そういうと男はポケットからリモコンと思しきものを出してそのボタンを押した。
壁面の一角にかかったスクリーンにパッと画像が映った。
今晴明が立っているまさにその場所で撮られたもの。
妖しが一匹手械の足を括られて逆さに吊るされている。白衣を着た男が一人その傍らに立って…
妖しの喉を掻っ切った。
画像に声はないがもしあったとしても声など聞こえないだろう。なぜなら首をつなぐ大骨にまで達した切り口は声など出させることを許さないからだ。それでも人ならすぐにも死ぬほどの傷も妖しをたやすく殺しはしない。体中の血という血、体液という体液、そのすべてを絞りつくすまで妖しに安らかな死は訪れない。己の血にまみれ断末魔に苦しみながらもその目は殺意に滾る。
が、それに気づいているのかそれとももうすぐ死ぬ妖しにたいして何も思うところがないのか、殺戮者たちは淡々と作業を進める。
妖しの真下に置かれたステンレスの冷たい桶の中になみなみと溜まってゆく血を器具を用いて掬い…
赤いトレーに並べられたクリスタルのカップに次々と注いでいった。
「最悪のショウだな…博雅が見なくて幸いだ」
唇を血で真っ赤に染めてカップを傾げるいかにも裕福そうな老人たちの姿に晴明は吐き捨てるように呟いた。
「最悪?いえいえとんでもない。この方々にとってはこれこそ最高のショウ、いえ最高の特効薬ですよ」
ほらご覧ください、そう言って男は画面を指差した。
「ほら見る間に肌が瑞々しくなってゆく。頬が紅潮してみなまるで若者のようではありませんか」
見ようによってはただ興奮しているだけの年寄りどもにも見えるがこの男にとってはそうではないらしい。男は嬉々として続けた。
「妖したちの血には素晴らしい力がある。いまはまだこれぐらいしかできませんがこれだけでもわれらのスポンサーは喜んでくれるのです。あなたはまだその気がないようですが一度これを経験してみればきっと考えが変わります。」
そういうと男はリモコンのスイッチをもう一度押した。
ガクン
重い音とともに壁と見えた部屋の一面がゆっくりと横にスライドを始めた。
壁の後ろから現れたのは壁一面の大きな鏡。
「なるほど…自分たちは姿を見せずにショーを楽しむ、というわけか。ますます下衆な趣向だな」
「美しいお顔のわりにお言葉が汚いですな。でも、こちらにいらっしゃる方々はそれなりに地位もお持ちでそうおいそれとお顔を曝すわけにはいかないのですよ」
さっきのは特別です、ご内密に、と男は言った。
「それにみなさま地位に見合っただけの財産もお持ちです。あなたに妖しを捕まえるのを依頼をしたのがどこのどなたか存じませんがきっとその依頼人よりこちらの方たちのほうがもっと報酬を払ってくださいます。」
不死の研究も続けられて実入りもいい、まさに道士にとって最高の環境、と男は言った。そしてもう一度泥人形を呼んだ。
「あとのも連れてこい」
無言の泥人形がこくりとうなずいて出てゆく。
「あとのだと?」
その小さな声を聞きつけて晴明が眉を上げる。
「まさか」
「ふふ、今日はあなたのおかげで今まで一番の見世物になりますよ。今日はお客様もいつも以上に多いのにこんなチビ一匹でどうしようかと思っていたところでしたのでね」
男が言い終わらぬうちにドアの方が騒がしくなった。
「これ、何をするのじゃ」
「や、やめろだ!ゲコ!」
「捕まったか、ばかめ」
泥人形にひったてられて入ってくる二匹の妖しに晴明は顔をしかめた。
「お、お師匠さまっ!」
泥人形の手を振り切って小さな男の子が走る。
「おお、やはりここにおったか」
