「そ、ソコにいル…のは…ダレ…ダ?」
喉に何かが絡んだように掠れた声。
暗闇からゆらりと現れたその姿は目を覆いたくなるほどに凄まじかった。
地位を示す深緑色の束帯を身につけてはいるが、袖は破れて垂れ下がり、泥やたぶん血であろう、どす黒い染みがその絹の衣を夥しく汚して、その姿はまるでぼろをまとった乞食のようで、とても貴族とは見えなかった。
そして、それにもまして、中身の人間…いや人間だったものの様子がひどかった。
まず目を引いたのがその目。片方は半分溶けたようになった目玉が眼窩からどろりとぶら下がり、もう一方はどこかに落としたのか、とっくになくなってウロのように暗い穴になっていた。それだけでも恐ろしげなのに、さらに腐った顔からは半分以上肉がこそげ落ちて、頬から口元にかけて中の骨が露になっている。暗がりでも、その辺りを何やら虫のようなものがさわさわと蠢いているが見て取れた。
その骨まで見える口が濡れて見えるのはどうやら血のようだ、見れば片手にこれもまた腐りかけた犬の頭のようなものを持っている。篁の言った食事とは、どうやらこれを食らっていたものらしい。
まさに地獄の中から甦った死人、地獄絵図の亡者そのもの姿であった。
「うわ…」
思わず鼻を袖で覆い、博雅が後ずさる。腐った肉と血の匂いが闇に乗って博雅のもとまで漂ってきていた。
「誰ニモ…ワタサヌ…ぞ…」
犬の頭を腕に抱え込んで、腐れた男がいやいやをするように首を振る。
「ナニモ…カモ…わしノ…もの…ジャ…ワタ…さ…ぬ…」
「まったくひどいものですね。」
篁はやれやれと肩をすくめた。
「よほど、甥には地位をやりたくないと見える。」
「え?ということは…道鉦さま?…まさか…」
目を背けたくなるような姿の亡者に、博雅は思わず目を凝らした。
「そう、藤原道鉦さまですよ。さすが若いとはいえ公卿さま、よくご存知だ。」
篁が言った。
二人の前に凄まじい姿をさらしているのは藤原道鉦。関白藤原道高の弟である。
兄が死の間際、その息子伊近を後継にと望んだのを反対し、自身の出世を謀るも、たった七日で死んでしまった男である。恨みを抱いた伊近の手の者によって暗殺されたのではと、とかくの噂があった。
「よほど、この世に未練がおありとみえますね」
事情が事情ですからねえ、と篁は言った。
「でも、亡者は亡者。この世に舞い戻ることなど許されることではありませぬよ。」
「伊近さまはこのことは…?」
「もちろん知る由もありませんよ。それに知ったが最後、その場で卒倒しかねない。」
お公家様にありがちですがね、と篁が答えた。が、どうやらにっくき甥の名がその耳に届いたらしい。
「こ…コレ…ち…カ…」
ぼうっと突っ立っていた道鉦の目に青い炎が点った。そして、大事に抱えていた犬の頭を、博雅たちの方に向かって力いっぱい投げつけた。
「うわっ!」
間一髪の差で犬の頭が博雅の顔の横を掠めて飛んでいった。
「コレ…チカっ…!許サヌ!許さぬ!許さぬっ!!オ…オオオオ…ッッツ!!」
天を向き、亡者の道鉦が咆哮した。
「おや、逆鱗に触れてしまいましたね」
「えっ?どうしましょう。私が伊近様の名を言ったばっかりに」
「伊近アアアアッ!!」
「あっ、しまった!」
