沙羅 (2)



ガラスケースの中の秦琵琶が誰の手も触れてはいないのにがたりと大きく傾いだ。そのままぐらりと展示台から落ちてケースにぶつかった。そんなに脆いわけでもないだろうにガラスに大きくひびが入ったと思うとそのままガラスを突き破り驚いたことに博雅の足元へと転がり落ちる。あまりにも一瞬のことであたりにいた誰もが驚いて声もない。
こつっ…。
最後に小さく揺れて博雅の靴のつま先にその端が触れた。
博雅さま…。
小さく声がきこえたような気がした。
(沙羅…)
博雅はそこにひざをつくとそっと阮威を持ち上げた。糸がふるりと震えた。
思わずひとつ爪弾く。
ぽろん。
涼やかな音色が響いた。
 
「おいっ!!君たちなにをしてるんだっ!!」
向こうのほうから警備員が二人あわてて走ってくる。博雅も阮威を手に立ち上がる。
「ぼ、ぼくら、何もしてませんっ!急にこれが勝手に倒れてケースをわって転がり落ちてきたんです!ホントですよっ!」
皆が口々に騒ぐ中博雅はそっと沙羅の槽をなでていた。懐かしさに胸の奥が熱くなってくるようだった。
 
周りにいた他の見物人の証言もあってすぐに開放された博雅たち。博雅の手からもまた阮威は離されていった。今日はもうこれは展示いたしませんとの説明がされた。白い手袋をはめた警備員たちが沙羅を手にその場をさりながら話す声が聞こえた。
「おい、あのガラスがわれるなんてことがあるのか?確かあれは厚さ3センチはある防弾ガラスじゃなかったか?」
「そのはずなんだがな。もしかしてなにかの手違いで普通のガラスを使っていたんじゃないのか?」
「そんな馬鹿なとことがあるものか。」
 
「すっげー。おい、見たか今の!やっぱあれってなんか憑いてんぜえっ。」
「やばいっすよねえ!先輩っ!」
「まじ、びっくりー!」
歴史クラブのオタクどもは大騒ぎだ。そんななかあの小野が博雅の方を見つめて言った。
「…先生…さっきあれ,鳴りませんでした?」
「な、なに?」
「さっき、先生、あの楽器の弦はじいたでしょ?たしか音が出たような。」
「俺も聞いた!ちっちゃい音だったけど確かに聞こえたぞ!」
「ホントですか!?」
博雅を取り囲む歴史クラブのメンバーたち。
「ば、ばかだな。音がしないなんてただの伝説だろ?きっと本当は誰にだって音ぐらい出せるんだよ。だってただの楽器だろ?」
無理やり冷静な顔を装ってみなを眺め回す博雅。
「それより今のことが学校にでも知られてみろ、あっという間にこんなクラブなんて廃止になっっちゃうぞ。さあ、これ以上何もおきないうちに帰るぞ、みんな。」
ぶつぶつ言う生徒たちの背を押して出口にむかった。
(オークションか…)
沙羅はどこかへ行ってしまうのだろうか、どうしたらいいのか今の博雅には考えられなかった。
 
その夜。今日は晴明が仕事でいない。一人縁側で月を見上げながら博雅はずいぶんと久しぶりに琵琶を弾いていた。曲は懐かしい流泉である。心の琴線に触れるような音色が静かな夜に響く。
「…はああ。」
ふいに手を止めて博雅が大きくため息をついた。沙羅のことが頭から離れないのだ。まさか沙羅を再びこの目にする日がこようとは思わなかった。もうこの世にはないものと思って思い出しもしなかったのに。あれは長い年月どこかの由緒正しい皇室につながる家に代々伝えられてきたのだと後で聞いた。ほとんど国宝級の芸術品に近い沙羅。あの当時ですら最初は帝の持ち物だったのだ。
「いったいいかほどの値で取引されるのだろう?…まあ、俺には到底手の出る額ではないよな。」
ひとりごちてまたふうっと大きくため息をついた。
「オークション…。無理だよな。」
いくら裕福な家だとはいえ、きっと億は軽く越えるであろう物を間単に個人が買えるはずもない。家屋敷を売ればなんとかなるかな…と少し考えても見たが到底実現できる案とも思えない。
「きっと俺などよりもっとお前を大切にしてくれるところがあるよ、沙羅。」
月に向かってそう言った。
 
