嫉妬って… (2)
「ちょうど良かった」
ひらりと樹上から舞い降りるその影が言った。
「な、何がちょうどよいのだ。わ、私を食うつもりか。妖しめ」
一丁前に身構えてはいるが博雅の声が少し震えている。
「食う?私があなたを?」
くっくっと笑ってその者が木陰から歩み出てきた。博雅より一回りほど年上に見える大変柔和な顔をした男。影をそのまま纏ったのかと思うほどの真っ黒な水干に身を包んでいた。
「私は人など食いませんよ。共食いは趣味ではないのでね」
「では、人か?」
「勿論。」
「…信じても?」
博雅の言葉にもうひとつ勿論と答える男。
博雅は相手を見極めようとじっと相手を見つめた。相手はにこにこと微笑んで博雅の目を真正面から受け止めている。
強ばった博雅の肩から力が抜けた。
このように真正面から見つめ返してくるものが悪者や妖しであるはずがない、と思う。
刀にかかった博雅の手が離れる。ほうっと一息息をつく。
「あなたは悪者ではなさそうだ。信じましょう。まあ、人かどうかはともかくとして」
そういって木の枝を見上げた。暗に人はあんなところにおれるものかと言っているのだ。
「変わったお方だね。あなたは。私が人かどうかより悪か善かで判断されるのか」
一緒に木を見上げてその男は言った。
「ますますちょうど良い」
「私は小野篁と申します。…ご存知?」
「…どこかで聞いたことがあるような?」
男の名乗る名に、なにか記憶にひっかるものがあるような気はするのだが。
「何、知らねば知らぬで何の不都合もない。それよりあなたを見込んでお願いしたいことがあるのですよ」
「お願い?」
「実は…」
人か妖しかもまだ分からない目の前の男の言うことに、博雅はびっくりしてしまった。
その男。小野篁が言うには。
自分は冥府の次官であるという。いつもは閻魔大王のすぐ傍に仕え、亡者の行く先の選別を仕事としているのだが、ほんの手違いから亡者を一人現世に逃がしてしまったというのだ。
「こいつは誰がどう裁いても間違いなく地獄ゆきの極悪非道なヤツでして。おまけに大変ずる賢い。私や閻魔さまのほんのわずかの隙をついてこの世に舞い戻りやがりましてね」
「はー…」
思いもしない話の内容に博雅の理解がついてこない。
「なんだか…スゴイのですね。」
閻魔さまの次官だって?人が本当にそのようなお役につくことってあるのだろうか?
自分の想定外の話に頭の中がぐるぐると混乱しそうだ。(のちにこれぐらいのことが日常茶飯事になろうとは、勿論このときの博雅には想像もつかない)
「なに、そんなに大したことではありませんよ。それで手伝っていただけますか?」
「え…っと、なにを??」
戸惑う博雅。
「逃げた亡者を捕まえるのをですよ。」
「も、亡者を捕まえるですって??」
亡者っていうのは勿論死んだ人間のことだ。それを捕まえるって…。普通、生きている人間と死んだ人間というのは相容れない存在であることぐらい、難しいことのわからない童でも知っている。
まして、亡者などケガレそのものだ。
このころの人間は死んだものや、暗闇を極度に恐れた。直居などというものがあるのも暗い夜を皆で集まってやり過ごせば少しは心強い、そんな理由もあるという。その恐怖の対象でもあるものを捕まえるのを手伝ってくれとこの男は言うのだ。博雅がついどもるのも無理はない。
「大丈夫。私の言うとおりに手伝ってもらえれば何の怖いこともありませんよ」
そういって篁は微笑んだのだが。
「まだ、死んで間もないものですから、自分が本当に亡者だということが分からないというか、認めたくないというか…。なにしろ、この世に未練たらたらなんですよ。とりあえず人の世に戻りさえすればなんとかなると思ったらしいのですが。」
「な、なんとかなるのですか?」
