「魔 剣」 (5)
「血だ…血だ血だ…ヒ、ヒヒッ…」
乾いてひび割れた博雅の唇から、まるで妖しのような言葉が下卑た笑いとともにあふれ出す。そして人とも思えぬ笑みを浮かべたままあろうことか博雅は刀身に滴る血を舐めようと妖しの太刀に顔を近づけた。べろりと突き出した舌が妖しの血に触れようとしたその時、その博雅の我を失った目を破寺のぼろぼろの壁に開いた針先ほどの穴を抜けた青い月の光が射抜いた。
「うっ!」
その清浄な光に思わず目を瞑り妖刀から顔を背ける博雅。
ハッ…!
虚ろだった博雅の目に理性の光が戻った。その目が自分が掲げ持っている血まみれの妖しの太刀を見て驚きに大きく見開かれる。
な…なんだ…これは…?
刃を伝って自分の手を濡らすこれは…血?
まさか…。
ふら、と一歩下がった博雅の踵がなにか柔らかいものをぐにゃりと踏んだ。思わず振り返り見下ろす博雅。
「あ!…ああ…なんてことだ…」
博雅の口から嘆きの言葉がついて出た。
それもそのはず、そこには息絶えた妖しの顔が恨めしげにギロリと博雅を見上げていたのだ。
「そうだ…おまえたち…」
自分を見つけて嗤った妖したち、そのおぼろげな記憶が蘇ってくる。
…それらを斬り捨てた記憶も。
「だから逃げろと言ったじゃないか…」
カッとこちらを見据える妖しの顔に向かって博雅は力なく言った。
がっくりとした顔を上げてよくあたりを見回せば、それらの体の部位やはらわたらしきものが床といわず壁といわずあたり一面に飛び散っている。
まるで先日見た辻斬りのあとそのものではないか…いや…それよりもっと酷い…。
信じたくはないが、手にした妖しの太刀に伝う血が全てを物語る。
これは俺がやったのだ…。
ひとのやることではない…。これは殺しを楽しむもののすることだ。これでは為義どのと同じだ…。
流されたばかりのまだ暖かい血がむせかえるような生臭い臭いを放つ。
気分が悪い…。
体の力が抜け、博雅はよろよろとよろめいた。板壁に背を預け、そのままずるずると床に座り込む。
妖しの太刀を持っていないほうの手が床で何かで濡れた。
水?
いや、このぬめり…雨水や露の感触ではない。
月の光がなくとも手のひらを伝わる感覚でわかる。
…これも…血だ。
その肩が力なく落ちる。やがて血に濡れて黒く光る自分の両手と、ずっしりと返り血の染み込んだ衣を見下ろした博雅、
「見ろよ…血まみれじゃないか、俺…ハ…ハハ…」
そう呟いて乾いた笑いを上げると、自分の膝頭を引き寄せその上に顔を突っ伏した。
「…晴明…」
くぐもった小さな声が寺のお堂の中にぽつりと響いた。
青い月が照らす夜の中、生い茂る草むらから虫の音だけがリーリーと静かにこだまする。
まるで石のようにしばらくそのまま動かなかった博雅だったが、やがてその顔がゆっくりと上がった。自由がきくほうの腕で、博雅は自身の着ている水干の懐から細い小さな小刀を取り出した。博雅がいつも篳篥の舌を作るときに使う、刀というよりは道具といった程度のものである。が、博雅が口で咥えて鞘を取り去ったその刃は鋭い。
博雅はその鋭い切っ先を言うことを聞かぬ自身の利き腕に向けた。
顔を上げたその目に涙はない、あるのは強い決意。
「よく聞け…妖しの太刀よ。」
手から離れぬ妖しの太刀に向かって博雅は語りかけた。
「俺は帝に仕える近衛だ。だから時として帝のおん為、刀を奮って人の命を奪うこともある。だがそれは自分の命に代えても帝をお護りする、それが俺の仕事だからだ。なのにどうだ、今の俺は?体中血まみれで、まるで血に飢えた妖しか、けだもののようではないか。…俺はそんなものになど成り下がるわけにはゆかぬ。」
博雅の小太刀を握った手に力がこもり拳の先が白くなった。その手が高く上げられる。
「たとえ…たとえ、この腕を失おうともなっ!」
そう言うや、博雅は手にした小太刀を自分の腕に向かって力任せに振り下ろした。
「博雅っ!!」
寺の入り口の板戸が左右に大きく開かれ誰かが博雅の名を叫んだ。そして声とともに真っ黒な陰が博雅の目の前に飛び込んできた。
「!?」
驚く博雅。だが、勢いのついた小太刀の一撃は止まらない。鋭い切っ先が博雅の前に飛び込んできたその影に吸い込まれる。
「ぐっ…!」
影が声をかみ殺しビクッと体を引きつらせた。
「え?あ?」
一瞬何が起こったかわからず博雅は戸惑った。その博雅の手を掴んで小太刀から引き離す黒い影、その影の主に開け放たれた板戸から差し込む月の光が当たった。
青い月明かりに透き通る白いかんばせ、切れ長の瞳。
険しく顰められたその瞳が博雅の瞳をギリッと捕らえた。
「何をやっている、この馬鹿が!」
博雅に向かって厳しい声が飛んだ。
「妖しなどのために自分を傷つけようなど言語道断だ!わかっているのか、博雅っ!!」
続けさまに怒鳴りつけられて博雅は目の前の人物が誰であるかにようやく気付いた。
「せ…晴明…?」
「当たり前だ!俺のほかに誰がいるというのだ!」
厳しく顰められた目が博雅の目としっかりと合った。
「な、なんで、おまえがここに?」
確か晴明はいないはずではなかったのか?