また言ってしまった、と博雅は慌てて口を押さえた。が、二度も聞こえた怨み骨髄の仇の名に道鉦が逆上してしまった。
「オのれえっ!!」
怒髪天をつく勢いでこちらに向かって突進してくる。
「おおっと!」
「わわっ!」
博雅の手を引っ張り、その道鉦をさっとかわして、篁は牛頭と馬頭に向かって命じる。
「そいつを捕らえろ。牛頭、馬頭!」
「仰せのままに」
「諾!」
二匹の地獄の番人が目にもとまらぬ速さで道鉦に飛び掛り、ドウ!と地面にその腐れかけた体を押さえつけた。
「ぐおおおおっ!!ハナ…セッ!離せええっっ!!」
ちぎれかけた耳をぶんぶんと振って道鉦が頭を振り、身をよじって暴れる。
「もう観念なさいませ。道鉦さま。」
その傍らに膝をついて篁が言った。
「あなたの命はすでに尽きたのです。もうここにあなたの場所などないのですよ。」
「ウ、嘘ダ…うそだ…ウソダあっっ!!」
まだ溶け出ていない片方の目から滂沱の涙が零れ落ちる。
「そのようなコト、ワレは、し…信じぬ!わしは…まだ…何モ…何も手にシテイナイ…、ずっとズット…兄の影で…うううううっ…」
肉の落ちてしまった頬を泥土に擦り付けて道鉦が泣く。
「それも仕方のないこと、世の中あなたの思うとおりにばかりはゆきませぬ。あなただとて色んなひとを陥れてあの地位まで登ったのでしょうが。因果応報、これもこの世の習いと、いさぎよくあきらめなさい。」
諭すようにそう言うと、篁は、すっ、と立ち上がり、恐ろしい顔をした二匹の僕に命じた。
「そのまま押えていろ、牛頭馬頭。道鉦さまをいるべき場所にお送りする。」
博雅に話しかけていたさっきまでとは打って変わって、恐ろしく冷たい声が篁の口をついて出る。。
目つきまでもが冷徹さを帯びて、その体が一回りも大きくなったように見えた。
これが地獄の副官か、と思わず目を奪われる博雅、がその篁が衣に隠した大刀をすらりと抜き放つとさすがに慌てた。
「わ!ちょ、ちょっと!」
大きく刀を掲げて振りかぶる篁を博雅はあせって止めた。
「な、なにをなされるのです、篁どの?」
「何って、今から道鉦さまの頭を斬り落とすのですよ。」
たいしたこともないように篁は言って、
「危ないですし、何より汚いですから博雅どのは少し下がられるとよい。ほら、血やらなにやら色々飛びますからね」
博雅に向かって、にっこりと微笑んだ。
刀を振りかざす篁、牛頭馬頭に押さえつけられてなすすべもなく震えて涙をこぼす腐りかけの道鉦、博雅はその両方に交互に目をやる。
そして。
「いけません!だめです!ぜ〜ったい、よくないっ!!」
篁と道鉦の間に割って入った。
「え?」
その博雅の勢いに、篁の殺気がそがれた。
…いや、勢いもさることながら、その博雅の様子にだろう、この場合。
唇をかみ締め、頬を上気させて、その上、黒目がちの純粋さの残る瞳が涙でウルウルしているのだ。かみ締めた唇が小さく震えている。おまけに、道鉦を守るように広げた指先までもがふるふると震えている。
「博雅どの…」
あっけにとられた声が出た。
「いけませぬ。道鉦さまの頭を斬りおとすなど!ここは帝のおわせられる尊き場所、それになにより私の目の前で殺生は許しませぬ!」
「殺生って…」
もうそいつはとっくに死んでますが…、と篁は思ったが、目の前で今にも泣き出しそうなこの青年には言うだけ無駄かな、と思われた。
