「時の狭間」(3)



「おまえだな…」
低い怒りを含んだ声で晴明は言った。こちらは真夜中の貴船の山中である。
老木の葉がざわりと揺れた。
「おまえ、博雅をどこに隠したのだ…」
またしてもざわりざわりと葉が揺れる。
「返答しだいではおまえもさっきの妖しのように紅蓮の炎につつまれることになるぞ。」
晴明は内ポケットから先ほどとはちがうさらに複雑な呪の書き込まれた呪符を取り出した。細く長い二本の指先でその端をはさむと顔の前でかざし、目を半眼に閉じ呪を唱え始めた。
老木の下生えの草に、ぽっ、と小さな火が点った。1メートルばかりの円を描いて、その火がまるで線を描くように燃え広がって老木の周りに輪を作った。青い炎が照明のように樹を照らしあげる。
「十数える間にあいつを…、博雅を俺の前に返せ。ひとつ…」
眼に冷酷な光を湛えて晴明はゆっくりと数を数え始めた。
「ふたつ…」
 その時。
お…い…」
 
数を数え始めた晴明の耳に小さな声らしきものが届く。
はっと目を開け、身構える晴明。手にした呪符が晴明の力を受け、ボウッと金色の光を放った。その光に照らされた晴明が面前に呪符を構えたまま用心深くあたりを見回す。遠巻きに晴明を窺う妖したちがその強い視線に耐え切れぬのか、波が引くようにざわっと引いた。

こいつらであるわけなどない。

晴明の目が不審げの細められた。確かに何か…いや、誰かの声が聞こえたと思ったのだが。

(気のせいか…?)

ところが再び。
「お…い…、そこに…いるのだろ…う?」
 
また、聞こえた。今度は間違いようもなく、はっきりと。
「誰だ?」
晴明が誰何する。今度は背後の闇に向かってではなく、目の前の老木に向かって。
確かにこっちのほうから聞こえたのだった。
(もしや、こいつか?)
目の前の老木を見つめてみるが、どうやらこの木がしゃべっているわけではないらしい。人のようにも聞こえたが…。
周りを遠巻きにして様子を窺っている妖したちでもない。晴明は用心しながら問い返す、新たな別の妖しでないともかぎらない。
晴明は蒼い炎に照らされた樹の周りをゆっくりと回った。おとなしくはしているが、この老木は長い年月を経た妖しにはちがいない。何の目的があってかわからないが、博雅をどこかにさらって隠すほどの妖力の持ち主である、用心するにこしたことはない。
 
「ここか?」
さっきまで晴明が立っていたちょうど裏あたりの木のうろ。どうやらその中から、声はしているようだった。
「俺を呼んだのは誰だ…?」
決して、探している大切な恋人の声ではなかった。
 
やっと…気…づいたか…。鈍い…やつ…だな、ま…ったく…」
 
「なんだと…」
いきなり、馬鹿にするように言われて晴明の口の端が引きつった。
「いきなりな挨拶だな。誰かは知らないが、俺にそんな口をきくからにはちゃんとした理由があるのだろうな…」
ただでさえ機嫌の悪い今の晴明である。地を這うようなその声は地獄の獄卒も裸足で逃げ出しそうなほどだ。
が、その姿の見えない相手はそんな晴明の恐ろしげな声など、どこ吹く風といった感じで気にも留めなかった。
 
「すごむ…のは…結構だが…おまえ…誰かを…探しているの…で…はないの…か…」
 
「何でそれを知っている…?やはり、おまえ…この老いぼれた木の精なのか?」

「木な…んかと一緒にす…るな…。それより…俺の…声が…するとこ…に手を…」
「手を?」
木のうろを胡散臭げに見る晴明。
こんなところに手なんか入れられるか、といった目だ。博雅のことをさらって隠すような正体もはっきりせぬ妖しの樹、油断すればどんなことになるかわかったものではない。
「悪いがお前がどこの誰かもわからぬのに、そんな無用心なことはできないな。」
「俺が…こちらから…呪を…おくる…。おぬし…と俺…の呪を…同…調さ…せろ…」
晴明の言葉が聞こえなかったのか、小さく途切れ途切れではあったが、むこうがそういった。
「呪だと?」
呪という言葉に晴明が反応した。妖しは呪を恐れはするが使うことはない。呪を使える妖しがいるとしたら、それは朱呑童子くらいなものだ。
「五五土…竜神…竜穴…四方…」
うろから聞こえてくる途切れ途切れの呪に晴明の片眉がくいっと上がった。
「なぜ、その呪を…」
「慶忌…河伯…呼応…」
「…仕方がない…」
眉間に不審げな溝を刻んだまま晴明はすっと手をうろの中に入れると、あきらめたように口を開いた。
「玉歴招伝玉暦至宝頌…」
「玉歴招伝玉暦至宝頌…」
二人の唱える呪が夜の闇に低く響く。