「博雅、おまえは為義どのに俺を呼ぶよう頼んだそうだな?」
そうだ、晴明を呼んできてくれと必死の思いで為義どのに頼んだのだ。しかし、待てども待てども晴明は来なかった。だからてっきり晴明は都にいないのだと思ったのだ。
そんな博雅の心の中を見透かしたように晴明は続けた。
「あの男がまともなことをすると信じたとは実におめでたい男だな、博雅。あの腰抜け男はおまえの剣に恐れおののいて一目散にその場を逃げ去り俺を呼びになど来なかったのだ。俺の屋敷にさえ来れば、たとえ俺が留守にしていようとお前の願いは必ず聞き届けられたというのに、だ。」
「そ、そうか…為義どのは行かなかったのか…。」
「当たり前だ。来るわけがない。」
ピシリと晴明は言い返した。
「それにしても、ほんの少しの間でも俺が都を留守にすればこの始末。ひとか妖しかもわからぬ辻斬りが徘徊する真夜中に笛を吹いて歩くなど、およそバカのすることだ。」
分かっているのか、と晴明は険しい顔をして博雅を睨みつけた。
「す、すまない…でも…」
「でも、月が綺麗だったのだ、などという言い訳は聞かないからな」
博雅の先手を打って晴明が言った。
さすがにしょぼんとした博雅、確かに言い訳にはならない。思わず顔がうなだれる。
と。
晴明が急に博雅の腕を引いた。博雅の体が晴明の方に引き寄せられる。
「しかし、それが本当のところなのだろうな。まったく…世話が焼ける」
怒っているはずの晴明のその声が少し優しくなったように聞こえた。
「す、すまぬ…」
晴明の白い狩衣に顔を埋めて博雅がもう一度小さく謝った。
「それにしても派手にやったものだな」
博雅の体に腕を回したままあたりを見回して晴明が言った。月夜のおかげではっきりと見て取れるまるで池のような血溜まり、断ち切られて転がる妖しの死骸。ここで何が起こったか誰の目にもあきらかである。
「妖しを二匹か。これまでで一番手錬れの辻斬りだな」
「せ…!」
バッと顔を上げる博雅。
「だが、相手がこいつらで何よりだった」
なんとも悲しい顔を上げて晴明を見上げた博雅に向かって晴明が言った。
「こいつらなら何度殺しても罪にはならぬさ博雅。今までに何人ひとを食らったかもわからぬような連中だ」
いまだ目を剥いてこちらを睨んでいる妖しの頭をちらりと見下ろして、晴明はむしろ手柄だ気にするな、と博雅に言った。
「う…うむ…」
自分が罪の意識を感じているのに気付いて、わざわざそういう風に言ってくれた晴明に、博雅は深く頷いて頭を下げた、と、晴明の袖が目に入る。
「え?あっ!!…し、しまった!!」
ふいに現れた晴明の姿に驚いていた博雅、自分の腕に突き立てるはずだった小刀を代わりに晴明が受けていたことをすっかり失念してしまっていた。白い狩衣の袖に突き立ったままの小刀、博雅はあわてて晴明からガバッと身を引き剥がした。
「お、俺は、な、なんてことを…っ!!」
「なに大したことはない。心配には及ばぬ」
晴明の腕を取って慌てる博雅に、小太刀が突き刺さる瞬間に少し腕を逸らせたからなと、晴明はちょっと笑ってそう言った。
「かといって、安心するのもまだ早いがな。」
そういうと少し顔をしかめて腕に突き立つ小刀を抜いた。
刃によってせき止められていた血が白い狩衣の袖にじわりと染み出す。
「…あ」
