「都の狐」


近頃、都の評判と言えば、ある美女の話であった。
 
 
人も何もすべて寝静まった真夜中過ぎにその女は現れるという。
月も星もない暗闇の大路にひとり立つその女は、透ける羽のような薄衣を身にまといまるで地上に降り立った天女のような姿で、磁器のように白い肌と血のように赤い唇のこの世のものとは思えぬ麗しさであるとか。
 
そのような美女が深更の大路に立っていると噂がたつと、その女を一目見てみたいという男どもが出てくるのは当たり前のこと。良家の子女がそのような時刻にそのような場所に立つなど考えられぬことである、されば、その美女は男を引く商売女か、それとも男日照りの後家か。獣のごとき欲をたぎらせて男たちはその美女を求め、真夜中の大路をうろうろ。が、いまだ、その思いを達せられたものが出たとは聞かない。欲すれば消え、探している者の前には現われぬ謎の美女。
 
妖しかもののけか。
 
都の男たちの間はその女の話で持ちきりであった。
勿論、雲の上といわれる内裏のなかでも、それは変わらない。
 
 
「でな、なぜか俺がその美女とやらを探しにゆく役目になってしまったのだ」
 
そういって困った顔をしているのは、言わずと知れた朴念仁、博雅の三位である。
下心なしでそんな役目を押し付けられるのはこの男ぐらいなもの。が、本人には自覚がない。
 
「いやなら断ればいいではないか」
そう他人事のように答えたのはこの屋敷の主、安倍晴明である。
「まあ、それはそうなんだが、実は俺もその女には少しばかり興味があるのでなあ」
博雅にしては珍しいことを言った。
「興味?」
晴明は手にした杯から目を上げた。
「珍しいな。おぬしが気を引かれるとはよほどの美女なのだな」
ちょっとばかり気を悪くしたような声で晴明は言った。
 
 「まあな」
晴明の機嫌が悪くなったのにも気付かずに博雅はニッコリと笑った。
 
 
と、言うような会話があった翌日の晩。博雅はその噂の辻にひとり立っていた。
 
「今宵のような月のない夜にその女は現われるそうにございまするぞ」
「そうそう、今日こそ絶好の機会」
博雅どの是非是非、と内裏の男たちに急き立てられて博雅はここにいるのであった。なんのかのといっても、真っ暗な晩に限って現われるなぞというものが、ひととはなかなか思い難い。気位は高いが気は小さい殿上人たちは博雅に自分たちの好奇心を押し付けたのであった。
が、それでも一応気が引けたのか、私もついてゆきましょうか、とか、舎人をひとり連れてゆかれれば、などと言うものもいたが、それは博雅のほうで断った。晴明と付き合いの長い博雅、そんなところに怯えた人間を連れていっても役になど立たないことはよく知っている。
それに、少々他のことも気になっていた…。
 
「まあ、確実に現われるとも限らないしな」
手にちいさな明かり一つ持って、ひとっこひとりいない大路を歩いた。
 
と、向うの辻にポウ…と浮かぶ白い影。
 
「お、出たな」
 
そうひとこと呟くと博雅は躊躇いもせずにその白い影へと歩いていった。
 
近くまできてもその影は消えなかった。むしろ、その輪郭がますますはっきりとしてきた。
 
わずかな夜の風にゆうるりと裾をはためかせて、その女は真っ暗な神泉苑の入り口にひとり立っていた。博雅が近寄っても逃げる素振りもない。
 
夜目にも白い唐渡りの白磁のような艶やかな肌。すうっと切れ上がったまなじり。柳の枝のように綺麗な弧を描く眉。細くつんと尖った姿のよい鼻、白磁の肌に映える濃い紅色の唇。その唇が博雅の姿を認めて口角を上げた。
 
「博雅さま」
 
その女が博雅の名を呼んだ。
 
 「やはりそなたであったか」
 
名を呼ばれた博雅は驚きもせずにそう答えた。
 
「お久しうございます」
「本当にな。それにしても変わらぬなあ。当たり前か」
「ほほ。博雅さまはずいぶんと大きく立派になられました」
「大きくなったと言われる年は過ぎた。そういう言われ方をするとこそばゆいな」
楚々と笑う美女に博雅は笑って答えた。
 