「呪だ、呪だ…」
「逃げろ逃げろ…」
遠巻きにしていた妖物たちが強烈な力を放つ呪の音調にたまらず闇の中へ溶け込むように逃げ去っていった。

妖したちの逃げ去ってシンと静まり返った夜の闇に、今度ははっきりとした声が聞こえてきた。
『私の声が聞こえるか?』
「ああ。どこのどいつかは知らないがな。」
どこか聞いたことのあるようなその声に晴明は不機嫌な声で答えた。
「ずいぶん機嫌が悪いな、…晴明?』
,こもった笑いとともに名を呼ばれた晴明、その機嫌の悪い目つきがさらに険しく細められる。
「なぜ、その名を…?」
博雅と保憲様以外、彼を晴明とよぶものなど今のこの世にはいないはず。
「やっぱりおまえか。まったく…くくっ…。」
陰陽師らしく自分の名を呼ばれても返事などしない晴明に向かって、そんなことは先刻承知とばかりに、どこの誰とも知れぬやつが笑った。
「ちっ…」
片目を眇めて舌打ちをする晴明。
「…気に入らない野郎だ。」
そういってうろの中から外そうとしたその手を、声が引きとめた。
「まあ、待て。やっとおぬしと気がつながったのだ。怒りに任せてそれを断ち切るようなおろかなことはせぬことだ。」
「ふん、俺は怒ってなどない。あの呪を知っていたお前に興味がないわけではないがこの辺で失礼させてもらう。」
氷もかくやとばかりの冷たい言葉、怒ってなどいないとは口で言ってはいるが明らかに機嫌を損ねまくっている。が、どこか別のところにいるらしいその相手は、その怒りをさらに煽るようにおかしそうにまた笑った。
「くっくっくっ。なんと、気の短い。まだまだ若いな。なあ、博雅?」
「博雅だと!?」
見知らぬ相手の口から出たその名前に、晴明の片眉がぴくっと上がった。
「今、博雅と言ったか?」
聞き捨てのならないその名。
「ああ。言ったとも。」
「…そこにいるのか?」
晴明はたたみかけるように聞いた。その名の主を探して今まさにここにいるのだ。
「ふふふ、まあ,そうとも言えるかな。」
晴明の神経を逆撫でするように、からかうような笑いとともに相手が答えた。
「これ、晴明、そんなに向こうをからかうな。」
狩衣の晴明の横で博雅があきれたように首を振った。
「あっちのおまえと話をしてみろとは言ったが、けんかをしろとは言ってないぞ。」
「おっと、そうだったな。なにしろあんまり話しやすい相手とは言いがたいやつだからなあ。」
ちっとも悪びれる風もなく晴明は言って、傍に立つ博雅に楽しげな視線をやった。

『…おまえいったい誰だ?そこに博雅は本当にいるのか?』
何もない木の中から冷たくとがった声がする。

「やれやれ、短気だな、こいつ。」
晴明が博雅のほうに振り向いて苦笑いをした。
「こいつって…間違いでなければあっちも、おまえだろうが」
「ああ、いやなことにたぶん本当におれだろうな。なにしろ、あの呪を知っていたからな。」
「呪?さっきのか?」
「あの呪は特別なのさ、あれを知っているのは俺を除けば、兄弟子の保憲どのしかおられぬからな。この向こうにいるのが保憲殿の生まれ変わりでもない限り、俺しかおらぬだろうよ。」
そういって晴明は自分の手が当てられたところを見つめた。時を超えて気が繋がったらしいそこはまるで熱を持ったかのように熱くなり始めていた。
 