それに目を留めた博雅の口から小さく声が漏れた。
「そう、安心するのはまだ早い…色々とな。」
血に染まり始める晴明の袖から視線をはずせない博雅をちらりと見ると、晴明は立ち上がって自分の後ろ、つまり寺の入り口のほうに向かって声をかけた。
「保憲さま」
「おう」
晴明の呼ぶ声に返事があった。その声に博雅も晴明の袖から目を外し寺の入り口に顔を向けた。
そこからのそり、真っ黒な水干に身を包んだ晴明の兄弟子、加茂保憲が入ってきた。
「や、保憲さま?」
加茂保憲といえば陰陽寮の長である。今まで晴明しか目に入っていなかった博雅は、晴明どころかその保憲までこんなところに来ているのに驚いた。
「やあ、これは博雅さま、この度は大変なことでございましたなあ」
寺の中をぐるりと見回すと保憲はのんきな声でそう言って、博雅に向かって軽く頭を下げた。
「なかなかの惨状ですな。お怪我はございませぬか?」
晴明同様こういった現場には慣れているのか、惨状を呈している寺の中の様子に保憲もさして驚いた風もない。
「あ、いえ、私は怪我など。それにしても保憲さままで。」
「博雅さまの一大事とあればこの保憲、どこにおりましょうとも必ず馳せ参じますとも。なにしろ博雅さまは私めのお気に入りでございますからね」
博雅に向かって保憲はにっこりと愛想のよい笑顔を見せた。
「余計なことは仰らなくていいです保憲さま。」
そんな保憲に冷たい口調でぴしゃりと言うと晴明は保憲を手招きした。
「博雅さまと仲良くなろうとすると邪魔をする、それがおまえのよくないところだぞ」
口をへの字に曲げて晴明と博雅ふたりの方へと歩み寄った保憲、晴明の袖が赤く染まっているのに目を留めた。
「なんだ、怪我をしたのか。陰陽師にあるまじき失点だな」
博雅に話しかけたのとは随分と違う冷たい口調で保憲は晴明に言った。
「いえ、これは私が…」
しゅんとした顔で博雅が言った。
「おや、これは博雅さまの仕業でございましたか。それじゃあ晴明も本望でございますなあ」
「私はまだ死んでおりません」
「怒るな怒るな。軽い戯言だ晴明。」
ムッとした晴明の返事に鷹揚に笑うと、保憲は博雅に背を向ける格好で晴明の怪我の具合を月明かりで透かして見た。
「致命傷には程遠い場所だ。気にすることもない。そうだ、俺が手ずから手当てをしてやろう」
と続けた。
それから声を落とすと、後ろの博雅に聞こえぬよう小さな声で晴明に尋ねた。
「どうだ?」
保憲は赤く染まった晴明の袖をビリッと引きちぎると、その袖の端で怪我の血を拭った。
「…ッツ。今はどうやら博雅の気が勝っているようです。」
わずかに顔を顰めて晴明もまた小さな声で答えた。
「そうだろうな、妖しの血とはいえこれほど大量の血だ、妖刀も今はとりあえず満腹といったところか」
「おそらく」
ちぎった袖を止血のために怪我の上にきつく巻く保憲、その保憲に向かって晴明がうなずく。
「やるなら今だな。だが…大丈夫か?」
「大丈夫って、何がです?」
保憲に聞かれて晴明は片眉を上げた。
「博雅さまはそこらの貴族連中とは違って腕が立つ。為義のような青瓢箪ですらあれほどに簡単に人が斬れたのだ、博雅さまならどれほどの剣さばきであるか。おまけにこの傷だぞ。」
布の端を結びながら保憲は言った。博雅にはたいしたことはないと言ったが妖しと戦うとなればやはり手傷を負っているのは不利だ。