「お師匠さまあ。」
小さな古だぬきの妖しにさらに小さな小狸の妖しがすがり付いてわあん、と大きな声で泣いた。
「ほほ。なかなかに麗しき師弟愛でございますねえ」
二匹の妖しの様子を見ながら男は笑った。
と、天井の方から複数の声がした。
「今日は実に楽しそうな趣向ではないか。」
「おお、そうだそうだ。マジックミラー越しでは面白くない。ここをあけろ」
声に続いて幾人かが開けろ開けろと声を揃えた。
「え、しかし…」
「こんな窓越しでは血の香りも嗅げない。みなそれでは面白くないと言っている。とっとと開けろ」
上に立つ人間にありがちな強い命令口調で言われて男はしぶしぶマジックミラーの傍らのスイッチを押した。
するすると音もなく鏡面がスライドして壁が大きく開けた。
中はこちらの部屋に向かってまるで劇場のように何脚もの椅子が並び、いかにも高級そうなスーツやドレスを着た人間が幾人も座っていた。みな仮面舞踏会のような煌びやかな装飾の付いた顔の上半分だけのマスクをつけているが、その縮緬のような皺に蔽われた口元や喉首、血管の浮き出た枯れ木のような手などには隠しようのない老いが見て取れた。
「おお、今日は妖しどもが三匹もいるのか。おまけになんと見目麗しい道士まで。」
「美しい男じゃ。このような者をいったい今までどこに隠しておったのだ」
老人たちが皺だらけの頬を弛ませて期待に満ちた目で晴明や妖したちを見つめる。
「おまえが今日はこいつらを切り刻んでくれるのか?」
「おお、美しい顔が血にまみれるのか、うう、たまらぬのう」
「早くそいつらの血をわしらにくれ」
「早く早く」
老人たちは傍らに立つ泥人形の給仕の盆から空のクリスタルのグラスをひったくるように取ってつかむと晴明と男に向かって言った。
「さあ、あなたも道士。妖しを退治て報酬を貰うのでしょう?ならばこちらに与したほうが何かとご都合がよろしいですよ」
妖しを殺すことに代わりはないでしょう?と男は言って、
「さて、あなたは何を獲物に使います?」
と壁際に中世の拷問道具よろしく並んだものにひらりと手の平をかざした。
着ているものは一流なのに中身は飢えた餓鬼のような老人たち。晴明の顔がますます険しくなる。
「下衆にもほどがある」
そう小さくつぶやくと晴明はずらりと並んだ拷問、いや殺しの道具のほうに足を進めた。
晴明の小さな呟きに気づかない老人たちがざわざわと騒ぐ。
見目麗しい呪術師が妖したちを目の前で捌いて見せる、その様子を頭に描くのか妖しの血など飲まなくとも頬を紅潮させ子供のように老人たいがはしゃぐ。中には興奮のあまり自身の下半身に手を伸ばすものすら。
「陰陽師どの、どうかこの子を助けてはくれまいか」
引き剥がされて泣く喚く子狸のほうに悲しげな視線を送って、年老いたほうの妖しが晴明に静かな声で頼んだ。
「わしはもう妖しとしても年を取りすぎている。いつ塵のように果つる命とも知れぬ。わしはいいからこれだけでも助けてくだされ」
「あ、あの、わ、わしは?ゲコ」
新しく天井のフックに吊り下げられた枷に両手をくくられて吊り下げられる妖したち。その妖しに向かって晴明は死神の持つような大きな鎌を無言で手にした。
「おお、あんな大きな武器を使うのか。」
「まるで美しい死神のようじゃ」
「うう、なんとすばらしい」
背よりも高い大きな鎌を手にした晴明の姿に老人たちがますます声をあげる。まるで何かの祭りのように。
「お、陰陽師だって?」
古狸の妖しの口にした単語に男がハッ、と気づいた時にはもうすでに鎌は振り下ろされていた。
ザン!ザン!ザン!
