「時の狭間(4)」



 

二人の陰陽師が時を隔て唱える呪が静寂な森の闇の中に低く低く響いてゆく。
片手を老木の虚に当てた晴明のもう片手が密なるいにしえの印を結ぶ。もう一人の時のかなたにいるもう一人の陰陽師もまた同じ印を結び同じ呪を唱えているのだろう。
やがてひとしきり唱えられた呪ももう結びの文に代わろうかという頃。
 
老木の一部がぼうっと淡い光を放ちはじめた。
 
ようやくか…。
 
閉じられていた晴明の瞳が細く開いた。
 
「出でよ…。隠れし魂魄よ。」
淡かった光が強くなる。
『きたか?』
時のかなたの陰陽師もそれに気づいて問いかける。
「…ああ。」
『気持ちはわかるが感情は抑えてゆけよ』
「そなことは、いわれなくてもわかっている。…来た。」
晴明がすうっと息を静めた。
光り輝く老木の木肌から人のような影がふわりと地に降り立った。
 
それは老木から現れた精とは思えぬほどに年若く見えた。
もみじのように真っ赤な水干を身に着けた華奢な少年。透き通るような肌に黒目がちの瞳。流れるような黒髪を昔風に結い上げていた。
今の状況がよくつかめぬのだろう、不安げにあたりをこわごわと窺っている。
「おい。」
晴明がかけた言葉にその華奢な背中がびくっと飛び上がった。
「ひゃっ!!」
脱兎のごとく駆け出そうとしたその肩を晴明の手がむんずと捕まえた。
「逃がすか」
「きゃああっ!お助け〜っ!」
布を切り裂くような悲鳴が当たり一面に響き渡った。
「っ!うるさいっ!」
眉間にきつく皺を刻んで晴明が叱りつけた。
「すっ、すみませぬっっ!すみませぬっ!!」
襟元にも手をかけられてひっ捕まえられたそいつが泣きながら謝った。
「なんで謝る?俺はまだ何も言ってはいないぞ」
もう一人の自分に感情は抑えていけといわれていたのは誰だったのか、その険しい目つきはそこらの鬼でも逃げ出しそうだ。首を縮められるだけ縮めて、小さくなったそいつがおどおどと言った。
「だ、だって、あ…あの方のことでしょうっ?…あいすみませぬっ!どうかお助けをっ!」
「あの方?」
少年のようなそいつの首にやんわりと腕を回して締め上げながら、今度はやさしい声で晴明は聞いた。相変わらず目は怖かったが。
「ぐ…ぐえっ…」
締め上げられて目を白黒させる紅葉の精。ただの人ではない陰陽師の呪のかかった締め上げに息も絶え絶えである。
「あの方ってのはだれのことだ?」
自分が締め上げていることで息もできづらくなっていると知っていて、なお晴明は問う。
「ぐっ…きょ…今日、こ、ここへ参られた…殿方…でござ…りますっ…」
苦しげに答える水干の少年。
「…意思も何にもないと思っていたが…おまえ…何もかもわかってたな?」
不気味に静かな声。
「すみ…ませぬ…っ…」
「すみませんじゃないだろうが。…よくもやってくれたな。」
冷静な声とは裏腹に
ぎりぎりと締まってゆく晴明の腕。
「なんであいつをあんな大昔に飛ばしたりした?なにか、俺たちに恨みのあってのことか?」
「う、恨みなんてっ!滅相もございませんっ!」
