皐月(さつき)晴れ
一条戻り橋を博雅が馬で駆け抜けたようだ。
「これではあっという間につくな。」
晴明は書いていた書面から目を上げるとあきらめたようにつぶやいた。
「たれかある」
ぽんと手を打つと柱のそばからすっと蜜虫が姿を現した。
「蜜虫よ、すぐにも博雅が来よう。悪いがここを片付けておいておくれ。」
辺りに散らかった巻物やつづりものを指し示した。
「あい。」
小さく返事をすると滑るように晴明のそばへとより片づけを始める。それを確認すると晴明は博雅を迎えに行くために座を立った。
いつもの濡れ縁へ着くか着かないかのうちに表の方からどかどかと盛大な足音が聞こえてきた。
「本当に毎回騒がしいやつめ。あれで本当にやんごとなき身の上なのか?まったく。」
思わず苦笑する。
「お〜いっ!晴明っ!おるか!?」
「そんなにでかい声を出さずともよい。俺はここだ。」
円座に座した晴明が言った。
「おっ!居たなあ。」
太陽のように明るい笑顔をはじけさせる博雅。
(まったく意味もなく眩しいやつめ。)
「いったい何だといって馬なんかで駆けつけたのだ?あの男でも死んだのか?」
「ば、馬鹿っ!あの男などと帝のことを言うでない!しかも死んだのかなどと。とんでもないことを言いおって。」
あわてて晴明の口を手で押さえる博雅。
「俺はあの男と言っただけだ。誰も帝のことなどとは言ってはおらん。」
博雅の手を払いのけて澄ました顔で答える。
「またそれかよ!俺はいっつもそうやってお前にいいように遊ばれるんだ。ちぇっ。」
へそを曲げる博雅。
「で、いったい何の用だって?」
「おう。それそれ!」
あっという間に機嫌を直すと勢いこんで晴明の方へと身を乗り出す。
「どうだ?今日ほどよい天気はこれから梅雨に向かえばもうそう何度もなかろう?だから今日はお上のお許しを得て参内をせぬことにした。」
「ほう。お前にしては珍しいな。」
クソがつくほどのまじめな殿上人にしてはなんとも珍しいこともあるものだ。
「だから、ほらさっさと支度をしろ。」
ん?なにか話が飛びはしなかったか?
「ちょ、ちょっと待て、博雅。」
「なんだ?早くしろよ。」
「天気がいいのとお上の許しを頂いたところまではわかった。で、なぜ俺が何の支度をするんだ?」
「決まってるではないか。今から馬で遠駆けするのさ。俺はもう一度馬の様子を見てくる。日の暮れぬうちに戻りたいからな。早くしろよ。」
そういうと晴明の返事も待たずに立ち上がり、表へと歩き出す。
「え?…なんでそうなる…」
さすがの晴明も呆れてものが言えない。
「おっと、そうだ!馬に乗るのだからな狩衣か何か少し動きやすい物を着ろよ!」
振り返ってばちりと片目をつぶって見せた。
「何で馬が一頭なんだ。」
さっきから博雅の背後でぶつぶつ言い続けている晴明。
「文句をいうなよ。でも、これは唐渡りの最高の血統の馬なのだぞ。」
確かにほかの馬よりも一回りも二回りも大きな体躯にすらりと伸びた長い脚。ほかの馬とはあまりに違う。
「確かにすばらしい馬だが。いったいどこからつれてきたのだ?」
「帝から頂いた。」
「何の恩賞だ?」
「先日玄奘をとりもどしただろ。あれの褒美さ。」
「ああ、なるほど。」
「これを一目見たときからお前と一緒に何処かへ行きたいと思っていたのだ。さすがに今日の天気には勝てなくてついに参内をさぼってしまった。でも、サボったかいがあった。」
そういってうれしそうに笑う。
「へんなやつ…。」
自分のためにそんなことまでしてくれたのかとつい口元もほころぶ。
「つかまってろよ、晴明。」
博雅の手が晴明の腕をもっと自分の近くへと引き寄せた。
風を切って博雅の御する馬が皐月の空の下を駆けてゆく。
今日の西の外れ。嵐山を右手にはるかに見て博雅はごろりと草原に横になった。見上げると空はどこまでも高く透き通っていた。空の高いところで雲雀が鳴いている。
「い〜い天気だなあ!」
大きく深呼吸をする。都のよどんだ空気とは違うさわやかな空気が体中をきれいにしてゆくような気がする。
「な、そう思わないか?」
返事のない晴明を探して上半身を起すと少し離れた木陰に晴明がいた。
「おいっ!晴明!こんないい天気に何でそんな日陰にいるんだ。」
ぱっと身を起すと晴明の元へと歩み寄った。
「う〜ん?なんか言ったか?」
見れば自分の前に布を広げてその上に幾種類かの草を並べ、手に筆を持ち何かをせっせと紙に書きつけている。
「こんなとこまで来て何やってるんだ?」
博雅はそばにひざをついてその中の一本をつまみあげる。そのまま匂いをかごうとして晴明に止められた。
「待て、博雅。その草の匂いなど嗅ぐな。死ぬぞ。」
「えっ!!」
びっくりして手にした草を放り出す。
「‥というのは大げさだが。」
「なにぃ!?」
博雅が目を剥いた。
「匂いを嗅いだだけでは死にはしないが噛めば確実に死にいたる。気をつけてくれよ。お前にここで死なれては後が面倒だ。」
ちらりと博雅に目をやるとにこりと笑った。
「せ〜め〜っ!」
博雅がぷっと膨れた。
「脅かしおって。にしても本当になにをやってるのだ、おぬし。」
「せっかく来たのだからな、そのあたりを探していくらか良い薬草を見つけた。それから都ではめったに手に入らぬ毒草もな。」
せっかく自生しているのを見つけたのでその様子などを書き写しているのだと言う。博雅があきれたようにくるりと目をまわす。
「まったく‥、ほんとにおめえってやつはっ!」
「うわっっ!」
驚く晴明をその場で押し倒す。烏帽子が飛んで転がった。博雅の手が晴明の髪にかかった、そしてしゅるりと髻を解く。さらりと晴明の細くて長い髪が博雅の手になだれ落ちた。その髪に指を絡ませて博雅が言った。
「そんなことをさせるためにここまで連れてきた訳ではないぞ‥。」
「‥じゃあ、何しに来たというんだ?」
「知ってて聞くなよ、晴明。決まってるだろう‥。」
皐月の抜けるように青い空の下、木漏れ日の中で博雅のくちづけが、晴明に一足早い梅雨の雨のように絶え間なく降り注いでいった。
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