「ニアミス」
「あっ…」
汗に濡れた相手の体が自分の下でしなる。手のひらに感じる汗の感触に、嫌だな、と心のどこかが冷たく反応する。手のひらに余るほどの乳房、程よく張った尻、整った顔立ち。すべてが完璧なバランスの相手なのに心が波打たない。
「よかった…」
うふふ、あなたって最高だわ、とことを終わらせた後で女がしなだれかかる。
「そう、よかった」
積んだ枕に裸の上半身を預けるとアキラは枕もとのタバコを取って火をつけた。
深く吸い込んで一息吐くと頭の中で明日のことを考える。
明日は午前は大学に、午後はこの間買った物件の件でひとと会わなければならない。タバコを燻らせながらあれこれと考えているアキラのタバコを横から取ると今付き合っている女はアキラの顔を覗き込んで代わりに吸ったタバコの煙をふう、と吹きかけた。
「ふふ、クールぶっちゃって。何考えてるの?あたしのこと?」
「そうかも」
「うふ、嬉しい」
くすくすと笑って相手が更にぴったりくっついてくる。
鬱陶しい。
これが愛情不足ってやつなんだろうか、と仕事のことを考えるのを止めてアキラは想った。
小さなころのトラウマってやつか?
いや、そんなことはない、義父は馬鹿だったが母は愛情いっぱいだった。
…むしろ、自分の方が。
なんだろう、何においてもこれといって感情が盛り上がらない。あの冷たい義父に対してさえそうだった。腹は立ったが恨む気持ちはない。ただ人というのは愚かだな、と思うばかりだ。この女に対してさえ。
俺はおかしいのか。
「そうだ、アキラ。あたし今度の休み友達と旅行にゆくことになってたんだけどさ。その友達が都合悪くなっちゃっていけなくなっちゃったんだ。だから、代わりに私と一緒に行かない?」
アキラの顔を見ていた彼女が唐突に言った。
「困ってるんだ」
本当はもちろんうそだ。中々本気になってくれないアキラと、旅行にかこつけてきっちり関係を築こうという魂胆である。
自分のことをつらつらと考えていたアキラ、相手の魂胆は見え見えだったがその手にあっさりと乗ってやった。
人並みの感情を手に入れたい。
そう思った。
源元 雅。中学1年のまだ13歳。
成長期の細い体に、ぶかぶかの制服を着て新一年生らしい晴れやかな笑顔の少年。
優しい両親と豊かな家庭に恵まれ素直にすくすくと育った彼は、いつもニコニコと笑顔を絶やさぬ誰からも好かれる子どもであった。
が、そんな彼には、時々13歳らしからぬ妙に大人びた顔をすることがあった。実は誰にも言えない秘密を持っていたのだ。
「雅!今日、部活終わったら皆でゲーセン行くんだけどさ、おまえ、どーする?」
「いや、いい。今日はちょっと用事あるんだ」
「しょーがねーなあ。じゃ、今度またな」
「おう」
部活帰りの校門で友達にかけられた声に明るく返事を返すと、雅はよいしょ、と布袋に入った弓を肩に背負いなおした。
「今日はあのひとと約束があるんだ、悪いな」
誰にともなくそう言うと、雅は帰り道とは違う方向に歩き出した。
「おう、来たか、博雅どの」
華のような笑顔で雅を迎えた男は、随分と古風な物言いをする青年であった。まるでどこかのファッション雑誌のトップモデルのように美しいその姿に道行くひとが振り返る。
「ど…、あ、いえ、朱呑さま。お待たせしてしまいました」
「なに、私も今来たところ。気にするな」
ペコリ、頭を下げる雅にその青年はにこりと微笑んで答えた。その血のように紅い唇の端に白い犬歯が小さく光る。
博雅にはいっぱい秘密がある。この美しすぎる男もその秘密のひとつだ。
なにしろこの男、実は人ではない。
昔、京の都といわれたこの街の闇を牛耳った大妖し、大江山の鬼王朱呑童子、(もしくは酒呑童子とも言われた)である。
今のこの現代に妖しなどいるわけがない、そんなのはただの御伽噺だと笑う向きもあるだろうが、実はこの近代的な時代においてさえ妖しと呼ばれる者たちは厳として存在しているのだ。それに近代的というが千年の昔の人間に言わせればその時代こそが最先端の時代だったのだから、近代だの未来だのとは人間の感覚に過ぎない。
