてしまった。
「くそっ!」
汗だらけになって為義は手にした折れた太刀を睨みつけた。
そのときである。
足先になにかがコツンと当たった。。
「なんだ?」
下を見おろすと。
「太刀?」
暗い夜の星明りを受けて、うっすらと太刀らしきものが見えた。
何故そんなところに太刀があるのか今の為義にはどうでもよいことだった。
「これはちょうどよい」
折れた太刀を放り捨て、為義はそれを手にした。
黒い鞘から為義は躊躇うことなく刀を抜いた。闇夜の中でその刀身が鈍く光る。
殺すほうも殺されるほうも、まるでそのうす青い光に魅入られたかのように一瞬動きを止めた。
先に動いたのは為義のほうだった。
「なんと素晴らしい…まるで手のひらに吸い付くようではないか」
ズシリ重いが、初めて持ったとは思えないほど、その刀は為義の手にしっくりと馴染んだ。
「これならば、よく斬れそうだな」
ニヤリ笑った顔にはもう一粒の汗も浮いていなかった。
「ま、まさか…」
博雅は言葉を失って為義を見つめた。
得意げに話す為義のその顔はやや常軌を逸しているように見えた。
「少しあなたの気持ちがわかった気がいたしましたよ」
「わ、私の気持ち?」
「前に一度あなたが宮中で刺客を切り伏せられたのを見たことがございました。いや、あれは実に見事でした。こう、ばっさりと振り下ろされる太刀はまるで稲妻のごとく。あれほどの剣の腕、宮中のボンクラどもの中にはまずおりますまい。」
すらり、腰の太刀を抜くと為義はそのときの博雅の太刀筋をゆっくりと真似てみせた。
それはとてもゆっくりとではあったが、博雅の背中を嫌な感覚が走る。
「相手の肉を刀が切り裂いてゆく…あの感覚は堪りませぬなあ」
「な、なにを馬鹿なことを申されるか、為義どの。私はそのようなこと思ってもみませぬ」
博雅は戸惑う。帝の御為、そのような不埒な者を斬って捨てたことはあるが、それを楽しいなどと思ったことなどあるわけがない。
「おや、博雅どのはそうは思わぬのですか?」
為義は意外そうに顔をしかめた。
「なんと勿体無い」
「勿体無い?そのようなことを言われるとは…為義どの、どうなされたのです?それに先ほどのお話だと、まさか供のお方を…」
抜き身の刀を下げて立つ為義に向かって博雅は慎重に尋ねた。
まさかとは思うが…。
「ああ、さっきの話ね。もちろん追いかけて斬り殺しましたとも。ひいひい、泣いて逃げ惑われてちょっと手惑いましたがね。でも、初めてにしてはとてもうまく出来たとほめられましたよ」
それにしても楽しかった、とそう言ってくすくすと為義は笑った。
「楽しい?それに褒められた、ですって?いったい誰にです?」
その博雅の言葉に、為義は手にした太刀を目の前に掲げた。
「こいつに決まってるでしょ?」