「あの程度の妖し相手にこれぐらいの傷たいしたことはありませぬ、それに博雅が強いことはよく知っていますが、私も意外とそれなりに。」
布を巻きつけた手を握ったり解いたりして指の動きに支障のないのを確かめると晴明はちらりと博雅のほうに目をやって答えた。
「ほう?おぬしに武芸の習いがあったとは知らなかったな。」
「自己流ではございますが。それにこれは人任せにはしたくない仕事でございますれば。」
実戦的な陰陽師として数々の修羅場を踏んできた晴明はそう言うとちらりと博雅の方を見つめた。
その目に映るは妖しの太刀。
「なるほどね」
晴明の目にギラリと光る殺気に保憲はやれやれと肩をすくめた。どうやらこの麗しの陰陽師は、恋人をこんな目にあわせた妖刀にそのツケをどうしても払わせたいらしい。
「まあ頑張れ。やばくなったら助けてやる。」
その心配はご無用です、と答える晴明に保憲はそういって笑うとその手にあるものを渡した。
「いったい保憲さまとふたりで何を話しているのだ、晴明?」
その二人に向かって博雅が聞いた。
「おまえに余計なちょっかいを出さぬように言ってきかせている」
「おいおい」
しれっとした顔でそう答える晴明に保憲は思わず苦笑いをした。
「何を馬鹿なことを」
「俺は至って真面目だ。それよりここを出るぞ、博雅」
晴明の返事に困った顔をしていた博雅だったが、晴明からそう言われて手を差し出されると意外や首を振った。
「いや…せっかく来てくれたのに悪いと思うんだが…先に行ってくれないか。…俺は後からゆく」
「後から?」
「どういう意味です、博雅さま?」
晴明と保憲、二人に聞かれて床に腰を下ろしたままの博雅はちょっと俯いた。
「…実を言うと少しばかり気分が悪い」
「なら、なおさら。こんな血溜まりの中にいてはいけません。出ましょう博雅さま」
と、保憲も手を差し出す。
「ええ…でも少し休んでからゆきます。大丈夫…どうぞ先に行ってください」
かたくなに博雅は首を振った。
さっき晴明の腕に滲む血を見てから身体に異変を感じている博雅、また再び妖刀に意思をさらわれたら保憲と晴明、このふたりに何をするか自分でも自信がなかった。しかも、今感じている異変は、なぜかはわからないが先ほどの妖しどもに感じたものよりもっと強く激しい。
晴明に助けを求めていたはずの博雅だったが、一番大切なひとでもあるその晴明を傷つけてしまった今は、自分のことよりも何より一番に晴明の身の安全のほうが心配になっていたのだ。
これ以上晴明を傷つけるわけにはいかない。もしや殺してしまうかも…。
考えるだけで胸が詰まる。
…自分でなんとかしなければ。
博雅が思いつめた目で晴明を見上げた。
「ほんとに馬鹿だな…博雅」
晴明の目に蒼い炎が灯った。
「え?う、うわっ!!」
ビュッ!と博雅の目の前を銀の光が掠めた。驚いて飛び退く博雅。
「な、何をする、晴明!」
自分を助けに来てくれたはずの晴明の手に光るのは…抜き身の小太刀。今のは晴明が懐に忍ばせていた小太刀をなぎ払った刃の閃光だったのだ。
よろめきながらも立ち上がった博雅の目が驚きに見開かれる。
「お、おぬし、な、何でそんなものを…わっ!」
再び目の前を晴明の太刀の一閃が走る。
ギンッ!
