時の狭間 (1)

   

京都の秋は絶景である。
紅葉が山を彩り、その中に点在する古くからの寺社とあいまってあちらこちらに一幅の絵画のような景色を展開する。
さて、そんな京都の一角の閑静な邸宅の一室。
 
「なあ,行こう、晴明」
「…ふむ…今は忙しいから…また後でな」
かかりきりの古い文献から目を離そうともせずに晴明は気のない返事をした。
彼が先ほどからずっと覗き込んでいるのは最近手に入れたばかりの平安後期の古い貴重な文献である。本来ならば個人で所有すらできないような大変価値の高いものであった。
どういう経路を伝って晴明がそれを手に入れたのか、博雅は聞くのも恐ろしかったが…。
とにかく、彼、稀名アキラこと、平成の世に蘇った稀代の陰陽師安倍晴明は、自分のいなくなった後の陰陽道について色々と興味深いことが書かれてあるその古ぼけたかび臭い書にすっかりとのめりこんでいるところなのである。
「今日を逃したらもうこんな日はないんだぞ。なあ、行こうよ」
しつこく誘う博雅にちらりと面倒くさそうな視線をやると晴明はまたかびくさい文献に目を戻した。
「紅葉なんて毎年のことではないか。今日無理に行かなくてもどうってことはない」
常人には判読不可能と思われる、のたくったような文字を目で楽々と追いながら晴明はまた冷たく返事を返した。
その言葉に博雅の眉が片方ぴくっと上がった。いつもは穏やかなその目つきがきりっと険しくなって
「ちが〜うっ!それは違うぞ晴明!この季節は日々にそのさまが変わってゆくのだ、今日の景色が明日も来年も同じにあるとは限らないのだぞ。今のこの紅葉を愛でなくてどうするのだ!」
ばっ!とソファから立ち上がると晴明を弾指して大きく言い放った。
どうやら晴明の言葉が、季節の移ろいに過剰なほどに敏感なこの漢の逆鱗にふれたようであった。
こぶしを握り締めて博雅はふるふると震えていた。
「色のついた葉っぱなんてどれも大して変わらぬと思うがなあ」
 博雅のほうを見向きもせずに言う晴明、怒りに震える博雅の様子にまったく気づいていない、というか、気にしていない。普段はいろんなことに敏感なこの陰陽師にしてはとても珍しいことであった。
「大体、気温によって紅葉の色などどうとでも…」
 「も…も…もういいっ!、お前なんか知るかっ!」
さらにとどめの様に、博雅にとっては何より大切な季節の移ろいを科学的に説明しようとした晴明に向かってそう言い捨てると、怒れる博雅は足音も荒く書斎を飛び出していった。
「おい!博雅!」
ようやく晴明が顔を上げて声をかけたときにはもうその姿は書斎から消えていた。
「紅葉が何だっていうのだ、まったく…。」
晴明は一息ため息をつくとまた再び文献に目を落とした。
「やれやれ…しかたがない、ついていってやるか。…後でな。」
これが一段落ついたらいっしょに嵯峨だろうが貴船だろうがついていってやろうと…あきらめた。
 それから二時間ほどの後。
ようやく納得のいくところまで一区切りついて、晴明は博雅を探して屋敷の中をあちこちのぞいて回っていた。ところがしーんとした家の中に博雅の気配はなかった。
どうやら一人で出かけてしまったらしい。
「なんだ、ついていってやろうかと思っていれば。」
まったくわがままなやつだと晴明は最後にのぞいた部屋の入り口に寄りかかって嘆息した。
「…ま、いいか」
そのドアをパタンと閉めると、邪魔者がいなくなったなとつぶやきながら、再び作業に戻るべく書斎へと戻っていった。
 
 
「大体あの男は昔からそうだった。俺が季節の移ろいやら野花やらに心を和ませていると必ず呪の話を持ち出して、よいこころもちをぶち壊すのを楽しみとしていたのだからな。あんなやつ、頼まれたってもう二度と誘ってやらぬ!」
かっかと頭にいまだ血を上らせながらひとり車を飛ばして貴船へと博雅は向かっていた。その助手席には今日のお供、葉二がちょこんと置かれていた。
「お前がいればよい。今日は今年一番の紅葉を愛でながら存分におまえとともに過ごそうぞ」
そお小さな物言わぬお供に向かって鼻息も荒く博雅はそう宣言した。

