式に博雅のことを見ているように言いつけると、二人の瓜二つの陰陽師は白い衣を翻して屋敷を後にした。
そのころ。
神泉苑の広大な池の真ん中あたり。
月の光を鏡のように映す水面をわずかに揺らすこともなく一人の影がそこに立っていた。もちろん水面の上である。人には決して真似のできぬこと。
その腕に一人の男を軽々と抱き上げている。
「よい月夜だ。そなたを我が眷属に迎え入れるにふさわしい晩だ。」
そういって腕の中の顔を見下ろすのは朱呑童子である。
育ちのよさが現れた端整な顔に碧い月の光を受けて、その長いまつげがふるふるとわずかに揺れた。
「気がついたか…博雅どの」
「…んん…ど、童子どの…?」
至近距離から見下ろす童子に戸惑う博雅。が、さっきのことが蘇ってハッと目を開ける。
「ど、童子どの!私はあなたの仲間になる気は毛頭ありません…い、いくら愛しい方とはいえ、私は…」
「黙られよ、博雅殿。」
抵抗する博雅にも動じることなく朱呑童子はその唇に人差し指の先をピッと当てた。
「むぐっ…」
途端に口が開かなくなって言葉を失う博雅。おまけにその身も縛されたように指一本動かない。
「先ほども言ったであろう?そなたの意思などこの際関係ないのだと。今は嫌かもしれぬが年月が経つうちにやはり我の眷属となってよかったと思う日が必ずこようぞ。」
目を細めてククッと笑う。言葉には出さぬがその心のうちで晴明が年老いた後でもその若さを保った博雅と自身を思い浮かべて愉快な心もちになっていた。
「そなたをわが屋敷に連れ帰ってその身をじっくりと堪能してからと思っておったのだが…どうやら邪魔が入りそうなのでな。」
そういうと童子は懐から銀に光る杯を取り出した。
そして自分の手首にその鋭い犬歯でがぶりと咬みつく。
「…んんっ!?」
手首からつううっと流れ出す血に博雅は驚いて目を丸くした。
童子は血で染まった唇をほころばせると手首を杯の上にかざす。
パタパタッ…ッ
銀の杯が見る間に血に染まり童子の血を溜めてゆく。手首を伝わる血が童子の水干の袖までもを真っ赤に染めてゆく。
「さあ、わが血を…。」
杯の上に手をかざし篭もるような声で呪を唱えると朱呑童子は博雅の唇に向かって杯を捧げた。
「ん…んん…」
閉ざされた唇を自ら引き結んで博雅は首を振る。
「ああ…すまない、呪をとくのを忘れておったな。」
そういうと童子は血に塗れた唇から博雅の縛をとく呪を唱えた。
「い、いやです…童子どの」
瞳を潤ませて博雅は抗った。
「そうやって抵抗するところもなかなか趣をそそる…」
博雅のあごをとるとおとがいに力を込めて無理やり口をあけさせる、そのまま上を向かせてその口元に杯を傾けかけたその時。
「…いい加減になされませ、朱呑童子どの」
凛としたこえが響き渡った。
「やはり…来たか」
首だけを振り向けて童子が声のするほうに言った。
池のほとりに立つ白い影。
「空に蛮蛮の姿を見たと思ったらやはりおぬしか。あれは打ち落としたはずなのによくここがわかったな」
博雅をその腕に抱えたまま動じることもなく言う。
「あの鳥でなくとも色々と他にあなたの動向を知る手立てはありますからね。」
と、白い陰陽師が答えた。
「なかなかの手際だな、だが邪魔をしないでもらおうか、晴明。そなたにはもう一人の博雅どのがおるではないか。こちらのこの方を我の物にすればぬしとはもう争うこともない、万事丸く収まる。」