「まさか。死にかけならばともかくも、この男の場合完全に死んでますからね。この世に戻ったからといって生き返れるわけもない。体はまだありましたから魂はその体に戻りはしましたが、死体に変わりはありませんよ」
そこまで言ってくすっと笑った。
「おまけに、逃げてからしばらく経ちますから、少しは腐ってきてもいるでしょうね」
と、さらりと怖いことを言った。
「腐って…るんですか…」
想像しただけでゲッとなる。
「蛆がわいてなきゃいいですけどね」
「蛆…」
聞けば聞くほど怖いというか、大変そうな仕事であるとヒシヒシと思う。
「お見受けしたところ、あなたはどうやらお公家さまのようだ。それに、こんな夜更けに一人出歩くからには、闇を恐れる腰抜け貴族とも思えませぬ。捕まえたいヤツというのも実は位こそ低いが貴族の一人。」
そこで篁は声を落とした。
「ヤツは、今、宮中に潜ぐりこんでいるのです。そして、ある男の命を狙っている。」
「ある男?」
「ヤツを死に至らしめ、出世を阻んだ敵をね。そいつを追い詰め殺し、自分が代わりにその後釜に座るつもりでいるのですよ。自分が死んでることも気づかずにね」
まだ若い博雅には、死んでなお固執する地位など理解もできないが、そのような権力争いがあるということは聞き及んでいる。
「その腐れかけのヤツが夜な夜な宮中を徘徊しているのです。そいつがコトを起こさぬうちに捕まえて回収するのが今回にワタシの仕事でしてね。でも、まずいことに宮中には私の顔を知っているものが結構いまして。」
自身も昇殿できる身分ではあるのだが、顔を見られるのはまずいのだと言う。
「何故です?」
昇殿できる身分ならば顔を見られてもどうと言うこともないのではないだろうか。
「私は死んでいる人間なのでね」
「え?」
な、ならば、この男も亡者ではないか。さては、騙されたか!
ハッとして腰の太刀に手をかける博雅。
それを笑ってとどめる篁。
「いやいや。誤解を招く言い方でした。私は生きてますよ、ちゃんとね。と、言うか死なないんですよ」
「…どういう意味です。私が人が良いからと馬鹿にしておられるのか」
太刀から手を離さず博雅は言った。
「冥府と契約しているのですよ。このお役を務める限り…永遠の生をね。」
「まさか」
冥府の次官だという話も本当かどうか。
と、疑いの目を向ける博雅の前で、篁はスイと片手を挙げた。
うしろの木立の影から大きな影が二つ。
ものも言わずに静かに影から現れたその姿に博雅はあっと声を上げた。
ひとの数倍はあろうかというその巨体の上に片や牛のごとき、片や馬のごとき化け物のような顔が乗っている。
「こいつらが証明になるかは怪しいものだが、牛頭と馬頭ですよ。こいつらは冥府の看板みたいのものです。」
こいつらに連れ去られない私は決して亡者ではありませんよ、と篁は言った。
「六道の辻にまた、出たらしいですよ。殿。」
俊宏が心配げに博雅に言った。
「ですから、本当にもう夜のお出歩きはおひかえくださいませ」
「六道の辻に出る出るって皆が噂しておるが、それはいったい何のことだ?妖しかでも出て人を襲うのか?」
出歩くなという話は聞き流して博雅は聞き返した。
「知らないのですか、殿?」
こんなに噂が広がってみなが怖がっているというのに、なんて暢気なお方だと俊宏が呆れる。
「小野篁さまが辻に立たれていたそうですよ。」
少し声を落として俊宏が言う。
「なんだ、そんなことか。」
真剣な俊宏の言葉に博雅はハハッと笑った。
「そ、そんなことって。篁さまはもうとっくの昔にお亡くなりになってる方ですよ。」
何言ってんですか、殿、と今度は俊宏。
「あのお方はもう何十年も前に亡くなられたお方ですよ。それが今頃冥府の入り口があるという六道の辻に姿を現したのです。冥府に通っていたとかいう噂のあるお方です。地獄から誰かを連れに舞い戻ったのではないかと、そりゃあ評判になっておりますよ。ですから、殿も本日より夜のお出歩きは禁止です。よいですね!」
「え?ちょ、ちょっと待て、俊宏」
