「た、大変だっ!俺がさらわれたっ!」
と、博雅が慌てふためいて立ち上がった。
「やれやれ、遠い未来に生まれ変わっても、おまえがやっかいごとを引き寄せるのは何も変わらないんだな…」
晴明は、朱呑童子の消えた庭をあきれたように見つめて言った。
そのせりふに隣の博雅がむっとして、座ったままの晴明を見下ろした。
「俺が厄介ごとを引き寄せるだって…?なんだか今、むかっときたぞ。」
「仕方がないだろう、本当のことだ。」
至極当然のように晴明が言う。
「い、いったい、い、いつ俺が厄介ごとをひきよせたというのだ!」
わなわなと震える博雅。
「それこそ数え上げればきりがなかろう?」
ちらりと博雅を見て晴明がふふんと鼻で笑った。
「…せ、晴明っ!わわっ!」」
「はは。怒るな怒るな、本当のこととはいえ少し言い過ぎた。さて、それよりもう一人のおまえをどうしたものかな」
立ち上がって、湯気が出そうなほどかっかとしている博雅をその腕の中に抱き込むと、晴明はふむ…と考え込んだ。
「こ、こら!離せ!」
その晴明の腕から無理やり抜け出すと、博雅は傾いた烏帽子もそのままに晴明に言う。
「どうするって…助けるに決まっておるだろう。なにを考えることがあるのだ!」
その博雅に向かって、紅い唇を優雅にゆがめてにやりと笑うと晴明は言った。
「しかし、おれの博雅はちゃんとここにいるからなあ。あのもう一人のお前には悪いが、あいつが童子のところに行ってくれるほうが俺は恋敵が減って、大変助かる。」
「ばっ、ばかものっ!何を言うかと思えばっ!たっ、たとえ幾とせ過ぎようと、俺にはお前しかおらぬというのに!その俺を見捨てるのか、晴明っ!!」
とうとう、本気で博雅は怒ってしまった。
「ああ、わかったわかった、ゆけばいいのだろ…」
両手でまあまあと博雅をなだめながら、晴明はいかにもやる気のない声で返答をした。
「でも悪いがさっきも言ったとおり、もう夜も遅い。助けに行くのは明日にするぞ、博雅。」
「だ、だが…さらわれた俺はどうなるのだ!」
「朱呑童子どのは、そこらの妖しのように見境なくお前を食おうとはしないから大丈夫だ、命に別状はないのは、俺が保証する。」
「そ、それはそうだが…」
あの朱呑童子が、自分に危害を加えるなど考えられもしないが…。
本当に放っといていいのか、と、う〜むとうなったっきりになった博雅に、その傍らでひじを突いてごろりと横になった晴明は、心の中でつぶやいた。
命に別状はないが…まあ、貞操のほうは、保証できないな。
あの朱呑童子のことだ、無理強いはせぬだろうが、かといって、あの博雅にまったく手を出さずにすむとも限らないと思っていた。
さて、こちらは朱呑童子にさらわれた方の博雅。
「んっ…!」
い、息ができない…。その苦しさに、はっと我に返って博雅はぱちっ、と眼を開けた。
「ん…んんっ!?」
誰かが、横になっている自分の身体の上に覆いかぶさっている。その誰かの手が、両頬をしっかりと包み…そして、その誰かの唇が隙間なくぴったりと自分の唇に重なっていた。
「ん…んむっ!?」(キ…キス?)
だが、自分に触れるその唇の感触は慣れ親しんだ晴明のものではない。常と違うその感触に、博雅はカキン!と硬直してしまった。
「ん…んむむっ!?」(だ、誰だ?)
固まってしまって思うように動かない腕をようやくつっぱって、博雅は覆いかぶさるその人物を押しのけた。
「…ぷはっ!だ、誰だっ!?」
「おやおや…つれないな、博雅どの。」
そう言って、にんまりと微笑んで唇を離したのはこの都の妖しの総大将、朱呑童子。
透き通るほどに青白いかんばせに、女のように紅い唇。眦の切れ上がった冷たく美しい瞳。晴明と肩を並べるほどの美貌の妖しである。ただ、人である晴明とは違って、その両の耳はツンととがり、口元には微笑むと鋭い牙がきらりと光ったが。
長く尖った爪を持つ長い指先で、口づけに濡れた己の唇をすっ、と拭った。ぞくりと肌があわ立つほどの妖艶さ。
が、常人ならば目を奪われてしまうほどのその色気も、博雅のような天然には通じなかった。
「しゅ、朱呑童子どのっ!?」
博雅は、がばっ!と起き上がって素っ頓狂な大声を出した。
「そのように大声を出さずともこんなに近くにいるのだ、聞こえておる」
秀麗な眉を、うるさそうにひそめる朱呑童子。
「え?あ!?ああっ!すいませんっっ!!つい、びっくりしてしまってっ!」
ばたばたと落ち着きない博雅、はっきりいって、さっきよりもさらに騒がしかった。
「まあ、落ち着かれよ、博雅どの。」
耳に思わず指を突っ込んで朱呑童子はいった。
目が覚めるなり、なんというやかましさだ。博雅どのは、こんなにも落ち着きのない男であったか?