『誰だと聞いている、答えろ。』
晴明が手を置いた場所から、また声が割り込んだ。かなりいらだっているのか、晴明の手のひらに電撃のようにびりびりと向こうの気が伝わってくる。
「名乗ってみるかな?」
伝わってくる気に、やはりこれは間違いなく自分だと再度確信すると、晴明は博雅を振り返った。
「うむ、それがよかろう。あっちのお前と力を合わせたほうがうまく事が運ぶであろうしな。…でも、信じるかな?どうも俺たち、というか、お前のことを妖しかなにかと思っているのではないか?」
心配げに博雅は言った。
「この俺ほど人間ができていれば、大丈夫だろうが…まだ、年若そうな感じだから、どうだろうな?」
「俺ほどって…」
人の悪そうな笑みを浮かべる晴明に、おまえが言うか、と博雅は呆れた。
「誰だと聞いているのだ、答えろ」
再度、誰何してくる声に、博雅は黙って晴明にうなずいて見せた。

「俺はおまえさ。…晴明。」

「…なにを言っている…」
声のトーンがぐっと下がった。
「信じられぬか?だが、少し考えれば俺が本当のことを言っているのがわかるはずだ。…先ほどの呪、知っているのは我が兄弟子、加茂保憲どのと、そしてもう一人…。おのずと答えは出よう?」
しばらくの間。
「そうだ…あの呪は本来であれば一子相伝の秘中の秘。それを師である加茂忠行様が私にも特別にご伝授くださったものだ。お前が保憲殿でない以上…俺でしかありえない…。」
低さを保ったままの用心深い声が伝わってきた。その声に狩衣の晴明が苦笑して博雅のほうに向いた。
「ほらな、やはり俺だ。性格はいまひとつだが、話は早い。」
「そうだ…俺はおまえだよ。信じるかどうかはそっちの勝手だがな。」
再び時を超えた向こうにいる自分に話しかけるいにしえの晴明。
『もう一人の俺か…』
「ああ、そうだ。」
『…では考えられることはただひとつ…そこは…千年前の世界ということになるな。』
さして動揺もしていない声がずばりと今の状況を射抜いた。恐るべき洞察力である。常識では測りきれぬことでもこの男にとってはさしたる問題ではないらしい。
「千年か…そんなにはるか先なのか、そこは」
そう答えるこちらの晴明も、時を隔てていると未来の自分が理解したことに関してたいして驚きもしていないように博雅には見えた。
まるで間近にいるかのように淡々と言葉を交わす二人に、やはり、こいつらは同じ人間なのだと改めて思う。
千年もの時を経て、なお変わらぬ晴明…確かに性格はいまひとつ、素直とは言いがたいが。
『だが、何故博雅の気配が消えたところに千年前の俺がいる?』
「そいつも、ちょっと考えればわかるだろ?」
『…まさかとは思うが…』
未来の晴明が言いよどむ、どうやら心当たりがあったらしい。その言葉を後押しするように
「あの博雅だからな。」
狩衣の晴明が自分のそばにいる博雅をみてにやにや笑って言った。
「どういう意味だよ…」
ぷっと膨れる博雅。
『もしかしてそっちにいるのか…?』
「フフッ…悲しいかな、大当たりだ。」
『なんてこった…。厄介ごとに巻き込まれるのはやつの天賜の才とはいえ、まさか時を超えたか…。はあ。』
あきれたような声と、すぐその後に続く大きなため息。
「まあ、あれも悪気はないのさ。わかっているとは思うが。今度のことにしても、どうやら怪しげなモノに好かれた挙句のことらしいからな。」
あれって言うなよ、と横でゴニョゴニヨと博雅がまたしても愚痴る。
『怪しげなモノ…やはりこいつのことなんだろうな』
そういって晴明は青い炎に照らされた老木を見上げた。
「…お前もそう思うか…まだその時代にまで生き残っているとしたらこいつの仕業に間違いはなかろうさ、まだ若木のこちらでさえこいつからは妙な霊気がぷんぷんあふれてるからな。」
『たかが木の癖に。』
「きっとこの地を這う霊流の上にでも芽吹いたんだろうよ。」
『そんなところか。』
それにしても…。
「なにもこんなに山ほど植わっている中で、よりにもよってこいつの前で葉二など吹かなくてもなあ。」
『まったくだ』
二人の会話が漏れ聞こえている博雅の顔つきがみるみる変わってゆく。
「天のウズメじゃあるまいし、神仙の前で舞い踊ったようなものだ。」
『昔年の恋人に会いたいと願をかけてな。』
「無意識の神楽だ。』
『ばかなやつ。』
「ばかなやつ。」
二人の晴明がほぼ同時に呆れたように言った。
「ふ、二人いっぺんに、ばかって言うな!」
博雅がたまりかねたように大声を上げた。
 