博雅は思わず妖刀でそれを跳ね返していた。
「あっ!!せ、晴明、すまぬ!だ、大丈夫か!?」
つい反射的に身体が動いてしまった博雅、あわてて晴明の元へ駆け寄ろうとした。が、その博雅の目の前に晴明の刀の切っ先が向けられた。思わず言葉を詰まらせ立ち止まる博雅。
「せ…!」
立ちすくむ博雅に向かって晴明は小太刀を手に、鷹揚に微笑んだ。
「なに謝る必要などないさ、博雅。打ち込まれれば己の意思とは関係なく自然と身体が反応する。あの為義殿とは比べるべくもない。まさしくおぬしこそ武士(もののふ)の名にふさわしい。」
博雅を見てそう言った。それから次に博雅の手にある妖しの太刀に向かって晴明は続けた。
「ようやく望んだ宿り主を見つけたな、妖刀よ。だが、ほかの連中ならともかくも、この男はだめだ。…おまえになど渡すわけにはゆかぬ。」
そう言うと晴明は博雅に刃を向けたまま、もう片方の腕を自分の脇にまっすぐ突き出した。その手がぎゅっと拳に握り締められている。先ほど怪我をした方の腕だ。
博雅に刺された傷から伝い出た血がその拳の先より一滴のしずくとなって滴った。
ポタリ。
晴明の足元に血の雫がほんの小さな音を立てて落ちた。血の雫は乾燥しきった寺の床板にあっという間に吸い込まれて、そこに黒い小さな染みを作った。
それに目を留めた博雅、その体の中をドクン!と強い鼓動が響き渡った。
「あ…?」
くらり、頭の芯が揺れる。
博雅はよろけそうになった体を寺の板壁に手をついて支えた。
「な、なんだ…?」
眩暈がする。
体がおかしい。
揺らめく視界をはっきりさせようとぶるぶると頭を振る博雅。
と。
ポタリ。
二滴めの、音とも呼べないその小さな音に博雅の全神経が引き寄せられた。振っていた頭をぴたりと止めた博雅、顔を俯けたままその目だけがギョロリと晴明の方に向いた。まるで卒塔婆の陰に潜む飢えた餓鬼のようなその目つき。普段の博雅からは到底考えられないほど卑しいその視線の先にあるのは…。
晴明の手。
手…いや…正しく言うならば、拳に滲む晴明の血だ。
…自分は「血」から目が離せないのだ。
あの「血」が欲しい。
そう気付いた途端、博雅はゾッとした。目にも瞬時にして理性が戻る。
二匹の妖しの血を吸って大人しくなったかに見えた妖刀が、今再び自分を支配しようとしている。
「ま、まずい…」
物言わぬこの妖刀が自分を使って何をしようとしているのかはもう歴然としている。
…切り刻みたいのだ。
先ほどの二匹の妖しにしたように。
ただし今度は…晴明を。
骸と成り果てた晴明の顔が脳裏に浮かぶ。
紅い唇からそれよりもっと赤い血が流れ、いつもは美しく怜悧に澄んだ瞳が木のうろのように光を失って…。
だめだ!絶対にだめだ!!
そんなことは絶対許されない!が、そんな博雅の意思に反して妖刀を持った博雅自身の手がキリキリと機械細工のように上がり始めた。体のどこか深いところから黒い欲望がわきあがってくる。
斬れ…キレ…殺せ…コロ…セ…
血…チ…血…
頭の中に人ではない何かの声が響く。
血…チ…チ…血…
頭の中にその声無き声が響くたび、博雅の目が餓鬼とひとの間を反復する。
「くそっ!…に、逃げろっ!晴明っ!」
妖刀に引きずられそうになる意思を必死に引き戻して博雅は振り絞るように声を上げた。だが、晴明は逃げるそぶりも見せない。むしろ妖しをさらに挑発するように嘲りの笑みを浮かべた。
「浅ましいものよな、あれほど血を吸ったのにまだ血が欲しいのか、妖しの太刀よ」
言うや、晴明は血に濡れた自分の拳を博雅の目の前に向かって突き出した。
「それとも、俺の血だからかな?」
「う…っ!」
その拳から思わず身を引く博雅。が、目は晴明の拳に張り付いたままだ。どうしてもそこから視線が外せない。
「我ら陰陽師の血は妖しにとって格別らしい。旨いかどうかは知らぬがな。」
妖したちにとって徳を積んだ僧侶や陰陽師は天敵である。が、逆にそのものたちを食らえばその力はそのまま妖しの力となる。妖刀にとっては晴明は怖い存在であると同時に求めてやまぬ力の源でもあるのだ。晴明の血に比べれば先に食らった小物の妖しなどものの数ではない。
「せ…晴明!な、何を言うっ…ウ、ウウ…ッ!」
自ら妖しに狙わせるようなことを言う晴明を止めようとする博雅、だがその声が苦しげに詰まる。と、その手の妖刀がカタカタと小刻みに揺れ始めた。
柄から手のひらを伝って脈打つ鼓動とともに博雅の身体の内を這い登ってくる得体の知れぬなにか。