「でも道鉦さまをこのままにはしておけませぬよ。」
ふう、とひとつ息を吐いて篁は言った。
「それはわかっております。で、でも、首を斬るなど…。」
今にも蛆のわきそうなほどに崩れ落ちた道鉦を見下ろして、博雅は辛そうに顔をゆがめた。どうやらこの際、そのデロデロさは目に入っていないらしい。
「他に道鉦さまをあの世に送る手立てはないのですか?」
「手立てねえ。」
いつもなら、逃げた亡者はとっとと捕まえて、ポンと首を斬りおとし、地獄に蹴りこんで一仕事終了、となるのだ。ほんの少し手伝ってもらうだけのはずだったこの若い殿上人が、まさかそれに異を唱えるとは。清浄な気を漂わせているとは思っていたが…。
さて、どうしたものか、と篁がフッと気を抜いた瞬間、
「ぐぅおおおおおっ!」
崩れかけの道鉦が、どこから湧いたやら、わけのわからないほどの怪力で己を押さえつけていた二匹の鬼を弾き飛ばした。
「コ…コレチカ…許サヌ…このウ…ラミ晴ラサデ…おくモノカッ!!うおおおおおおっ!!」
どろりと落ちる目玉にまで、青黒く燃える恨みの炎を燃やして、道鉦は暗い夜の空に向かって咆哮した。
「道鉦さまっ!」
驚いて振り向く博雅。
その博雅のいかにも位の高い殿上人らしい様に、ほぼ怨霊と化した道鉦の目がぎろりと向いた。
「ソコに…おったか…伊近…」
道鉦が呟いた。
その体が、ゆらりと風に揺らぐ柳のように揺れた。
「え?」
いったい何を、と博雅が思う間もなく、再び取り押さえようとする二匹の鬼を振り切って道鉦が博雅に向かって飛び掛る。
「うわあっ!」
あわてて飛びのこうとしたが、遅かった。
ドカッ!!
砂埃を上げて博雅が倒れる。その上に馬乗りになった道鉦が、死んで腐りうら膨れた両手で博雅の首を折れんばかりに締め上げた。
「死ねっ!死ね死ね死ね死ね死ね死ねっ!!」
崩れ落ちた顔に、鬼もかくやとばかりの凄まじい笑みを満面に浮かべて、道鉦が呪文のように死を望む言葉を連呼する。
「み、…道鉦…さまっ…、私は…伊近さまでは…ぐうっ…!」
万力のような道鉦の腐った腕に手をかけて、博雅は必死に離そうとするが。
「ハハハッ!伊近、苦しいデアロウ?私は…モットもっともっとクルシカッタのだっ!思い知るがヨイ!ひっ、ひひひひひひっ!」
博雅が苦しめば苦しむほど道鉦が狂ったように嗤う。
「…チッ」
篁が舌打ちをした。
「牛頭、馬頭!何をぼけっとしておるか!博雅どのが縊り殺される前にそいつを引き剥がせ!」
小山のように大きな二匹の鬼に向かって厳しい声で篁は命じた。
「ぎょ、御意!」
ハッ!として鬼たちが道鉦におどりかかった。
「最後のあがきの馬鹿力だ、博雅どのの首が千切れぬよう気をつけろ」
言いながら再び篁は刀を構えた。
「うわあああああっ!離セッ!は、離せえっ!!」
背後から両肩を牛頭にガッ!と掴まれて道鉦が喚く。博雅の首に食い込んだ手を馬頭がぐぐぐっ、と引き剥がす。
「か、かはっ…!」
のどを押さえて博雅が地面に突っ伏し、ゲホゲホと咳き込む。その背に向かって篁が言った。
「博雅どのはお優しい。」
でも、と続けながら篁は大きく刀を振りかぶった。
「時には残酷なことでも、やらなければならないことがあるのですよ。」
ザンッ!