貴船の奥宮までやってきた博雅。
車でいけるところまでくると、そこからは徒歩で木々の間を歩き始めた。澄んだ秋の日差しが作る木漏れ日のちらつく中を葉二を懐に、さらに奥へと博雅は分け入ってゆく。歩きやすいように整備された遊歩道、絶好の日和に誘われて時々もみじ狩りに来ている人たちとすれ違う。その人たちと軽く会釈を交わしながら博雅はここではまだ竜笛を吹くわけにはいかないなと考えていた。昔ならばたとえ誰がいようがお構いなしに心のままに葉二を吹けたものだが、さすがに今ではそうはいかない。
 
まったく、今の世の中は結構不便なものだな。こんな日は昔に戻りたいよ。
 
一人苦笑いをしながら、博雅は人のいないところを探して歩いた。
遊歩道をはずれて、さらに小一時間も木々の間を歩いただろうか、ようやくのことで博雅は目的に合いそうな場所を見つけた。もうずいぶん前から人とは行きかわない。
 
博雅がようやく見つけたその場所は、水の神のおわす貴船らしく岩の間から清水が小さく湧き出していた。その小さな水溜りのような泉に様々に濃度の違う紅葉が重なり合うように浮かんでいる。
すぐそばにどれほどの樹齢を重ねたのかわからぬほどの紅葉の古木が生えていた。時折、風がかさかさと色づいた葉を揺らすのと、鳥の鳴く声が折に触れて天から降ってくるように聞こえるだけで、耳鳴りのするほどに静かな場所だった。上を見上げれば先ほどの古木以外にも様々な紅葉が青い空を背景にその鮮やかさを競うように枝を広げていた。
泉のすぐそばの岩に腰をかけて博雅はほうっとあたりを眺めて満足げなため息をついた。
 
やはり来てよかった。この紅葉の中に静かに息を潜めて座していると自分までその錦の中に染まってしまいそうな気すらしてくる。
 
まるであのころに戻ったかのようだ…。
このあたりまで来ると街の喧騒なども聞こえず、そこらの木の影から昔の装束の人間がひょっこり出てきたとしても何の違和感もないに違いない。
 
白い狩衣に身を包んだあのころの晴明がそのあたりから現れても不思議はないな…。
今日の晴明の冷たい態度に比べれば、遠い過去の晴明のほうがまだ付き合いがよかったように思う。
 
…ううむ…いやなことを思い出してしまった。
気を取り直して博雅はおもむろにジャケットの内ポケットから本日のお供、葉二を取り出すと、現代の晴明の冷たい顔を脳裏から消し去り、代わりに昔のよい思い出だけに彩られた晴明を思い浮かべて、そっと唇に吹き口を当てた。
 
すうっと大きく息を吸い込むと、葉二に遠い過去に向けた想いをこめた最初の一息を吹き込んだ。
葉二から、澄んだ秋の空気をさらに澄ませ、煌かせるような妙なる調べがこぼれだす。
かなりの時間ひたすらに葉二を吹く博雅。はじめのうちはあたりの紅葉を愛でながら軽く吹いていたのだが、そのうちに段々と気持ちが入っていってその音色が深くなっていった。開けていた目もいつの間にか閉じられて博雅は己のつむぎだす楽の中に埋没していった。
楽の神に愛でられてこの世に生を受けたほどの男が吹く鬼の笛の音である。神の息のかかったこのあたりの自然が感応したとしても、それは当たり前のことであったであろう。
風もないのにさわさわと古木の紅葉の葉が揺れ始めた。
博雅は自分の奏でる楽の中に没頭していて、そんな妙なことが周りでおき始めていることになど気づきもしていない。
   
博雅の吹く葉二の音色があたりの空気の質までも変えてしまったようだった。
はじめは小さくゆれていただけだった紅葉の古木の葉が、今でははっきりと音を立ててざわざわと動き始めていた。
さすがの博雅もようやくそれに気づいて閉じていた目を開けた。
 
なんだ?
 