「うあ…あ…」
妖刀を握り締めて博雅が震えた。
「おい、晴明、大丈夫か?」
「もちろんです、保憲さま。博雅はそんなに弱くありませぬ」
心配げに声をかける保憲に晴明は答えた。
「せ、晴…明…に、逃げろ…逃げてくれっ…!お、俺は、こ、このままだと…おぬしに、き、きき、斬りかかるッ!」
晴明の言葉通り、博雅は勝手に動き出そうとガタガタと激しく震える腕を強い意志の力で抑えつけ歯を食いしばりながらそう言った。
「ほらね、言ったとおりでしょう?私の博雅は古びた刀ごときにそんなに簡単に負けませぬよ」
「私の、って」
やれやれと保憲は肩をすくめた。
「でも、これ以上博雅の意志を試すのもどうかと思いますゆえ…」
そう言うと晴明は握り締めていたこぶしを開いた。
…リィ…ン…
手のひらから金色に光る小さな珠が転がり落ちた。
鈴である。
晴明の指に付けられた細い紐につながれた小さな鈴、それが落ちた衝撃でポンポンと宙で跳ねながら涼やかな音を放った。
人差し指の先ほどの小さな鈴が放つ音、決して大きな音ではない。が、それでもその音は寺の中一面に響きわたった。
リン…リリ…ィン…ン…
晴明が鈴のついた紐を小さく上下に揺すると、鈴の音はまるで水に落とした小石がその波紋を幾重にも広げてゆくように広がる。
血だらけの惨状を呈する寺の中、現状は一向に変わっていないはずなのに鈴の音色とともに血なまぐさい淀んだ空気が薄まり、あたりに清浄な気が漲り始めた。
その清浄な気に怯えているのか、斬り刻め、早く早く、と、頭の中に響く声なき声が博雅を追い立てる。
「や、やめろ…う…うるさ…いっ…!」
頭の中に響く囁き声から逃れようと激しく頭を振る博雅、が、その囁き声がまるで無数の虫の羽音のようにさわさわとうるさいほどになった時、先ほどの妖しを斬った時の感触が博雅の手のひらに快感として蘇ってきた。
刃が肉に食い込む感触。
大骨を断ち斬ったときのゴツリとした手ごたえ。
噴き出す血が刃を伝い手のひらと柄の合間を濡らした、あの時の生暖かくぬるりとした感触。
「あ…あ…あ…」
じわり、と博雅の額に汗が滲む。
苦しさを耐えるのは意思の力で何とかなるものがある。が、恍惚とした快感を拒むというのは生半なことではない。快感は麻薬のように人を狂わせるものがある。ましてや心の中に妖しが忍び込みつつあるのだ。
「博雅!妖しに引きずられるな。この鈴の音に心を集中させろ。」
晴明の厳しい声が飛ぶ。
「ハッ!…う…う…むっ!」
その晴明の声に、博雅は歯を食いしばって頷き、その目を閉じると手のひらによみがえる感触を振り払って言われたとおり意識を鈴の音に心に集中させた。
リ…リ…ィ‥ン…ン…
鈴に、いや、晴明に向かって開かれた博雅の心、そのときの博雅の心は誰よりも清らかでそして強い。
博雅の内からあふれる澄んだ気と護法の鈴がその音色に乗せて溢れさせる澄んだ気。その二つの清浄なものがひとつとなって博雅の体から妖しの太刀へと逆流する。黒い濁流が澄み切った清流の流れに押し戻されるように。
追いつめられて、再びその本体である古びた刀へと戻ってゆく妖しの太刀の気。さっきまであれほど心をざわめかせていた殺しの衝動が博雅の中から潮が引くように引いてゆく。
「どうだ、この音が怖いか?妖しよ」
博雅の中で妖しの力が清浄な鈴の力に押し返されつつあるのを見て取ると晴明は言った。博雅の手の妖刀が怒りのあまりか大きくガタガタと振れる。
「くっ…!」
まるで亡者がしがみつくように手から離れない太刀、その太刀の激しい動きに博雅が唇を噛み締めて耐える。
「これはみ仏さまの護法神迷企羅(メキラ)大将さまの鈴。み仏さまを信じるものを護る法具だ。返して言うなればみ仏さまの道を大きく踏み外しているおまえの邪まな欲望を封じるためのものだ。」
リンリンと鈴が鳴る。
「これがお前の息の根を止めるのだ。さぞ恐ろしかろうよ。そして、俺に腹が立ってもおろうな」
クククッ…と晴明が嗤う。
自分を封じ込めようとする晴明に怒りが収まらぬのか、ガタガタとさらに激しく妖しの太刀が揺れる。大きな力が博雅の体を引っ張る。
「せ、晴明っ!」
意志と関係なく、太刀に力まかせに体を引きずられそうになって博雅が助けを求める。
「もう少しです、頑張ってください、博雅さま」
晴明の代わりに保憲が答えた。
「は、はいっ…!」
そう博雅が返事をしたのとほぼ同時だった。
ピシッ!