「絶対ダメですからね」
あわてる博雅の言葉など完全に無視して俊宏は博雅の朝粥の椀を持つとさっさと行ってしまった。
「おいおい…」
「思い出しました?」
篁に再び声をかけられて博雅は遠い過去の記憶からハッと呼び戻された。
「言ったでしょ。私は死なないんだって」
「た、確かに。」
思わず博雅は目の前に座る男の顔をまじまじと見つめた。
「あれからもずっと?」
「まあね。冥府との契約を切れば普通に年老いて死ぬんでしょうが、なんだかズルズルとここまで来てしまって。結局私も死ぬのは怖いんでしょうよ。」
そういって篁は力なくふふっと笑った。
ああ、そうか。
目の前で優しく笑う篁を見て博雅は思い出した。
待ってるんだ。
俺と晴明みたいに。
手強く逃げて抵抗する死にぞこないの亡者を捕らえた後、言っていたっけ。おまえは死んだのだと。この世に舞い戻りたいならば、行った先で懸命にこの世での罪障を清めてこいと。それができなければここに戻ることはかなわないと。
そう言ったあと、自分の義妹もそうなのだ、と、悲しい目をして言っていた。
「おや、また微妙な顔して私のこと見てますね?」
グラスを手にして、片肘をついた篁が言った。
「ははあ。私の義妹のことでも思い出しましたか。それなら、気にしなくても大丈夫ですよ」
「え。ということは会えたのですか?」
パッと表情を明るくして博雅は勢い込んで聞いた。
「う〜ん、どうかな。でも…」
コトッとグラスをカウンターに置くと博雅の顎をクイと自分に向けると顔を傾けて博雅の唇にふわりと口づけた。
「彼女と同じほどに会いたかったあなたに会えたから。」
「え?ええええ???」
「へえ、これはこれは」
薄暗いカウンターバーの片隅で額を寄せ合うようにして楽しそうに話す博雅たちを見つめてそういったのは、さっき晴明に食い下がっていたもう一人の小野。
「タカシと例のアイツが知り合い?いや、あれは違うよねえ、あれはただの知り合いじゃないな」
篁が博雅の顎を取ったのを見てニヤと笑う。
ポケットから携帯を取り出すとそのカメラのレンズを二人に向けた。
篁の顔が博雅に寄せられる。
カシャ。
携帯のカメラが小さな音を立てた。
「いいシーンだね」
カメラの画像をのぞくと、キスシーンがばっちり写っていた。
「ベストショット」
小野はククッと笑うとアドレスを探してピッ!とためらいも無く送信した。
「大事な恋人が浮気中だぜ、アキラ。しかも相手はあんたの数少ないご友人だ。」
即座に携帯がヴヴヴッと震えた。
「さすがに早いねえ。」
そんなに心配かよ、とむかっ腹が立つ。
「ハイ。」
『なんだ、今の画は』
電話の向こうから低い声が響く。
「見たとおりさ。あんたの大事な恋人は他の誰かとヨロシクやってるぜ。」
撮った画像にはまん丸な目をして口付けられてる博雅の顔が半分とはいえばっちり映っている。半分しか顔が映ってないのはもう半分は相手の顔で遮られているからで。
『どこだ』
「さてどこでしょう」
『俺を怒らせる気か?』
「さあね。今さらあんたを怒らせたところで俺の相手をしてくれるってワケじゃなし。怒ったって怖くないね。」
『…まあ、いい。自分で見つける。教えてくれるには及ばない』
何の前触れもなくブツッと通話が切れた。
「ハ。やっぱりそういう仲じゃないかよ。馬鹿にすんなつーの。」
切れた携帯を睨みつけて小野ははき捨てるように言った。
「さて、じゃあ、ヤツが来る前に…」
ポケットに手にした携帯をねじ込むと唇に薄く冷たい笑みを浮かべて小野はふたりに近づいていった。
「私に会いたかったって…??」
「言葉どおりですよ。あなたに会いたかった。待っていたわけではなかったけれど、案の定、あなたは冥府は冥府でも、私のところのような罪障の深い連中の来るところにはこられませんでしたから。来るわけもないですけどね」
ふふと篁は笑う。