実は博雅、晴明にも言っていなかったがこの美女と知り合いであった。というか、たぶんこの女なのであろうと思っていただけなので口には出していなかっただけなのであるが。
もちろん、これは人ではない。
「今日はうまく尻尾を隠しているのだな」
女の尻の辺りを覗き込んで博雅は笑った。博雅が女の尻を覗くなんて普段なら考えられないことであったが。
「いやですね。もうそんなの出しているわけないではないですか」
ポッと頬を染め美女がはにかむように微笑んだ。普通の男ならこれだけで落ちそうな笑みだ。
「それにしても私がここにいると知ってお越しになられたのですか?」
美女が聞いた。
「いやいやまさか。だが、近頃都の男たちの間で評判になっている真夜中の美女というのがひっかかってな。もしかしたらと思って来てみたのだよ」
博雅が美女探しにあっさり頷いたのはそういうことだったのだ。
「真夜中、美女、神泉苑。そなたしかおらぬだろう?」
ましてやその美女は暗がりを恐れず、人によって姿を見せたり見せなかったりする。
 
「もう、あれはやめたのか?」
美女の顔を見つめて博雅は聞いた。
「あれ?」
美女が華奢な細い小首をかしげる。
「人食いさ」
その儚げとも見ゆる美女に博雅は恐ろしいことをさらりと言った。
「ええ、ええ、勿論。だって博雅さまとお約束いたしましたもの」
「そうか、それはよかった。ん?約束?」
うんうんと頷いた博雅、最後の言葉に思わず顔を上げた。
「そう、約束。いくら美味しくても人間を食べてはいけない、って」
「そうか、俺はそんな約束をしていたか」
博雅は感慨深かげにさらに頷いた。
 
 
…あれは今を遡ること、二十数年前。まだ幼い博雅は父に連れられて神泉苑へと人を訪ねてきた。
「博雅、父はこれから人と合って話をせねばならぬ、お前はそれまで、ここで大人しく俊宏と待っていなさい」
「はあい」
まだ幼いといってもいい年頃の博雅、素直に返事を返すと世話係の俊宏の手をぎゅっと握り締めた。
父が会うのは今一番霊力が強いと都で評判の法師。霊山に篭って千日行を成し遂げたとかで、人々の病を治し、不幸を取り除くと滅法な評判であった。博雅の父ともなれば、その法師を屋敷に呼びつけることも可能であったかと思われたが、そこは博雅の父、呼びつけるよりも自分で出かけることを選んだ。病に伏す妻に、そのことを法師に相談していることを知られたくなかったのかもしれなかったが。
とにかく父がその法師に母の病のことを話している間待たされる羽目になった博雅、最初のうちは大人しくしていたが、そのうち、うたた寝を始めた俊宏の目を盗んで建物を抜け出した。
広い庭には大きな池。そのほとりにその女はいたのだった。
 
池のふちで危なっかしく遊ぶ博雅にその女は近づいてきた。
 
「若様、そのようなところで遊ばれては危のうございますよ」
「え?」
急に背後から声をかけられて小さな博雅が振り向く、と、そのときに池のふちの石のうえで履物が滑った。
 
「わ!っととと…」
均衡を失って博雅があわてる。手をぶんぶんと振って体を元にもどそうとするが時すでに遅し。
 
「わああっ!」
 
バッシャン!
 
背中からもろに博雅は池の中に落っこちた。
 
「うひゃあ」
びしょびしょになった袖を両手の指先で持ち上げて博雅が素っ頓狂な声を上げた。そして、きゃたきゃたと笑った。
「あはは。びしょぬれだあ」
「あらあら、変わった若様だこと」
普通ならば子供でも貴族の子なら、ふいに声をかけた女を高飛車に罵倒するぐらいやりかねない。なのにこの小さな男の子はけらけらと笑って、失敗しちゃったと楽しそうであった。女の顔に笑顔が浮かぶ。
 
びしょぬれの博雅を池の浅瀬から引き上げた女に無邪気な顔で博雅が聞く。
 
「そなたは誰じゃ?今日は私のお父上がここをお使いになるから他の人間は入れぬと聞いたぞ?」
「あら、小さいのによく気づきましたねえ」
博雅の顔をその袖で拭いていた女、その手がと止まって博雅をしげしげと見つめた。
「小さくてもそれぐらいわかる」
「ほほ、さすがあの方のお子」
「父を知っておるのか?」
博雅がびっくりして聞く。
「ええ、まあねえ。今日あなたたちがここに何しにいらしたかも知っておりますよ」
「え?ほんとに?」
博雅の目がますます大きくなる。ここに来たのは母の病と関係していることはなんとなくわかってはいたが、小さい博雅には詳しいことを誰も教えてくれなかったのだ。いろいろ知りたいそのことをこの女は知っているという。博雅が興味を引かれるのも仕方がないことである。
「あら、若様はここに何しにいらしたのかご存じないのですか?」
「う、うん…お母様のためとは聞いているけど詳しいことは何も…」
しょぼんとして博雅は濡れた頭をうなだれた。
「まあまあお可哀相ですこと。」
では、と女がずいと博雅の顔を覗き込んだ。急に迫られて思わず引く博雅。
が、女は体を引く博雅の腕を逆に引っ張ってこういった。
 
