SAKURA
春の野。
静かな月明かりの夜。
一本の老いた桜の花の下で博雅が笛を吹いている。
葉双の音色を花びらにのせて春の風が博雅の周りを舞う。
長いまつげを伏せて無心に笛を吹く博雅。
その姿は着ているものこそ違うが、まさにいにしえの殿上人にほかならない。
「博雅…」
名を呼ばれてふと目を開ける。一心に笛を吹いていたその唇をにっこりとほころばせた。
「晴明。」
少し離れたところに立つ白い影。
ちょっと頭をかしげて晴明が困ったように言った。
「いったい、いつまでそこで桜の花びらとじゃれているつもりだ?」
「はは。なにを言っているんだ。俺は笛を吹いていただけだよ。」
博雅は葉双を手に晴明のもとへと歩み寄る。
桜の花びらがその身にまといつくようにひらひらと舞う。
「…そうだな。おかしなことを言ってしまったな。…でも、もういいだろう?すっかり体も冷えてる。」
博雅の肩に手を回して引き寄せた。
そのあごを取って上向かせると笛を吹着続けたために少し熱を持ったその唇にそっと口づけた。そのままくちづけを深めてゆく。
博雅の瞳が閉じられてゆく。
だが晴明の瞳は閉じてはいない。じっと博雅の背後の桜の古木を見つめた。
博雅の背を支える手をそっと片手だけはずすと、すいとその木に向かって伸ばした。
(去ぬるがよい…)
片手で簡単に九字を切る。
桜の古木が一瞬、衝撃を受けたように揺れた。
(桜の精よ。これはお前のものにはならぬよ。悪いな。)
博雅にまといついていた桜の花びらがひらひらと地に落ちていった。
「どうした、晴明?」
唇を離した博雅が聞いた。
「なんでもない。さあ、帰ろう。」
博雅のためだけに見せる笑みを見せて晴明が言った。
二人の去った春の野に桜の花びらだけが悲しそうに舞い続けた。
桜までもいじめちゃう晴明でした。
まだ桜の満開のころに日記に書いたのをこちらに移動しました。
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