今度は何のためらいもなく、振り下ろされる篁の太刀。
哀れな道鉦には悲鳴を上げる間すらなかった。
「ひひひひっ、ひっ…!!」
狂った笑みを浮かべたままの腐れた道鉦の頭がゴトンと転がり落ちる。その後を追って首から上を失った体がゆっくりとくず折れた。ふたつに分かれたそれぞれが早回しの時を刻むようにあっという間に腐り始める。激しい腐臭を放ち、道鉦があれほど執着した体が、溶けるようにどろどろと腐り、崩れ落ちていった。
そして、そのどぶ泥のごとくに崩れ落ちた肉の塊の中から、ポウッと鈍く黄色く光る光の玉が浮き上がった。
篁が手のひらを差し出すと光の玉がふわふわと宙を漂い、慣れた小鳥のように篁の手の平の上に留まった。
「牛頭」
呼ばれて、すぐそばに控えた牛頭が篁に、白檀でできた鳥かごのような入れ物を差し出す。篁が手のひらを傾けると、黄色く光る玉が転がるようにそのかごの小さな入り口から入っていく。
「それは…」
ようやく地面から立ち上がった博雅が、締められてあざになった喉元をさすりながら聞く。
「鳥かごですよ、逃げた小鳥を捕まえるね。」
「その…それは道鉦さま…ですか」
博雅がかごの中の光の玉を指さす。
「そうですよ、腐った体を引きずって歩く先ほどの姿に比べたら、ずいぶんとかわいいものでしょう?」
鳥かごを目の位置にまで上げて中を覗き込む篁、中の玉がおびえたように篁とは反対の方へふわりと移動した。
「ふふ、どうやら私が怖いらしいですね。このような姿になってもまだ、人としての心はあると見える。」
「篁どの」
諌めるように博雅は篁の名を呼んだ。
「いや、これは失礼を。黄泉の副官の言うべき言葉ではござりませぬな」
篁は苦笑いをしてそう言った。
「とにかく私のここでの仕事は終わりました。博雅どのにはほんの少し手伝っていただくつもりが、随分と危ない目に合わせてしまって申し分けなかったですね。」
「いえ、私など何も…。まったく邪魔こそすれ、お役に立たなくて。道鉦さまをなんとかお助けしようなど…私ごときが…」
ふるふると博雅は首を振ってうな垂れた。
(なんとまあ、可愛いお方だ。男に言うべき言葉ではないが。)
まるで耳を垂れてしょげ返る子犬のようなその仕草に篁は思わず笑む。そして後ろに広がる内裏の暗闇を見つめた。
…ここは、とにもかくにもこの世の中心。
たとえ、外で飢饉が起き、食えずに道端に死人が山ほど転がっても、この中は別世界だ。ここには食うに困るものなどいない。この中に巣食う者…貴族たちが恐れるのは日の吉凶や、目には見えない恐ろしきモノたち。
怨霊、妖し、祟り、呪い…。
そして、それらをひっくるめてもかなわないほど彼らを惑わせ恐れさせるもの。
それが「権力」だ。
この国の中心は帝には違いない、が、その帝の首すらすげ替えるもの、それこそが本当に彼らを恐れさせるモノ、権力だ。さらに言えば権力を手にした者。そして、貴族と名のつく連中はそれを恐れてもいるが、逆にそれを激しく求めてもいるのだ。
この鳥かごの中の道鉦などがそのよい、いや、悪しき例だ。力を求めるがゆえに殺され、力をあきらめきれぬがゆえに、再びこの世に迷い出た。
篁は目の前に立つ若き殿上人を見た。
彼は今、自分が止めることのできなかった惨事の残骸に、その涼やかな眉を寄せている。あのように身も心も腐った貴族など自分には関係のないことなのだから放っておけばよいものを、その身を挺して守ろうとし、殺されそうになってなお、そのものを心配している…。
はあ、と彼には珍しく篁は心配げなため息をついた。
「私は心配ですよ」
「え?」
博雅が振り向く。
「何です?」
小首をかしげて聞くその純粋な瞳に、篁は困ったように笑んだ。
「あなたのようなお方が、こんな魔宮にいらっしゃるのがね。とても心配ですよ。」
「魔宮?…って、ここのことですか?」