寝室で寝入る博雅の枕元にほわりと明かりが点った。日本のものではない透き通るうようなきらめく衣に身を包んだ異国風の姫の姿がそのほのかな光の中にぽうっと浮かぶ。
眠る博雅の顔をじっと覗き込んだその頬に涙が光って見えた。そっと博雅に向かって手を伸ばすとその滑らかな頬をそっとなでた。
『博雅…さま…』
「う…ん…」
博雅が眠りながらもにっこりと微笑んだ。まるで沙羅がそこにいるのがわかっているかのようだった。
 
次の日の夜、仕事から帰ってきた晴明が玄関でぴたりと立ち止まった。ふっと顔を上げると周りを見回しそれから少し小首をかしげた。
家の中に入るとびっくりしている博雅にろくに挨拶もせぬうちにリビングをつっきり家中のあちこちを覗いて回る。後ろからその後を追ってきた博雅がついにじれて聞いた。
「なにやってるんだ?晴明?」
初めて博雅の存在に気づいたかのように晴明が博雅を見た。
「…昨日、誰か来なかったか…?たぶん、人ではないものが…」
「人でないもの?何言ってるんだ、この屋敷はお前の張った結界で妖し一匹入る隙間もないはずだろ、あの朱呑童子様ですら勝手に入ることのかなわぬほどだぞ。」
「そうか…。」
まだ、納得していないような顔だったが、…ふと博雅の顔に目を留める。
「どうしたんだ?」
「な、なに?」
「なんだか元気のない顔をしてるぞ、おまえ。」
博雅に近づいてその顔をぐいっと自分のほうに向けた。穴の開くほどにじっと見つめられて博雅が目をそらした。
「なんでもない。気のせいだろ。」
「そうか…?」
とてもそうとは思えなかったが今はそう返事をした晴明。
(いったいなにがあったんだ?…毎回毎回おれがちょっと留守にするたびになにかあるからな博雅は。)
もう今度から一人で残してなど行かない、今建設中の新しいホテルの最上の一室を博雅と自分用にするよう設計を変更しとこうと心にメモる。
だが、今はとにかくこいつが何に頭を悩まされているのか聞き出すのが先決だ。隠し事などするなとあんなに約束してあるのに、これくらいは大丈夫だろうといっつも肝心なことを自分に言わない博雅を少し懲らしめてやらねばな。何があったのか聞きだすのはそれからでも遅くはない。それにそのころには俺に隠し事などできないような状態にしてくれよう。紅い唇にうっすらと笑みを乗せる。
「な、なにを笑ってるんだ?…なんか怖いぞ、おまえ。」
晴明の笑みを見て博雅がびくびくと言った。こんな笑みを見せるときの晴明は絶対いじめっ子モードのときだ。博雅はじりっと後ずさるとそのままきびすを返してダッシュで逃げ出した。
「なんだか知らないけどとにかくやだからなっ!!」
背後でにやりと笑う晴明を残して部屋を飛び出す。
「ばかめ。そんなのでこの俺から逃げられると本気で思ってるのか?いったいどれくらい俺と付き合ってるんだ、博雅。」
口元に二本指を立てると緊縛の呪を唱える。部屋の向こうから博雅の悲鳴が聞こえた。
「わああっ!!」
「捕まえたな。」
ゆっくりと部屋の扉を開けるとそこには固まって動けなくなった博雅。リビングの真ん中できっちりと固まっていた。その目だけがぎろっと晴明をにらみつける。
「晴明〜っ!!」
「逃げたりするからだ。ばか。」
そういうと動けぬ博雅のあごに手をかけ口づけた。
軽く唇だけを触れ合わせた後、博雅をまるでマネキンかなにかのように、よいしょっと抱えあげる。
「こら、どこに連れて行こうって言うんだ。」
口だけは人一倍騒がしく抗議する博雅を運んでゆく。寝室に連れてゆきそのままベッドへぽんと放る。博雅の体がぼんと跳ねた。スーツの上着を椅子に放るとネクタイを引き抜く、ワイシャツの袖口を止めるカフスに手をかけこちらも外してゆく。動けない博雅の前で一枚づつ身につけたものを取りながら、これからな何をしようとしているのか一目瞭然な瞳で見つめる晴明、動けぬ体にもかかわらず博雅の心臓がどきどきと鼓動を早めた。
 