妖したちを吊り下げていた太い鎖が一刀の元に断ち切られていた。ガシャガシャと重い音を立てて鎖が落ちる。
「あ、妖しがっ!」
老人たちがガタガタッ、と席を蹴って立ち上がる。
「ゲ〜コゲコゲコ!」
犬の姿からどろんと変じて人よりも大きな体になった蟇蛙の妖しが、体からこれ見よがしにぬめぬめとした粘液を垂らしながらドスン、びよん、と跳ねる。
「ひえええっ!」
「わあああ!」
「きゃああ〜〜!」
仮面をかなぐり捨てて老人たちが部屋の中を右往左往。調子に乗った蟇蛙がそれらを追い掛け回す。
「ほ〜れ、頭から食っちまうぞ〜。ゲコゲ〜コ」
「あたたた」
「お、お師匠さまっ!!」
そんな大騒ぎの中、しりもちをついて落ちた古狸の元に子狸が走り寄る。
「おうおう、無事であったか、よかったのう」
「あ〜ん、お師匠様怖かったよう〜〜!」
子狸の頭をなでて古狸がうれしそうに笑った。
そんな三匹の妖しに向かって
「ここは俺に任せて早く外に出ろ」
大鎌を片手に晴明が言った。
「ああ、あ、でもこの建物の周りには結界が張られてるでねえか、ゲコ」
「それなら大丈夫。結界はもうすでに破られている。」
「え?いつの間に」
さすが、陰陽師と古狸が感心すると
「いや、残念ながら俺じゃない」
ちょっと口の端を上げて苦笑して晴明は答えた。
「では、誰が…」
「そんなのはいいから早くここから出ろ。おまえらがいると邪魔だ。それとも一緒に片付けられたいか?」
「いや、それは困る」
「陰陽師はおっかねえからおいらも逃げる。ゲコ」
軽々と大鎌を振る晴明に三匹の妖しはおお慌てで部屋を飛び出していった。
「あ!待て、こら!お、おい。あいつらを捕まえて来い!」
こちらも慌てる男の前に晴明が立ちはだかる。
「さあて、あいつらを追いかけている場合かな?」
「き、きさま!道士ではなく陰陽師だったか!」
「ひとを騙したように言ってもらっては困るな。俺は一度も道士などと言った覚えはない。それに道教は確かに不老長生を願うことがあるがここまでやるのはもう宗教とはいえないな。ここは単なる秘密結社、いや、秘密サロンのようなものだ」
まったく持って下衆だ、そういうと晴明は手にした鎌をブン!と振った。鎌が真横に空気を切り裂く。
「わっ!」
「ひっ!」
男と周りに集まってきた老人たちが身をすくめて鎌の切っ先を避けた。ついでに近くにいた泥人形がニ、三人、ばっさりと腹を斬られてその場にグダグダと土くれの塊となって崩れ落ちた。
「ま、まさか、わしらもこいつみたいに…」
男の背に隠れて老人の一人が声を震わせた。
「おや、妖しが切り裂かれるのはお好きでも自身が切り裂かれるのはお好みではございませぬか?」
「あ、当たり前だ!あ、あやつらは人ではない!」
「ほう…でも人ではなくても人のように感情は持ち合わせておりますよ…」
静かにそういうと晴明は二本の指を唇の前に立て声にならぬ声で呪を唱えた。
晴明は今切り裂くように鎌を振るった空間に音もなくツウウ、と白い…いや、闇のように黒い線が入る。
「な、なんだ、あれは…?」
老人たちが目を凝らす。
「さ、さあ…?」
男がわけわからない、と首を傾げた時。
線、いや空間の裂け目に中からそろりと一本枯れ枝のようなものが出た。
「な、なな、なんだいったい?」
男と老人たちがそれをよく見ようと身を乗り出した。
枯れ枝のようなそれが数を増やした。
そして…地獄の蓋が開いた。
「わあああああ!」
「きいいやあああああっ!」
「た、助け…あああ…」
バタン。
晴明は背後のドアを静かに閉めるとそこに鈍く光る鎌を立てかけた。
「なんだ、晴明。そこを封印しないのか?」
博雅ではない誰かの声が晴明にかかった。
「出ましたね」
くるりと振り向いて晴明は答えた。その晴明の前にひとりの男が立っていた。ゆるくウェーブのかかった薄い色の髪、透けるように白い肌、切れ長の冷たい瞳、そして紅い唇。晴明によく似ているようで、しかしとても異質な存在、大江山の朱呑童子。
「出たなどと相変わらず失礼な奴だ。で、そこを封印しないのか?」
「しませんよ。あいつらはここの連中に怨みがあって地獄から這い出してきただけ。それさえできればまた戻ってゆくでしょう。」
「戻るかな?」
「さあ。でもそれは私の知ったことではございません」
「無責任だな」
晴明の言葉に童子はくすりと笑った。
「これは私の仕事というわけではないですからね」