一瞬キョトンとしたが、すぐに何のことか気がついて、博雅はあたりを手で示してハハッ、と笑った。
「確かに魔宮かな。色々巣食ってますからね」
博雅だとて若いとはいえ子供ではない。一見、華麗に見えるこの宮中で起こるいろいろな汚い事などもちゃんと知っている。まして臣に下ったとはいえ、自身も帝の血筋として生まれているのだ。
幼いころに、大人の権力争いの道具にされなかったのは運がよかったとしかいいようがない。でなければ、その出自ゆえ大人たちのいいように使われて命もあったかどうだかも知れたものではなかっただろう。
博雅にとっては、この内裏という場所だけではない、自分の生まれて育った環境そのものが魔宮のようなものだ。
「私はそんなに頼りなく見えますか?」
そう笑った博雅の顔はとても大人びて見えた。さっきまでの童のような純な光が博雅の目からあっという間に消えていた。
「博雅どの…」
瞬時に表情を変えた博雅に篁は思わすどきりとした。
なんだ、この青年は…。
そんな篁の心の中など気づくわけもない博雅。
「今までだってなんとかやってきましたから大丈夫ですよ、これからもきっとね。」
「そうですか…」
童のようにも大人のようにもくるくると代わる博雅に、篁はらしくもなく心を奪われた。
「それにしても」
博雅は篁の持つ籠の中に目をやった。
先ほどに比べ、ずいぶんと弱くなった黄色く鈍い光を放つ道鉦の魂。
「道鉦さまはこのままあの世へとつれてゆかれるのですか。」
「まあ、そういうことになりますかね。その前に私どもの前で裁きを受けることになりますが。」
「裁き?」
「死者となったはずの人間がこの世に未練を残すのはままあること、誰しももう一度やり直したい、元に戻りたいと願います。でも、願うのと実際に戻ったり、やり直したりするのはまったく別の話です。そんなことをしてしまってはこの世もあの世もなくなってしまう。何事にも違えてはならぬ決まりごとというものがあるのです。それを破ったものにはそれなりの罰を与えねばなりませぬ。」
そういう篁の目は地獄の副官のそれだ。
「では、道鉦さまには…その、どのような処罰が?」
今の話を聞いていたのか、さらに消え行きそうなほどに光を弱める道鉦の魂を見つめて、博雅が聞いた。
「さて、それは言わぬほうがよろしいかと…。」
「…」
道鉦の魂を見つめた博雅の瞳からぽろり、大粒の涙がひとつぶ零れ落ちた。
「私には難しい話はわかりませぬが…それでも道鉦さまが幸せを求めていたことはわかります。きっと、それも私の考える幸せとは形もなにも全部違うのでしょうが、それでも死んでなお、それを求められた…、さぞやご無念でありましたでしょう」
おいたわしや、と博雅は涙を零した。
篁は何も答えなかった。この道鉦の求めた幸せとは人を操る権力のことだ、それは博雅も承知の上で言っているのだろうが、この稀有な殿上人なら絶対求めない下種な類いの幸せ。彼の零す涙はこの道鉦にはもったいなさすぎる。
ところが、その博雅がこぼれる涙をぬぐいもせずにさらに言った。
「私は道鉦さまのために何もして差し上げられることがない、せめて笛を。」
博雅は懐から一本の竜笛を取り出す。
笛を吹くと言った博雅を篁は止めなかった。道鉦の首を切り落とすことを止められなかった自分を責めている博雅の心が手に取るようにわかったからである。それに大して驚きもしなかった。この時代、笛や琴などは貴族としての当たり前のたしなみ、教養のひとつである。今のような場合、博雅のような身分の人間なら歌を詠んで相手を悼むか、笛など吹いてその心を慰めるか、大体できることはそれぐらいなものであったから。それに何より先日、もうすでに博雅の笛は聞き及んで、その腕前のほどはよくわかっていたつもりであった。
ほう、先日のような笛の音がここで聞けるのか。