不審に思って上を見上げたときだった。
ゴウッ!と激しい一陣の風が博雅を巻き込んだ。
 
「うわっ!!」
 
竜巻のような風が博雅を絡めとる。博雅の周りを紅葉の葉がまるで錦に彩られた壁のように囲んでぐるぐると渦を巻いて踊っていた。
 
「なんだっ!?竜巻か?」
 
風の中で腕で顔を庇う博雅。
と、突然竜巻のような風がぴたりと収まった。
始まったときと同じように。
古木の紅葉の葉がさわさわと静かにおさまっていった。
風に飛ばされていた紅葉の葉がゆっくりと博雅の周りに舞い落ちてくる。
その一枚を空中で捕まえた博雅。。
 
「いったい今のはなんだったんだ…」
 
手の中の赤く色づいた紅葉の葉を見つめて言った。
 
「やはりここが貴船だからなのか?晴明が千年の時を経てなお一層、霊気が凄くなっているといった所だものな…」
 
怖いわけではなかったが、これ以上ここにいるとやっかいなことに巻き込まれそうな気がしなくもない。
「う…ん…今日はこれで帰るか…」
君子危うきに近寄らずだ。そう思って博雅はもう帰ることにした。(これでも色々と学習したのだ、と彼は思っていた)
念願の紅葉も堪能できたし久しぶりに葉二も思う存分に吹けた。今日はもうこれで満足といわねばなるまい。
 
「帰ったら晴明に今日のことを謝らせなければな…」
 
ふっ、と、ひとり笑うと博雅は葉二をまた懐にしまい、来た道を戻り始めた。
 
「とっ…!こんなに歩きにくい道だったかな?」
飛び出した木の根に躓きそうになって博雅は頭をかしげた。
確かこのあたりからは遊歩道ではなかったか?それともどこかで道を間違えてわき道にそれたか?振り向いてみたが方向感覚のある自分がこれしきの道を間違えるとは到底思えなかった。
 
ようやくのことで、はじめにきた本道らしき道に出た博雅。
…でも何かがおかしかった。
まず道自体がおかしい。たしかこの道は舗装されていたはずだったのに、どこをどう見てもわずかにわだちの残るただの土のままの道にしか見えない。それに随分と道幅も狭い。
本当にこの道だったか?
もう一度、振り返ってみるがどう考えても間違いはなかった。
 
変だ。
 
確かにこの道にまちがいはないはず。なのに何だ、この変わりようは…。
おまけに止めてあったはずの車まで影も形もなかった。あたりをぐるりと見渡す博雅、その顔がだんだんと険しくなっていった。
すべてがおかしい。空気までもが違っている気がする。
 
ここは…どこだ…?
 
今日来た貴船ではありえない。博雅は周りを用心深く見回しながら山道を下っていった。とにかく人のいるところまで出てみなければ。そこまで行けばきっとなにが変なのかわかるだろう。来たときとは打って変わってまったくひと気のない道を足早に歩く。
誰にも出会わぬまま博雅は貴船の奥の宮へとたどり着いた。一見して何も変わったところなどないように見える社。博雅はおかしく思ったのは自分の気のせいだったかと一瞬思い直しそうになった。
が。
そんな思いがこれもまた一瞬で吹き飛んだ。
社の影から一人の男が現れたのを見たからである。
その男の姿に博雅は驚いて声もなかった。
小舎人童を一人連れた直衣姿。社に願賭けにやってきたらしいその男に博雅は確かに見覚えがあったのである。
 
なぜこの男がここに…!?
 
その男に会ったのははるかはるか遠い昔のこと。生きているはずなどありえなかった。まして当時の姿でなどさらにありえることではなかった。
 
…小野清麻呂殿ではないか。
 
あの顔には見覚えがある。白蛇姫のおわす橋を無理に通ろうとして脅かされ朝まで念仏を唱え続けて震えていたというあの殿上人に間違いはなかった。
 
思わず声をかけようとして博雅ははっと思いとどまった。
 
ちょっと待て!なぜ遠い過去のあの小野殿がここにいるのだ。
まだ日も暮れる気配のない今の時間、彼が妖しや霊のたぐいとは思えない。まして小舎人童を連れた霊などいるとは思えない。
では、おかしいのは俺ではないのか?
それともこれは夢か?
もしかして自分はまだ平安のころの自分で、へんてこな夢をみているだけなのか?
 
