時の狭間(2)




 
「では話を聞こうか?」
晴明に代わって博雅が尋ねた。
「俺…いや、私は…本当に源博雅なのです。」
まだ言うか、と氷のように冷たい視線を飛ばす晴明の方をちらりと見ながら、未来から来た博雅は話を切り出した。
「こら、晴明そう睨むでない。」
博雅が晴明のひざをぽんと叩いて咎めた。
「ふん」
博雅が止めるから仕方がなく黙っているのだ、といわんばかりに晴明は鼻を鳴らした。困ったやつだとその晴明を横目で見るこの時代の博雅。視線を元に戻すと自分より少しばかり若い相手に言った。
「しかし、俺も間違いなく源博雅だぞ。俺にはおぬしのようにそっくりな親族などいないはずだが…?」
「そうです、この時代の博雅は私…というかあなただけで間違いはありません」
「この時代?」
「そう…私はその…信じられないかもしれませんが…というか自分でも信じられないんだけど…遠い未来から来たあなたなのです。」
「ハッ!なにを言うかと思えば!」
博雅の今の言葉に晴明が馬鹿にしたように笑った。
「本当だ!晴明!」
博雅は必死になって言う、どうしてもここで晴明に信じてもらわなければならなかった。
「俺の博雅の名を騙るにせものに呼び捨てにされるいわれはない!」
晴明はパッと目の前に二本の指を立てるとすばやく呪を唱え、その指先を博雅に剣の切っ先のように向けた。
「急急如律令!妖しよ、その正体を現すがいい!!」

「やめろっ!晴明っ!」
「よ、よせっ!」
二人の博雅が同時に叫んだが晴明の呪は止めるまもなく、発動した。
「うわあああっ!」
全身の神経が焼ききれるかと思うほどの激痛が博雅を襲った。まるで高圧電流が流されているかのようだ。博雅はその場にくず折れて体中を襲う苦痛に身を捩った。
「ぐうううっ…!」
両腕を自身の体にまわして激痛に耐えようとする博雅。額から汗が噴出しているのに、その顔面はどんどんと血の気を失ってゆく。
「なんてことするのだ!やめてやれ!このものはまだ何も悪さをしておらぬではないかっ!」
その苦しみように思わず晴明に向かって声を荒げる博雅。
「お前に化けた上に俺を呼び捨てにした。それだけで十分だ。そこらの妖しならば俺のこの呪からは逃れることなどかなわないはず、見ていろ博雅、今に本当の姿を現すぞ。」
晴明は止める博雅に冷たい笑みを見せた。
「せ…晴明っ!お前って…ほ、本当に今も昔も…疑り深い…やな野郎だっ!!」
体を覆う激痛に冷や汗を滲ませながら現代の博雅が悪態をついた。
「ほら、見ろ、博雅。この口の悪さ。決しておまえなどではないぞ」
晴明がにやっと笑って博雅をふりむいた。
「…そんなことはないぞ。…実は俺もたった今おんなじことを思った…。」
博雅は申し訳なさそうに言った。
「まあ、この者ほどはっきりとは思わなかったけれどな、でも、本当にもうやめてやれ。あまりにつらそうではないか」
自分よりいくらか年若く見える、自分とそっくりな男を不思議なものを見るような目で見ながら、博雅はもう一度晴明を止める。
「だめだ、こいつが本当の正体を現すまではこの呪を止めるわけにはゆかないな。それしても、なかなかにしぶといやつだ。…では、これでどうだ?」
晴明はさらに強い力の呪を唱えた。

「わあっ!や…やめろっ!!」
さらに激しい神経の痛みに博雅はその背を仰け反らせた。
「こ、こら!やめろ、晴明!
そのとき、博雅のジャケットの内側からすとんと落ちてきたものがあった。
「なんだ?」
ぎりぎりと博雅を呪で締め上げる晴明の足元に転がってきたものをもう一人の博雅が拾った。

「これは…!」

手にしたものを見て、その博雅は思わず声を上げた。
「晴明!今すぐその男を呪から開放しろ!」
「だめだと言ったろう、あともう少しではないか…」
晴明は博雅の言葉を無視して言った。
「そのものは妖しなどではない!晴明っ!」
そう言うと博雅は、印を結んだ晴明の手をむりやりふりほどいた。
「なにをする、博雅っ!」
晴明の術が止まった。
「あれは俺だ!」
晴明の腕を捕まえたまま博雅が言った。

「だから…言ったじゃ…ないか…」
その言葉に、蒼白な顔に苦笑いを浮かべるもう一人の博雅。
「く…う…っ…」
が、ゆっくりとその瞳が反転し
、ドサリと体を投げ出して現代の博雅は気を失ってしまった。
「ちっ!気を失ったか。」
再び印を結ぼうとする晴明を制して、直衣姿の博雅が言う。
「だから、やめておけと言っておろうが。そいつはたぶん…間違いなく…俺だ」
「それはどういうことだ?」
印を結ぶ手を止めて、お前までたぶらかされたのか、と晴明は心配げな目を自分の想いびとである男に向けた。
「心配ない、俺は彼にだまされて言っているのではない。これを見ろ、晴明」
そう言って、博雅は手にしたものを晴明に見せた。
その手にあるのは一本の黒い竜笛、吹き口には鮮やかな朱色と緑の二つの葉…。

「葉二?」

博雅が手にしていたのは間違いなく、博雅が朱呑童子より譲りうけた、あの鬼の笛であった。普通の笛とは違う、独特の妖気が漂っている品である、さすがの晴明も間違えようがなかった。
「そう、間違いなく葉二だ。」
そういうと博雅は自分の懐に手を入れた。

「…そして、ここにももうひとつ」
晴明の目の前に二本の葉二が並んだ。
「まさか…」
めったに驚くことのない晴明の目が見開かれた。
「まさかとは思うが…やっぱり、彼は本当に俺のようだな…」
ふたりは、ぐったりと倒れ伏しているもう一人の博雅を見つめた。