「あなたが恋しかったですよ。」
そういって再び顔を寄せる。
「ちょ、ちょっと!ダメです。こんなところでっ!」
篁の肩に手を押し当てて博雅は迫るその人を押しとどめた。
「ここではダメ?」
「こ、ここもあそこもありません。ダ、ダメです!」
「相変わらずマジメですね。それともヤツに義理立て?」
「ヤツって」
「稀名アキラ…いや、本当の名は、あの安倍晴明。まさか、博雅どのがあれとそんな仲になるとは。」
はあ、と溜息を吐いて小さく首を振った。
「あなたはきっと可愛い姫を娶られて幸せに生きてゆかれるものだと思っておりましたよ。こんなことなら私が手に入れればよかった」
と篁は続けた。
「あ、あのあの」
博雅は言葉がない。篁がそんな風に自分を見ていたなんて自覚全然なかったのである。随分と優しいひとだな、ぐらいに思っていたのだった。(そりゃあそうだろう)
「晴明のことも知っているのですか?」
とにかくそう聞いた。
「知るもなにも。あの男とは仕事で何度も組んだりしてますよ、さっきだってあれとは話をしてましたしね」
その言葉にようやく思い当たった。
さっき、晴明と話をしていた男の後姿はこの篁だ。
さっき自分はこの篁に嫉妬していたのか。驚くと同時にホッともする。この篁が晴明となにかあるとは思えない。
「晴明と仕事って…。また亡者が逃げてきたとか?」
「はは。まさか。本当にただの仕事のパートナーですよ。これでも一応会社をひとつ持ってましてね。」
「会社…ですか?あなたが?」
「普通のね。」
そう言って篁は名刺入れから名刺を一枚引き抜くと博雅の前に置いた。
「経営コンサルタント、小野崇史…」
「それが今の私の名前と職業」
名刺の名を指差して篁は言う。
「なんで、こんな?」
篁には冥府になにより大きな仕事を持っているのに。
「死なないだけで私は普通の人間ですからね。延々、鬼どもと一緒にいると息がつまった苦しくなってしまうのですよ。」
ほら、あいつらときたらでっかくて暑っ苦しいでしょ、と篁は笑った。
「だから、時々大王にお許しを頂いて、いくらかの間、人の世に紛れるのです。よい息抜きですよ。」
息抜きといっても、金も地位もあの世を司る大王に頼めば思いのままなのに彼はあえて働くことを選んだ。
「勿論、全て一からとはゆきませんがね。人生をもう一度やり直すわけではないのでイイとこどりですが。」
それでも、基礎さえ作ってもらえれば、長い年月生きてきた知恵と、全てにおいて他人から抜きん出ていた才能と鋭い頭脳で、篁はあっという間に自身の地位を堅固に築き上げてしまった。その途上でアキラと知り合ったのだという。
「それにしても、あなたが晴明と知己だったというのは初めて知りました」
「昔昔の大昔の知り合いですがね。時代の差こそありましたが私のような仕事をしておりますと陰陽師とはなんやかやと関わりますからね。」
「はは。」
それはそうだろうと博雅もつられて笑う。
「でも、実はつい最近まで彼、稀名が晴明だとは気付かなかったのです。」
篁のその言葉に博雅はえっ?と顔を上げる。
「知らなかったんですか?」
「私は知ってのとおり、冥府に仕える身ではありますが、陰陽師でもなければ魔術師でもない。ただの人間ですよ。稀名が晴明の生まれ代わりなんて、わかろうはずもない。」
ただ、なにか変わった人間ではあるな、とは思ってはいましたが。と篁は続けた。
「最初に会ったときから妙に醒めた男でね。何を考えているのやら読めないヤツでしたよ。」
「へえ」
自分と会う前の晴明のことは、本人から少し聞いたことのあるだけで詳しいことは知らない。それを過去と今の両方を知る人物から話を聞くなど初めてのこと、博雅はどきどきとしながら篁の話に耳を傾けた。
