嫉妬って… (3)
昔からそうだったけれど、このひとは一緒にいると、なんとも穏やかな気持ちにさせてくれるオーラを持った方だ。
にこやかで穏やかな笑みを浮かべた篁の顔を見ながら博雅はそう思った。
アルカイックスマイルとでも言うのだろうか、その笑みははっきりとした笑いではなく唇の端にうっすらとのる程度のものだ。遠い太古の昔、みほとけの像に刻まれた笑みととてもよく似ている。
その笑みを浮かべるもう一人の人物を博雅は知っている。
晴明だ。
一見すると同じにも見えるふたりの微笑み。だが、それは陰と陽のように違うところがあった。
晴明のそれはひとを寄せ付けない。その笑みはにこやかに見えるが、まるで雪女のように人を凍らせ、遠ざけ、決してその心の内を見せようとはしない。
対して篁の笑みは、晴明とは違って人を和ませる暖かさを持っている。篁にニコリと微笑まれるだけで心の中がぽわんと暖かくなる。
まるで正反対だ。
が、博雅にはなんとなくわかっている。だからと言って、篁のそれと晴明のそれは違っているわけではないことを。ひとを和ませる篁の微笑みが、実はその心の中を晒しているかと言えば決してそうではなく、むしろ晴明と同じく心の中に誰も入れようとはしないことを。
よく似たようで実は似てなくて、でも根っこの方では同じ質、という、とっても面倒なふたり。
「それにしても、まさか泣いているあなたに出くわすとは思わなかったな。」
ひとしきり昔の話に花を咲かせた後、唐突に篁が聞いた。
「え?」
ニコニコ笑って話をしていた博雅の顔が固まった。グラスを持った手がぴくっと跳ねた。
「あなたが今晩あのパーテイーに出るってことだけは知っていましたけどね。いったいあの男に何をされたんです?」
静かとはいえ、他にひとの目のあった先ほどのカウンターバーでは聞けなかったことだ。
「あ、ああ…」
グラスをきゅっと握り締めて、笑顔をなくした博雅は下を向いた。
「バカみたいなんですよ、私。」
「ばか?あなたが?」
「あれに親しげにしているあなたの従兄弟どのに…ちょっと…嫉妬したかも…。」
ちょっと躊躇ったが思い切ってぶちまけた。さっきも何か含んだような言い方をされて本当はすっかりめげてしまっていたのだ。
篁ならそんな博雅の気持ちも何もかも受け止めてくれる、そんな気がした。
「あなたの従兄弟どのは…たぶん、あれと関係のあったひとだといくら鈍い私でもわかります。もしかしたら今だってそうかも…。そんなことが頭によぎって。」
ホント俺ってバカだ、と博雅はさらに俯いた。
「あの男がそう言いましたか?」
グラスをテーブルに置くとスーツの内ポケットに手を入れてタバコの箱を取り出す篁。咥えたタバコに煙たそうに目を細めて火をつける。
「そんなことは何も…。ただ…」
「ただ?」
ふうっと一息煙を吐いて篁は繰り返す。
「私のことを彼に言いたくないようだった…。名前すら。」
ホールでのことを思い出して博雅の表情が歪む。
「へえ」
篁の唇の端が小さく上がった。
「名前も言えない私の存在って…。はは…。」
自嘲するように小さく笑う。自信満々に晴明の傍らに立つ小野亨の姿を思い出して博雅の胸がギリ…と痛む。
「あれに私以外の誰かなんて…考えたくない…。」
ぽろっと一粒涙が零れた。
「あれ?マズイ…泣けてきた…ホント何やってんだ、俺…」
酒のせいかな、なんて困ったように泣く博雅。
「まさしく博雅どのだ。」
クリスタルの灰皿にまだ長いタバコをぎゅっとつぶして消すと篁は立ち上がって向いに座る博雅の隣に座りなおした。
その肩に腕を回して自分のほうに引き寄せた。
「あ、あのっ!ちょ…」
「…黙って」
びっくりして顔を上げる博雅に優しく笑みを見せると、篁はその唇に自分の唇を重ねた。
「ん…あ…」
ほろ苦いタバコの味がする。
巧みなくちづけに頭の芯がじいんと痺れる。
絡まる舌。飲み下される甘い唾液。
角度を代えて更に深まるくちづけは、まるでそれそのものが愛の行為のようだ。
晴明しか経験のない博雅にとっては、意識を朦朧とさせるに充分過ぎるほどの篁の手管。
晴明によって感じやすくなっている博雅の敏感な体は、篁の手にかかればまるで赤子も同然である。
「博雅どの。あんなヤツとは縁を切って私のものになりませんか?」
わずかに唇を離して篁が囁く。上質な吟醸の香りの息が、博雅の濡れて敏感になった唇を甘く震わせる。
「だ、だめです!」
篁の体を押しやって触れられた唇をこぶしでグイ、と拭う。何やってんだ、自分!ぽわんとした頭に活を入れる。
「どうしてです?」
「ど、どうしてって…私にはあいつが。」
「あの陰陽師?」
もちろん!と、博雅。
「…なるほど。」
篁はふむ、とうなずく。
「今も昔も、たぶん私はあなたよりあの男と付き合いが長い。アイツがまだずっと若い頃から知ってますが…あれはロクな男じゃないですよ。特に愛とか恋とかいったものに関しては。人としてのそういう部分に関する感情が欠落しているとしか思えない。」
じっと博雅の目を見つめる。
「恐ろしく冷たい男だ。現に私の従兄弟どのもあっさり捨てられた。あなたがあれにそういう目に合わされるのを私は見たくない。」
博雅と晴明が再会を約した仲だとまでは知らない篁、本気で心配してくれている。
「でも…」
「私ならあなたを大切にする。過去も未来も全て含めて。」
博雅が何か言おうとするのを遮る篁。
「篁どの…」
みつめあう二人。
ガシャン!!