妖しの太刀に小さなひびが入った。
ピシ…ピシ…
ひびが走るように大きくなる。
「ほらほら、そなたの体にひびが入ったぞ。」
鈴を鳴らしながら楽しげに晴明が笑う。
激しく震えていた妖しの太刀がついに動いた。
「う、うわっ!」
ものすごい力で体ごと妖しに引きずられて博雅が大きな声を上げる。
「ほう、意志などろくすっぽないと思っていたが、己の身が危ないとなればさすがにそういうことも言っておれぬか?」
鈴を手にした晴明の唇の片端が嘲りの笑みを浮かべた。
つんのめるように妖しの太刀に引きずられた博雅が、いや、妖しの太刀自身が晴明に向かって斬りかかった。
「せ、晴明っ!!」
博雅の脳裏に浮かぶ晴明の血まみれの姿。
「そういう妄想はやめてほしいものだな」
迫りくる太刀を避けるそぶりも見せずに晴明は嗤った。
ひらめく閃光。
キィ…ンン…!
ドウ…と寺の腐った床に突っ伏したのは晴明ではなく博雅のほうであった。
「だ、大丈夫でございますか?博雅さま?」
保憲がうつ伏せに倒れ伏した博雅に駆け寄る。
肩に手を入れて仰向かせ抱きかかえた。
「や、保憲さま…だ、大丈夫にございます…」
土や埃で汚れた顔にいかにもホッとした笑みを浮かべた博雅は答えた。
その手から半分に折れた太刀がカランと落ちる。
「せ、晴明は…?」
自分が斬りかかってしまった恋人の姿を探して博雅は保憲の体の向こうを覗き込んだ。
「ああ、あれならば大丈夫、殺したって死にやしませぬよ」
博雅の視線を追って保憲も振り返った。
「誰が殺したって死なないですって?」
「せ、晴明!大丈夫だったか!」
落ち着いた晴明の声に博雅が身を乗り出し声を上げた。
「決まっておりましょう」
ひびが入っていたとはいえ、妖刀を一刀の元に分断した小太刀を朱鞘に収めながら、いつもと変わらぬ涼しげな顔をして晴明は博雅を見下ろして答えた。
「よかった…」
その顔を確認して心底ほっとして力が抜けた博雅、ぺたりと床に座り込んだ。
「あの程度の妖しに負けていては陰陽師など勤まりませぬ。あれもあなたや為義などより、はなから私や保憲さまのところに来ればよかったのです。そうすればその場でへし折ってやったのに」
「怖いなあ」
保憲は思わずにやにやと笑った。
晴明は大事な恋人をいいようにされたことがよほど気に食わないと見える。今までほとんど感情的になったのを見たことがないこの弟弟子のその珍しい様子に保憲の口元が緩む。途端にギロリと睨まれた。
「保憲さま、その変な顔を引っ込めて少し手伝ってもらえませぬか」
「へ、変な顔って…」
兄弟子に対して言う言葉か。
「これ、晴明!保憲さまになんてことを!す、すいません保憲さま!」
保憲に代わって博雅があわてて晴明を制する。返す言葉で保憲にも頭を下げた。たった今まで妖しに憑かれていたというのに博雅も大変である。
「なに、いいんですよ。どうせ私は元々変な顔でございまして。さて、で、晴明、何を手伝えって?」
とりなす博雅ににっこりと微笑んでから保憲は晴明に向き直った。もちろん博雅に向けたとっておきの笑顔は引っ込めて。
「折れてしまったとはいえ、まだそれが妖しのものであるのは変わりありませぬ。」
ふたつに折れて足元に転がったままの古びた太刀を指差して晴明は言った。
「これにはまだ人に取り憑くぐらいの妖力は残っています。よほど、血に飢えた者の持ち物だったとみえます。」
「ふむ、確かにな。」
妖太刀からいまだ立ち登る妖気に気付いて、保憲は眉をしかめた。
「これをここに置きっ放しにしていったら、また今回と同じようなことが起こるだろうな。」
このような荒れ寺には、その日の飯にも飢えたものや強盗夜盗の類いがいくらでもやってくる。そのようなものたちを支配するぐらいの力はこの妖しの太刀にはまだ悠々と残っている。きっとまた同じようなことが繰り返されるであろう。
「では、これを処分するのは都の守りをするあなたさまのお役目にございますな。」
「は?」
「そうでございましょう?この都の天と地を守り、帝にお仕えするのは陰陽寮のお役目であり、責任でございます。となれば、都を震撼させる妖しの太刀を取り締まるのはそのその陰陽寮頭、保憲さまのお役目に相違ございませぬ。」
