朱呑童子の酒 (上)

   


晴明の千年の想い人、その人の名は源博雅
秀でた額に涼やかな瞳、すっきりと通った鼻筋。新たに生まれ変わった今でも、その端正な面差しには、やはり常人とは違う本物の貴族の気品が漂う。
過去の世であったなら、身分の違う自分とは一緒に暮らすことなど夢にも思うことなどできなかった殿上人である。
貴族とは名ばかりの下賎な輩も多かった中、博雅は眩しいほどに清らかな珠玉の魂を持った本物の殿上人であった。
その魂の輝きに気づいて近寄ってくるもののなんと多いことか。その相手が人ならばまだしも、それが人外のものともなればタチも悪くやっかいだ。
晴明は人を惹きつける魅力を振りまいて、ふらふらとあちこちに出歩く博雅が心配でしょうがない。

そんな晴明の心配をよそに、先日も博雅は、自分が東京へ仕事に行っている間に、人外の者の代表格、朱呑童子のところへ出かけていた。しかも、人の世の現生界ではなく、朱呑童子の手の内である次元の違う世界にある童子の屋敷まで行ったと言う。

 「何で、そんなところまでのこのことついてゆくのだ。博雅。」
自分よりも夜遅く帰ってきた博雅に険しい目で言う晴明。
「のこのこって…。ただ、笛を一緒の奏でる約束をしていたからそれを果たしにいったまでだぞ。
なんだってそんなに機嫌を悪くしているのだ?」
博雅も、むっとして聞き返す。
「相手はあの朱呑童子だぞ。あいつはいつもお前を狙っている。」
なんだそんなことか、と博雅が笑った。
「朱呑童子さまは俺の嫌がることなど決してしないさ。ずいぶん前に、自分のものにならないかと誘われたことはあったがな。
そのときにきっぱりと断ってからは、そんな気配はいっさいないよ。きっと、むこうももう忘れてるさ、そんなこと。」
大体、おまえは変なところで心配性なのだ、とけらけらと笑う博雅。
「そう思っているのはお前だけだ。…ばか。」
博雅に聞こえぬように小さな声で言う晴明。
「心配性め。」
そんな言葉が聞こえていない博雅が晴明の肩をたたいて言った。
二人の感覚は平行線のまま。
 
それから何日がが過ぎたある日。
博雅のところへ朱呑童子からの使い魔がやってきた。
車のダッシュボードの上にそれが現れても、博雅は大して驚きもしなかった。
子鬼の姿のその使い魔が、今からまさに車を発進させようとしていた博雅に向かって、深々と頭を下げて朱呑童子からの伝言を告げた。
「源博雅さまにおかれましては、まことにご機嫌麗しく、お喜び申し上げます。」
「毎回毎回、おおげさだな。朱呑童子さまからのお使い、ご苦労様。今日はいったいなんだい?私は何か朱呑さまと約束していたかな?」
思い返しても約束した覚えがない。
ハンドルに両手を乗せたまましばらく考えたが、どうにも思い当たるふしがなかった。
「いえ、お約束はございませんが、我があるじがぜひ博雅様に屋敷にお運びいただきますよう、ようくお願いしてまいれとのことでございまして。」
いかがでしょう?と懇願するような目で見られてしまった。
「何の用かな?今、来てほしいのかい?」
「はい、できますればすぐにでも。」
「う〜ん。今日は早く仕事も終わったしな。晴明も今日はまた遅くなるって言ってたし。」
すぐ行って帰ってくれば晴明の帰るころには帰れるだろうと、博雅は軽い気持ちで答えた。
「いいよ。行こう。」
「ありがたい!では。」
「…!」
博雅が驚くまもなく、二人の姿が車の中から消えた。
学校の駐車場には、エンジンのかかったままの博雅の車だけが残されていた。
 