「カンなのかなんなのか、彼の買う土地土地、全てが法外な値をつけて上がる。しかも別に何か操作しているわけでもなく、ただ単に、その土地が国の買い上げ地にたまたま当たったり、大きなショッピングセンターが建つ場所に内定したり。他の同業者がヤツは地面の声でも聞こえてるんじゃないか、なんて馬鹿みたいは噂を立ててましたよ。ま、今から考えればその噂も当たらずも遠からずですがね。」
そして晴明はその土地から上がる収益を運用するために篁と接点を持ったのだという。
「なにしろ、ものすごく頭の切れる男でした。すること全てにソツがない。しくじるとか、ためらうとか、そんなことが一切ない。今まで見たことのない人間でしたね。」
おまけに鬼のように非情で、オンナたらしでバイで…とはさすがに口には出せない。自分の知らない恋人の昔話に目を輝かせている博雅に、そこまでは言えない。
「それがある日彼が突然、あなたは小野篁さまでしょうって言ったのです。それこそ今日のあなたのように驚きました。」
何を言ってるんだ、とわからないフリをしたら私が誰だかわかりませんか、と聞き返されたそうで。
「確かにしばらく会っていなくって感じが少し変わったかなとは思ってたのです。そうしたら彼が指を二本立てて唇に当ててニイッと笑ったのです。アッ!と思いましたよ」
「そうですか、そんなことをしましたか」
ふふと嬉しそうに博雅が笑った時。
「よお。」
篁の肩にポンと気安げに手を置いた男。
「こんなとこで何やってんの?崇史さん。」
「やあ、亨。」
振り仰いで篁は、にっこりと笑って答えた。
「そこで友人に会ったのでね。こいつは従兄弟の小野亨。」
そういって博雅に紹介してくれた。
「亨、こっちは私の友人の」
「紹介してくれなくてもいいよ、崇史さん、彼のことは知ってるから。先ほどはどーもっ。」
にっこりと不自然なまでの明るい笑みを浮かべた相手に、博雅も少し戸惑いながら笑みを返す。
「どうも…」
「君、崇史さんとも知り合いなんだ、意外に顔が広いんだねえ」
言外に何か含んだ言い方。
「僕も仲間に入れてもらっていいかなあ」
馴れ馴れしく博雅の肩にまで手を置く。
「…え…と」
「悪いな、亨。私たちはこれからもう一軒ゆくんだ。」
博雅の肩に置かれた亨の手をやんわりと外して篁は席を立った。そのついでに博雅の二の腕を取って引っ張った。
「ね。」
「はあ」
にこりと微笑まれて戸惑いながら博雅は返事をした。
「じゃ、じゃあ、俺も一緒に…」
「悪いね、亨。次にゆく店は君には向いてないよ。」
え、ちょっと待てよ、と焦る亨を残して、篁はこちらも戸惑う博雅の手をグイグイ引いて店を出てしまった。
「あ、あの篁どの。ど、どこへ?」
「さて、どこにゆきましょうか。ホントはあそこでそのままゆっくりしていたかったんですけどね。せっかく、あなたに会えたのに邪魔が入ってしまっては面白くない。邪魔の入らないとこにゆきましょう。」
「え、あ、あの」
戸惑い気味の博雅を先にタクシーの乗せると篁は小さな声で背後に命じた。
「私たちの痕跡を消せ。あれが追っかけてこれないようにね。」
その命に篁の背後の空気がゆらりと揺れて歪んだ。
…御意。
歪んだ空間に一瞬、大きな影が揺らめいた。
「ちっ、逃げられちゃったよ」
一人取り残されて亨は残されてグラスをガバッと煽った。
「相変わらず妙にカンの鋭いヒトだよ。崇史さんてのは。」
仕方がない。アキラがもしここに来たら見たこと全部しゃべってやろう。俺に似てるっていうあの気弱そうなヤツが、あのアキラにどんな目に合わされるか、こいつは見ものだな。
意地の悪い笑みを浮かべて亨はアキラを待つことにしたのだが…。
ふわり。
亨の周りで密やかに風が舞う。それとともに、えも言われぬ高貴な白檀の香りがかすかに漂った。
「なんだ?この匂い?」
くん、と風の匂いをかいだ亨。その表情が変わった。
「なんだか…いい匂いだな…。」
ぽうっとした表情が浮かぶ。手にしたグラスをカタリとカウンターに置くと
「…帰らなきゃ…俺。」
そうつぶやくとわき目もふらずに一直線で店を出て行った。