それぐらいにしか思っていなかった。
が。
零れだしたその笛の音に篁は驚愕する。
今宵のその音色は、前の晩に聞いたそれとは、とてもとても違っていたのである。
博雅が吹く今宵の竜笛の音はこの世のものとも思えないものであった。
ひるり…と夜空に向かって登ってゆくその音色は、まるで月の光を浴びて煌く金糸銀糸のよう。
笛の音の煌きとともに、あたりの空気までもが凛として冴え渡る。
道鉦の纏っていた穢れて淀んだ気が、日の光に触れた地虫のように、ざああっと引いてゆくのがわかる。
「なんと…」
人がこれほどまでの音を紡ぐことができるものであったか、と、篁は目を見張った。よきものを耳にしたと思った先日の笛など、今のこれに比らぶればものの数ではなかった。
「…神霊の音だ」
そう思わず口をついて出た、そのとき。
篁の持った白檀の鳥籠の中がポウ…と明るく光った。
なんだ?と篁がそこに目をやると、今にも消えそうだった道鉦の魂が光り出していた。
ポウ…ポゥ…
強く弱く明滅するその光。
「どうしたというのだ」
よくよく見ればその光は、博雅の奏でる笛の音調に合わせて明滅している。それのみならず明滅を繰り返すたびに鈍く黄色かった光がどんどんと透明度を増し、くすんだような黄色から清らかな青へと色を変えつつあった。
「まさか…な」
籠を目の高さまで持ってゆき中を覗き込んだ篁、その眉がいぶかしげに寄せられる。
「ひとにそのような真似など…」
言いかけた言葉が思わず途切れた。
…スイ
悪しきものを通さぬはずの白檀の檻を、道鉦の魂が何の抵抗もなく通り抜けた。驚く篁の目の前をふわりふわりと道鉦の魂が漂う。
「うおっ!」
「待てっ!」
牛頭と馬頭が慌てて道鉦の魂を掴もうと手を伸ばす。が、それはすううっと天に向かって上がり始めた。
「おやまあ」
からの籠を持ったまま篁は、空に向かってさらに舞い上がってゆく道鉦の魂を見上げた。
傍らでは牛頭と馬頭が道兼の魂を捕らえようと、必死に空に向かって手を伸ばして飛び上がっている。が、道鉦の魂はさらに輝きを増し高度を上げてゆく。
「逃すか、道兼!」
「おおおっ!」
ふわり、宙に飛びあがる牛頭と馬頭。飛んで追いかければ、すぐにも道鉦の魂は捕まえられる。
が、その二匹の鬼に向かって篁は片手をあげて制した。
「もうよい。」
「し、しかし、篁さま」
「あれを逃してしまえば、また何をしでかしますやら…」
宙に浮かんだ二匹の鬼が上昇を続ける道鉦の魂を睨みあげた。
「もうよい、と言っておる」
静かな篁の一言に、二匹の鬼がシン…と静まる。
「…御意」
「仰せのままに」
飛ぶことをやめて、二匹は静かに篁の後ろに控えた。
「なんというお方だ」
篁は、目を瞑りひたすらに笛を吹く博雅を振り返った。かの殿上人は楽の音と一体となるあまり、鬼たちや道鉦の様子など周りの状況にもまったく気づいていないようだ。長い形のよい指が笛の背を流れるように滑り、うっすらとわずかに開いたふくよかな唇が、まるで口づけのように歌口に寄せられて。
ひるりりり…
暗い星もない夜空に吸い込まれてゆく竜笛の音色。思わずぞくっ、と背筋に寒気が走るほどその音色は清浄な気を纏う。
「凄まじい力だな」
見上げれば、その高くのびてゆく音調に乗って道鉦の魂は暗い夜空に吸い込まれてゆくところだ。
「道鉦どの、幸運であったな。博雅どのがおられなければあなたは地の底に引きずられるべき罪人。その空の上から博雅どのに感謝されるがよかろうぞ」
天高く消えゆく道鉦の魂に向かって篁は言った。
「博雅どの、戻って来られよ。」
博雅の顔の前に片手をかざすと、篁はパチリと指を鳴らした。閉じられていた博雅のまぶたがゆっくりと重たげに開く。が、その瞳は霞みがかかったようにぼうっとして焦点が定まっていない。竜笛を構えたまま突っ立っている博雅に篁は苦笑した。