くぐもった悲鳴が断続的に聞こえるドアを振り返って晴明は言った。
さっき晴明が切り裂いた裂け目はそのまま本当にこの世ではない別の場所につながっていたのだ。妖しとはいえ、無下に命を奪われた怨みは深い。まして腹や喉を切り裂かれて体中の血をすすられ、肉を食らわれたのだ。中の道士を名乗る男や老人たちは気づかなかったかもしれないがこの部屋、建物の中には殺された妖したちの怨みの念が充満していたのだ。晴明が切り開いたのはその怨みの出口に他ならない。地獄から這い出した妖したちは今頃中の連中に同じことをしているだろう。そのままこの世に再び妖しとして這い出そうがそのまま地獄に戻ろうがそれは晴明の知ったことではない。
「まよかろう。元はこの世に隠れて住まっていたものたちだ。後は勝手にするだろう。」
そう言うと童子の姿はどんどん薄れてゆきやがて霧のように消えた。
「心配症なお方だ」
博雅の待たされている部屋の方に視線をやって晴明は言った。
その少し前。
こちらは博雅である。
「ここで待ってろって…いったいいつまでだ。くそっ」
ドアの入り口にドンと立つ二体の泥人形を難しい顔で睨んで博雅はうなるように言った。
晴明が道士と名乗る怪しい男と出て行ってからしばらく立つ。確かに自分は道士でも陰陽師でもないが、それでも晴明ひとりを行かすべきではなかった。何かあればこんな俺でも少しぐらいは加勢になれるはず。
ええい、くそ。とうろうろイライラしながら部屋の中を歩きまわっていると。
カチリ。
ドアが開いた。
「おお、いたいた。」
嬉しそうな声がした。
なんだ?と博雅が振り向くと、そこに男がひとり立っていた。顔半分を覆う黒いマスクを顔につけた黒いスーツの全身黒尽くめの男。後ろに二人の泥人形を従えている。
「さっきちらりと見かけた気がしたのだ。探して正解だったな」
男が言った。
何のことかわからない博雅、「何者です?」と聞きかけたが
「まあ、いいです。ちょうどよかった。そこを通していただけませんか?」
そういって男の脇をすり抜けようとした。
その腕をガッと捕まえられる。晴明のいた部屋にいた老人ではない。壮年の年の男、その男がにやっと笑って
「おや、どこにゆくのです」
「どこって…連れのところです。申し訳ないがこの手を離していただけませんか?」
捕まれた腕を不快そうに見下ろして博雅は言った。
「まあまあ、お連れ様は忙しそうでしたよ。私がおもてなしいたしますからあなたはここにおいでなさい」
上品な口調で言うとマスクの男は博雅の体をグイと部屋の中に向かって押した。
「は?何を…」
言い返そうとした博雅の言葉が途中で途切れた。
もう片手をあっというまに捕まれ自由を奪われた博雅、顔もわからぬ男に唇を塞がれた。
「…!!っ、な、な、何をするっ!!」
顔をもぎ離して博雅は真っ赤になって怒鳴った。
「こんなじめついた地下には絶対届かない日の光。私はラッキーだ」
博雅の怒号もまったく気にしない様子で男はにっこりと笑って言った。そして博雅をドアの横に壁に押し付けるともう一度その唇を奪った。
鋼のようにびくともしない力で身動きもかなわない。背中で腕をひとくくりに捕まれると、男は開いた片手で博雅の頤を掴み無理やり唇を開かせた。ぬるり、晴明ではない別の男の舌が博雅の咥内に差し込まれる。
「ん…んぐ…」
目を真円に見開く博雅、いったい何故こんな展開になっているのか頭の中がパニックである。
「な、なんでこんなことをっ!あ、あなたも道士とやらかっ!!」
唇を離した隙に博雅は男を睨みつけて言った。
「道士?ああ、あの頭のおかしな連中のことね。あんなのと一緒にされちゃあ困るなあ。私はあの連中からあるものを貰いにきただけだよ」
「あ、あるもの?」
「まあね。でもまだそれを貰うまで時間がありそうだからあちこち見学してたんだよ。ちょっと物珍しかったからね。…そしたらいいものを見つけちゃった」
マスクの中で目が笑みを作った。
「い、いいもの?」
ものすっごく嫌な予感がする。
「いるんだねえ、日の光のままの人間って」
実に嬉しげな笑みを浮かべた男の手がするり、博雅の浴衣の袷をくぐった。
「や、やめろっ!ばかっ!!」
潜り込んだ手を引き剥がして、なんとかマスクの男から博雅は飛びのいた。浴衣の袷が乱れて腹の辺りまで見えていたが今はそれどころではない。口づけられた唇をぐいと拭って
「な、なんなんだ、あんた!いいものって俺のことか!じょ、冗談じゃない!」