「ならば、なにゆえだっ!」
ぎりぎり…。(首の絞まる音)
「ひ…ひきが…でひま…へんっ…」
危うく目が反転しそうになって、ようやく晴明の腕がゆるんだ。
「妖しのくせに面倒やつだ。」
「げ、げほっ!げほげほ…!あ、妖し…では…げほっ…ございませぬ。この木の…げへっ…精でございます…げほ。」
のどを押さえてむせ返る妖し、…いや、この紅葉の精霊。
「なんだっていい、なぜこんなことをやらかしたのか話せ。そっちほうが俺には肝心だ。」
腕はゆるめたが逃がさぬように首根っこを掴んだままで晴明は聞いた。
「あ…あのお方と…お会いしたのは…久方…ぶりだった…んですよう…。だから…つい…う、うれしくって…す、すみませ…ぬっ…!」
目に涙をいっぱいに浮かべて精は言った。
「久方ぶり…?おまえ、あいつのことを知っていたのか?」
「はい、話せば長いことながら…」
「手短に最短で話せ」
長々と話始めそうな紅葉の精の言葉を、ばっさりと断ち切って晴明は命じた。
「は、はいっ!…で、では、手短に!」
背筋をピンッと伸ばして精霊はいった。人であろうが妖しであろうが精霊であろうが、怒れる晴明のオーラにかかってはひとたまりもない。
「わ…私がまだ、ち、小さな芽を吹いたばかり若木のころのことでございました。あ、あのお方がこの近くにいらっしゃったのです。そのとき、共のお方が私を踏んづけてしまいまして…」
うるうると涙をいっぱいにして精が話し出した。
「まだそこらの草みたいだった私は根元から折れそうになってしまいました…あのままでしたなら今の私はここにこうやっていることなどなかったでしょう…。でも、あの方は私に気づいてくださりました。お召し物が汚れるのも厭わずにその場で膝をお付きになって、私をその手でそっと引き起こしてくださりました。…おお、かわいそうになあ…って仰られて…」
そこで盛大にぐすっと洟をすすった。晴明の眉間にピシッと縦皺が一本増える。
「お、お共のお方は、お召し物とお手が汚れますからおやめください、といわれたのですが、あのお方はやっと芽吹いたばかりのこんな小さな命を粗末にしてはならない、と仰られて、私の小さな体にご自分の衣の袖を引き裂いた絹で添え木をしてくださって…。」
よよ、と泣き崩れる。
「あのご恩はひと時も忘れたことがございませんでした。ですから、再びこの地にてあのお姿を拝しましたとき、うれしくて総身が震えました。」
「なるほど…。で、あいつの言葉を聞いたのだな」
「はい…、私の根を張りましたここは、この貴船のお山の神の霊泉にあたるところでしたので私にもいくらかの力がございます。でも、それでも本来ならばあのお方が願われることをかなえて差し上げるほどの力は、私にはございませんでしたが…」
「そこで、葉二か」
「葉二?」
「笛だ」
「ああ!そうでございます!あの方の吹かれる笛の音が私の力を大きくしてくれたのです。それで、ようやくあのお方の願われることをかなえて差し上げることができたのです。…でも、それって…まずかった…ですか?」
「決まってるだろうが」
 