博雅は自分の姿を見下ろした。
ジャケットにジーンズ。中には少し寒いかなと思って着てきた薄手のニット。こんなものをたとえ夢とはいえ昔の自分に想像できるだろうか…。答えは明らかにノーだ。
博雅は紅葉に色づく広葉樹の陰に身をひそめながら改めて周りを見回した。
秋の透き通った日差しが差し込む貴船の山。お二方の神のおわす場所。
博雅は木に寄りかかってふう、と大きくため息をついた。
 
貴船に来たのが失敗だったか。
この霊気に満ち溢れるこの場の何かが俺をとんでもないところに連れてきたようだ…。
 
「はは…、やばい…。」
 
博雅は力なく頭を抱えて笑った。
もういったい自分が何に巻き込まれてしまったのか、おおよその察しがついてしまったのだった。

「夢でなければここはあの時代だ…。」
すぐそばを小舎人童を連れて歩いてゆく小野清麻呂を隠れてやり過ごしながら博雅はひとりつぶやいた。
その肩にひらりと一枚のもみじが舞い降りてきた。それを指先でつまんでぼうっと見つめる。そして、はっ、と思い当たった。
 
あの時だ。
 
竜巻のように急に自分を取り巻いた錦に彩られた風。きっと、あの時になにかが起こったに違いない。何かの妖しのしわざなのか、それともこの地の神の力なのか、今の博雅にはそれを判断するすべは何一つなかったが、それがことのはじまりだということを確信した。
それにこの際、原因は何でもかまわない、元の時代に戻ることのほうが肝心だ。
 
「待て待て、落ち着いてよく考えろ。」
 
博雅は努めて冷静になろうとした。いくら晴明とともに色々な不可思議な経験をつんできたとはいえこのようなことは初めてだった。
本当に自分は、あの遠いむかしに時を越えて飛んでしまっているのだろうか?
もう一度、よく落ち着いて考えなければ。
もしかすると、これはどこぞの妖しが自分に見せている幻なのではないか?
というより、できることならそうであってほしい。まだ、その方がこの恐ろしい事態よりもはるかにましな気がしていた。
 
晴明…。
 
今朝、別れてきた晴明の白皙の美貌の顔を思い浮かべる。
 
こんなことになるとわかっていたらあのようにぷいと家を出るのではなかった。だが、もういまさらなにを思い返してもどうにもならない。
それに、あれをここに呼ぶこともかなわない。これが本当のことだとしたら、いかな晴明といえど時の壁を越えるすべを持っているはずがない。陰陽師は超能力者ではないのだ。
 
とにかくこんなところで嘆いていたところで始まらない、これが本当に現実のことなのかなんとか真実を確かめなければ。
 
都に降りてみよう。
 
前に妖しとなった女の作る幻の都にだまされそうになったことがある。今度は最初から疑ってかかっているのだ、本物の都かどうかを見分けることはできるはず。昔と違って今の自分にはたいした力ではないが、妖しを見るぐらいの能力はなぜか備わっている。このことに妖しがかかわっているかどうかを見極めてくれよう。
 
時を越えたと判断するのはそのあとでもきっと遅くはない…はずだろ…?晴明?
 
 
人の目を避けるように博雅は鞍馬の山を降りていった。もしも本当にここが過去にさかのぼった京の都だとしたら今の博雅のいでたちでは鬼や妖しとみなされて下手をすればその命すら危なくなりかねない。人目につかぬように博雅は日のくれるころまで貴船の社近くに身を潜めていた。時折人が通るがやはりみな小野清麻呂のように昔の装束だった。
 
やはり本当にここは過去なのかもしれないな…。
 
わずかに離れたところを粗末な水干を着た下人と思しき男が歩いてゆくのを見て博雅はそう思った。
自分の状況に気づいて驚いてからもうすでに何時間かが過ぎている。博雅は腕にはめられた薄い時計を見た。過去にさかのぼったからといって時計には何の変化もなくいつものように淡々と時を刻んでいた。
そうやって刻まれているのは過去かそれとも現在か。いや、この際、現在というは過去のことなのか…?
 
まったく、わけがわからん。こんなときに晴明がいてくれたらきっとふふんと鼻で笑って色々と説明してくれるだろうになあ。
 
そこまで思い至って博雅ははっと気づいた。
小野清麻呂がいたということはここが本当に過去の時間だとしたらそこには当時の晴明もいるはずだ。
今も昔もあれ以上に頼りになる陰陽師はただの一人もいない。博雅は目の前に一条の光が差し込んできたような気がした。
 
あれに会うことができればこれが本当のことなのか、それともただの妖しの見せたものなのかきっと確かなことがわかるはず。
 
よし、晴明に会いに行こう
 
博雅はそう心を決めると建物の影や物陰に身を隠しながら都へと降りていった。折りよくこの夜は月の出が遅いようだった。月明かりのない夜は人もあまり出歩かない。そのおかげで意外とすんなりと博雅は晴明の屋敷までたどりつくことができた。
風雨にさらされて色の褪せた晴明紋のついた門扉を妙に懐かしく感じながら博雅はその前に立った。
 
昔は俺が来ただけでこの門は自然とひらいたものだったが…。
 
少なからず不安を感じながら博雅は門扉に手を伸ばした。
 
開けてくれるだろうか…?
 