「…あ…」
博雅の唇から甘い吐息が漏れる。その背に晴明の細いけれど力強い指先が這う。背筋に沿ってつつっと動かされる指先。そんなわずかな刺激までもが今の博雅をあおる。博雅のきゅっと締まった腰を晴明のもう片方の手がさらに自分に引き寄せる。繋がりあった箇所が濡れた音を立てていた。博雅は今、晴明によってその身を背後から貫かれている。体の中心に穿たれる晴明から与えられる快感に自分の体を支える力さえも奪われて博雅は腰だけを高く突き上げた状態で上半身をシーツに沈めていた。その手はぎゅっとシーツを握り締めている。
晴明が角度を変えてさらに奥を突いた。
「…くっ…はっ…。ああっ…!」
耐え切れずにあがった声が寝室に響いた。
 
「聞き出すのを忘れてたな…。」
ぐったりと眠ってしまった博雅に目をやりながらつぶやく晴明。隠し事を白状させるためのだけのはずが、ついつい本気になってしまって博雅の気が飛んでしまうまでやってしまい、肝心な隠し事を聞き出すのをすっかり忘れてしまった。
(まあ、いいか…)
わざわざ起こしてまで聞くこともないだろう。眠る博雅の前髪を書き上げてその秀でた額にくちづけた。
 
深夜。晴明はベッドサイドに何かの気配を感じて目を覚ました、もともと眠りの浅いほうな晴明、ほんのわずかの気配にもはっきりと覚醒する。博雅を抱き込んだ自分の横に誰か、いや、何かが立っている。闇のなかにあるはずなのになぜかそれだけは闇から浮き上がってぼうっと光を放っていた。博雅だけをじっと見つめて晴明には見向きもしないその姿には覚えがあった。
「…沙羅…か?」
目の前に立つのは間違いなく元威の精、沙羅。いったいなぜ今ごろ突然、沙羅がここに?それにしてもまだこの世に存在するのかあの元威は。色々な思いが頭をめぐる。
『沙羅。』
晴明が遠い国だった今はもうない天竺の言葉で話しかけた。沙羅の瞳が晴明を捉えた。
『あなたさまは…?』
鈴の鳴るようなちいさな美しい声だ沙羅が尋ね返す。
『私をお忘れか?遠きかなたの昔一度この男の前でお話をしたことがあるのだが?』
博雅を起こさぬようにそっとその身を離す。先ほどまでの激しいほどの交わりに疲れきった博雅に、起きだす気配はなかった。
『ああ。あのときの…』
思い出したのか沙羅が答える。
『昨日こちらも博雅のもとへこられましたか…』
『…はい』
やはり。ではさっきの家の中に残された妖しの痕跡はこのひとのものだったのだ。博雅に会いたいという執念が晴明の結界をものともしなかったのだろう。
『博雅さまが私に会いに来てくださったのです…。なんという喜び。…ああ。天にも昇るこのうれしさ。なのに博雅さまはまだ私を迎えに来ては下さらない…。』
そういうとさめざめと泣き始めた。つぶらな瞳のまつげを震わせてぽろぽろと真珠と見まごう涙の粒が零れ落ちる。そのたびに涼やかな小さな音が夜の空気を震わせて小さく小さく響く。
『晴明さま。どうかお助けくださいませ。沙羅は博雅様の所以外にゆきたくありませぬ。』
涙でぬれた切ない顔で晴明に哀願する。
「どういう事情かお聞きいたしましょうか?』
 
それから1ヶ月の後。
新聞に沙羅のことが大きく載っていた。オークションが開かれ桁はずれの値で沙羅は取引されていた。
「競り落としたのは匿名の個人か…。すごいな、きっとどこかの美術館だと思っていたのにな。」
美術館ならば触れることはできなくても見ることぐらいはできたかも知れないのにと、残念そうに博雅は言った。先日、ついに沙羅のことを白状した博雅、晴明の反応のなさに少し肩透かしを食らった気分だったのだがおかげで今はこうやって普通に沙羅のことが話題にできる。やっぱり隠し事はよくないなと思った。
「ふうん。」
「なんだよ。冷たいな晴明。俺がこんなにがっくりしてるんだぞ。もう一言なにか慰めの言葉をくれてもいいんじゃないか?」
「だってどうしようもないだろう?個人の者になってしまえば沙羅はもうそのひとのものだ。誰も手など出せない。残念だがあきらめることだな。」
「それはそうだが…。せめてもう一度だけでも奏してみたかった…。沙羅。」
新聞をテーブルに放り出すとひじをついてほうっと大きくため息をついた。
 