一人で騒ぐ博雅に、これでは、色気のある雰囲気には当分、持ち込めそうにもないな、と小さく童子はあきらめのため息をついた。
「なにをそのようにあわてふためくのだ、博雅どの。そなたとはつい先日も、ともに笛を吹きあったばかりではないか。まるで久方ぶりに会ったかのような驚きようだの。」
そう何気なく童子は言ったのであったが、博雅にしてみれば奇しくもまさにその言葉のとおりであった。
遠い未来の自分の時代ではしょっちゅう会ってはいるが、こちらの世の童子とはまさに久方ぶり、実に一千年ぶりの再会である。びっくりするなというほうが無理というものでもあったし、ついでに言えば、未来から来た博雅はこちらの時代の博雅よりも確かに少々、落ち着きに欠ける性格でもあった。
同じ人間とはいえ、やはり生まれ変わった時代の息吹を博雅は確実に受けていたのである。…要するに、未来の博雅はなんだかんだ言っても、いわゆる「現代っ子」であったのだ。
先端をゆく時代の子らしく、こちらの博雅の頭の中は切り替えが早かった。
「そ、そうかあ…、この時代には、そういえばあなたもいらしたのでしたっけ。晴明とあなたがいれば、俺が未来に帰れる可能性はさらに高くなった、ということだ。」
ほんのさっきまで朱呑童子に口づけられていたこともすっかりと忘れて、博雅は希望にぱあっと顔を輝かせた。今はなにより、もとの時代に戻る可能性が、ほんの少しでも増えたことがうれしくてしかたがなかったのだった。
「博雅どの、いったい、そなたは何の話をしておるのだ?」
話の内容を掴みきれない朱呑童子が、戸惑ったように尋ねた。
「お願いします!どうか、お力をお貸しください、朱呑童子どの!」
「な、なんだ?」
真剣にきらめく瞳で博雅に詰め寄られて、朱呑童子はその美しい面に困惑の色を浮かべた。
「力にって…。いったい、何の力になれというのだ?博雅どのの分身の身で、そなたは何を望もうというのだ?」
分身の癖に何を言い出すのだと、朱呑童子は眉をひそめた。
変わった異国風の装束を身につけてはいるが、自分の目の前にいるこの博雅は、てっきり晴明の術によって二人に分かたれた分身だと、童子は思っていたのである。
「分身?俺…いや、私が?」
自分を指差して、博雅が聞き返す。
「違うのか?」
分身ではないのか?ならばなぜ、このように発する気がまったく同じなのだ、と童子は首をかしげた。別人ならば、自分がそれを見極められないはずがない。
「私は、分身でも式でもありませんよ。童子どの。」
そう言って、博雅は首を振った。
「…では、博雅殿がふたり、ということになるぞ。」
そんなことがあるものか、と童子は不審げに言った。
また最初からこの話をするのかと、少し疲れを感じつつ、博雅は今までの経緯を童子に語り始めた。
「童子どのは、お信じにならないかも知れませんが…」
人の世とは別の次元にある朱呑童子の広大な屋敷。それでも、月は人の世と同じように、妖しの屋敷の庭を蒼蒼と照らしていた。
その濡れ縁に円座を敷いて、二人は顔を見合わせていた、博雅と朱呑童子である。
博雅の話を、最後まで黙って聞いていた童子がようやく口を開いた。
「では、本当にそなたは、先の世の博雅どのにあられるのか?」
「はあ…、まあ。」
博雅は、疲れきった情けない声で返事を返した。
晴明のように締め上げたりしないで、黙って話を聞いてくれた童子の方が人間(?)ができているなと、その疲れた頭で、ぼんやりと思った。
目の前には朱呑童子が用意してくれた酒と酒肴が置かれてあったが、博雅は乾いた唇を潤す元気もなくぐったりと肩を落とした。
あまりに長い一日であった。時を超えていたときに時差があったのかもしれない、とすら思えた。
「なかなか、信じがたい話だな。我ら妖しの中にもいろいろな力を持った者はいるが、時を越えるほどの力など聞いたことがないな。…ふむ。」
童子は、何事か考えるようにその目を細めた。
「妖しの仕業ではないと、童子どのは思われますか?」
疲れきった体に鞭打って、博雅は身を乗り出した。
