人の目を避けるように博雅は鞍馬の山を降りていった。もしも本当にここが過去にさかのぼった京の都だとしたら今の博雅のいでたちでは鬼や妖しとみなされて下手をすればその命すら危なくなりかねない。人目につかぬように博雅は日のくれるころまで貴船の社近くに身を潜めていた。時折人が通るがやはりみな小野清麻呂のように昔の装束だった。
やはり本当にここは過去なのかもしれないな…。
わずかに離れたところを粗末な水干を着た下人と思しき男が歩いてゆくのを見て博雅はそう思った。
自分の状況に気づいて驚いてからもうすでに何時間かが過ぎている。博雅は腕にはめられた薄い時計を見た。過去にさかのぼったからといって時計には何の変化もなくいつものように淡々と時を刻んでいた。
そうやって刻まれているのは過去かそれとも現在か。いや、この際、現在というは過去のことなのか…?
まったく、わけがわからん。こんなときに晴明がいてくれたらきっとふふんと鼻で笑って色々と説明してくれるだろうになあ。
そこまで思い至って博雅ははっと気づいた。
小野清麻呂がいたということはここが本当に過去の時間だとしたらそこには当時の晴明もいるはずだ。
今も昔もあれ以上に頼りになる陰陽師はただの一人もいない。博雅は目の前に一条の光が差し込んできたような気がした。
あれに会うことができればこれが本当のことなのか、それともただの妖しの見せたものなのかきっと確かなことがわかるはず。
よし、晴明に会いに行こう
博雅はそう心を決めると建物の影や物陰に身を隠しながら都へと降りていった。折りよくこの夜は月の出が遅いようだった。月明かりのない夜は人もあまり出歩かない。そのおかげで意外とすんなりと博雅は晴明の屋敷までたどりつくことができた。
風雨にさらされて色の褪せた晴明紋のついた門扉を妙に懐かしく感じながら博雅はその前に立った。
昔は俺が来ただけでこの門は自然とひらいたものだったが…。
少なからず不安を感じながら博雅は門扉に手を伸ばした。
開けてくれるだろうか…?
その指先がわずかに触れるか触れないうちに、それはぎいい…ときしんだ音を立てて博雅を迎えるように開いていった。
ぎしっ…。
床のきしむ音にも顔を上げずに晴明は書き物机に向かったまま声をかけた。
「なんだ、博雅、今日は直居だからこれないと言ったのではなかったか?」
さらさらと流麗な文字を連ねながら晴明はそう尋ねた。
「…せ、晴…明…」
蚊の鳴くような小さな声。筆を滑らす手を止めて晴明はようやく博雅のほうを振り向いた。
「どうした?そんな情けない声を出して…」
薄暗い部屋の入り口に立つ博雅の姿に晴明の声が立ち消えた。
切れ長の瞳をさらに細めて晴明は突っ立つ博雅を見つめた。
「誰だ?」
「俺だ…博雅だよ」
体の両脇に下げられた手がぐっとこぶしに握られる。
「…どこの妖しだ。よく俺の結界に入ってこれたな。」
博雅と名乗った言葉を軽く無視して晴明は冷たい目で言った。
「ち、違う!俺は本当に…!」
「どこのどいつかは知らぬが、俺の大切な博雅に化けるとはいい度胸だな。」
すいと立ち上がって晴明は博雅に近寄った。その頬をするりと冷たい指先でなでると博雅の顔を覗き込み
「ほう、顔は瓜二つだな。いったいどうやったのだ?俺でなければ間違えても仕方がないくらいにそっくりだ。」
そうやさしく言った。
「だから俺は本当に博…」
「うそをつけ!誰が見てもそっくりだがお前は博雅ではない。わずかだが何かが違う。」
博雅の胸元をぐいと掴みあげて晴明は厳しい目で博雅をにらみつけた。
「俺は…」
「さあ、俺の屋敷に博雅とそっくりになって潜り込んでなにをしようとしていたのだ?返答しだいではその存在をこの世から消すことにためらいはないぞ」
さらに掴みあげられて博雅の足先が宙に浮く。気管を締め上げられて博雅は苦しげに咳き込んだ。
「がふっ…!や…、やめてくれっ!晴明!ほ、本当に…俺なのだっ!」
「まだ言うかっ!」
ぎりっとさらに首が絞まった。
「た…確かに…この時代の俺では…ないっ…俺はち…違う時代から…きたのだっ…!」
こんな凶暴な晴明を妖しに作れるわけがない。博雅は妙なことで本当に過去にとんだのだと確信してそう言った。
「いろんな言い訳があるものだな。そんな馬鹿な話を俺が信じると本気で思っているのか?」
馬鹿にしたように晴明は冷たく笑った。
「ほ、本当だっ!」
どんどんと締まってくる首に博雅はもしかしたら俺の最後は晴明に殺されることで終わるのかと思えてきた。
その時。
「なにをやっておるのだ、晴明?」
ゆったりと柔らかな声が少し離れたところからかかった。
そう言って灯明の投げかけるほのかな光の輪の中に姿を見せたのはまさしくこの時代に生きた博雅。
「博雅」
もう一人の博雅をぎりぎりと締め上げながら晴明はそちらの方を振り返った。
「おっと、すまない客人であったか?」
晴明の前に誰か居るのに気づいて博雅は申し訳なさそうに言った。