「お父様が何しに来たか、お教えして差し上げましょう」
 
美しい女の笑顔がぞくっとするほど怖くなった。
 
 
「ほら御覧なさい若様。」
女が戸の影から屋敷の中を指差す。博雅が首を伸ばして見てみると。
仏像に向かって座した僧侶が燃え盛る火を前に一心に経を唱えている。その後ろで手を合わせて祈っているのは博雅の父であった。
 
「お父様…」
 
見たことのない光景に博雅は目を見張った。
「ふふ、若様のお父様はお母様を随分大切にしていらっしゃるのね。ああやって仏にすがってお母様の病を治そうと必死のご様子。無駄なことなのにね」
くすくすと微笑う女の言葉に驚いて博雅が思わず顔を上げた。
「い、今無駄って言った?」
「あら聞こえた?」
小さな博雅を見下ろして女はさらにくすくす笑った。
 
 「無駄ってどういうこと?」
博雅は真剣な顔で女を見上げた。
「だって、あのお坊様のお経はあいつには利かないもの。」
そういって女は微笑むと博雅の父親を指差した。
「あいつって、まさかおとうさまのことか?」
 
一体何を言っているんだ、と博雅は戸惑う。
 
だって、おとうさまはおかあさまを助けてもらいたい一心でお祈りしてるんだぞ。
 
「安心おし、坊や。あなたのお父さまじゃなくって悪いのはそのうしろ。」
女が伸ばした指先をちょいと上に振った。
途端、父親の背中にあるものを見て博雅は驚いて声を上げた。
 
「あっ!」
 
「そう、あれがあなたのおかあさまの病気の因」
女がそういって指差しているその先。
 
博雅の父親の背中にざんばら髪の女がべったりと寄り添っていた。
 
 
「だ、誰…あれ?」
さっきまで父親の後ろに女などいなかったはず。博雅は鳥肌の立つ思いでその女を凝視しした。
「ふ〜ん、たぶんあれはお父様のことを好きなひとなのよ。」
「お、お父様を好き?」
あんな怖い顔をしたひとが?
「もしかしてお父様のいい人だったのかもね」
うふふと女は笑った。
「お父様のいいひと?」
いいひとの意味が分からず博雅は戸惑った。
「とっても仲が良いひとって意味よ。きっとあの女は若様のおとうさまに捨てられたのね。」
「捨てる?おとうさまがあの女のひとを?」
いつ拾ったかも知らないし、いったいあんな大人のひとが孤児みたいにどうやって捨てられてというんんだろう?
「まあ、若様にはまだ早いお話ね。とにかくあの女は若様のお父様に捨てられてどこかで死んだのよ。それで祟ってるの」
「祟る?っていうことは…あの女のひとって死んでるの?!」
博雅が驚いて声を上げた時だった。
 
ぎろり。
 
博雅の父親の背中に張り付いた女の霊の目がこちらに向いた。
 
「あらあら大きな声を出すから気付かれちゃったじゃない」
「え?」
驚いて女を見上げる博雅。
「あの女の恨みは別に若様のおかあさまだけに、とは限らないのよ。」
そう女が言った途端、博雅の父の背中に張り付いていた女の霊が博雅ら二人のいる扉の影へとひゅいっ!と飛んできた。
 
「わあっ!!」
 
目の前に突然立ちはだかる女の霊に博雅は素っ頓狂な声を上げて飛びのいた。あわてて一緒にいた女の後ろに隠れる。
一心不乱に祈っている父親と僧侶はその声に気づいていない。いや、もしかしたら聞こえぬようになっていたのかもしれないが。とにかく祈る二人には気づかれぬままに博雅は父に取り付き母を病に陥れた女の霊、つまりは怨霊と相対峙する羽目となった。
 
『お、おまえ…あのひとの…』
 
ざんバラ髪の怨霊が血走って真っ赤になった目で博雅を凝視しながら掠れた声で言った。
 
「あ、あのひとって…お、お父様のことかっ!」
一緒に来た女の袖にぎゅっと掴まった博雅、震える声で怨霊に向かって言い返す。
「あ、ああ、あなたがどこのどなたかは知りませぬが、お、お、お母様を病いにす、するなんてよくないことだぞっ!!」
『やっぱり…あのひとの子ね…』
 ほとんど涙目で言う博雅をさらにじっと見た霊は確信するようにそう言うと博雅の訴えなど聞きもしない。
「き、ききき、聞いているのですか!!」
 
「若様ってかわいいわねえ」
 
怨霊と博雅に間に挟まれて黙っていた女がふふと笑った。
 
「こんなにブルブル震えてるのに母親のために一生懸命になっちゃって。」
そういって博雅の頭を撫でると
「若様気に入っちゃったから」
にっこり笑うとその美しい顔がぎゅわ!と大きくなった。
 