 
「う、う…ん…」
 
「おっ、気がついたか?」

自分を覗き込む烏帽子をかぶったもう一人の自分に、うっすらと目を開けた博雅は大きな声を出して飛び起きた。

「わああっ!!」
かけられていた衣を蹴飛ばし、思わず後ずさった。後ろで几帳が、ガターン!と派手な音を立ててひっくり返った。
「おいおい、自分と同じ顔を見てそんなに驚かずともいいだろう」
烏帽子をかぶった直衣姿の博雅が苦笑した。
「こ、ここは…?」
あたりをっきょろきょろと見回す博雅、揺れる灯火、直衣に身を包んだもう一人の自分…。
 
「ああ…やっぱり夢じゃなかった…」

ようやく回りの状況を思い出した博雅は思わず頭を抱えた。
「現(うつつ)で悪かったな。」
背後で晴明の声がした。
図らずも博雅の体がびくっ!と反応した。懐かしいからとかではなく、さっきの激痛を体が忘れていないからだ。
「せ、晴明…」
思わず身構えながら振り返った。倒れた几帳の向こうに晴明の白い狩衣姿があった。
「ふん…本物の博雅であるならそう呼ぶのも仕方がないというものだな。」
口元を桧扇で隠して博雅を見下ろしてはいたが、その目は先ほどまでとはずいぶんと違っていた。
「ようやく、わかってくれたのか…」
博雅の体から力が抜けた。
「よかった…」
ほっとしてこうべをたれる博雅の前に回り、その前にひざを折る晴明。

「だが、なぜ同じ人間が二人もいるのだ、しかもお前は遠い先の世から来たという。どういうことだ?」
と、晴明が尋ねた。
今度は本当に話を聞く気になっているようだった。


 
「俺は、こっちの博雅の遠い未来での生まれ代わりなんだ。」
「生まれ代わり?」
晴明と並んで座したこちらの世界の博雅が、思わず身を乗り出した。
「そう、ずっとずっと先の世の。」
「ふむ、仏教の世界観では生まれ代わりも別段、珍しいことではない。今の世ですら、昔の世の生まれ代わりだと言う連中がぞろぞろいるくらいだからな。しかし、だからと言って生まれ変わった人間と、その過去の本人が出会ったという話は聞いたことがない。いったい、どうやって先の世の博雅がこんなところにいるのだ?」
晴明は、博雅の言葉を聞いても大して動じることもなく尋ねた。さすがに稀代の陰陽師である。
「それが、俺にもよくわからないんだ…、貴船の山で葉二を吹いていただけだったのに、いつの間にかこの時代に飛ばされてしまっていたんだから。」
「貴船?そこで葉二を吹いたのか?」
晴明が眉を寄せて聞き返した。
「ああ。あっちだと、そこかしこに人ばかり多くて一人で笛を吹く場もままならなくって。久しぶりに秋の紅葉の中で思うままに葉二を吹きたくて、貴船の山の中に入ったんだ。」
未来の世界から来た博雅の話に、こちらの博雅が驚いたように聞く。
「そんな山に入らなければ、自由に笛もふけないのか、そっちは?」
「自分の屋敷の中でぐらいなら、大丈夫なんだけどな。景色のよいところで吹いたりすれば、何かの見世物とでも思われて、あっというまに人だかりができてしまうよ」
「人だかりだって?まさか。」
信じられぬと、こちらの博雅は首を振る
「いや、悲しいかな本当のことだよ。何しろ京の都は、今頃は人であふれかえっているからなあ」
「あふれかえるとは、おおげさな」
「大げさではないさ。京の都は世界に名だたる景勝地だ。今の時期だと、世界中から人が集まってくると言っても過言ではないよ。」
「世界中だって?では、唐などからもか?」
興味深々のこちらの博雅。
「ああ、唐どころか、世界の果てからまでも人が来る」
「世界の果て…?なんだかよくわからないが、凄いな…」
どこまでを果てと言うのかもわからぬままに、博雅はひとしきり感心した。
そんな博雅を横目に見て、晴明は話を本題に戻した。
「で、誰もいない貴船の山奥で、葉二を吹いたと言うのだな?」
「ああ、そうだ」
「その時、笛を吹く以外に、他に何かしなかったか?」
「何も」
ふるふると、未来から来た博雅は首を振った。
「ふむ…、では聞き方を変えよう。他に何か、起きなかった
か?」
「起きるだって…?あ!そういえば…」
博雅は、ハッとしたように声を上げた。
「急に、風が吹いたんだ」
「風?」
「ああ、俺の周りを、まるで錦の壁のように紅葉が渦巻いて…それがやんだら…」
「…あたりが、おかしくなっていたのだな?」
博雅の言葉を引き継ぐ晴明。
「…うん、そうだ…」
「それだな」
「と、言うと?」
「貴船の神にでも何かされたのかもしれない、ということさ」
「か、神だって?」
驚く博雅。
「ああ。おまえ、葉二を吹きながら、なにか願わなかったか?」
「願いなど…。何も思わずに、ただ吹いていただけだ。」
「本当に、何も考えていなかったのか?」
「考えたり、願ったりはしていなかったが…その…」
「その?」
先を促す晴明。
「昔のお前を、思い出していた…」
「俺を?」
「ああ。ただ、懐かしく思い出して…」
「ふむ…。おまえは願いをかけたつもりではなかったかもしれないが、どうやら、そう思われたようだな」
「まさか…」
「雅楽と願いごと…。捧げものだな、神楽だ。」
晴明は言った。
「そういうことか…」
傍で黙って聞いていた、こちらの博雅が呟いた。
「誰かがお前の願いを聞き届けたのだ。」
「お、俺は何も…」
あせる未来の博雅。
「まあ、そうあわてるな。まだ、神とも限らぬからな、何しろ葉二を吹いていたのは、社のあるところではなかったのだろう?」
「ああ、綺麗な泉こそ湧いてはいたが、ただの山の中だった」
「では神の仕業ではないかもしれない。まず、そこに行ってみなければなんともわからぬがな。」
そう晴明は言った。

