咲也の報復(4)
くらりと目眩を感じて博雅が人気のなくなった校舎の廊下の壁に手をついた。今日は一日が長かった。昨晩,散々に嬲られた体が悲鳴を上げている。もうそろそろ晴明が迎えに来てくれる。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせる。それまではがんばってたっていなければ。
今朝、どうしても学校に行くと言ったのはほかの誰でもない、自分だったのだからこんなところでへたれたところなど見せるわけにはいかない。
廊下の壁にくるりと背を預けるとふうっと大きく息を吐いた。
「博雅さん…大丈夫?」
少し離れたところから低く声がかかった。はっとして背を起こし声のしたほうを振り返る。廊下の角を咲也が曲がって姿を現した。
「咲也…くん。」
「博雅さん、今日はいったいどうしたのさ。なんだか変だよ。…もしかしてあいつに何かされた?」
どんどんと近くによって来る。
「何でもない…。君こそ今頃なにしてるんだ?さっさと帰れよ。」
「冷たいなあ。僕は別にここに勉強しにきてるわけじゃないよ。僕はあなたのそばにいたいだけなんだよ。知ってるでしょ?」
博雅の目の前まで来て鼻が触れ合いそうなほどの近くに顔を近づけた。
「寄らないでくれないか…。」
博雅がきつい目で咲也をにらむ。
「博雅さんてばにらんでも全然怖くないんだから。むしろ、可愛いくらいだ…。」
博雅をその腕に閉じ込めて唇を寄せようとした。
「や、やめろっ!」
博雅が顔をねじって咲也を突き放すのとほぼ同時にその咲也の体が後ろに引きずり倒された。
がたんっ!!
咲也の体が向かい側の廊下の壁に叩きつけられた。
「…ったあ!」
後頭部をさすりながら咲也が目を上げたそこに晴明の姿があった。イタリア製と思しき濃いブルーのスーツをまるで普段着のように着こなしてすっくりと背筋を伸ばして立つその姿。咲也のほうが何百年も生きているのにまるで大人と子供のようだ。
「晴…明…。」
きっとその姿をにらみ上げる。
「ほう。私の名を覚えていたか…。」
冷たい目に酷薄な笑みを浮かべて晴明が答える。
「忘れるもんか…。俺の博雅さんを横取りしたヤツの名だからな…。」
「横取りとは聞こえが悪いな。博雅はもともと私のものだ。横から手を出したのはお前のほうだ。」
博雅の肩に手を回してその体を引き寄せる。
「晴明…」
「おまえは黙ってろ博雅。こいつにはきちんとわからせとく必要がありそうだ…。」
何か言おうとする博雅を制止して晴明が言った。
倒れこんでいる咲也の元へと一足で近づくとその胸ぐらを掴みあげた。細いように見えて実は筋肉はしっかりとついている晴明、咲也のつま先が宙に浮いた。
「…く、くそっ!離せっ…!」
咲也が手を晴明の腕に掛けてはずそうとする。博雅が渾身に力をこめて動かそうとしても動かせなかったほどの咲也の腕力を持ってしても晴明の腕はびくりともしない。
「人間の癖に…なんで…?」
のど元を締め上げられながら苦しそうな声で咲也が言った。博雅もびっくりして見ている。
「私は陰陽師だからな。妖しに対峙するときのために万事怠りなく常に用意してあるだけさ。まして私の大事な恋人を狙う妖しがいるときはなおさらだ。」
よく見ればスーツの袖口から見える手首に晴明紋が書かれてある。晴明紋こと五亡星は妖しから身を護る護符としての力を持っている。そしてまた晴明のような力の強い陰陽師が使えば身を護る以上にその力を発揮する。咲也のような妖しなど晴明にこれを使われたら到底太刀打ちなどできようはずもない。その晴明の手に力がこもった。咲也ののど元をぎりぎりと絞めあげる。
「…ぐっ!…やめ…ろ…てめえ…っ!」
息も絶え絶えに咲也が言う。
「せ、晴明!やりすぎだ!やめてやれっ!」
横から博雅も言う。
「お前の本当の姿を見せろ、咲也。現正真姿…。」