妖したちには関係のないことだ。
「ほう、旅に出るのか?」
久方ぶりに会って話をしていたそのふたり。博雅の言葉に妖しの大将のほうが興味を示した。
「ははっ!旅なんて。そんな大それたものじゃありませんよ。ただの修学旅行ですよ。」
「しゅう…がく?」
なんだ、それは?と朱呑童子と呼ばれた妖しが頭を傾げる。
「修める学ぶ旅と書いて就学旅行。学校の皆で行く物見遊山ってところかな」
「学び修めるのに物見遊山とは…ひとというのは変な生き物だな」
「ホントですね。」
博雅は朱呑童子の言葉にくすくすと笑った。
「まあせっかく行くのだ。せいぜい楽しんでくるがよかろう」
「ええ。あ、童子さまにもお土産買ってきます!」
そんな気は使わなくていい、と言う童子に博雅はいや、絶対買ってきますと答えたのだった。
「なんで修学旅行がここなんだよ」
「なんかあっちのほうに鳥だか牛だかの病気が出たから危ねーんだって」
「マジかよ。でもそれにしたって他にも行くとこあんだろーが」
「ったく。ありえねえ〜!」
友達たちがブーブー言っている。急遽行き先の変わった修学旅行先。急な変更で楽しみだった泊まりもなしの日帰りだ。友達の声に適当に相槌を打ちながらも博雅はバスの窓の外に見える光景に目を奪われていた。
満開の桜がどこまでもどこまでも続く。時折風に舞って仄かなピンク色の桜がぺたりと窓に張り付き、そしてまた風に飛ばされてゆく。
吉野。
周りの同級生にとっては修学旅行という学年の一大イベントには到底ふさわしくない地味で近場の旅先、文句の出るのも仕方の無いところだろう。が、博雅にとってはここは特別なところであった。
…ここにくるとあれを思い出す。
博雅はそっと目を閉じた。
白い袖がふうわりと風をはらんではためく。
風にわずかに乱れた鬢の一筋。
『博雅…』
声にならない声が博雅の名を呼ぶ。
博雅の為だけに微笑むひと。
その笑みの前を仄かに色づいた桜の花びらが舞い落ちる。
思い出したい、けれど思い出すのが怖い幸せだったあの頃。
決して今が不幸せというわけではない。周りの皆が自分の為を思ってくれている、これを幸せと言わずして何を幸せと言うか…。
でも…あれがいない…。
ほう…と大きな溜息をひとつついて博雅は目を開けた。
「今度も俺ひとりなのかな、また…」
博雅は桜の続く山並みの彼方に目をやって
「早く来いよ…寂しいじゃないか馬鹿野郎」
ちょっと怒った声で呟いた。
「きれ〜い!」
アキラの腕にぶら下がるように掴まった女が満開の桜を見上げて甲高い歓声を上げた。
「すっごいね。あっちからあっちまでぜ〜んぶピンク!ちょー可愛い!」
「そりゃ桜だからな、ピンクだろうさ」
そんな当たり前のことのどこが可愛いんだ、とアキラは醒めた目で女を見下ろした。
「そんなの分かってる。でもピンクってすっごく可愛いじゃない」
ピンクなのが可愛いというのは理解に苦しむところだが、えてして女性の感性というものはそういうものなのか、と今度は懸命にも黙ってアキラはうなずいた。
「…そうだな」
「ね?」
うれしそうにますますべったりと張り付く女。汗ばむほどの陽気の中で広く開いた女の胸元からむわりと甘酸っぱい匂いが香り立った。
男を誘う罠の臭いだな。
桜を可愛いと愛でる反面、蜘蛛のように男を絡めとろうとする女という性。
俺は糸にかかった蠅か。
それも面白い。
女と違って汗一つ滲ませもしない涼しげな顔で、フフとアキラは嗤った。
(いいカンジじゃん!)
小さく笑みを浮かべるアキラの顔に目をやって女は心の中で喝采の声をあげた。
(もう一押しでこのひとは私のもの。)
この男は顔がいいだけじゃない、頭も切れ過ぎるほど切れるし金も運も全て引き寄せる不思議な力みたいなものを持っている。今のうちにこいつを捕まえておかなきゃ後で絶対後悔する。
体の関係は持った。後は約束を取り付けるだけ!そうすれば私の未来はばら色!