「それにしても、よく晴明がここにいるとわかったな」
と、烏帽子の博雅。
「ああ。それは貴船の奥の宮で小野清麻呂殿をお見かけしたからだ。あの方がいるということは、ここには俺も晴明もいたはず。だから、ひたすらこの屋敷を目指して隠れてやって来たんだ。」
「不思議だな、普通、生まれ変わった人間は過去のことなどきれいさっぱり、忘れているものだというが、なぜお前はそんなことまで覚えているのだ?」
と晴明。至極もっともな疑問である。

「それは…」
未来の博雅は並んだふたりを見て口ごもった。
「それは?」
こちらの博雅が先を促す。

「俺たちは再び会う約束をして生まれ変わった者たちだったから。」
「俺たち?」
と、今度は晴明
「そう、俺と晴明…おまえだ。」
博雅は、白い狩衣に身を包んだ晴明を見つめた。
「まさか、お前がいたというその世には俺の生まれ変わりもいるのか?」
と晴明は少しばかり驚いて聞いた。
「ああ、今でも俺のそばに」
「なんと…」
と、今度は博雅。
「俺たちは永遠(とわ)にともに、と誓い合った仲だから」
博雅がきっぱりと言い切った。
そのせりふに、二人のやり取りを聞いていたこちらの博雅がぼっと赤面する。その隣で晴明が苦笑した。
「おいおい、ここでそんなことを言わないでくれないか。見ろ、博雅…いやこの場合はこちらの博雅だが…身の置き所がなくなっておるぞ。」
「ば、ばか!なにを言う、晴明!」
ますます顔を赤くしながら博雅は晴明をたしなめた。
「あ。すまない!もしかして…その…まだそういう仲では…。」
負けずに頬を紅潮させて、現代の博雅があせって言った。もしかして、自分はとんでもなくまずいことを言ったのではないだろうか。
「いや。それは問題ない。といっても、先ごろやっとそうゆう仲になったばかりだがな。」
にんまりと晴明が笑んだ。
「ば!ばか!言うでない!」
直衣の袖で顔を覆って博雅が怒鳴った。 
「それにしてもどうして俺の話を信じてくれるようになったのだ?」
と未来から来た博雅が尋ねた。
「さすがにこの世にこれは二つとないからな。」
と、晴明はことりと、博雅の前に二本の竜笛を並べた。片方の方がやはりはるかな年代意を経てきたせいもあってか漂う妖気が強いが、間違いなく同じ気を放つ妖しの笛。この世に、二つとあるはずのないものであった。
「あっ…。俺の。」
思わず手が出た。
「そっちは俺のだ。」
烏帽子の博雅が苦笑いをした。
「あ、すまん。本当だ。」
「なんだか、変な会話だな。」
「まったく」
と、もう一人の博雅。
そんな二人の様子を、面白い見世物を見るような目で晴明は見た。
「どうだ、今日今からじたばたしたところで何もできはせぬだろう。このような機会が二度とあるとも思えぬからな、今宵はゆるりと酒でも飲んでゆけ、博雅。」
そういって、晴明は、パンと手を打ち式神を呼んだ。
「ゆっくりって…。俺は元の時代に帰りたいのだ。そんなのんきに構えている暇など…。」
烏帽子の博雅よりいくらか年の若い博雅は、あわてたように身を乗り出した。
「今宵、いかほどがんばったところで何が今更、変わるものか。それに、暗い森の中に入っても手元すら見えなかろう。まだ明日、明るくなってから検分するほうがよい。あせるな、博雅。」
式に酒の用意をするよう言いつけると晴明はその場にごろりと横になった。その頭が直衣の博雅のひざに乗っている。
「な。」
紅い唇をにっこりと緩やかにカーブさせて自分の博雅を見上げた。
「な、ではない。俺のひざから降りろ。晴明。客人の前だぞ。」
またしても頬を赤くして博雅がたしなめた。
「よいではないか。こっちもあっちもお前には違いないだろ。」
桧扇で口元を押さえて晴明はククッと笑った。
「それはそうだが…なあ?」
こちらの博雅が困ったように未来からの博雅を見た。
「まったく…。今も昔も変わらない男だ。」
現代の博雅はあきれて、くるりと目を回した。
「どっちが今だか…クククッ」
年若い博雅の言葉に晴明がおかしくてならぬ、と笑いなら自分の博雅の頬に手を伸ばして触れた。
「こら。」
そんなじゃれあっているようにしか見えない二人に、もう一人の博雅は羨ましげにため息をついた。
「やってろ…」
二人に背を向けていまだ天高く蒼い月を見上げて葉二を構えた。
 
晴明…。
 
遠い未来にいるもう一人の晴明を想って葉二に息を吹き込んだ。月の光をまとった妙なる音色が空を駆け上ってゆく。
「ほう…。さすがに博雅だ…」
博雅のひざにすっかりと納まった晴明は感心していった。そして、しばらくの間、その笛の音色を目を閉じて聞き入っていた。
「博雅の膝枕で、もう一人の博雅の葉二を聞く…。贅沢だな。」
と、その時、頭上からもうひとつの音が流れ出した。こちらの世界の博雅が、もう一人の自分の吹く葉二の音色に感応して、もうひとつの葉二を吹き始めたのだった。
背筋がぞくりとする凄まじいほどの音が響き渡った。音量ではない、その音色が醸す清浄な気が、ほんのわずかの穢れも許さないのだ。
博雅が一人で奏でる葉二も、あたりを浄化させるという不可思議な力をもっているが、それが重なると、その力は二倍にも三倍にもなって、この世のものとも思えぬ凄さだ。あたりの空気がびりびりと痛いほどに澄んでゆく。人も妖しも息すらできぬほどの清浄な気、まさに神のための楽の音。
「なんという共鳴だ」
晴明はがばっと起き上がった。
「おい、博雅!」
目の前の博雅に声をかけたが返事もしない。目はしっかりと開いているのだが、その焦点は何にも合っていなかった。
「おい!」
もう一人の博雅にも声をかけたが、こちらも同様だった…完全に、気がリンクしてしまっていた。
「これはまずい…」
晴明は重なり合うこの世のものとも思えぬ調べに、その秀麗な面を歪めた。
 
「ふむ…これはどういうことだ?」
五重の塔の天頂で、その音色を聞きつけた者がいた。
 
一条戻り橋の向こうの晴明の屋敷あたりから聞こえてくるのは、間違いなく自分が博雅の譲った葉二の音色。…ただし、今宵のその音色は明らかにいつもと違っていた。
なぜなら、二つの音が重なっているから。この世にたった一つしかないはずのものが、なぜ二つ?
 