どうやらトラブルの目は、はるか彼方のもう一人の博雅にも原因があったようである。
 
「にしても、長いこと生きてきたくせに、おまえ、随分と若作りだな」
「あは…実はあのお方の笛の力というのはかなりのものでございまして…すこしばかり私もそのおこぼれに預かりまして…」
えへへと愛想笑い。
「俺の博雅を利用したか。い〜い度胸だな、おまえ。」
晴明の声のトーンがグッと下がる。
「ならばしっかりと俺の、いや、俺たちの役に立ってもらおうか」
 
老木の前に立つ晴明。暗い森の中で彼の姿だけが抜けるように白く闇から浮き上がっていた。
あたりにはもう妖しの影はない。
「では、あの…よろしいでしょうか?」
おどおどと尋ねる精霊に、晴明は背筋を伸ばして腕を組んだ姿勢のまま鷹揚にうなずいた。
「いいから早くやれ。」
「でも、今度はあのお方の笛の音がございませんから、あのときほどうまくゆくか…」
「大丈夫だ、葉二ほどではないが、今度は陰陽師がふたりついている。なんとかなろう。それより、おまえ。」
「は、はい?」
ぎろりとにらまれて精霊がびくっと飛び上がる。
「俺を裏切るようなことをするなよ。もし、俺を裏切るようなことをすれば向うでお前の本体を燃すからな」
「ひえ…。や、やめてくださいよう…」
自身の本体である古木にヒシッとしがみ付く。
「言っておくが、本気だからな。だから俺があいつを連れて帰ってくるところまでしっかりとサポートしろよ。」
「は、はいっ!…で、では、これを…これをお持ちになってください」
「なんだ?」
おずおずと精霊が差し出したものを受け取って晴明は聞いた。
ひときわ赤く色づいた一枚の葉。
「それは、私の分身でございます。その葉をお持ちになっていらっしゃれば時を超えていようがこの地を離れていようが、すぐに私と霊線がつながることができます。」
「ふむ…。確かにこれはおまえとしっかり繋がっておるようだな。では、用が済み次第、これでお前を呼ぶとしよう。」
ジャケットの内ポケットの手帳にはさんで、それをしまう。
「あ、あの…」
「なんだ?まだ何かあるのか?」
「い、いえ…。ただ、どうしても言っておきたくって…」
「何を?」
「その…私はあのお方をひどい目に合わせるつもりなど毛頭なかったのでございます。ただ、本当にあの方の願いをかなえて差し上げたかっただけで…。」
目の前で手をもみ合せて必死で訴える。
「ですから、あなた様のことも裏切ったりなど決して…」
「あいつがひどい目にあっているかどうかは、まだ何もわからない。それに関してはまだ気に病むことはない。おまえの使命は今後どのような働きをするか、だ。それにお前は裏切らないと言っているが、それもまた然りだ。何の見返りもなく利用されるだけのお前に俺を裏切らない保障などない。」
晴明はいたって冷徹である。初めてまみえた妖しのようなものの言葉には左右されるつもりなどない。
「なんと冷たいお方…」
「冷たい?違うな。俺はただ本当のことを言っているだけさ。さあ、もう話は終わりだ。俺をあいつのところに送ってくれ。」
「は、はい…」
しょんぼりと頭を垂れる精霊。
「では、参ります…」
 
紅葉の古木がその枝をざわざわと揺るがせ始める。その木の根元に座して精霊が瞳を閉じて一心に祈り始める。人には到底出すことなどできない不可思議な発音の言葉がその唇からするすると滑り出すようにつむがれていった。
その前に立った晴明もまた低く呪を唱えていた。人の言葉と人ではないものの言葉がまるでひとつの音声のように重なり合い夜の闇に溶けてゆく。
晴明の足元にゆるく空気が纏いつき始めた。その緩やかな空気の流れがやがてゆっくりとその速度を上げていった。
 
ひゅるる…る…
 
足元から段々と速度を上げ晴明を囲むようにして風が回る。その風はあたりの紅葉の葉を巻き込んでゆく。もし今が夜ではなく日差しのある時間であったならそれは色鮮やかな壁のようにみえたことであろう。
 
ゴウッ…!
 
ひときわ強く風が巻いたかと思うと次の瞬間。その竜巻のような風は一瞬きの間にふわっと解けて消えた。
舞い上がった木の葉が風の余韻にふわりふわりと舞い落ちる中、いままでそこにいたはずの晴明の姿が掻き消えていた。
 




ゴウッ!!
 
「うわっ…!」
突然の突風に博雅は思わず袖で顔を覆った。
「ぷはっ…。なんだ、晴明、この風は!?」
風の音に負けないように博雅が大きな声で晴明に尋ねた。
 
「どうやら客人が到着したようだ。博雅」
 
すぐ隣に立つ晴明が答えて言った。晴明はこの強風の中でも、わずかに目を細めただけで顔を覆うそぶりもない。烏帽子から解けた髪が一筋、風に舞っている。
「客人?もう一人のおぬしか!」
顔を覆っていた袖を下ろして博雅も目の前の様子に目を凝らした。
色とりどりの紅葉の葉が渦を巻く中、ちょうど一人の背の高い人影が現れたところだった。
 