「いや、客人ではない。我が屋敷にもぐりこんだ妖しさ。」
「妖し?」
博雅の眉がきりっと顰められた。
「いや…妖しではないかもな。ただの賊かもしれない。どちらにしろ我が屋敷に不法侵入したのに違いはないがな。」
晴明の目が冷たく現代の博雅を見つめた。
「ぐうっ…」
さらに首が絞まって博雅は頭の中がぼうっとしてきた。死なないまでもこのままでは気を失いそうだった。気を失ってそこらに放りだされたら元の時代に戻る手立てがなくなってしまうかもしれない。博雅は首にかけられた晴明の手を離そうとその手に爪を立てた。
「つっ!」
その痛みにわずかに晴明の手の力が緩んだ。
「は、離せっ!晴明っ!」
その隙に博雅は力の限り叫んだ。
どこかで聞き覚えのある声。
直衣姿のほうの博雅が思わず晴明に言った。
「お、おい!晴明、いったい誰を捕まえておるのだ?」
そっちのほうの博雅からは晴明の体の陰になってもうひとりの博雅の姿がみえないらしい。くいっと首を伸ばして晴明が捕まえている人物の顔を覗き込んだ。
「わっ!」
その目が驚きに見開かれる。
「お、俺がもう一人!?」
絹ずれの音を響かせて二人の方へと駆け寄る博雅。
「せ、晴明っ!なんで俺がもう一人いるのだ?」
現代からやってきたほうの博雅の顔をまじまじと見つめて驚きを隠せぬままに聞いた。
目の前で晴明に捕まえられて身動きもかなわすにいるのは間違いなく時折鏡にうつる自分の顔だった。その目がもう一人の博雅の姿をまじまじと見つめた。
見たことのない服装をした姿。
何かの皮で作ったらしい筒袖の衣に、毛織物のようなよくわからぬからだにぴたりとした下衣。腰から下には指貫ににていなくもないが麻かなにかでできたあまり着心地のよくなさそうなこれも体にぴたりとしたものを履いている。
おまけになんだこの頭は。
せっかくの黒髪をばさりと短く切っておまけに折烏帽子すらかぶっていない、いくらなんでもこれはないだろう。
と、急にぽんっと手を打って
「あ!わかったぞ!こいつは晴明、お前の出した式だな?」
そういうとほっとしたように肩の力をぬいた。
「びっくりさせおって。また、おぬしに言いように笑われるところだった。道理で変な格好をしている。」
ジャケットのジーンズの短髪の博雅を見て納得したように言った。
「手の込んだ驚かせかたをしおって。」
晴明の肩に手を置いてそこにほうっと頭を押し付けた。
「もう十分驚いたからそれを元の形代にもどしてしまってくれよ。ほんとに悪いヤツだぞ、晴明。」
顔を上げ、困ったように笑うと博雅はひらひらともう一人の博雅に向かって手を振った。
「せっかく直居を途中で抜け出して旨い酒を持ってきたのだ。そんなの片付けて一緒に飲ろう」
「悪いが博雅、これは俺の出した式ではない」
晴明が静かに言った。
「えっ?」
弊子を手に濡れ縁へと向かいかけた博雅の足が止まった。
「式ではないと?」
「ああ。とにかく俺の手によるものではない。」
もう一人の博雅をもう一度締め上げる。その手につけられた爪あとからじわっと血がにじみ出ていた。
「ではそれは…いや、そいつは一体なんなんだ?」
「だ…だから本当に博雅だと…い、言っているではないかっ!」
この時代の博雅に未来からやってきた博雅が言った。
「目の前に本物が居ると言うのに一体いつまでそれを言い続けるのだ?」
晴明の目がぎらりと凶暴な光を宿した。
「俺を、いや、俺たちを愚弄するにもほどがあるぞ。」
「ぐ、愚弄などしていないっ…離して…くれれば…せ、説明するっ…」
「だめだ、このまま説明しろ」
「い、息ができない…た、頼む…お、下ろしてくれ…」
額に汗を滲ませ酸素を求めて口をあえがせながら博雅は言った。
その顔に閨の中での博雅の面影が浮かぶ。晴明は苦りきった表情になった。
なんだ、こいつ?まるで博雅ではないか…。気に入らぬ。
「晴明、離してやれよ。たとえ妖しだろうがそうも締め上げられていては話もできぬだろうよ。」
博雅が間に入って言った。
「おまえも逃げはせぬだろう?…自分に言ってるようでなんだかへんな感じだなあ」
そう言う博雅にもう一人の博雅はこくこくと必死でうなずいた。
やっぱり俺って昔も今もかわらず頼りになるやつだ。晴明の冷たさを補ってあまりあるぞ。
苦しい中から、過去の自分を誇らしげに博雅は見た。
晴明の屋敷の濡れ縁。
目の前に座す二人をジャケット姿の博雅は少々複雑な思いで見つめていた。
白い狩衣に身を包んだ美貌だが今は仏頂面の晴明と、その隣にゆったりと構えて座っている直衣姿の過去の自分。
わずかに袖先が触れ合うほどの距離を置いて並んで座る二人は何も言わなくても通じあっているのが手に取るようにわかった。
「では話を聞こうか?」
晴明に代わってそうやさしく尋ねたのは他の誰でもない過去の自分だった。
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