その者…人にあらざる京一の妖し、大江山の鬼王、朱呑童子は、その高い屋根からひらりとその身を翻した。
 
都のあちらこちらで、人ではない者どもが苦しげに、その身を捩じらせ、うなる。もしくは、人の目玉をすするのも忘れて、うっとりと忘我に浸っているが、その体はそのものも気づかぬうちに徐々に淡く消えはじめていた。
凶悪な鬼ですら、浄化する博雅の奏でる葉二の音色である。理由はわからないがそれが二倍になったのだ、その威力たるや、半端な妖しなどその場で昇天させてしまいかねないほどのものであった。
 
蒼い月明かりの降り注ぐ夜空からその都の様を眺め下ろして、朱呑童子はその柳眉を小さくひそめた。
どういう理由で、葉二の音色が倍になったのかを確かめなければ。このままでは、この都そのものが一晩できれいさっぱり浄化されてしまいかねない。
 あの稀有な魂の持ち主、源博雅が二人いるわけでもあるまいに。
 あの漢以外に、これほどの気を発することができるものがいるとしたら、そいつはいったい何者だ?
そして、これほどまでに葉二にそっくりな音色を響かせる竜笛がこの世にあるのか?
そいつを確かめ、それからとにかくこの音色を止めなければならない。
 
「闇もあってこその都だ。」
 
そうひとり呟くと、童子は晴明の屋敷へと夜の闇に消えた。
 
 
晴明の屋敷。
 
ゆすっても耳元で大きく呼んでも、二人の博雅は何の反応もない。うっとりと同じような表情で目を閉じ、まるで魂が共鳴し合っているように、寸分たがわず音色を重ねあっている。
「…まったく。このようなことになると予見できなかったとは。俺もうっかりしていたな。」
晴明は、ひとつため息をつくと、
「さて、どちらにしようか。」
と二人の博雅を見比べた。
直衣に烏帽子姿のいつもの博雅と、その博雅よりいくらか年若い未来から来たという博雅。変わった服装をしてはいるが、この博雅にはよく似合っていた。少しくせっ気のある短い髪が首筋の辺りで緩やかに波打っている。こちらの博雅より、ほんの少し華奢な感じだ。
 
「どうせ、元は同じ人間なんだが…。やっぱり後で知ったら、こっちの博雅が気を悪くするだろうな。」
少し残念そうにつぶやくと、烏帽子の博雅の腕をぐいっ、と自分の方に引き寄せた。力ずくで引っ張ったせいで、その口元から葉二が離れる。晴明は、まだ忘我の境地にいる博雅のあごを捉えると、その少し厚みのあるふっくらとした唇に、己の唇を押し当てた。
 
強引に、晴明の舌が博雅の唇を割って差し込まれる。葉二を吹いていたためか、少し熱を持ったように熱い博雅の舌に晴明のそれが絡みついた。
 
「…ん…っ…?」
 
ぼうっとしていた博雅の目に、生気が戻ってきた。
 
「んんっ!?…ん!んむむ…っ!!」」
我に返った博雅が、晴明の腕の中でじたばたと慌てふためいた、どうやら離せと言っているようだった。
とどめとばかりに、もう一度深く口づけて、ようやく晴明は博雅をその腕から解放した。
 
「な、なにをするのだ!突然っ!」
顔を真っ赤にして博雅が言った。
「なにが突然だ…。やっと、我に返ったか、博雅」
その博雅の頬を、ぴたぴたとたたいて晴明が苦く笑った。。
「わ、我に返るって…、俺は、どうにかなっておったのか?」
「もう一人のお前と共鳴して呆けておったぞ。とにかく、今は耳をふさいでじっとしておれ。」
そういうと、博雅の手を取ってその耳をふさがせた。また共鳴されたら面倒だ。
よく状況もつかめないようではあったが、とりあえず晴明の言うとおり博雅は自分の耳をふさいだ。
「さて、こちらはどうしたものか。」
未来から来た方の博雅は、まだその共鳴状態から抜けずに笛を吹き続けている。
「まさか、同じ手は使えぬしな…ふむ。」
こんなことなら、こっちに先に口付けとけばよかったな、とも思ったが、もう遅い。元は同じ一人の人間とはいえ、まさか目の前でその唇を奪うわけにもいかない。
 
葉二を引き剥がすだけで大丈夫か?
…いや、ここまで感応状態になっていてはそれくらいで戻るとも思えない。さて、どうする?
 
本物の博雅とわかった以上、二度と痛い目にはあわせたくはなかった。
 
「困っているようだな、晴明。代わりに我がやってやろう。」
 
濡れ縁で笛を無心に吹き続けるもう一人の博雅の前に、白い水干に身を包んだ見目麗しい男が、まるで蝶が羽を広げたように舞い降りた。
 
「朱呑童子!」
晴明がその名を呼ぶのとほぼ同時に、その強大な力を持つ妖しは、もう一人の博雅をその腕に絡め取り、葉二をその口から引き剥がすと、その瑞々しい若い唇に己の紅い唇を重ねた。
 