あいた方の手の人差し指と中指を二本そろえて咲也の額に当てた。
「やめ…!」
咲也が悲鳴のように叫んだその言葉が途中で途切れた。
「ぎぎいいっ!」
まだ子供の白い毛の残る小柄な獺が晴明に捕まえられて鳴き声をあげた。必死にばたつく尻尾がかわいい。
「こんなガキの癖に色気づきやがって。」
ぽかんと驚きの目を見張る博雅をよそに晴明がその小さな動物の頭をぴんっと弾いた。
「ぴぎゃっ!!」
体をすくめて子獺が鳴いた。
「か、かわいい…。」
博雅が晴明の傍らによってきて子獺(咲也)を覗き込む。
「…いくらかわいく見えるからっていってもこいつは400年は生きてるんだぞ、わかってるのか?博雅。ま、何百年生きてようと中身がガキなのに変わりはないがな。」
手の中で暴れる咲也を冷たい目で見ながら晴明が言った。
「まちがっても飼おうとか言うなよ。」
「ま、まさか!だってこの子は咲也くんだろ?そんなこというわけないじゃないか!」
「博雅は時々とんでもないこと言い出すからわかったもんじゃないからな。」
「いくらなんでも言わないぞ、そんなこと。それより咲也くんをこんな姿にしちゃってどうするつもりだ、晴明?」
心なしか晴明の手の中で咲也が震えてるような気がした。
「そうさな。博雅に二度とちょっかい出さないように去勢してやろうか、それともこの学校の生物クラブにでもこのまま引き渡してやろうか…さて、どっちがいい?さ・く・や?」
目の高さまで咲也をひきあがるとその紅い唇の両端を吊り上げてに〜っこりと笑った。
「ぎゃううっ!!」
死に物狂いに暴れる咲也。
「くくくくっ…。」
晴明が悪魔のごとく笑った。それを見て盛大にため息をつく博雅。
「はああ…、もうやめてやれよ、晴明。かわいそすぎるだろ…。」
「ちっ。面白いところだったのに。仕方ない、今日は博雅に免じて見逃してやる。…だが、もう三度目はないからな。覚悟しとけよ。」
そういうとぱっと手を離した。晴明の手から免れて咲也がもとの姿に戻った。しりもちをついて晴明の顔を見上げるその顔は蒼白だ。唇の色が無くなっている、よほど怖かったに違いない。きっと今まで生きてきた中で陰陽師に捕まったことなどなかったのだろう。
「ほら、咲也くん早く行って。今のうち。」
博雅が晴明の手を押さえて咲也に言った。黙ってこくりとうなずくと足元もおぼつかなげにふらふらと咲也が廊下の角を曲がって消えていった。
「最後まで甘いな、博雅。」
咲也の消えていった角を見つめながら晴明が言った。
「あんなに怖がって怯えてたじゃないか…。かわいそうに。」
博雅が晴明を軽くにらんだ。
「ばか…今のでまたお前にますます惹かれたに決まってる。博雅はほんとにそこのところわかってないからな。やれやれ。」
やっぱりこの際剥製にでもしておけばよかったと言う晴明。
「それこそやりすぎだ…。」
あきれたように言う博雅。
「いや、それぐらいして当たり前だ。なにしろ俺の大事な宝物に手を出そうとしたのだからな。」
博雅の目の前に晴明の顔が迫ってくる。その細められた切れ長の美しい瞳に自分に対する強い独占欲が浮かんでいるのを見て博雅の胸が喜びに震えた。この誰より強くてきれいな男が自分だけを求めているということが博雅の心を熱くする。
(俺の親友でそして最愛の恋人…晴明…)
晴明の指先が形の良い博雅のあごを自分の方へとくいっと持ち上げた。
「俺の宝物に手を出すやつは誰であろうと許さない。」
「せい…め…」
博雅の晴明の名を呼ぶ声がそのひと本人の唇の中へと吸い取られていった。夕暮れの西日の赤く差し込む中で口づけあう二人。まるで一人にも見えるほどにぴたりと寄り添って。
その二人を廊下の角の向こうで歯軋りをしながらこっそりと見ている影があった。もちろん咲也くんである。懲りない彼に明るい明日はあるのだろうか。
「咲也の報復」とりあえず完結です。またたぶん性懲りもなく出てくるでしょう、ヤツは。