何のことです?と、戸惑う博雅を制して童子は言った。
「それにこちらの博雅どのはすでに我と恋仲だ。何の問題もない」
そういうと杯を手にしたまま博雅に口づけた。
「…んん…ん…」
途端に力がくたりと抜けてうっとりする博雅。童子の呪によって身も心もこの妖しの虜となっているため、たったひとつの口づけにも過剰に反応し、血に濡れた童子の唇をさらに追う。
「…あ…も…もっと…」
童子の背に自ら腕を回ししがみつく博雅。
「可愛いひとだ…続きは後で」
血に赤く染まった博雅のふっくらとした下唇をきゅっと親指で拭うと、朱呑童子は満足げに、含んだ笑いを洩らした。
「ばか…」
そんな博雅の様子に、池のほとりに立つ晴明が困ったように目をすがめた。
対岸の植え込みに視線を童子に気づかれぬように投げた。
怒るなよ…まだ、じっとしてろ…。
「ふふ…そうか、そなたには言葉で言うのではなく、こうやって肌を合わせて話しをするほうが早かったな。」
先ほどまで妖しの仲間となることを拒んでいた博雅が、我を忘れて自分に縋りつくのに気をよくして童子が言った。
「やはりその身を我のものにするが先だったな。まあ用意してしまったことだ、この際しかたがないか…」
そういって、ぽうっとしたままの博雅の顔をのぞきこむと、再び博雅の口に血に満たされた杯をあてがった。
「さあ、飲むがよい。我の血に特別な呪をかけた。本当ならば人の肝を食らってからのほうが確実なのだがな。」
今度はさしたる抵抗も見せずに博雅は素直に唇を開いた。
「童子どの!」
晴明が引き止める。
「止めるな晴明。おまえはそこで見ておれ。」
晴明を振り返りながら童子が言った。
「止めないわけにゆくか!」
バッ!とその童子の手を掴んだものがいた。
「…なっ!」
驚く童子。己の手を掴んだ者の顔を見上げて、もう一度驚いた。
今まで池のほとりにいたはずの陰陽師の顔がそこにあった。その足元には呪符により作られた見えない地が続き、彼のものを水没させることなくその水面に留まらせている。
「せ、晴明!?」
今見ていた方をもう一度振り返る。そこには確かにもう一人の同じ顔をした陰陽師の姿。
「ハ!よく似せたものだな!どっちが拠り代だ?」
掴まれた手を振り切ろうとして童子は言った、が、その白い手はがっちりと朱呑童子の腕を掴んで離さない。
「くっ!こちらが本物か!」
狩衣のそでから腕に書かれた妖し封じの真言の文字が見えた。
「さあ、どっちでしょうねえ」
童子のすぐ傍らからもうひとつの声。
池の端にあった晴明ももうひとりの晴明と同じようにして朱呑童子のすぐそばに迫っていた。
「さあ、童子どの、おふざけは終わりです。博雅をお返しください。」
腕を掴んでいないほうが至極穏やかな、が、きっぱりとした声で言った。
「…はは。これは面白い。…おぬしら、両方本物だな」
驚きから落ち着くと童子はすべて見抜いたように言った。
「…どうとでも…」
腕を掴んだほうが言った。その声には静かに怒りがこもっている。
「なるほど…こっちの晴明の博雅どのであったか…」
ぎりぎりと腕を締め上げる晴明に目をやる童子。
「事情はわかったが…ここまできて引き下がるなどこの都一を自負する我の沽券にかかわるな…」
バシュッ…!!