奇しくもアキラが喩えたとおり、その心の中はまさに罠を張る蜘蛛のような女であった。
(実は赤ちゃんができたの、って言っちゃおうかな。こいつって意外と責任感とか強いしきっと結婚してくれるわ。)
そのうち本当に赤ん坊もできるだろうし、と天使のような顔で微笑みながら心の中で策を練る。
と、その背にポトリと小さな何かが桜の木の枝から落ちた。
サカサカとほんの小さな黒い点のようなものが女の首を上り髪の中へと潜ってゆく。
「痛っ!」
ちくりと襟足に刺すような痛みを感じて女は手を首にやった。
「どうした?」
「う、うん、何か首にチクッって。やだ、虫かしら?」
襟の辺りを手で払いながら女は言った。
「これだけ枝が頭上に張っているからな。あとで何かクスリでも塗ってやるよ」
「ありがと。やっぱりアキラって優しいよね」
「言われたことないけどな」
アキラが肩をすくめてもう一度歩き出そうとしたときである。
「ねえ」
グイと女がアキラの腕を引いて止めた。
「なに?」
急にがっしりと腕をつかまれてアキラは振り向いた。
「…お花は綺麗だけど…ここってひとでいっぱいね。」
アキラの腕を掴んだまま女は赤い唇をとがらせた。
「もう少し静かなところ行かない?」
そう言うとにっこりと笑ってアキラを見上げた。
「静かなところ?」
「そう、ふたりっきりになれる、と・こ・ろ。」
「へえ」
これはまた随分と積極的に出てきたものだな、とアキラは思ったが、それも一興、何をするつもりなのかと黙って女が手を引くままにさせた。
「ほら、ここならどう?桜はキレイだし、静かだし」
アキラから離れて数歩歩くと、辺りを見回して女は満足そうに微笑んだ。
確かにそこはこの時期人でいっぱいの吉野の山にしては驚くほどひと気のない場所だった。この山にしては珍しい竹林、その奥にその場所はあった。よくこんな場所を見つけたものだと思うくらいの場所である。
それともここもすでに計画のうちか?
女ってヤツは、とアキラが思った時。
「私すごく嬉しいの。」
アキラのほうを向いて立った女が言った。
「あなたに会えるなんて」
言いながら穿いていたスカートのホックを外しその場にするりと脱ぎ捨てた。
「おいおい。こんなところでどういうつもりだ?悪いが俺にはこんなところで、なんて趣味はないぜ」
今度は上に来ていた服のボタンをひとつづつ外す女にアキラは冷たい笑みを向けて言った。
「なんだ、やらないのか?この女はすっかりその気なのに?」
最後のボタンに手を掛けたまま女は、にっと笑った。
「この女?」
何かおかしな雰囲気を察してアキラは片方の目を眇めて女を見た。俺を自分のものにしようとしていた彼女だということはわかっていたがそれにしても今のカンジは何だ?おかしすぎる。まるで違う人間のことを話しているようだ。
二重人格?
まさか、そんな都合のいい解釈などあってたまるか。
「おまえ…誰?」
「誰って。おまえの…いや…あなたの女に決まってるじゃない。」
上に着ていた服も全て脱いで下着姿だけになった女が馴れ馴れしくアキラの肩に手をかけた。
「さあ、あなたも早く脱いで。ここにはだあれも来やしないわ。愛し合いましょうよ」
アキラの肩にかけた手がするりと首に回されて女がしなだれかかる。
「こんなところでそんなことをする気はないし、何より知らないおまえとならなおさらだ」
そう言うとアキラは女の身体を自分から引き剥がす。
「知らないって…ひどいわね。あなたの彼女じゃない」
「なら、おまえの名前は?」
「あ…えっと…まあいいいじゃない、愛し合うのに名前なんて必要ないわ」
少し考えた後女は言って再びアキラに手を伸ばそうとした。
「…悪いが帰る」
じっと彼女の顔を見つめた後アキラは言ってトンと彼女を突き放した。
「さっさと服を着ろよ。」
そう言うと女が脱いだ服を拾おうと腰を屈めた。
「使えない女だ」
低い吐き捨てるような声色にアキラはゆっくりと振り返った。
「おまえを捕らえようとする願いは同じだったのだがな。この体で捕らえられないのならこの女に使い道などないな」