博雅は、ふるふると震える指を男に突きつけてユデダコみたいに真っ赤になって怒鳴った。
「俺は大事な友達のところに行かなきゃいけないんだ、あ、あんたみたいなのの相手しているヒマなんかない!」
「あんたみたいなって…可愛いわりに口が悪いね」
「か、かか可愛い??」
「そう、実に可愛い。タイプだねえ」
ジリ。
マスクの男に一歩づつ迫られて博雅、まさかの大ピンチの予感である。
「タイプって…勘弁してくれよ…」
ピンチではあるが命に危険というほどでもなし、博雅はまさか女のようにきゃあと悲鳴を上げて晴明を呼ぶわけにもいかず、ただひたすらジリジリと後退した。
俺ってこんなの引き寄せる体質か何かなんだろうか…晴明がいつも言う「トラブルメーカー」の一言が頭に浮かぶ。
「まさしく災厄を引き寄せる体質だ、おぬしは」
博雅の頭の中の声に答えるように声がした。
「こ、この声は…」
「相変わらずだな、博雅どの」
「ど、童子どの!」
しゅるんとまるでカーテンの陰からでも現われたように姿を現したのは朱呑童子である。ある意味前門の虎、後門の狼、といったところだが、面識のある狼のほうに博雅は明らかにほっとした顔をした。なぜならじりじりと間合いをつめてくるマスクの男にただならぬものを感じていたからである。まるで猫がネズミをおもちゃにするように、男はわざと博雅との間合いを取っているのがわかったからである。博雅ごとき負ける気がしないのだ、この男は。ただ、博雅を捕まえる楽しみを引き伸ばしているに過ぎない。命に別状はなくとも大ピンチに間違いはなかった。
「今度もまた随分妙なものに引っかかっておるな」
マスクの男にちらりと視線をやって童子は言った。
「そなたは自分の仕事があるであろう?さっさとゆかれるがよろしい」
「それはこちらの台詞だな。おまえこそこの場に関係なかろう。」
博雅を間に挟んでマスクの男と朱呑童子が静かににらみ合う。
「ここは我の縄張りの中。そなたが自分の仕事をする分には目を瞑ってやるがこの博雅どのに手を出すのは承知できかねるな」
「ほう…私が何者か知っていてそう言うのか?」
マスクの中で童子を見つめる男の目が細まる。
「いかにも。そなたが何者でここに何をしにきたかも承知している。」
童子はそう言うと博雅の腕を引っ張った。そして、博雅を自分の背に匿うとマスクの男に言った。
「我が本気にならぬうちに去れ。」
「本気にならないうちにだって?私に勝てるとでも思っているのか?妖しふぜいが」
マスクの男の目が殺気を孕む。
「我は大江山の鬼王、この国に我より強い妖しはおらぬ。そなたに勝つのは容易ではないがまんざら不可能というわけでもない。そなたは我を妖しふぜいと言うがそなたの上の連中は我の名ぐらいは知っていよう。そのものたちに聞いてみればどうだ?日の本の大江山の鬼王と戦ってよいかと。」
マスクの男の脅すような言い方を鼻で笑って童子は言った。
「上の奴等がおまえのことを知っているだって?」
ちょっと驚いたようにマスクの男は言った。と、そのとき男の腕に嵌めた時計がピッ、と小さく鳴った。男はそちらをちらりと見ると、チッ、と舌打ちをした
「残念だがそろそろ時間だ。おまえの言うことはハッタリくさいが今日のところはこれで引いておこう」
そう言うと博雅のほうを向いて言った。
「初対面からあまりしつこいと嫌われるからな、また日を改めよう。博雅」
「い、いや、日を改めるもなにも…」
思わず手を上げて言う博雅に
「そう恥ずかしがるな、今度は野暮な邪魔の入らぬところでな」
マスクの影でそう笑うと男はドアからするりと出て行った。
「野暮な邪魔とは我のことか?あっちのほうではないか、なあ博雅どの」
男の出て行ったドアに不機嫌な目を向けて童子が言った。
「はは…あ、それよりもどうもありがとうございました、童子どの。でも、あなたが何故ここに?」
妙な男が去って博雅ははっと気付いて童子に尋ねた。
「我の足元で小ざかしい真似をしているものどもがいるのでな」
目障りなので潰しにきたのだが、と言って童子は天井を見上げた。
「?」
博雅もそれに釣られて天井を見上げたが、冷たい光を放つ蛍光灯が並んでいるだけで別段変わったところはない。が、童子には何か別のものが見えるようで
「どうやら終わったようだ」
そう言った。
「我が出張ってくるまでもなかったの。しかし博雅どのの窮地を救ってやれたからこれはこれでまあよかろう」
「終わったって…なにが終わったのです?」