その指先がわずかに触れるか触れないうちに、それはぎいい…ときしんだ音を立てて博雅を迎えるように開いていった。
 
 
ぎしっ…。
床のきしむ音にも顔を上げずに晴明は書き物机に向かったまま声をかけた。
 
「なんだ、博雅、今日は直居だからこれないと言ったのではなかったか?」
 
さらさらと流麗な文字を連ねながら晴明はそう尋ねた。
 
「…せ、晴…明…」
 
蚊の鳴くような小さな声。筆を滑らす手を止めて晴明はようやく博雅のほうを振り向いた。
 
「どうした?そんな情けない声を出して…」
薄暗い部屋の入り口に立つ博雅の姿に晴明の声が立ち消えた。
切れ長の瞳をさらに細めて晴明は突っ立つ博雅を見つめた。
「誰だ?」
「俺だ…博雅だよ」
体の両脇に下げられた手がぐっとこぶしに握られる。
「…どこの妖しだ。よく俺の結界に入ってこれたな。」
博雅と名乗った言葉を軽く無視して晴明は冷たい目で言った。
「ち、違う!俺は本当に…!」
「どこのどいつかは知らぬが、俺の大切な博雅に化けるとはいい度胸だな。」
すいと立ち上がって晴明は博雅に近寄った。その頬をするりと冷たい指先でなでると博雅の顔を覗き込み
「ほう、顔は瓜二つだな。いったいどうやったのだ?俺でなければ間違えても仕方がないくらいにそっくりだ。」
そうやさしく言った。
「だから俺は本当に博…」
「うそをつけ!誰が見てもそっくりだがお前は博雅ではない。わずかだが何かが違う。」
博雅の胸元をぐいと掴みあげて晴明は厳しい目で博雅をにらみつけた。
「俺は…」
「さあ、俺の屋敷に博雅とそっくりになって潜り込んでなにをしようとしていたのだ?返答しだいではその存在をこの世から消すことにためらいはないぞ」
さらに掴みあげられて博雅の足先が宙に浮く。気管を締め上げられて博雅は苦しげに咳き込んだ。
「がふっ…!や…、やめてくれっ!晴明!ほ、本当に…俺なのだっ!」
「まだ言うかっ!」
ぎりっとさらに首が絞まった。
「た…確かに…この時代の俺では…ないっ…俺はち…違う時代から…きたのだっ…!」
こんな凶暴な晴明を妖しに作れるわけがない。博雅は妙なことで本当に過去にとんだのだと確信してそう言った。
「いろんな言い訳があるものだな。そんな馬鹿な話を俺が信じると本気で思っているのか?」
馬鹿にしたように晴明は冷たく笑った。
「ほ、本当だっ!」
どんどんと締まってくる首に博雅はもしかしたら俺の最後は晴明に殺されることで終わるのかと思えてきた。
 
その時。
「なにをやっておるのだ、晴明?」
ゆったりと柔らかな声が少し離れたところからかかった。 
そう言って灯明の投げかけるほのかな光の輪の中に姿を見せたのはまさしくこの時代に生きた博雅。
 
「博雅」
もう一人の博雅をぎりぎりと締め上げながら晴明はそちらの方を振り返った。
「おっと、すまない客人であったか?」
晴明の前に誰か居るのに気づいて博雅は申し訳なさそうに言った。
「いや、客人ではない。我が屋敷にもぐりこんだ妖しさ。」
「妖し?」
博雅の眉がきりっと顰められた。
「いや…妖しではないかもな。ただの賊かもしれない。どちらにしろ我が屋敷に不法侵入したのに違いはないがな。」
晴明の目が冷たく現代の博雅を見つめた。
「ぐうっ…」
さらに首が絞まって博雅は頭の中がぼうっとしてきた。死なないまでもこのままでは気を失いそうだった。気を失ってそこらに放りだされたら元の時代に戻る手立てがなくなってしまうかもしれない。博雅は首にかけられた晴明の手を離そうとその手に爪を立てた。
「つっ!」
その痛みにわずかに晴明の手の力が緩んだ。
「は、離せっ!晴明っ!」
その隙に博雅は力の限り叫んだ。
 