今まで甘えるような素振りを見せていた女の表情までもが変わっていた。変わっていたというよりその顔から表情といえるものがなくなっている。そのうえ身体の様子もおかしい。肩の力が抜けているのか両手をだらりと下げ、ふらふらと左右に揺れて…まるで糸で吊り下げらたマリオネットのようである。
「やっぱり。変だと思ったんだ。おまえ、誰だ?俺を捕まえるってどういうことだ?」
「おまえを喰らうということさ」
女がケタケタと笑う。
「人外はこれだから嫌になる。何かって言うと食いたがる」
彼女の服を丸めてぽいと脇に放るとアキラはやれやれと肩をすくめた。
「こんな古い場所、色々いるだろうなとは思ってたけど。何で俺なんだ。ったく。」
腰に両手を当ててアキラは彼女、いや彼女の中のモノに向き合った。
「なんだ、おまえ。我を覚えておらぬのか?」
「覚えて?何のことだ、いったい?」
俺にはおまえみたいな妙なヤツに知り合いなどいないぞ、とアキラは首を振った。
「覚えておらぬと言うか…なるほど、天下の陰陽師も時を降るとたいしたことはないな」
くすくすと身体を揺らせて彼女の中のそれが笑う。
「何を言っているのかまったくわからないが、とにかく彼女から離れろ。とりあえずこの女は俺の彼女だ」
正体もわからないものに笑われてアキラはむっとしながら言った。
「そうだな、代わりにおまえをくれたらこの女を返してやってもいい」
「俺を?」
なんだ、それじゃあ彼女と考えていることは同じだな。とアキラは妙におかしくなった。
「まったく、どいつもこいつも。」
苦笑いしながらアキラは腰のポケットに手を入れた。
「人間ならまだしも、おまえのようなわけの分からないヤツのカレシなんて願い下げだぜ」
「想いひとではない。おまえ…天下一の陰陽師の力が欲しいのだ」
「天下一の陰陽師?またでっかく出たな。」
なんだ、そりゃ、と今度はアキラは大きく笑った。
「でも、悪いが人違いだ」
「人違いなどではない。なぜなら我はおまえに封印されしもの。だからおまえを見誤ることなど決してない!」
ギラリ。眸を光らせ、女はまるで蜘蛛のように高脚で四つんばいになると物凄い勢いでアキラに向かって飛び掛った。
裂けんばかりに開かれた口の両端に長い針のような犬歯が伸びる。
「お前を喰らい力をつけて今こそ我は完全に甦る!」
「残念だけどそれはムリ」
飛び掛ってくるそいつに向かってアキラは言うと腰のポケットから引っ張り出したものをその額にパシリと叩き付けた。
「ぎゃあああああーーっ!」
顔を両手で覆って女がもんどりうった。
「熱い熱い熱い!ひいいいいっ!」
「やかましいな。」
顔を手で覆って引きつった悲鳴を上げ続ける彼女の身体を膝で押さえ込むとアキラは不機嫌そうに言った。
「おい、大丈夫か?」
「う…うう…ん」
しゅうしゅうと額に張り付いた紙がきな臭い煙を上げる。ぐったりしながらも何とか返事をする彼女にアキラは肩の力を抜いた。
「生きてるか、よかった。ここでおまえに死なれたりしちゃ後が大変なところだ。」
愛する彼女に言うとはとても思えない台詞を吐くとアキラはその額からぶすぶすとまだ煙を上げる紙切れを剥がした。
「さすが地元の寺のお札だ、よく効く」
ここに来る途中、山の中腹の寺で彼女に無理やり買わされた縁結びのお守り札をアキラは笑って見た。
「ん?」
皆と話ながら歩いていた博雅、ふいに話を止め天を仰いだ。
「どした?雅?」
なんか飛んでたか?と話していた相手も一緒に空を見上げた。
「いや…何か悲鳴みたいなのが聞こえたような?」
「悲鳴?物騒だな。でもこんなところで事件なんかあるわけないじゃん、気のせいだろ」
友達が周りを見回して言った。
溢れる人ごみ、爛漫の桜。賑やかで和やかな春の風景。とても悲鳴の上がるようなことがあったとは思えない景色である。
「うん、そうだよな」
にっこりと笑ってうなずくと、青い空の元、咲き誇る桜の下を博雅はまた友達と歩き出した。
ブログより転載。
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