「童子どの!」
直衣の博雅も驚いて声を上げた。その博雅の方を向いて、ちらりと妖しらしくその唇の端に白くきらめく牙を見せて微笑む朱呑童子。
「これはこれは博雅どの。今宵の月は、まさに葉二にふさわしきよき月であったな。そなたの吹くその音色に引き寄せられてここまで来てみれば、我が愛しく想う者が二人。まこと、都とは奇なるところ。」
唇を離して朱呑童子が言った。その腕の中には、いまだ焦点の合わぬ目をした博雅。
「何を考えておる。…朱呑童子」
晴明が問う。答えは聞かなくてもわかっていたが。
「決まりきったこと。せっかく、愛しく想うものが二人になったのだ。理由は知らぬが、この男は博雅どのの分身とお見受けした。ここは、仲良く折半とゆこうではないか。なあ、晴明。」
にやりと童子が笑む。
「よせ…そいつは博雅ではない。」
無駄と知りつつ、晴明は言った。
「…ふっ。我にはそのような嘘など通じぬ。知っておろうに、晴明。とにかく、この博雅どのは我がいただく。」
そう言うと朱呑童子は、その腕にいまだ忘我にある博雅を抱きしめたまま、まるでかき消すように、その身を闇に消した。
「ここまで来たかいがあったというものだ、はははは…」
蒼い月明かりの差し込む庭に、朱呑童子の笑い声だけが残った。
 
「た、大変だっ!俺がさらわれたっ!」
と、博雅が慌てふためいて立ち上がった。
「やれやれ、遠い未来に生まれ変わっても、おまえがやっかいごとを引き寄せるのは何も変わらないんだな…」
晴明は、朱呑童子の消えた庭をあきれたように見つめて言った。
そのせりふに隣の博雅がむっとして、座ったままの晴明を見下ろした。
「俺が厄介ごとを引き寄せるだって…?なんだか今、むかっときたぞ。」
「仕方がないだろう、本当のことだ。」
至極当然のように晴明が言う。
「い、いったい、い、いつ俺が厄介ごとをひきよせたというのだ!」
わなわなと震える博雅。
「それこそ数え上げればきりがなかろう?」
ちらりと博雅を見て晴明がふふんと鼻で笑った。
「…せ、晴明っ!わわっ!」」
「はは。怒るな怒るな、本当のこととはいえ少し言い過ぎた。さて、それよりもう一人のおまえをどうしたものかな」
立ち上がって、湯気が出そうなほどかっかとしている博雅をその腕の中に抱き込むと、晴明はふむ…と考え込んだ。
「こ、こら!離せ!」
その晴明の腕から無理やり抜け出すと、博雅は傾いた烏帽子もそのままに晴明に言う。
「どうするって…助けるに決まっておるだろう。なにを考えることがあるのだ!」
その博雅に向かって、紅い唇を優雅にゆがめてにやりと笑うと晴明は言った。
「しかし、おれの博雅はちゃんとここにいるからなあ。あのもう一人のお前には悪いが、あいつが童子のところに行ってくれるほうが俺は恋敵が減って、大変助かる。」
「ばっ、ばかものっ!何を言うかと思えばっ!たっ、たとえ幾とせ過ぎようと、俺にはお前しかおらぬというのに!その俺を見捨てるのか、晴明っ!!」
とうとう、本気で博雅は怒ってしまった。
「ああ、わかったわかった、ゆけばいいのだろ…」
両手でまあまあと博雅をなだめながら、晴明はいかにもやる気のない声で返答をした。
「でも悪いがさっきも言ったとおり、もう夜も遅い。助けに行くのは明日にするぞ、博雅。」
「だ、だが…さらわれた俺はどうなるのだ!」
「朱呑童子どのは、そこらの妖しのように見境なくお前を食おうとはしないから大丈夫だ、命に別状はないのは、俺が保証する。」
「そ、それはそうだが…」
あの朱呑童子が、自分に危害を加えるなど考えられもしないが…。
本当に放っといていいのか、と、う〜むとうなったっきりになった博雅に、その傍らでひじを突いてごろりと横になった晴明は、心の中でつぶやいた。
 
命に別状はないが…まあ、貞操のほうは、保証できないな。
 
あの朱呑童子のことだ、無理強いはせぬだろうが、かといって、あの博雅にまったく手を出さずにすむとも限らないと思っていた。
 
 
 
 
 
さて、こちらは朱呑童子にさらわれた方の博雅。
「んっ…!」
い、息ができない…。その苦しさに、はっと我に返って博雅はぱちっ、と眼を開けた。
「ん…んんっ!?」
誰かが、横になっている自分の身体の上に覆いかぶさっている。その誰かの手が、両頬をしっかりと包み…そして、その誰かの唇が隙間なくぴったりと自分の唇に重なっていた。
 
「ん…んむっ!?」(キ…キス?)
 
だが、自分に触れるその唇の感触は慣れ親しんだ晴明のものではない。常と違うその感触に、博雅はカキン!と硬直してしまった。
 
「ん…んむむっ!?」(だ、誰だ?)
 
固まってしまって思うように動かない腕をようやくつっぱって、博雅は覆いかぶさるその人物を押しのけた。
「…ぷはっ!だ、誰だっ!?」
 「おやおや…つれないな、博雅どの。」
 そう言って、にんまりと微笑んで唇を離したのはこの都の妖しの総大将、朱呑童子。
透き通るほどに青白いかんばせに、女のように紅い唇。眦の切れ上がった冷たく美しい瞳。晴明と肩を並べるほどの美貌の妖しである。ただ、人である晴明とは違って、その両の耳はツンととがり、口元には微笑むと鋭い牙がきらりと光ったが。
長く尖った爪を持つ長い指先で、口づけに濡れた己の唇をすっ、と拭った。ぞくりと肌があわ立つほどの妖艶さ。
が、常人ならば目を奪われてしまうほどのその色気も、博雅のような天然には通じなかった。 
「しゅ、朱呑童子どのっ!?」
博雅は、がばっ!と起き上がって素っ頓狂な大声を出した。
「そのように大声を出さずともこんなに近くにいるのだ、聞こえておる」
秀麗な眉を、うるさそうにひそめる朱呑童子。
「え?あ!?ああっ!すいませんっっ!!つい、びっくりしてしまってっ!」
ばたばたと落ち着きない博雅、はっきりいって、さっきよりもさらに騒がしかった。
「まあ、落ち着かれよ、博雅どの。」
耳に思わず指を突っ込んで朱呑童子はいった。
 
目が覚めるなり、なんというやかましさだ。博雅どのは、こんなにも落ち着きのない男であったか?
 