「わ!」
 
驚く博雅。
 
「な、何っ!?」
 
体の何倍にも膨れ上がった女の顔にその目がまん丸に見開かれ口があんぐりと開いた。
 
「ふふ、びっくりした?」
 
巨大になった顔のまま女は笑うと
 
「あんまりおいしくもないしお腹の足しにもならないけど。」
 
そう言うやその真っ赤な口がガバと大きく開き、あっという間に博雅をにらみつけていた怨霊をバクリと飲み込んだ。
 
「きゃ!」
 
小さな手を顔の前で組んで博雅は掠れた悲鳴を上げる。
 
「やっぱり美味しくないわねえ」
 
シュウ…と見る間に元の大きさに戻った顔で女が額に軽く皺を寄せて言った。
 
「た、た、食べちゃった…」
目を見ひらき手を組んだままの博雅、ようやくのことでそう言った。
「これで若様のお母様の病いは治るわよ。よかったわね」
「お、お化け食べちゃって…だ、大丈夫?お、お腹壊さない?」
「あはは。やっぱり変わった子ね!」
心配する博雅から掛けられた言葉に女はおかしくてならないと今度は大きな声で笑った。
「か、変わってる?私が?」
「普通は私の顔がさっきみたいに大きくなっただけで逃げちゃうわ。なのに逃げないどころかお腹の具合まで心配してくれるなんて」
「だ、だって、あんな怖い顔したお化け食べたら私なら具合が悪くなっちゃうよ」
なんで笑われてるのかピンとこない博雅。
「私は妖し。だからあんなの食べても大丈夫なのよ。」
「あ、そうなんだ」
妖しと聞いて納得した博雅にまた女が笑う。
「ほんとにほんとに変わった若様ね」
「わ、私は変わってなんかないぞ」
変な子と何回も言われて少しばかりむっとして博雅は言い返した。
 
 
「変だわよ。ひとっていうのは妖しが怖いものなのよ。」
「な、なんで?」
「なんでって…そうねえ。きっと自分たちと違うからね。」
「違う?そなたは私たちとそっくりじゃないか。どこが違うのだ?」
そりゃあさっきみたいに顔だけ大きくなったりしないけれども、と博雅は聞いた。
「うふふ。私は今ひとに化けているだけ。本当は全然違う姿なのよ。ほんとはね。」
「え?」
と、博雅が驚いたところで寺の中で話声がした。
 
「病いの因は祓いました。これで奥方さまも快方に向かわれましょう」
「おお、それはかたじけない。して、病いの因とはいったい?」
僧侶の祈祷が終わったらしい室内に博雅の父親と僧侶が話をしているのであった。
「奥方さまに悪い狐が憑いておりました。」
「狐?」
「そう大変にたちの悪い狐が」
「なんと」
 
女の眉がピクリと片方上がった。
 
「どこでとり憑いたものともしれませぬが狐というのはたちが悪うございますから」
人を妬み取り憑いて不幸にするのですよ、と僧侶は続けた。博雅の父は感心してそれを聞いている。
「なんとも悪いモノじゃ」
「まったくでございます。おう、そうじゃ!」
博雅の父とうんうんとうなすいていた僧侶、突然顔を上げると思い立ったように言った。
「この都の西のはずれにあるお社をご存知ですか?」
「西のはずれの社?いや。まったくわからぬが?」
「ご存知ござりませぬか。では場所をお教えいたしますのでみかどにそこを焼き払うよう奏上したいただけませぬか」
「焼き払うとは穏やかではございませぬな。なにゆえです?」
乱暴な話に博雅の父親が困惑顔で尋ねると
「その古びた社こそが狐どもの巣窟でございます。その社もろとも焼き払って狐どもを退治ればあなたさまの奥方さまのようにひどい目に合わされる方もいなくなりましょう。」
みかどの覚えもさぞやめでたくなりましょう、と僧侶は囁く。
「な、なるほど…」
 
 
「おのれ…」
 
黙って物陰で博雅とともに二人の会話を聞いていた女の口から搾り出すような声が出た。
 
「ど、どうしたの?それししても、あのお坊様ウソ言ってるぞ。お母様に取り憑いて病いを起こしていたのはさっきのお化けじゃないか。狐なんてなんにも悪いことしてないのに」
罪をなすり付けられた狐に成り代わってプンプンと博雅が腹を立てる。
「なのにお社を焼くだなんて!」
「…まったく若様の言うとおり。焼き払うなんて…あの狸め!」
 
「た、たぬき??」
 
驚いて聞き返す博雅の横を何かがすごい速さで駆け抜けた。
 
「あっ!!」
 
「ガウッッ!!」
「わああっ!」
「ぎゃっ!!」
 
四つの悲鳴が一度に上がった。






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