ロールスクリーンの向こうでガラスの割れる音。
「ここでじっとしててください。」
立ち上がろうとする博雅の肩を押さえて篁が立ち上がる。
ハタハタと窓際でカーテンが風にはためく。
半分ほど割れた窓ガラスに白い人型が一枚、風に逆らって空中に留まっていた。
小さな人型の口元にあたるあたりがパクパクと開いて言葉を放つ。
『私のものに手を出さないで頂こう。今から迎えにゆく。』
それだけ言うとそれはひらり、風に飛ばされて、小さな人型はあっと言う間に見えなくなった。
「おやおや、こいつは意外だな」
腕を組み、片方の手を顎にあてて篁は小さく笑みを浮かべた。
「今の音は…」
じっと座ってなどいれるわけもない博雅が篁の傍に走りよる。そして割れた窓ガラスを見て目を見張った。
「どうしたんです?これは」
「どうやら、私は少し見誤っていたようですね」
「え?」
何のことだかわからない博雅はきょとんとして篁を振り返った。
「今夜はもうお送りしましょう、博雅どの。」
篁はそういうとパチンと指を鳴らした。
奥に繋がるドアが、きいっと開いて、黒のスーツに身を固めたサングラスの男が黙って現われる。
「博雅さまをお送りしろ。大切な方だ、丁寧にな。」
「御意」
片手を胸に当てて頭を垂れる。
「このものがホテルまであなたをお送りいたします。本当なら私がお送りして、ついでに送り狼にでもなりたいところですが、ちょっと客人がひとりありまして。」
急な展開にびっくりしている博雅の背を優しく促す篁。
「え?え?あ、あの、でもあの窓は…」
首だけ振り返って博雅は戸惑う。
「ああ、窓の光に釣られたバカなカラスがつついたんですよ。ご心配なく。」
同じように窓を振り返って篁はニヤと笑う。
「カ、カラス?こんな夜更けに?」
「そう、カラス、おバカなね。そんなことより博雅どの、今宵は客人が来ることになってなし崩しになりましたが、次はもっとキチンとお話をしましょう。」
ドアを開けて待つ黒スーツの男から見えない観葉植物の陰で、篁は博雅をその腕の中に捉えた。
「ちょ…私にその気は」
「無くても結構。今からその気を築き上げますから。」
博雅のあごを捕まえるとすっ、と軽く唇を重ねた。
「私の口づけにもまんざらでもなさそうだし。」
「そんな…」
篁の胸を押し返してぼっと頬を赤らめる博雅。
「あの陰陽師も古い知り合いではあるでしょうが、あなたに会ったのは私が先です。あなたがどこぞの美姫と一緒になる方ではなく、あなた自分が美姫ならば、私の気持ちは決まっています。」
「は?私が、び、美姫??」
姫扱いなんて生まれて初めての博雅。思わず目がテンである。
「そう美しい姫。思わず心奪われますよ。」
にっこりと微笑むとその姫をドアの外へと送り出した。
「今日はまことに残念。でもまたすぐ会えます。今夜はどうぞ私の夢を見て。」
「な、ななな…」
さらにボボボッと赤くなる博雅の頬に名残惜しげに手を滑らすと
「無事お送りしろ。」
黒スーツ男に命じた。
キイッ…
小さな軋みを響かせて階下を見晴らすテラスの観音開きのガラス戸が開いた。
「やあ。」
そこから入ってきた人物に向かって、ソファに腰掛けていた篁が片手を挙げた。
「…あれはどこだ?」
友好的な篁の態度などハナから無視して背の高い侵入者が聞いた。黒く長いコートが開け放たれたままのテラスからの風にひらりとはためき、その人物の白い顔をさらに透き通るように白く見せていた。
稀名アキラと名乗る、古(いにしえ)の陰陽師。
「あれって?…もしかして博雅さんのことかな?」
「決まってるだろう、どこだ?」
部屋の中を見回しながら篁の元へとツカツカと歩み寄る。
「ここにはもういませんよ。あなたが来るってお知らせいただいた時点で、すぐにお帰ししました。」
「…なるほど。それは結構。」
晴明の目が冷たく光る。
「では、これを機に、あいつにちょっかいを出すのはやめにしてもらおう。」
「おやおや。あなたが私にそう言いますか。私の従兄弟を、散々、もて遊んでおきながら?」
「ハッ!従兄弟だって?従兄弟のふりをしているだけだろうが。」
晴明が皮肉に笑う。
「まあ、正確に言えば私の遠い子孫ってことになりますが、それでも、一族には違いない。こう見えて私は身内思いなほうでしてね。亨には、あなたのことで泣きつかれて、なだめるのが大変だったんですよ。」