「うむ…、思うにこれは妖しではなく、もっと強い力だな…たとえば…そう、神に近いもの…。」
「神…、晴明も、そのようなことを言っていました…」
「だろうな…。そなた、貴船の山の中で葉二を吹いた、と申したであろう。そなたもよく知っているように、あの山には厳然としてお二方の神がおわす。だが、その神とて何もしないそなたを、急に時の彼方へ飛ばすような無謀なまねはなさらないだろう…、なにか他にも因があるはずだ。それがわからない限りは、元いたところに帰るのは…たぶん、難しいだろうな。」
「童子どのも、晴明と同じようなお考えなのですね…はあ…」
さらに、がっくりとうなだれる博雅。
その向かいで、玉でできた蒼い杯を持ち上げ、朱呑童子はひとくちコクリと酒を飲んだ。その杯の陰で、博雅には気づくことすらできぬほどの小さな笑みが浮かぶ。
これは、面白いことになった。うまくいけば、先の世から来たという、このもう一人の博雅は我のものだな。
晴明と、いつも博雅の取り合いをしては、一方的に負け続けている朱呑童子、杯を傾けながら、ぼうっと月を見上げている博雅に、その視線を投げた。
しかも、分身などという実体のないものではない、本物の生身の博雅どのときている…。 ここにいる博雅殿には悪いが、晴明とてうるさい恋敵が減ることに躊躇いはなかろうさ。
…利害の一致、というやつだな。
思わず緩みそうになる頬を、無理に心配げにゆがめて童子は博雅に声をかけた。
「大丈夫か?博雅どの。ずいぶんと疲れた顔をしているが」
わかっているくせに、たった今、気づいたような顔をして言った。
「あ?ああ…すいません、さすがに少し疲れてしまって…」
口もつけずに持っていただけの杯をことりと置いて、博雅は言った。今の童子の話で、疲れきった体がさらに鉛のように重くなっていた。
「ならば、今宵はここでゆっくりと休んでゆかれよ。そなたを晴明のところからさらった我が言うのもなんだが、何も心配せずともよい、きっと明日には、よい手も浮かぶであろう。な。」
「ありがとうございます、童子様…」
朱呑童子の、ある思惑にも気づかず、博雅は疲れた顔ににこりと笑みを浮かべて礼の言葉を言った。
「ふう…」
博雅は、童子が用意させた床に横たわり、香を焚き染めた衣を肩までかけると、大きく息をついだ。
庇の向こうに天高く、小さく月が見えていた。その蒼い光を、整った顔に受けながら博雅はひとりごちた。
「晴明…今頃、どうしているのかな…」
この世の晴明ではなく、遠い未来にいるもう一人の陰陽師を思い浮かべる。
時のかなたの愛しい恋人…。
博雅は、その人の端整な顔を思い浮かべて、じわりと涙を浮かべた。一人、衣にくるまっていると、恋人のあたたかな腕が恋しくてならない。
できるものなら時を飛び越えて、彼の人の元へと飛んで帰りたかった。
「うん…朱呑童子さまがおっしゃるように、きっと、明日にはよい手がみつかるさ…」
自分を納得させるようにそういうと、衣を顔までかけて博雅は目をつぶった。
さあて、では今のうちに、博雅殿にちょっとやそっとでは解けぬ、強力な呪をかけねばな…。
寝入る博雅を柱の影から見つめて、朱呑童子は、いかにも京一の最悪の妖しらしい笑みを浮かべた。
…そして、こちらは現代、二十一世紀の世である。
晴明は、難しい顔をして椅子に背を預けていた。机の上には、今日、熱中していたはずの古文献が開かれたままに放っておかれてあった。
晴明の柳眉が心配げに寄せられている。
「遅い…」
紅い唇の端に、タバコがかみ締められていた。部屋の中が紫煙でうっすらと煙っている。銜えていたタバコを、吸殻で山盛りになったクリスタルの灰皿に、ぐいっと無理やりねじりこむと、晴明は片手を挙げてぱちりと指を鳴らした。
夕暮れの迫り始めた部屋の片隅に、すいっ、と人影が立った。
「何か、御用でございましょうか。あるじさま」
白拍子姿の女、晴明の使う式である。
「うむ、博雅はまだ帰らないのか?」
「あい、いまだ、お帰りではございませぬ。」
「そういえば、紅葉がどうのと言っていたな。どこへ行ったか、おまえ、知っているか?」