「人間の分際で妖しを捕らえ喰らっていたものたちの始末だ。」
「人間が妖しを食う…?」
まさか、と博雅は驚いた。
「まさか、と言うのか?博雅どの。時として人は妖しよりも残酷で恐ろしいことをするものだ。」
知らないわけではなかろう?と童子は言った。
思い当たる節がないでもない博雅、童子の言葉に反論の言葉はない。
「そいつらの始末を晴明がしてくれたようだが…」
博雅には感じられぬ「気」のようなものを察した童子、秀麗な細眉をくっと寄せると
「どうやら一匹逃げたらしいな」
そう呟いた。
「おぬしをこんなところに放っておいたくせに間の抜けた仕事をするな、晴明。それとも元々気の乗らぬ仕事のゆえか?」
「ま、間の抜けた仕事って…童子どの」
童子のあまりの言いように苦笑する博雅、その博雅のあごをツイと取ると博雅が阻止する暇もなく童子の薄く紅い唇が博雅の唇に軽く押し当てられてた。
ちゅ、と軽い音を立てて唇が離れる。
「ど、どどど、童子どのっ!」
助けてくれたはずの童子、が、やはりそこは後門の狼、にやりと笑って博雅のぷっくりした唇を拭い、
「今日のこれはひとつ貸しだ、博雅どの」
近いうちに清算しようぞ、と言いおいて、まともに言い返す言葉も思いつかない博雅の目の前で、来たときと同じようにするりと空間に消えた。
あっという間の二人の人外に口づけられた博雅
「ああっ!もうっ!!俺って!!」
ひとり空っぽの部屋で頭をかきむしるのだった。
「心配症なお方だ」
博雅のいる部屋の方に視線をやった晴明であったがそのまま振り向きもせずこう言葉を続けた。
「それで…あなたはいったい誰です?」
「ほう、人のくせに随分と敏いねえ」
暗い廊下の角から真っ黒なスーツの男がひょっこりと顔を出した。といってもその顔には着ているものと同じように真っ黒なマスクをつけているので、どんな顔をしているのかまったくわからないのだが。
「そんなにあれこれ見えると苦労するだろうね」
にこやかに言いながら男がまっすぐに腕を伸ばし手のひらを広げた。
晴明のすぐ脇を何かが風のようにビュウと音を立てて飛んだ。
「それの持ち主か…」
晴明の目がきつく細められた。
「そう、これは私のものだ。まさかこれを人が使うとは考えたこともなかったけど。」
フフと笑った男が手にしたもの。
さっき晴明はドアに立てかけた大鎌である。手馴れた様子でその大鎌の柄に片手を回して体重を預けると男は言った。
「ここにはもう刈られていなければならない命が沢山いてね。困っていたところだったんだけれど、いや君のおかげで助かったよ。こいつで地獄の口を開けるとは恐れ入った。あれでみんなまとめて地獄に直行だ。実に見事な手腕だったよ。ぜひ私の助手にスカウトしたいぐらいだ。」
「死神の助手を務める気はないな」
「おお、それは実に残念。死神なんてネーミングは悪いけれど私は神の僕、その下に付くとなれば君もこっちの陣営に入れるよ。…次に死ぬ時は一番いいところへ送ってやれる」
にやりとマスクの影で笑う男…死神。
「いいところだって?あの世にいいところも悪いところもあるものか、死ねば一緒さ」
「彼がいなければ?」
吐き捨てるように言った晴明の言葉の後を接いで死神が言った。
「何のことだかわからないな。それより用事は済んだのならさっさとここから立ち去ったらどうだ」
「立ち去れだって?そいつを言われるのはこれで二回目だ。まったく。ここはいったいどんなところだ?さっきの妖しものといい、君といい。私に対してなんら畏れも恐怖も感じていない。それどころか大事な恋人のこととなれば死神の私すら殺しそうな勢いだ」
死神を名乗るものに対してまったく動揺するそぶりもない晴明に男は肩をすくめた。その男に向かって晴明は
「私にはおまえを恐れなければならない理由がない。それに、もしおまえが私の大切なものに害を与える存在ならば、おまえが神の使いであっても関係ない。いくらでも殺してやるさ」
と続けた。
「なんとも不敬で物騒な存在だ、君は。」
死神を名乗る男の目がマスクの中で不機嫌に歪められた。
その一触即発の時。
「ひいっ!」
二人の間に悲鳴を上げて飛び込んできたものがあった。
先ほどまで晴明に一緒に妖しを捕らえる仕事をしないかと誘っていたあの道士であった。
先ほどまでの落ち着きはどこへやら、髪を振り乱し真っ青な顔に滝のような汗が流れている。その道士がすぐ目の前にいる晴明たちに気付いた。