「泣きつくだって?あの亨が?馬鹿を「言うなよ。今夜だって、やつは十分にふてぶてしかったぞ。」
「強がってそう見えていただけですよ。我が一族は感情表現が苦手でね。」
そう言って篁は肩をすくめて見せた。
「あなたにないがしろにされて、それこそハートが破れんばかりに悲しんでましたよ」
胸のあたりで手を組んで泣いているふりをしてみせる篁。
「なんてね。」
そういってパチリと片目をつぶった。
「くだらない。」
晴明は腕組みをして首を振った。
「あれがここにはもういないのなら、用はない。邪魔したな。」
踵を返す晴明の背に篁が声をかける。
「まあ、待ちなさいよ、希名さん、いや、晴明どの。」
昔に名前で呼ばれて晴明の足がぴたりと止まる。
「あなたは博雅どのを離すべきだって思うんだけど」
「は?なんだって?」
静かにゆっくりと晴明が振り向く。
「あのお方はわれわれのような因果なものには勿体無いお方だ。あの方が前世、誰であったか、あなただって知っているはずでしょう?」
革張りのソファにゆったりと身を沈めて、優雅に足を組んだ篁が言った。
「あの方の魂は、再生したこの世にあってなお、まこと稀有な存在ですよ。我らのような下賎なものとは違う。」
「過去のことなど関係ないね。今は私のものだ」
「泣かせているくせに?」
「泣く?博雅が泣いたのか?」
晴明の柳眉がピクリと上がった。
「あなたが私の従兄弟といちゃついてるのを見てショックを受けてましたよ。」
「そんなことはしていない。」
「でも、博雅どのはあなたにないがしろにされたと感じていた…。
私はあなたという人をよく知っているつもりです。あなたは、他人はもちろん、自分自身すら受け入れられずにいる孤高の人だ。自分すら大切にできない人が、博雅どののような人一倍心の暖かい純な方を大切にできるとは思えないんですよ。」
「余計な世話だ、私と博雅のことには首を突っ込まないでもらいたい。」
答える晴明の目が、これまでで一番冷たく光った。
「余計な世話?違いますよ、晴明どの。私が言ってるのは、あの方、博雅どのを私に譲ってはいただけぬか、ということですよ。」
篁の目が晴明の冷たい視線をはじき返す。
「知ってのとおり、私にはもうひとつ別の顔がある。あなたと同様にね。」
「それがどうした」
「それでもあなたはまだいい。今の人生はちゃんと二度目でしょう?でも、私は遠いあの昔から死ぬこともなくずっとひとりだった。今も昔も、ずっと長い間。」
篁はすっとソファから立ち上がる。
「だが、それはあんたが望んだことだろう?」
立ち上がる篁から目を離さずに晴明は言った。
「それはそうなんですがね。でも、私も人の子、一人はさびしい。」
「だから…?」
「パートナーが欲しいのですよ。」
「他を当たればいいだろうが。世界は人で溢れている、男でも女でもそれ以外でも選り取りみどりだ。」
「他ですって?私の本当のことを知っていてなおかつ、それをすんなりと自然に受け入れてくれる人間がどこにいるんです?」
そんなのいるわけないでしょ、と篁は肩をすくめた。
「博雅どのは特別ですよ。」
「知ってるさ、そんなことは。」
晴目の目が冷たい。
「それに本当は私のものだったかも知れない」
「どういう意味だ」
「あなたより私のほうが彼に会ったのは先だった」
篁は晴明と向き合うところで足を止めた。
「初めて会ったとき、あの方はまだ十代の若い貴族でしたよ。弾けるような笑顔がまぶしいとても爽やかな青年でした。」
そのころを思いだして篁はにこりと微笑んだ。
「とても素敵な青年でした。でも、私は手出しなどしませんでしたよ。彼には将来がありましたからね。今にどこかの姫を娶りよき夫、よき父親になられるだろうと思ってました。」
が、と言って篁は片眉を上げた。
「まさか、あなたのものになろうとはね。」
晴明の柳眉も同じようにピクッと上がる。
「だから、再びまみえた今、昔と同じ轍を踏む気はない。」
篁は晴明の目を真正面に捉えて、ニッ、と笑った。
さくっと終わらせるハズが…だああ(汗)
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