一人で騒ぐ博雅に、これでは、色気のある雰囲気には当分、持ち込めそうにもないな、と小さく童子はあきらめのため息をついた。
「なにをそのようにあわてふためくのだ、博雅どの。そなたとはつい先日も、ともに笛を吹きあったばかりではないか。まるで久方ぶりに会ったかのような驚きようだの。」
そう何気なく童子は言ったのであったが、博雅にしてみれば奇しくもまさにその言葉のとおりであった。
遠い未来の自分の時代ではしょっちゅう会ってはいるが、こちらの世の童子とはまさに久方ぶり、実に一千年ぶりの再会である。びっくりするなというほうが無理というものでもあったし、ついでに言えば、未来から来た博雅はこちらの時代の博雅よりも確かに少々、落ち着きに欠ける性格でもあった。
同じ人間とはいえ、やはり生まれ変わった時代の息吹を博雅は確実に受けていたのである。…要するに、未来の博雅はなんだかんだ言っても、いわゆる「現代っ子」であったのだ。
先端をゆく時代の子らしく、こちらの博雅の頭の中は切り替えが早かった。

「そ、そうかあ…、この時代には、そういえばあなたもいらしたのでしたっけ。晴明とあなたがいれば、俺が未来に帰れる可能性はさらに高くなった、ということだ。」
ほんのさっきまで朱呑童子に口づけられていたこともすっかりと忘れて、博雅は希望にぱあっと顔を輝かせた。今はなにより、もとの時代に戻る可能性が、ほんの少しでも増えたことがうれしくてしかたがなかったのだった。
「博雅どの、いったい、そなたは何の話をしておるのだ?」
話の内容を掴みきれない朱呑童子が、戸惑ったように尋ねた。

「お願いします!どうか、お力をお貸しください、朱呑童子どの!」
「な、なんだ?」
真剣にきらめく瞳で博雅に詰め寄られて、朱呑童子はその美しい面に困惑の色を浮かべた。
「力にって…。いったい、何の力になれというのだ?博雅どのの分身の身で、そなたは何を望もうというのだ?」
分身の癖に何を言い出すのだと、朱呑童子は眉をひそめた。

変わった異国風の装束を身につけてはいるが、自分の目の前にいるこの博雅は、てっきり晴明の術によって二人に分かたれた分身だと、童子は思っていたのである。
「分身?俺…いや、私が?」
自分を指差して、博雅が聞き返す。
「違うのか?」
分身ではないのか?ならばなぜ、このように発する気がまったく同じなのだ、と童子は首をかしげた。別人ならば、自分がそれを見極められないはずがない。
「私は、分身でも式でもありませんよ。童子どの。」
そう言って、博雅は首を振った。
「…では、博雅殿がふたり、ということになるぞ。」
そんなことがあるものか、と童子は不審げに言った。
また最初からこの話をするのかと、少し疲れを感じつつ、博雅は今までの経緯を童子に語り始めた。
「童子どのは、お信じにならないかも知れませんが…」

 
人の世とは別の次元にある朱呑童子の広大な屋敷。それでも、月は人の世と同じように、妖しの屋敷の庭を蒼蒼と照らしていた。
その濡れ縁に円座を敷いて、二人は顔を見合わせていた、博雅と朱呑童子である。
博雅の話を、最後まで黙って聞いていた童子がようやく口を開いた。
「では、本当にそなたは、先の世の博雅どのにあられるのか?」
「はあ…、まあ。」
博雅は、疲れきった情けない声で返事を返した。
晴明のように締め上げたりしないで、黙って話を聞いてくれた童子の方が人間(?)ができているなと、その疲れた頭で、ぼんやりと思った。
目の前には朱呑童子が用意してくれた酒と酒肴が置かれてあったが、博雅は乾いた唇を潤す元気もなくぐったりと肩を落とした。
あまりに長い一日であった。時を超えていたときに時差があったのかもしれない、とすら思えた。
「なかなか、信じがたい話だな。我ら妖しの中にもいろいろな力を持った者はいるが、時を越えるほどの力など聞いたことがないな。…ふむ。」
童子は、何事か考えるようにその目を細めた。
「妖しの仕業ではないと、童子どのは思われますか?」
疲れきった体に鞭打って、博雅は身を乗り出した。
「うむ…、思うにこれは妖しではなく、もっと強い力だな…たとえば…そう、神に近いもの…。」
「神…、晴明も、そのようなことを言っていました…」
「だろうな…。そなた、貴船の山の中で葉二を吹いた、と申したであろう。そなたもよく知っているように、あの山には厳然としてお二方の神がおわす。だが、その神とて何もしないそなたを、急に時の彼方へ飛ばすような無謀なまねはなさらないだろう…、なにか他にも因があるはずだ。それがわからない限りは、元いたところに帰るのは…たぶん、難しいだろうな。」
「童子どのも、晴明と同じようなお考えなのですね…はあ…」
さらに、がっくりとうなだれる博雅。

その向かいで、玉でできた蒼い杯を持ち上げ、朱呑童子はひとくちコクリと酒を飲んだ。その杯の陰で、博雅には気づくことすらできぬほどの小さな笑みが浮かぶ。
 
これは、面白いことになった。うまくいけば、先の世から来たという、このもう一人の博雅は我のものだな。
 
晴明と、いつも博雅の取り合いをしては、一方的に負け続けている朱呑童子、杯を傾けながら、ぼうっと月を見上げている博雅に、その視線を投げた。

しかも、分身などという実体のないものではない、本物の生身の博雅どのときている…。 ここにいる博雅殿には悪いが、晴明とてうるさい恋敵が減ることに躊躇いはなかろうさ。
…利害の一致、というやつだな。
 