風に舞う木の葉の中に立つその顔は、まさしく自分の隣に立つ男と同じ顔。
 
「晴明…」
 
わかっていたこととはいえ、やはり驚きの言葉が口をついて出る。その博雅の声に風の中の男がこちらを振りむいた。
抜けるような白い肌、すっときれいな弧を描いて伸びる眉、そしてその下の冷たい輝きをもつ切れ長の瞳。着ている衣と冠のない被髪の頭が趣を異にしているだけでまったく同じ顔に他ならない。
…機嫌の悪そうな雰囲気までそっくり同じ。
 
「博雅…?いや、こちらの博雅か」
腕を胸のあたりで組み、口元を皮肉に歪ませて遠い未来から来た晴明は言った。
まるで僕(しもべ)のように、その晴明を囲み、くるくると風が回る。
風に乱れた色素の薄い髪が晴明の顔の周りを踊る。乱れた髪の間からきらりと光るその瞳に博雅は思わずどきりと胸が高鳴った。

まさしく晴明だ…。

やがてあれほどに吹いていた風がまるでうそのように止むと、その晴明はまるで近くからやってきたかのように淡々と二人の前に歩を進めた。
錦のような地面を晴明の靴がさくさくと踏みしめる。
 
「さて、来たぞ。あいつはどこだ?」
何の前置きも挨拶もなく聞きたいことだけを尋ねる晴明にもう一人の同じ人物がやれやれとため息をつく。
「なんと、せっかちな男だな。向うでは皆そうなのか?」
「なんだ、なにか改めて挨拶でもしろというのか?」
「いや、そういうわけではないが。あれほど美しい錦の風に乗って現れたにしては、なんとも無粋だなと思ってな。」
ククッと含み笑いをして古(いにしえ)の晴明が言った。
「無粋で結構。別に物見遊山に来たわけではないからな」
こちらはやや、むっとした様子で答える。
「おいおい、初っ端からもめないでくれ」
あわてて二人の間に入る博雅。自分の恋人であるほうの晴明を押しとどめると、改めて今この時代にやってきたばかりのもう一人の陰陽師に向き直って言った。
「ようこそ、いらっしゃった。…晴明…殿」
なんと呼ぶべきか戸惑いながらも歓迎の言葉を伝えた。
「やはりいつの世もおまえは素直だな、博雅。俺のことは紛らわしいからアキラと呼んでくれればよい。」
博雅の戸惑いを察して言う。
「アキラ?」
「ああ、生まれ変わった後の名だ。それも本当の俺の名には違いないからな。…それに同じ名が二人もいてはお前も呼びにくかろう?」
もう一人の自分にたいしてとは随分違う穏やかな対応。
「それは助かる…かたじけない」
「いいや…どういたしまして…」
にこりととっておきの笑みを浮かべると、晴明は博雅に手をのばす。
「そこまで。」
もう少しで届きそうだったその手をピシリと叩き落とすと、この時代の晴明はぎろりともう一人の自分をにらみ付けた。
「その笑みは自分の恋人のためにとっておけ。俺のものに手を出すな」
「元々は俺のものでもある。」
ふふんと鼻で笑って未来から来た晴明は言った。
「いちいちひっかるヤツだな、おぬし…」
二人の陰陽師の間にバチッと火花が散る。
 
「ま〜て待て!」
不敵な顔でお互いを牽制するふたりの間に博雅が再び割って入る。
両手を広げて双方の胸を押さえると、下を向いて大きくため息をついた。
「はああ…。最初っからこんなことしていてどうするんだ、ったく。せ…いや、アキラどのはもう一人の俺を迎えにきたのだろう?
その俺…ああ、なんて面倒な。とにかく!アキラどのの想い人を朱呑童子どのから返していただかねばならぬのだろっ!?にらみ合ってる場合か!?」
さすがに博雅をこれ以上怒らせるのは気が引けるのか、二人の陰陽師は黙って拳を下げたようだった。
「すまなかった、博雅。では、さっさとあの古狸のところへ案内してもらおうか」
博雅だけを視界に入れてアキラが言った。
「ふ、古たぬき??」
いぶかしげな顔をして博雅は聞き返す。
「誰のことだ??」
「この都に延々千年ものさばっているあの妖しのことだ」
「ハ!なんと。まだそっちの時代まであれはいるのか?」
ぱちりと桧扇を口元で閉じて狩衣の晴明は言った。
「まさか…朱呑童子どののことか?」
あの見目麗しい朱呑童子のことを古狸などと、と博雅は顔をしかめた。