亨がいなくなってほんのしばらく後、ドカドカと足音も荒く上品なこのバーに訪れた客がいた。
間接照明でほんのり明るい店内を険しい目で見渡す。が、探しているものが見つからなかったようで、大またで店内を突っ切り、カウンターの中のバーテンダーを捕まえた。…が、何かを聞こうとしてそれを止めた。
「あの、お客様何か?」
バーテンダーが親切そうな客用の笑みを見せて声をかける。
「…いや、いい。おまえに聞いてもたぶん無駄だ。」
「え?」
ワケのわからない表情のバーテンダーにひらひらと手を振ってその客、アキラこと晴明は険しい表情で薄暗い店内をもう一度見渡した。
「誰かは知らないが、ここまで綺麗に消すとは大したものだな。」
「あ、あのお客さま。」
控えめな声でアキラの背後からバーテンダーの声がかかる。
「なんだ?」
「お客さまに、メッセージをお預かりしております。…そ、その、どちら様からだったか…どうしても思い出せないのですが…申し訳ございません!」
うろたえて必死で頭を下げるバーテンダー。
「ああ、いい。それに関してはおまえに咎はない。」
振り返るとアキラは相手の手から二つに軽くたたまれたカードを受け取った。
『少しの間、あなたの大事なお方をお借りする。無事にお返しする予定。ご心配なきよう。』
「予定…ね。」
フン、と晴明は鼻で笑った。
「ここが今の私の仕事場。さあ、どうぞ。」
ドアを開けて入り口の脇にある照明のスイッチをかちりと入れると、篁は博雅を中に招き入れた。
「お邪魔します…。」
小さく頭を下げて博雅はドアを支える篁の傍を通り抜けた。
正面奥の大きく開けた窓を背に、大きなオークの重厚なデスクがどんと据えられているのが真っ先に目に入る。むかって右の壁一面には天井から床までの膨大な書架。入り口からは見えないが、向かいのもう一方の壁には大きな絵が一枚架けられていた。鉛色の空とその下で荒れ狂う嵐の海の絵。波の上には、帆が破れマストが傾ぎ、今にも沈みそうな帆船が描かれていた。
案内されて中に入った博雅は思わずその絵に目が止まった。
篁の目もその視線の先を追った。
「この絵が何か?」
「…あ、いいえ。でも、なんだか…。」
「なんだか?」
「激しい嵐を描いているんだからダイナミックな絵と言うべきなんでしょうけど…とっても寂しい絵に見えてしまって…。」
はは、私の目がおかしいのかな、と博雅は照れくさそうに笑った。
「寂しい…か。そうかもしれないですね。」
篁は笑わなかった。
「え?」
その言葉に驚く博雅の背をそっと押して、篁は来客用のスペースに博雅を促した。
大きな観葉植物の鉢やロールスクリーンが、相談に訪れる客のためにさりげなく来客スペースを囲っている。すわり心地のよいソファとローテーブルがゆったりと配置されている。
「さあ、どうぞ。今、グラスを持って来ますから。」
ソファに腰を下ろした博雅の目の前に先ほどの大吟醸の壜が差し出された。一升瓶ではないが700ミリリットル入りの壜は決して小さなものではない。まるで手品のように目の前に現れたそれに思わず博雅は破顔した。
「まさか、さっきの持ってきたんですか?」
「もちろんですよ。せっかく高い金を払って買ったのです。置いてくるなんてもったいないことできるわけないでしょ?」
まぶしいほどに明るい博雅の笑顔に釣られるように篁も笑った。
「良い酒とよき友。今宵は飲み明かしましょう。」
そう言って片手を背中に隠した。
「もう一本、こっちもありますしね。」
パッと現れたその手には琥珀色のアイリッシュウイスキー。おお、スゴイ手品だ、と目を見張る博雅に、冥府の次官として亡者や妖しに恐れられる篁は目を細めた。
延々、長引いております。なんとか、さくっと終わらせたいと思っております。今しばらくお付き合いいただければうれしく思います(泣)
へたれ文へのご案内に戻ります。