深夜。眠る博雅の枕元に再び沙羅が立った。
『博雅さま。博雅さま。』
はずむような声で博雅に声をかける。
「う…ん?」
博雅が眠そうな瞳を開けた。自分を覗き込むその顔に驚いてぱちりと目を覚ました。
「沙羅か!?」
「…はい。沙羅にござります、博雅さま。」
天女もかくやとばかりの微笑み。おまけにいまでは博雅にもわかる言葉をしゃべっている。
「どうしてここに?」
「博雅様にお会いしたくて…」
「そうか…。それは嬉しい。よく来たな、沙羅。」
嬉しそうに博雅もまた微笑んだ。
「そうだ、言葉が通じるとならばぜひお前に言っておきたいことがあったのだった。」
起き上がるとベッドの上だというのに居住まいを正して沙羅を正面から見据えた。
「はい?」
「沙羅よ。どこの誰に引き取られたかは知らぬが、私に義理立てなどせずに今の主人のためにもその音色を聞かせてやっておくれ。でないとその方もお前もかわいそうだ。な。」
真剣な目で言う。沙羅が困ったように後ろを振り返った。
「博雅、そんなに沙羅を困らせるな。」
少し離れたところから声がした。暗い部屋の片隅に晴明が闇に溶け込むように椅子に腰をかけていた。
「晴明。おきていたのか?」
確か寝入る前は一緒にいたはず、なぜこんな時間に起きだしているのだ?
「沙羅殿はお前以外の手では歌いたくないそうだ。」
「だが、そんなわけにもいかないだろう。それにあの音色を封印するのは罪だぞ、晴明。」
「ならばお前が奏してやればよい、ねえ,沙羅どの?」
「はい。」
沙羅が嬉しそうに答えた。
「何をむちゃな…」
言いかけた言葉が宙で消えた。
片隅の闇から抜け出た晴明の手に沙羅の本体である元威が。
「なぜここに…」
驚いて声もない。
「ああも沙羅どのに泣かれてはな。俺も男だ、姫の涙には弱いのさ。」
そういって博雅の手に元威を渡す。沙羅がその傍らでニコニコと笑っている。
「国宝級だぞ。いったいいくらしたのだ…」
「女性の前で無粋な話をするなよ、博雅。いくらしようが国宝級だろうがそれはお前の沙羅姫だ。そうだろう?」
『そう。わたしは博雅様の沙羅でございます。』
沙羅がそれは嬉しそうに言った。
「沙羅よ、沙羅よ、なんとよい音でおまえは鳴くのだね。なんとおまえは美しいのだね、ああ、沙羅よ。」
晴明がかつての博雅の口真似をする。
「ばか…。」
博雅が苦笑した。
 
夜の庭に月が明かりを落として木々の影がくっきりと浮かび上がっている。梅雨にはまだ遠い爽やかな皐月の風が時折木々の葉を揺らす中、博雅の爪弾く元威の艶やかな音色がその風に乗って流れてゆく。うっとりと目を閉じて沙羅を奏する博雅。柱に背をもたせてその音色を聞きがら少し心の痛む晴明である。
昔あんまり相思相愛の沙羅と博雅に嫉妬して二人を一度も話させてやらなかった。今でもそれを思い出すと少し胸が痛むのだ、本当に大人気なかった、博雅は当時も今も全然そんなことに気づいてなどいなかったが。だから、今再び博雅の前に沙羅が現れたとき、どうにかしてやらなければと思ったのだ。なかなかに高価な買い物ではあったが晴明の懐をからにするには程遠い。
(まあ良い買い物ではあったな。)
それに博雅が気づいていないとはいえ、昔わざと沙羅と話させてやらなかったことは今でもおおきな隠し事である。博雅には隠しごとをするなと気をやってしまうまで攻めるくせに、なんと自分の隠し事の多いことか。
(これも罪滅ぼしのひとつだな。)
グラスの酒をその紅い唇に運びながらふっと笑う晴明。
 
ほろほろと博雅の爪弾く沙羅の音色が静かな夜の風に流れてゆく。
 
 
 
      「沙羅」 完 。


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