「わっ!」
「くっ…!!」
博雅を腕に抱えた朱呑童子のまわりを丸い泡のようなものが覆った。二人の陰陽師が弾き飛ばれる。かろうじて自分たちのつくった足場に踏みとどまり水の中へ落ちることはなかったがそれ以上先へは泡のごとき透明な壁が邪魔をして入ることはかなわなかった。
「確かにおぬしが二人もいたとは厄介だが…それでもおぬしらは人に過ぎぬ。我の敵ではない」
ニイッ…と笑う朱呑童子。その紅い唇の端から鋭い牙がぎらりと光る。
「やめろっ!童子!!」
普段激高することなどない晴明の怒号が飛ぶ。
「すまないな…ククッ…」
くたりとしたままの博雅の唇に朱呑童子の血が注ぎ込まれていった。
コクッ…。
博雅ののどがそれを嚥下するのがわかった。
「博雅っ!」
アキラであるほうの晴明が叫ぶ。
「…ぐ…があ…っ…」
喉を両手で押さえて博雅がその体を苦しげに反らせた。体がガクガクとおこりのように震えだす。
朱呑童子はただ笑って見ている。
「…あああ…っ…ぐあっ!」
博雅の目がぐるりと白く反転しその場にばたりと倒れ伏した。
「博雅!お、おのれ…朱呑童子っ!!」
切れ長の瞳に殺意を光らせてアキラが童子を睨みつける。バッと両手を組み複雑な印を立て続けに組むと真言を唱える。童子と博雅を囲む泡がバチバチと激しい光を放ちながら明滅した。
「おやおや、最強の陰陽師が本気を出したな。怖い怖い…だが、もう遅いな」
手にした杯をぽいと放る。
水面に落ちようかというそれを下を向いて苦しんでいたはずの博雅の手が人とも思えぬ素早さでパシリと捕らえた。
「…勿体ない…」
低い低い声。
「…なんてことだ」
晴明が呟く。
勿体無い、そう言った博雅が顔を上げた。
顔の色がいつもとは違う。透き通るように青白く、唇が異様に紅い。その紅い唇からこれもまた血のように赤い舌を突き出し、杯に残った童子の血をべろりと舐めとった。
「…はあ…」
満足したかのように大息をつくとその目が童子と二人の陰陽師に向けられた。
もう、いつもの穏やかな黒曜石の瞳ではなかった。獣のように光る金色の瞳。さらに驚きを隠せない二人の晴明の前で博雅の変化はさらに続いた。
唇の両端に見る間に犬歯が伸びてゆく。
烏帽子のない短かった髪がまるで早送りのように腰まで伸びその色を根元から変えてゆく。銀の波が襲ってくるように黒髪がざわざわと銀色に変わっていった。
「なんと美しい…これぞ我の博雅」
すっかりと変化してしまった博雅をその腕に絡めとると童子はこれ以上ないというほどの笑みを見せた。
「童子どの…こいつらは…?」
童子の胸にその顔を摺り寄せる博雅。
ますます険しさを増すアキラのほうに目をやって朱呑童子は言った。
「あきらめろ、もう一人の晴明よ。博雅はもう人ではない。我と同じ不死のものとなったのだ。おぬしの記憶もこれの頭の中にはもう残ってなどおらぬ。あぬしは元いたところに戻るのだな」
「ばかな…あきらめるものか…」
苦りきった顔で寄り添う妖しを見つめる二人の晴明。
「急急如律令…式神雷神招来」
四縦五四横の九字を切り式を呼ぶ晴明。
雲を駆って雷神が舞い降り雷電を落とすが童子の壁は破ることができない。
「式神の雷神など怖くもなんともない。無駄だよ、晴明。それにおぬしの想い人は無事ではないか。もう一人の自分に手を貸す必要などないではないか」
「そんなわけにいきませんよ、童子どの。博雅にかわりがあるわけではないですからね、なんとしても返して頂きますよ…」
二人の陰陽師は様々に印を結び律を唱える、が本気を出した童子の防壁は揺るぎはするものの弾け飛ぶまでにはいかない。
「くそっ…!」
肩で息をつきながらアキラが悔しげに童子を睨みつけた。式を召還し呪を唱え雷電を落とす、水を巻き上げ槍のようにして防壁を破らんとする…そこらの術師には到底できない高等な技の数々。さすがの二人の陰陽師も体力を使い果たし息が上がってきていた。
「もう手は尽きたかな?ならば、我らはこの辺でお暇しよう…」
そういって童子は余裕の笑みを見せると博雅の腕をとり、その身を闇に消そうとした。
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