「いえ、あっというまにお出かけになってしまわれましたので、聞く間もございませんでした。」
困ったように、式が言った。
「あいつめ、まさか夜まで紅葉狩り、というわけでもなかろうに。」
晴明は暮れ始めた空を窓越しに見上げた。
「まったく、世話の焼ける男だ」
そうつぶやくと、ぱんっ!と手をひとつ打つ。そうやって合わせた指を複雑な印に結んだ。
切れ長の瞳を半眼に閉じて呪を唱える。
半分に閉じた晴明の視界に、うっすらとどこかの景色が浮かぶ。
見覚えのある社。
「やはり、貴船だな。」
晴明の思ったとおりである。博雅のことだ、人でごった返すところには行くはずがないだろう、と踏んでいた。
一人、うっとりと紅葉の中で微笑む博雅が目に浮かぶようだ。
「やれやれ…」
晴明は俺も心配症だなと思いながらも、博雅の姿を探して千里眼の視界をさらに広げた。
山道の細い道路の端に博雅の車が停まっているのが見えた。しかし、当の本人の姿が見えない。
「どこにいる?博雅。」
さらに強い呪を唱えて、もっと広範囲に視界を延ばしてみたが、それでも博雅の姿が見つからない。
「どういうことだ?…まさかまたトラブルか…?」
まさかな、と思いつつも、嫌な予感がぬぐえない。
大体、あの博雅という男はまさに然のトラブルメーカーなのである。犬も歩けば棒に当たると言うが、この男の場合『博雅が歩けばトラブルに当たる』と言ってもいいくらい、かなりの高率で何かに巻き込まれるのだ。…いや、むしろこの男がトラブルを呼んでいる、といった方が正しいのかもしれない。
今度は、千年の時を経てさらに霊気がグレードアップしている貴船の山の中である、なにが起こっても、おかしくはなかった。
印を解き、ぱっと目を開けてからの晴明の動きは早かった。すぐそばにまだ控えていた式に、てきぱきと指示をだして出かける用意を整えさせる。
「いったい、今度は何に巻き込まれたんだ、あいつ…」
今日、何本目になるかわからないタバコを新たに銜えると、上着を手に晴明は部屋をとび出した。
すっかりと日もくれてしまった山の中、木の根や石ころで足元の悪い中を、晴明は小さな明かりひとつだけで苦もなく歩いていた。
普通の人間なら、その暗闇におびえて身動きもできないだろう、そのような霊気漂う森の中を晴明は平然とした顔で進んでゆく。
時々、木々の間に人ではない者の姿がちらついたり、何かの白い影が漂っていたりもするのだが、晴明はまったく意に介したそぶりすら見せない。そのようなどうでもよい雑魚など、眼中にないのだ。が、向こうの方はそうは思ってくれぬようで、中には晴明の後をひたりと追いかけてくるものもいた。このような山の中で久方振りに見つけた獲物に、その食指がうずうずとうごめいて我慢ができないらしい。
「ふん。…鬱陶しいな。」
ぴたりと足を止めるとくるりと振り返る晴明。後ろから後をつけていた異形の者たちも、ぴたりと止まる。
ひょろりと縦に、枯れ枝のように伸びた青黒い体をした妖しが、光のまったくない真っ黒な洞窟のような目で、じっと晴明を見つめていた。そのすぐ後ろには、三つの目を持った犬のような顔を持つ獣のような妖し、こちらは今にも飛び掛りそうな殺気を漲らせてその三つの目を赤くぎらぎらと光らせていた。どちらもこの世のものではない禍々しい気を放っている。その二匹が晴明に向かって卑しげに舌なめずりをした。
「ひひひっ!人じゃ人じゃ!」
犬の顔をした方がうれしげに、ぴょんぴょんと跳ねた。
「お…俺の…、ご…ごちそう…、あは…あはは…」
真っ黒な目をしたほうも、そのひょろ長い体を揺らして手を打つ。どちらもおつむの方はずいぶんとレベルが低そうだ。やれやれ、と晴明は小さく頭を振った。
「まあ、こいつらに博雅のことを聴いた所で、知っているわけもないだろうな。」
今にも飛び掛らんとしている妖しを前にしても、彼は全く動じるところがなかった。
「知性のかけらも感じられぬ。…時間の無駄だな。」
そういうと胸ポケットから二枚の呪符を指先で取り出し、小さく一言呪を唱えて二匹の妖しに向かってそれを同時に飛ばした。