「これを可愛いと言わずして、何と言うのかねえ」
まったく。私には男色の趣味などないんだが、とブツブツ言うと、篁は未だ我にかえらない博雅の頬に手のひらを滑らせた。
「博雅どの」
もう一度名を呼ぶと、竜笛をツイと脇によけて、篁はふっくらとした博雅の唇にくちづけた。
パチパチッと、二度三度まばたきを繰り返して博雅の瞳に感情が戻る。
「?」
目の前いっぱいに迫る篁の端正な顔。
「!?」
唇に感じる他の誰かの唇。それはもちろん眼前いっぱいに迫る…
「たっ!た、たた篁どのっ!?」
篁の肩を思いっきり突き飛ばして、博雅は素っ頓狂な声を上げた。
「な、ななな!」
あまりの驚きに言葉にならない。
「いや、すまない博雅どの、私にそっちの趣味はないんだが、あなたがあまりにも可愛くってね。」
肩をすくめて、篁はクックックッ、と声を殺して笑った。
「かわっ…!??」
言葉に詰まって博雅の顔がゆでだこのように真っ赤に染まる。
「場所が場所でなければ今にも押し倒したいところですが、今宵はそういうわけにもいかぬようです。非常に残念。」
「お、押し押しっ、押し倒すっ??」
博雅はその言葉にズザッ!と後ずさる。
「まあ、そう怖がらないで。今日のところはもう何もいたしませぬよ。私も仕事でここにいますのでね。」
それにしても、と篁はあわてふためく博雅を見つめて、さらにくすくすと笑った。
「内裏に入るための手助けさえしていただければ、と、あなたをこの仕事に巻き込んだのですが、まさかこんな展開になるとはねえ。」
「こんな展開?」
まだ頬を上気させながら、唇をこぶしでグイとぬぐって博雅が聞く。
「なんのことです?ま、まさか、今の?」
また一歩、博雅が後ずさる。
「違いますよ。そりゃあ今のも予想外の展開でしたけれどね。あなたの力のことですよ。」
「力?なんです、力って?」
博雅には、なんのことやらさっぱりである。
「ああ、やっぱり自覚がないんですね」
そう言うと、篁は空の籠を振って見せた。
「あ、あれ?道鉦さまは?」
空っぽの籠に博雅が驚く。
「まさか、もう地獄に?」
ああ、なんてこと、と博雅は嘆いた。が、篁は「いえいえ」と首を振った。
「それならまだよかったのですけれどね。あなたのせいで逃げてしまいましたよ、やつは。」
「私のせいで逃げた?」
全然心当たりのない博雅、口付けられたこともつい忘れて目を丸くした。
「わ、私は何も…」
「その笛はいつからお持ちで?よく見れば昨夜のものとは少し造りが違うようですが?」
戸惑う博雅に、篁は彼の手にした竜笛を指差した。
「あ?ああ、これは…」
手にした竜笛に目をやって、博雅が言いよどむ。
「ひとの手になるものではない、とお見受けするが?」
篁の目は鋭い。
「あ、やはり…。」
「ご存知なかった?」
「いや、たぶんそうだろうとは思っていましたが…」
「ふむ…どういうことです?よければお聞かせ願えませぬか」
篁がにこやかにそう言って、二人の目が博雅の持つ竜笛に集まった。
「これは…鬼の笛と言われております」
話しにくそうに博雅は切り出した。
「鬼?どこの?そのようなものを持つ鬼となればさぞや名のある鬼でしょう?」
篁の追求は止まない。話の矛先がどこに向かっているのか戸惑いつつ博雅は答えた。
「え、ええ、まあ。」
「どこの鬼です?」
「朱雀門の…」
「朱雀門といえば…朱呑童子?まさか」
篁が眉を寄せる。朱呑童子といえば都に名だたる大妖しの筆頭だ。ひととそいつが一緒にいて無事なわけがない。
が、博雅は困ったようにちょっと頭を傾げて言ってのけて、地獄の次官をおおいに驚かせた。。
「あのお方とは少しばかり面識がありまして。」
「あのお方?」
「もちろん…童子どのです」
「ど、「童子どの」…?はあ、まあなんとまあ。あなたの元から持っている力と朱呑童子の笛。なるほど。これは無敵だ」