思わず緩みそうになる頬を、無理に心配げにゆがめて童子は博雅に声をかけた。
「大丈夫か?博雅どの。ずいぶんと疲れた顔をしているが」
わかっているくせに、たった今、気づいたような顔をして言った。
「あ?ああ…すいません、さすがに少し疲れてしまって…」
口もつけずに持っていただけの杯をことりと置いて、博雅は言った。今の童子の話で、疲れきった体がさらに鉛のように重くなっていた。
「ならば、今宵はここでゆっくりと休んでゆかれよ。そなたを晴明のところからさらった我が言うのもなんだが、何も心配せずともよい、きっと明日には、よい手も浮かぶであろう。な。」
「ありがとうございます、童子様…」
朱呑童子の、ある思惑にも気づかず、博雅は疲れた顔ににこりと笑みを浮かべて礼の言葉を言った。
 
 
「ふう…」
博雅は、童子が用意させた床に横たわり、香を焚き染めた衣を肩までかけると、大きく息をついだ。
庇の向こうに天高く、小さく月が見えていた。その蒼い光を、整った顔に受けながら博雅はひとりごちた。
「晴明…今頃、どうしているのかな…」
この世の晴明ではなく、遠い未来にいるもう一人の陰陽師を思い浮かべる。
時のかなたの愛しい恋人…。
博雅は、その人の端整な顔を思い浮かべて、じわりと涙を浮かべた。一人、衣にくるまっていると、恋人のあたたかな腕が恋しくてならない。
できるものなら時を飛び越えて、彼の人の元へと飛んで帰りたかった。
「うん…朱呑童子さまがおっしゃるように、きっと、明日にはよい手がみつかるさ…」
自分を納得させるようにそういうと、衣を顔までかけて博雅は目をつぶった。
 
 
さあて、では今のうちに、博雅殿にちょっとやそっとでは解けぬ、強力な呪をかけねばな…。
 
寝入る博雅を柱の影から見つめて、朱呑童子は、いかにも京一の最悪の妖しらしい笑みを浮かべた。
 
 

 
…そして、こちらは現代、二十一世紀の世である。

晴明は、難しい顔をして椅子に背を預けていた。机の上には、今日、熱中していたはずの古文献が開かれたままに放っておかれてあった。
晴明の柳眉が心配げに寄せられている。
 
「遅い…」
 
紅い唇の端に、タバコがかみ締められていた。部屋の中が紫煙でうっすらと煙っている。銜えていたタバコを、吸殻で山盛りになったクリスタルの灰皿に、ぐいっと無理やりねじりこむと、晴明は片手を挙げてぱちりと指を鳴らした。
夕暮れの迫り始めた部屋の片隅に、すいっ、と人影が立った。
「何か、御用でございましょうか。あるじさま」
白拍子姿の女、晴明の使う式である。
「うむ、博雅はまだ帰らないのか?」
「あい、いまだ、お帰りではございませぬ。」
「そういえば、紅葉がどうのと言っていたな。どこへ行ったか、おまえ、知っているか?」
「いえ、あっというまにお出かけになってしまわれましたので、聞く間もございませんでした。」
困ったように、式が言った。
「あいつめ、まさか夜まで紅葉狩り、というわけでもなかろうに。」
晴明は暮れ始めた空を窓越しに見上げた。
 「まったく、世話の焼ける男だ」
そうつぶやくと、ぱんっ!と手をひとつ打つ。そうやって合わせた指を複雑な印に結んだ。
切れ長の瞳を半眼に閉じて呪を唱える。
半分に閉じた晴明の視界に、うっすらとどこかの景色が浮かぶ。
見覚えのある社。
「やはり、貴船だな。」
晴明の思ったとおりである。博雅のことだ、人でごった返すところには行くはずがないだろう、と踏んでいた。
一人、うっとりと紅葉の中で微笑む博雅が目に浮かぶようだ。
「やれやれ…」
晴明は俺も心配症だなと思いながらも、博雅の姿を探して千里眼の視界をさらに広げた。
山道の細い道路の端に博雅の車が停まっているのが見えた。しかし、当の本人の姿が見えない。
「どこにいる?博雅。」
さらに強い呪を唱えて、もっと広範囲に視界を延ばしてみたが、それでも博雅の姿が見つからない。
 
「どういうことだ?…まさかまたトラブルか…?」
 
まさかな、と思いつつも、嫌な予感がぬぐえない。
大体、あの博雅という男はまさに然のトラブルメーカーなのである。犬も歩けば棒に当たると言うが、この男の場合『博雅が歩けばトラブルに当たる』と言ってもいいくらい、かなりの高率で何かに巻き込まれるのだ。…いや、むしろこの男がトラブルを呼んでいる、といった方が正しいのかもしれない。
今度は、千年の時を経てさらに霊気がグレードアップしている貴船の山の中である、なにが起こっても、おかしくはなかった。
 印を解き、ぱっと目を開けてからの晴明の動きは早かった。すぐそばにまだ控えていた式に、てきぱきと指示をだして出かける用意を整えさせる。
「いったい、今度は何に巻き込まれたんだ、あいつ…」

今日、何本目になるかわからないタバコを新たに銜えると、上着を手に晴明は部屋をとび出した。


 
 
すっかりと日もくれてしまった山の中、木の根や石ころで足元の悪い中を、晴明は小さな明かりひとつだけで苦もなく歩いていた。
普通の人間なら、その暗闇におびえて身動きもできないだろう、そのような霊気漂う森の中を晴明は平然とした顔で進んでゆく。
時々、木々の間に人ではない者の姿がちらついたり、何かの白い影が漂っていたりもするのだが、晴明はまったく意に介したそぶりすら見せない。そのようなどうでもよい雑魚など、眼中にないのだ。が、向こうの方はそうは思ってくれぬようで、中には晴明の後をひたりと追いかけてくるものもいた。このような山の中で久方振りに見つけた獲物に、その食指がうずうずとうごめいて我慢ができないらしい。
 