「な、なんだ、その三段論法は?」
「というわけで、後は宜しくお願い申し上げます。」
あっけに取られる保憲に背を向けると、晴明は地面に座り込んだままの博雅の元に跪いた。
「大丈夫か、博雅?」
「ああ、なんとか。」
晴明を見上げて博雅が掠れた声で答えた。
「しかし晴明、保憲さまに無理を言ってはいかん。おまえも陰陽寮のひとりではないか。」
汗と土くれで汚れた顔をしかめて博雅は晴明に諭す。
「なに、気にすることはない。俺がいつも保憲さまの面倒な依頼を受けていることは知っているだろう?だから、たまの俺のお願いなどお心広い兄弟子さまは快く引き受けてくださるのに決まってるさ。」
博雅の顔の泥を拭って晴明は言った。
「聞こえよがしに言いおって…。」
その後ろで保憲は渋い顔をした。が。
「まあ、いいさ。手伝おうと言い出したのは俺だし、なによりこんな目の前でいちゃいちゃされたら、妖しの一匹も退治しないとやってられないからな。」
そういって肩をすくめた。
「あとの始末は俺がやっておく。おまえは大事な博雅さまの手当てに専念してくれ。」
晴明に向って手のひらをひらひらと振って言うと、保憲は床に転がる妖刀を足で踏みつけた。
「さて、ではこの都一番の陰陽師がそなたの息の根をとめてくれようか?」
「せ、晴明。いいのか?」
「いいって、何がだ?」
「保憲さまを置いてきてしまって?」
そう博雅が聞いたのは、破れ寺からの帰りのことである。肩に博雅をつかまらせながら晴明は呆れたように言った。
「いいに決まってるだろうが。本人も言ったとおり、あのお方はこの都一番の陰陽師だ。あの程度の妖しを退治るぐらい造作もない。心配など無用だ。」
そんなことより、と晴明は片袖でぐるぐる巻きにした片手を博雅の前に差し出した。
「こっちのことを心配してはくれぬのか?」
「あっ!」
どうやら保憲を心配するあまり本気で晴明の怪我のことを失念していたらしい博雅、びっくりして飛び上がった。
そして、ガバッ!と晴明のその手を掴むと
「せ、晴明!す、すまぬ!お、俺…」
言葉に詰まり、その目からぼろぼろっ、と涙が溢れた。
「お、俺のせいでこんな酷い目にあったというのに、お、俺ときたら…」
「まあ、よかろう。それぐらい泣いてくれれば十分だ。」
泣き顔の博雅を見て晴明はにこりと笑って答えた。
「せ、晴明…」
おまえって、なんていい奴なんだ、と言いかけた博雅。が、次の言葉でそこから先の言葉が止まった。
「なあに、残りの分はその身で返していただくからな」
「の、残りの分??」
「妖し退治の報酬のことだ。まさか博雅、ただでこの俺が働いたと思っていないだろうな?この怪我の分は今の涙でちゃらにしておいてやるが、その他の分はきっちり頂くぞ。」
そう言うや晴明は指を折って数え始めた。
「為義どののところにわざわざ出向いておぬしの行方を捜した分、保憲さまに手伝って頂いた分、あの妖しを倒すためにみ仏の護法神迷企羅大将の鈴を調達した分、と…さて、ほかにまだ何かなかったかな?おお、そうだ、為義どののところに行ったついでにあの家の家人も助けてやったな.。その分もまとめて報酬を頂こうか」
「せ、晴明!」
あんぐりと口を開けて晴明の数え上げるのを聞いていた博雅だったが、そこでハッと我に返った。
「ほ、報酬っていうのは‥」
「さっきも言っただろう」
ちろんと博雅の上から下まで眺めると、晴明はニヤと笑った。土くれに汚れた博雅の頬がボッと真っ赤に湯だった。
「さて、ではゆこうか」
晴明が博雅の体をグイとその身に引き寄せて一歩踏み出した。
「ゆくか!ば、馬鹿者っ!」
地面に足を突っ張って博雅がその身を引き離す。
「ほう、散々心配かけさせた挙句に馬鹿呼ばわりか?では、その分ももらうことにしよう。都一の陰陽師の報酬は高くつくぞ」
「ば…っ…馬鹿…」
泥だらけの顔を赤く染めて抵抗する博雅に晴明は楽しげに笑って口づけた。
了。
都一の陰陽師はふたりいるようです。表にひとり、裏にひとり。…どうぞご容赦を。ww