どこかで聞き覚えのある声。
 
直衣姿のほうの博雅が思わず晴明に言った。
「お、おい!晴明、いったい誰を捕まえておるのだ?」
そっちのほうの博雅からは晴明の体の陰になってもうひとりの博雅の姿がみえないらしい。くいっと首を伸ばして晴明が捕まえている人物の顔を覗き込んだ。
 
「わっ!」
 
その目が驚きに見開かれる。
「お、俺がもう一人!?」
絹ずれの音を響かせて二人の方へと駆け寄る博雅。
「せ、晴明っ!なんで俺がもう一人いるのだ?」
現代からやってきたほうの博雅の顔をまじまじと見つめて驚きを隠せぬままに聞いた。
目の前で晴明に捕まえられて身動きもかなわすにいるのは間違いなく時折鏡にうつる自分の顔だった。その目がもう一人の博雅の姿をまじまじと見つめた。
見たことのない服装をした姿。
何かの皮で作ったらしい筒袖の衣に、毛織物のようなよくわからぬからだにぴたりとした下衣。腰から下には指貫ににていなくもないが麻かなにかでできたあまり着心地のよくなさそうなこれも体にぴたりとしたものを履いている。
おまけになんだこの頭は。
せっかくの黒髪をばさりと短く切っておまけに折烏帽子すらかぶっていない、いくらなんでもこれはないだろう。
 
と、急にぽんっと手を打って
「あ!わかったぞ!こいつは晴明、お前の出した式だな?」
そういうとほっとしたように肩の力をぬいた。
「びっくりさせおって。また、おぬしに言いように笑われるところだった。道理で変な格好をしている。」
ジャケットのジーンズの短髪の博雅を見て納得したように言った。
「手の込んだ驚かせかたをしおって。」
晴明の肩に手を置いてそこにほうっと頭を押し付けた。
「もう十分驚いたからそれを元の形代にもどしてしまってくれよ。ほんとに悪いヤツだぞ、晴明。」
顔を上げ、困ったように笑うと博雅はひらひらともう一人の博雅に向かって手を振った。
「せっかく直居を途中で抜け出して旨い酒を持ってきたのだ。そんなの片付けて一緒に飲ろう」
 
「悪いが博雅、これは俺の出した式ではない」
晴明が静かに言った。
「えっ?」
弊子を手に濡れ縁へと向かいかけた博雅の足が止まった。
「式ではないと?」
「ああ。とにかく俺の手によるものではない。」
もう一人の博雅をもう一度締め上げる。その手につけられた爪あとからじわっと血がにじみ出ていた。
「ではそれは…いや、そいつは一体なんなんだ?」
「だ…だから本当に博雅だと…い、言っているではないかっ!」
この時代の博雅に未来からやってきた博雅が言った。
 
「目の前に本物が居ると言うのに一体いつまでそれを言い続けるのだ?」
晴明の目がぎらりと凶暴な光を宿した。
「俺を、いや、俺たちを愚弄するにもほどがあるぞ。」
「ぐ、愚弄などしていないっ…離して…くれれば…せ、説明するっ…」
「だめだ、このまま説明しろ」
「い、息ができない…た、頼む…お、下ろしてくれ…」
額に汗を滲ませ酸素を求めて口をあえがせながら博雅は言った。
その顔に閨の中での博雅の面影が浮かぶ。晴明は苦りきった表情になった。
 
なんだ、こいつ?まるで博雅ではないか…。気に入らぬ。
 
「晴明、離してやれよ。たとえ妖しだろうがそうも締め上げられていては話もできぬだろうよ。」
博雅が間に入って言った。
「おまえも逃げはせぬだろう?…自分に言ってるようでなんだかへんな感じだなあ」
そう言う博雅にもう一人の博雅はこくこくと必死でうなずいた。
 
やっぱり俺って昔も今もかわらず頼りになるやつだ。晴明の冷たさを補ってあまりあるぞ。
 
苦しい中から、過去の自分を誇らしげに博雅は見た。
 
 
晴明の屋敷の濡れ縁。
目の前に座す二人をジャケット姿の博雅は少々複雑な思いで見つめていた。
白い狩衣に身を包んだ美貌だが今は仏頂面の晴明と、その隣にゆったりと構えて座っている直衣姿の過去の自分。
わずかに袖先が触れ合うほどの距離を置いて並んで座る二人は何も言わなくても通じあっているのが手に取るようにわかった。
 
「では話を聞こうか?」
晴明に代わってそうやさしく尋ねたのは他の誰でもない過去の自分だった。





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