「ふん。…鬱陶しいな。」
 
ぴたりと足を止めるとくるりと振り返る晴明。後ろから後をつけていた異形の者たちも、ぴたりと止まる。
ひょろりと縦に、枯れ枝のように伸びた青黒い体をした妖しが、光のまったくない真っ黒な洞窟のような目で、じっと晴明を見つめていた。そのすぐ後ろには、三つの目を持った犬のような顔を持つ獣のような妖し、こちらは今にも飛び掛りそうな殺気を漲らせてその三つの目を赤くぎらぎらと光らせていた。どちらもこの世のものではない禍々しい気を放っている。その二匹が晴明に向かって卑しげに舌なめずりをした。
「ひひひっ!人じゃ人じゃ!」
犬の顔をした方がうれしげに、ぴょんぴょんと跳ねた。
「お…俺の…、ご…ごちそう…、あは…あはは…」
真っ黒な目をしたほうも、そのひょろ長い体を揺らして手を打つ。どちらもおつむの方はずいぶんとレベルが低そうだ。やれやれ、と晴明は小さく頭を振った。
 
「まあ、こいつらに博雅のことを聴いた所で、知っているわけもないだろうな。」
今にも飛び掛らんとしている妖しを前にしても、彼は全く動じるところがなかった。
「知性のかけらも感じられぬ。…時間の無駄だな。」
そういうと胸ポケットから二枚の呪符を指先で取り出し、小さく一言呪を唱えて二匹の妖しに向かってそれを同時に飛ばした。
ひゅん!と風を切って呪符が飛び二匹の額に、ぴたっ、と張り付いた。
「んにゃ?」
「なん…だ…?」
一瞬、きょとんとした妖したち、…が、次の瞬間。
ぶすぶすと、呪符がきな臭い煙を上げだし、ぼっ、と炎が上がった。その炎はあっという間に妖したちの体を舐めた。
「ウガアアアアッ!」
「ぎ…ぎやあああぁっ!」
断末魔の悲鳴を上げて、二匹の妖しがその場で蒼い炎に燃え上がる。
晴明は、ふんと鼻を鳴らすと炎に包まれた妖しを背に、また先へと進み始めた。
「…ひ…ひと、…く…食いてえ…!」
炎を上げながら、もう一匹よりも知性の低そうな細いほうが晴明に向かって懸命に手を伸ばす。知性のない方がこのような時、却っておのれの欲に忠実なものなのだろう。
「だから、鬱陶しいと言っているだろうが。」
晴明は、振り向きもせず片手を挙げて指を鳴らした。
「ひぎゃああああっ!!」
蒼かった炎が紅蓮に色を変えて燃え盛り、その妖しは、あっという間にその姿を炎の中にグズグズと消していった。
その最後の様子に、木々の中で身を潜めていたほかの者たちが「ひっ…!」と、小さく悲鳴を上げて闇の中に霧散していった。
 
「何の役にも立たぬのなら一々、出てくるな。俺は今、忙しいんだ。」
ちっ、と舌を鳴らして晴明は先を急ぐ。博雅の気配がどこにもないことが晴明をじりじりと苛立たせていた。
ほかの事であったなら明日の朝まで待つのだが、こと、博雅に関しては、ぐずぐずと夜の明けるのを待っているわけにはいかない。晴明はとるものもとりあえず、急ぎ貴船の山中へと、やってきたのだった。
それに、夜の方が昼の光の中と違って、この山の神とコンタクトするのに、いくらか垣根も低そうだった。
そこいらのどうでもよい雑魚な連中になど、聞くだけ時間の無駄というものだ。
神とコンタクトするのにもっともふさわしい気を放つ場を求めて、晴明は山の中を歩いていたのだった。
もし、本当に博雅が消えてしまったとしたら、それもまた、その気を放つ場所と関係が深いだろうと、晴明は推測していた。
それは事実ととても近い推測ではあったが、博雅が飛ばされてしまった場所が彼の予想を遥かに超えていたとは、この時、まだ晴明は気づいてはいなかった。
 
暗い森の中を晴明はゆく。ひそやかな夜の闇が、彼の周りに緩やかな渦のようにまとわりついていた。
先ほどまでの下等な妖しどもとは違う、何かの気配を感じ取って、晴明の足が止まった。
 
「ここだな…」
 
小さな泉が足元に湧き出しているのが、晴明の持つ小さな明かりに照らされて光って見えた。
 
他とは違う。
広い森の中にあって、ここだけが他とは違った清冽な気を放っている。さきほどの妖したちが、遠巻きにしてこちらを窺っているのがわかった。晴明も怖いが、この場所の浄化された霊気の方が、もっと、怖くて近寄れないらしい。
晴明は、あたりの暗闇に、じっ、とその切れ長の目を凝らす。
何かを探しているようだった。
 
「ふむ…」
 
しばらくの後、彼はひとつうなずくと、一本のもみじの老木に近寄り、その手のひらを年輪を経たその幹に当てた。
手のひらを幹に当てたまま、晴明はまぶたを閉じ、頭をたれてじっと動かない。ただ、その紅い唇からは、ひそやかに何かの呪が唱えられている。
静かな暗い森の中に、低く静かに晴明の声が流れてゆく。
遠巻きにしていた妖したちは、その呪の音調に、さらに遠くにその輪を広げていた。
 
「陰陽師じゃ。陰陽師じゃ…」
「ほんものの呪じゃ。」
「おう、おおう、怖い怖い」
「だが、人じゃ。食いたい…」
「おお、なんとうまそうな匂いだ…一口でよいから食いてえよ」
「俺はあの目玉をすすりたい、さぞや、とろとろで旨かろうぞ」
 
闇の中で、妖したちがひそひそと好きなことを言っているが、晴明は気にもしていなかった。
手のひらから伝わってくる何かの気に、やがて、その秀麗な眉がくっと顰められた。
夜目にも白い、その面を上げる晴明。
低い静かな怒りを含んだ、ぞっとするような声でこういった。
 
「おまえだな…」
 
風もないのに、老木の葉がざわりと揺れた。
 




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