ひゅん!と風を切って呪符が飛び二匹の額に、ぴたっ、と張り付いた。
「んにゃ?」
「なん…だ…?」
一瞬、きょとんとした妖したち、…が、次の瞬間。
ぶすぶすと、呪符がきな臭い煙を上げだし、ぼっ、と炎が上がった。その炎はあっという間に妖したちの体を舐めた。
「ウガアアアアッ!」
「ぎ…ぎやあああぁっ!」
断末魔の悲鳴を上げて、二匹の妖しがその場で蒼い炎に燃え上がる。
晴明は、ふんと鼻を鳴らすと炎に包まれた妖しを背に、また先へと進み始めた。
「…ひ…ひと、…く…食いてえ…!」
炎を上げながら、もう一匹よりも知性の低そうな細いほうが晴明に向かって懸命に手を伸ばす。知性のない方がこのような時、却っておのれの欲に忠実なものなのだろう。
「だから、鬱陶しいと言っているだろうが。」
晴明は、振り向きもせず片手を挙げて指を鳴らした。
「ひぎゃああああっ!!」
蒼かった炎が紅蓮に色を変えて燃え盛り、その妖しは、あっという間にその姿を炎の中にグズグズと消していった。
その最後の様子に、木々の中で身を潜めていたほかの者たちが「ひっ…!」と、小さく悲鳴を上げて闇の中に霧散していった。
「何の役にも立たぬのなら一々、出てくるな。俺は今、忙しいんだ。」
ちっ、と舌を鳴らして晴明は先を急ぐ。博雅の気配がどこにもないことが晴明をじりじりと苛立たせていた。
ほかの事であったなら明日の朝まで待つのだが、こと、博雅に関しては、ぐずぐずと夜の明けるのを待っているわけにはいかない。晴明はとるものもとりあえず、急ぎ貴船の山中へと、やってきたのだった。
それに、夜の方が昼の光の中と違って、この山の神とコンタクトするのに、いくらか垣根も低そうだった。
そこいらのどうでもよい雑魚な連中になど、聞くだけ時間の無駄というものだ。
神とコンタクトするのにもっともふさわしい気を放つ場を求めて、晴明は山の中を歩いていたのだった。
もし、本当に博雅が消えてしまったとしたら、それもまた、その気を放つ場所と関係が深いだろうと、晴明は推測していた。
それは事実ととても近い推測ではあったが、博雅が飛ばされてしまった場所が彼の予想を遥かに超えていたとは、この時、まだ晴明は気づいてはいなかった。
暗い森の中を晴明はゆく。ひそやかな夜の闇が、彼の周りに緩やかな渦のようにまとわりついていた。
先ほどまでの下等な妖しどもとは違う、何かの気配を感じ取って、晴明の足が止まった。
「ここだな…」
小さな泉が足元に湧き出しているのが、晴明の持つ小さな明かりに照らされて光って見えた。
他とは違う。
広い森の中にあって、ここだけが他とは違った清冽な気を放っている。さきほどの妖したちが、遠巻きにしてこちらを窺っているのがわかった。晴明も怖いが、この場所の浄化された霊気の方が、もっと、怖くて近寄れないらしい。
晴明は、あたりの暗闇に、じっ、とその切れ長の目を凝らす。
何かを探しているようだった。
「ふむ…」
しばらくの後、彼はひとつうなずくと、一本のもみじの老木に近寄り、その手のひらを年輪を経たその幹に当てた。
手のひらを幹に当てたまま、晴明はまぶたを閉じ、頭をたれてじっと動かない。ただ、その紅い唇からは、ひそやかに何かの呪が唱えられている。
静かな暗い森の中に、低く静かに晴明の声が流れてゆく。
遠巻きにしていた妖したちは、その呪の音調に、さらに遠くにその輪を広げていた。
「陰陽師じゃ。陰陽師じゃ…」
「ほんものの呪じゃ。」
「おう、おおう、怖い怖い」
「だが、人じゃ。食いたい…」
「おお、なんとうまそうな匂いだ…一口でよいから食いてえよ」
「俺はあの目玉をすすりたい、さぞや、とろとろで旨かろうぞ」
闇の中で、妖したちがひそひそと好きなことを言っているが、晴明は気にもしていなかった。
手のひらから伝わってくる何かの気に、やがて、その秀麗な眉がくっと顰められた。
夜目にも白い、その面を上げる晴明。
低い静かな怒りを含んだ、ぞっとするような声でこういった。
「おまえだな…」
風もないのに、老木の葉がざわりと揺れた。
へたれ文へのご案内にもどります