朱呑童子の屋敷は広大だ。
その奥の広間に朱呑童子は脇息にひじをもたせかけて、片膝を立てゆったりと座している。
目の前には海のもの山のもの、その他見たこともないような珍しい食べ物の乗せられた膳と酒が用意されていた。
なにを考えているのか、彼のその紅い唇には薄く笑みが浮かんでいる。
そこへ博雅が案内されてやってきた。
見れば、いつのまにやら浅葱色の直衣に着替えさせられている。
慣れた裾さばきで朱呑童子の前に用意された酒席へ座ると、朱呑童子に軽く頭をさげ、困ったように袖を広げて見せた。
「朱呑童子さま。なんです、これは?」
さすがに烏帽子こそかぶっていなかったが、浅葱色の直衣は博雅をいにしえの殿上人そのものに見せていた。
下に見える桂の白い襟が、博雅の日に焼けた喉もととコントラストをなして、爽やかな青年貴族を蘇らせていた。
「ほう。やはり似合うなあ。先日、ぬしのその姿を久々に見てからというもの、ぜひもう一度見たいと思っていたのだ。すまなかったな。」
それにしても似合うと、知らない人が見たら、獲物を前によだれをたらす猛獣にも見える朱呑童子。
そんな獲物を狙う猛獣のような朱呑の視線にも、まったく気づかない博雅。
相変わらずの鈍感ぶりである。
「まあ、私だってこの格好が嫌いと言うわけでないですが…。まさか、このためだけに私をここに呼んだのではないでしょうね?」
「いやいや、まさかな。ほかにも少し用があるのだが…。まあ、その話はあとだ。よい酒が手に入ったのだ。まずは一献。」
博雅の手に瑠璃色の杯を持たせると、芳醇な香りのただよう酒を、手ずから注いだ。
「なんともいえぬ良い香りですね。これはどこの?」
杯に唇を触れながら博雅が聞いた。
「これは信州の遠野というところで、そこの妖しに造らせた酒だ。天下に二つとない名酒だ。どうだ?うまいであろう?」
一息に一杯目を干した博雅の杯に、重ねて二杯目を注ぐ。
「う〜ん…これは美味。」
二杯目は、ゆっくりと味わうように飲む。
その博雅の唇が酒にぬれてつややかに光っている様子が、朱呑童子の目を惹きつける。
(博雅どの、悪いが今日はぬしを帰すつもりはないからな。)
直衣姿で酒を飲む博雅、その姿に朱呑童子の決意はさらにかたく。
(あの直衣を乱すのは、やはり、この私でなくては…。)
のんきに酒を飲む博雅、本人の知らないうちに貞操の危機が迫っていた。
 
さて、こちらは晴明。
近頃の朱呑童子のおとなしさに不穏なものを感じていた彼は、いやな予感があったのか、早々に京へと戻ってきていた。
仕事を途中で放り出して帰ってきたので、部下のものには迷惑だったかもしれないが、もとより嫌々やってる仕事である、後がどうなろうが正直、知ったことではなかった。
仕事よりも恋人。
とんでもない経営者である。
 
「博雅は?」
帰宅するなり、迎えに出た式にたずねる晴明。
「いえ、あるじ様、博雅様はまだお帰りではございませぬ。」
「なんだって?だが、もうこのような時間だぞ。どこに行くとか言ってなかったか?」
みれば時刻は、もうとうに日付を回っている。真夜中である。
「いえ、何もうかがっておりませぬ。何しろまだ、一度もご帰宅されておりませぬゆえ。」
「…。まさか、またあいつのところか?」
小首をかしげる式にもう下がってよいと告げると、晴明は博雅を探すことにした。
うるさいと嫌がられるかもしれないが、やはり心配なのだ。
たとえ、隣で人が殺されたとしても動じない晴明だったが、こと博雅のこととなると、まったく別人のように心配性な嫉妬深い恋人に変じてしまう。我ながら困ったものだと思うが、こればっかりはどうにも修正がきかない。
「さて、博雅よ、どこにいる?」
上着をぬぐと、リビングのソファに浅く腰掛け、目を瞑り両手で印を結んだ。
口の中で小さく呪をとなえる。

博雅の車が見える。
エンジンがかかったまま学校の駐車場にあるようだ。
が、中に博雅の姿はない…。
晴明に見えたのはそこまでだった。
博雅の存在が消えてなくなっている。
「この世ではない。別のところにいるな。…やはり、あのお方か。」
大江山の鬼王。朱呑童子。
「取り返しに行かなければな。」
切れ長の、冷たくも美しい瞳をゆっくりと開けると,その紅い唇にうっすらと笑みを浮かべる晴明。
その表情を笑みと呼べるのならば…。




「ちょいやば」のクセに続きます。スイマセン(汗)

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