 
「くしっ!…誰ぞ我の噂をしているようだな」
まるで人のようにくしゃみをした朱呑童子。珍しいものを見たと笑っている博雅に笑顔を返して言った。
紅葉の錦に真っ赤な毛氈を敷きつめてある。その上に季節のとりどりの酒肴と吉野から取り寄せた桜酒。用のある時に時々僕を呼ぶくらいで、朱呑童子は博雅を独り占めにしてこのひと時を大いに楽しんでいた。
分身でもなんでもない本物の博雅はまったくもって一緒にいてこれほどに心安らかにおられるものかと感心するほどに居心地のよい相手であった。
話せばその声は耳の響きよく、黙っていてもその沈黙は重くもなく返ってその静かさが心地よい。まして葉二を奏すればふたりで音を合わせてもよし、一人聞き入るもよし。
片肘をつっかえにして毛氈にごろりと体を横たえると童子は満足げに博雅を見上げた。
 
人にしておくにはもったいない…。
 
「ん?なにか?」
じっと見つめてくる童子の視線に気づいて博雅は手にした杯を口元で止めた。
「私の顔に何かついてでもおりますか?」
「…いや。」
「では、なぜそのようにじっと私を見るのです?」
小首をかしげて問う博雅。
「…博雅どの。」
「はい」
「人でいるのは楽しいか?」
「は?なにを急に」
びっくりする博雅。
「人として生きるのは楽しいか、と問うたのだ」
「はは…。急に聞かれるとこまりますね。」
そういって杯をくいっと干した。
「人として生を受けた以上楽しいもなにもこれしかありませんから、なんとも答えようがないですね」
「では…我と同じになれるとしたら…どうする?」
一旦伏せた目をぱっと開けると童子は博雅を見つめた。
今はまだ呪によってその記憶をあいまいにしてあるだけの遠い世から来た博雅。その博雅を本当に自分のものにするべく童子は動きだした。
 

博雅がある意味、大ピンチに陥っているころ。
晴明の屋敷。
「なんでいまさらこんな格好をせねばならないんだ」
そういって、かなりご機嫌斜めになっているのは遠い先の世からやってきたもう一人の陰陽師、晴明の生まれかわりであるアキラ。窮屈そうに襟をを引っ張った。
着付けを手伝った式がしずしずと下がってゆく。
「いや、なんというか…」
式に代わってアキラのそばに寄って、しげしげと眺めて感嘆の声を上げたのは近衛府中将源博雅。
「うりふたつとはこういうのを言うんだろうなあ」
あごに指先を置いて感心したように笑う。
「そんなに似てるか?」
機嫌の悪い陰陽師の横にもうひとりの陰陽師が並んで言った。こちらの方がいくらか年が上のようだが白い狩衣に身を包んだ二人はまるで鏡を見ているようにそっくりだった。
若いほうは髪が少々短いのをむりやり烏帽子の中に入れこんであるせいで襟元に後れ毛がいくらか出ているが、そんなものはその美貌を損なう何の障害にもなってはいなかった。
「うむ、そっくりだ。おぬしのもう少し若いころ、という感じだな。」
「若いねえ…。だが、俺は若いころでもこんなに性根は曲がってなかったぞ」
言われた方が、ちろんと隣に立つ男の顔に目をやった。
「は!おまえには言われたくないね。」
「どういう意味だ?」
「俺の博雅があいつにさらわれるのをわざと黙認しただろう。それを性根を曲がってると言わずしてなんというのだ、お前は自分さえよければそれでいいんだろうが?」
年若いほうが冷たい目でもう一人を見る。
「ふん、お前だって俺と同じ立場なら同じように考えただろうよ。人のことなど言えるか」
そっくりな二人の間にバチバチッ!と、本日二度目の火花が散る。
「まあまあ、抑えて抑えて。…ったく、もう少し穏やかにいかないものかよ、おぬしら。似てるのは顔だけではなくて中身までもだな。」
博雅にまたしても中に入られるふたり。
「いったいお互いの何が気に入らないのだ?ここは力を合わせるところだろうが…」
「なんとなく気に入らない」
挑戦的にあごの上がるアキラ。
「おお、気が合うな、俺もだ。」
年かさのほうの晴明。
こちらもいたって挑戦的。
「いい加減にしろ…」
博雅はがっくりと肩を落として力なく言った。
 