 
「へ、へっくしゅん!」
盛大に博雅はくしゃみをした。
「おや、その衣では寒かったか?」
浅葱色の直衣に身を包んだ博雅に向かって朱呑童子が声をかけた。
「いえいえ。なんだか誰かが私の噂をしているような気が…」
くしゃみで赤くなった鼻をこすりながら博雅が言った。
「それより朱呑童子さま。よい天気です、さあ、ゆきましょう。」
暖かな日差しのような笑みを浮かべて博雅は言った。
「おお、そうであったな。では共の者に酒肴とうまい酒を持たせて参ろうか。」
この笑みはもう我のものだ。
「ええ。今日はさぞや大江山の紅葉も美しいでしょう。楽しみですね。」
「うむ、だがそなたより美しいものはないとは思うがな。」
我だけの。
「はは。なにを。私などお目汚しにしかなりませんよ。」
「そんなことはない。そなたこそどのような花より紅葉より我には美しい…」
この唇も。
「あ…。」
朱呑童子にあごをとられて博雅は口付けられた。何の抵抗もなく。
 
…寝入っている間に晴明のことも自分が何故ここにいるのかも、すべて朱呑童子の呪によってその脳裏から消し去られている博雅であった。
 
『で、今そこに博雅はいるのか?』
「いや…いるにはいるが…」
『いるのかいないのか、はっきりしろ』
イラッとした声。
「ここにいるのは俺の方の博雅だけだ。お前の博雅は、あー、その、…今は朱呑童子のところにいる」
ちょっと言いよどんだ。
『…なんだって…』
不気味に静かな声が聞き返す。
『なんで博雅はそんなやつの所にいるんだ…?』
「まあ、話せば長くなるんだが…要するに…ちょっとばかり攫われた」
苦笑いをしてこちらの晴明が言った。
『さ、攫われただとっ!?』
先ほどよりもさらに凶悪さを増した声が響く。
『いったい何をしていたのだ、お前は!博雅があんなのに掻っ攫われるのを黙って見ていたのか?』
「しかたがなかろう。なにしろ突然だったのだ。俺にも守らねばならぬ大事な想い人がおるのでな」 
『同一人物だろうが…』
苦りきった声で晴明は言った。夜の闇の中でその肩が大きく息をついで揺れた。
「まったく余計な事をしでかしてくれたな、この老いぼれめ」
そういってスーツ姿の晴明は暗い木立を見上げた。
「確かにお前に勝手に願をかけたあいつも悪い。だが、俺の恋人をとんでもないところまで飛ばしてしまったのは許せることではない。この責任はきっちりとってもらうぞ」
意思のないはずの木立が風もないのにザワッと葉を揺らせた。まるで晴明を恐れてでもいるかのように。

『そちらに行く』
その言葉を聞いても狩衣姿の晴明は驚かなかった。
「そうか、くるか…だが、どうやって?いくら陰陽師の我らにも時を超える術などないぞ。」
『こいつに責任を取ってもらうことにした』
「この木か?だがどうやる?」
『この木に意思を持たせるのさ。自分の意思で俺をそっちに送らせる』
「なるほど…神霊として目覚めさせようというわけか。だが、そんなことをして大丈夫か?時を超えるほどの力だ。意思をもって目覚めさせてわれらの手に余ったらどうする?危険だぞ」
『そんなことは百も承知だ、だがこのままでは博雅がこちらに帰れるかどうかもわからない。おまけに朱呑童子にあいつを横取りされるのは我慢がならん。』
時の壁よりも、あの千年越しの恋敵の方が気になるような口ぶり。
「それはそうだ。」
『なにがそれはそうだ、だ。もしそうなれば…それはお前にとっても本当は都合のよいことではないのか?』
その言葉に一瞬黙った古の晴明だったが傍らの博雅をみてふふんと笑った。
「…ばれたか」
『お前の考えることくらいお見通しだ、なにしろお前は俺だからな。』
「ちぇ。残念だな。」
『文句を言わずにちゃんと手伝え。』
「わかったよ」

そうやって時を隔てた二人の陰陽師は手を組んだのだった。






          さあ、ダブル晴明、うまく時を越えられるのでしょうか?

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