篁はハハハッ、と天を仰いで笑った。
「知らぬとはいえ、私もとんでもないお方に手伝いを頼んだものだ」
「とんでもないって…」
博雅はますます困る。いったい自分が道鉦に何をしたのか本当に知らないのだ。正確に言うと、知らないというよりは…覚えてない。
「私はいったい何を?」
「そいつを吹くときは、よくよくご注意めされよ。」
と篁は笛を指差した。そして、教えてくれた。
「あなたがそいつを吹くととんでもない力が現れる。その力たるや、道鉦どののような腐りきった魂でも、あっという間にきれいにして天に飛ばすほどだ。」
「えっ、この笛にそのような力が?」
黒光りする竜笛を改めて見つめる博雅。その博雅にむかってさらに篁は続けた。
「それにあなたの持つ力と相乗するとなおさらだ。」
「私の持つ力ですって?そんなもの、ありはしませんよ」」
博雅はただ戸惑う。
「自覚がないだけですよ、あなたには人とは違う特別なものがある。それは凄い力だ。でもそれは見たところ諸刃の剣のようですね。あなたを天部の神にも、またはひとならぬ鬼にもする力を持っている。まあ、今のような状況など滅多なことではもうないでしょうから、あなたさえしっかり気をつけておられればまず大丈夫でしょうがね。」
篁は博雅を安心させるように言った。普通に宮仕えする殿上人の博雅に、今宵のような特異なことなど、そうそうあるものではないと思ったのだ。
…それはとても誤算だったのだけれど。
そんなことなど知る由もない篁は、くすくす笑うとあたりを手で指し示した。
「あなたがこんな情欲や陰謀術策が渦巻く世界でやってゆけるのか、とても心配でしたが、どうやらそれは杞憂に過ぎなかったようだ。私はあなたを見くびっていましたよ。」
先ほどの童のような大人のような博雅を思い出し、そして今しがた目にした博雅の稀有な力を思う。
「あなたほどの清浄な魂を持つ者に、誰にも傷などつけられるものでしょうか。それでももし、なにかありましたら私をお呼びなさい。たとえ地の底にいようと必ず駆けつけてまいりますよ。」
そういって名残惜しげに博雅の唇を指先でつついた。
「…なっ!」
つつかれた唇を押さえて博雅があわてる。
「わ、わたしは全っ然、大丈夫!あなたにご心配いただかなくとも…」
「わかってますよ。それでも、なにかあれば私をお呼びください。可愛いあなたのためになにが何でもすっ飛んできますよ。」
篁はそう言って、にっこりと笑った。
「た、篁どの!」
「牛頭にお送りさせましょう」
まだ何か言おうとする博雅をさえぎって篁は牛頭を手元に招いた。
「博雅どのをつつがなくお送り申し上げろ。くれぐれも失礼のないようにな」
そう牛頭に指示すると博雅の顎を掬って、サッと軽くその唇にくちづけた。
「では私は仕事場に戻ります。ごきげんよう、私の可愛い博雅どの。」
空の鳥かごを提げた篁はくるりときびすを返し、背中越しにそう言うと、馬頭を引き連れて内裏の暗闇の中に影のように消えていった。
「わ、私は男であって、可愛くなどない!」と真っ赤になって返す博雅と牛頭をそこに残して。
さて、その同じ頃。
「誰かは知らぬが腕のよい法師がおるものだな」
土御門の屋敷の、野山の一部を切り取ってそこにおいたような庭に立って、ひとりの男が言った。
「あのような罪深き亡者を天に送るなど、よほど腕の立つものでなければできぬだろう。俺以外にそんなやつがいたとは都とは存外広いものよな」
そう言って空を見上げる白皙の美貌。
その瞳は美しくも底知れぬ孤独を秘めて、月のない今夜の夜空のようにどこまでもどこまでも深く暗い。
人の世に生まれながら、誰よりも人の世から遠い…若き陰陽師、安倍晴明、そのひとであった。
その孤独な陰陽師もまた、まだ自分の本当の運命に気づいていない。
…わずかに離れたところに自分のすべてを変えるひとがいることに。