「はあ…もういいから、とにかく、もう一人の俺をなんとかしてくれ。稀代の陰陽師がふたりもそろってるんだからな。」
 
「そうだ、俺をこんな格好にさせてどうするつもりだ。大体、俺は表通りを歩く気もないからこんなものを着なくともよい。」
自分の狩衣の袖を面倒くさそうにばさりと振って晴明ことアキラが言う。
「俺がもう一人いるということを童子に気づかせるようなことは極力避けたいからな。」
としかさの晴明が答える。
「この格好ならば、近くに寄れば、あの敏い妖しのこと、すぐに気づかれることもあるだろうが、少し離れたところからでは違う人間だとはさすがに思わぬだろう?」
「確かに俺たちが二人いることをわざわざ知らせることはないな。」
うなずくアキラ。
「そう、戦うときはとにかく自分の手の内をみせないことが何より肝心だ。」
ようよう力を合わせ始めた二人であった。


                                            

   
 
「童子どのと同じ…?」
 
きょとんとした顔で博雅は聞いた。
「ああ、博雅どのも我ら妖しのひとりとならぬかと誘ったのだが?」
「妖し???…私が…ですか?」
自分を指差して目を見開く。
「そなたならさぞかし麗しい妖しとなられるであろうよ。今のままの若さと美しさを永久に保ったまま面白おかしく暮らせるのだ。どうだ?そなたさえその気があれば方法はいくらでもあるぞ。」
「私は…人のままでいいですよ。そりゃあ童子さまのことはお慕い申し上げておりますし、ずっと一緒にいられればどれほど嬉しいかわかりません…でも、人として生まれたからには私は人として普通に生きて死にたいと思います。」
困ったように頭を少し傾げて博雅は笑った。
呪によって自分のことを慕わせたまではできたが、やはり博雅の本質までは変える事などできはしない。
「…そう答えるだろうと思った」
むくりと起き上がると、童子は博雅をじっと見つめて言った。
「申し訳ございません、童子どの」
緩やかに微笑む博雅に向かって童子は肩をすくめると
「いつもならここで引くところなんだが…今日はそうもいかなくてな」
「は?」
「そなたの意向などこの際、関係ないのだよ、博雅どの。…我がそなたを望むのだ」
博雅を捕らえて強い光を放つその瞳は、間違いなくこの都を一手にする大妖のまなざし。
「…童子…どの?」
「そなたを我が眷属のひとりに…いや、我に並ぶ大いなる者の一人に加えようぞ。」
「え?…ど、童子どのっ!?」
その瞳に驚いて腰を浮かしかけた博雅をその腕に捕らえ、かき抱く朱呑童子。
「今宵そなたを我が物にし、そして我が血を与えよう。…楽しみだな…ククッ…」
「なにを…っ…!」
声を上げようとした博雅であったがその面前に童子がふわりと手のひらをひろげるとその頭がくたりと力を失って項垂れた。


 
晴明の庭に面した濡れ縁。瓜二つの美貌の陰陽師と博雅、その3人が庭に向かって立っていた。
「さて、では本格的に博雅奪回といこうか。」
アキラはそういっていつの間にしこんだものやら一枚の呪符をピッと取り出して眼前に掲げた。
よく見れば鳥のような形にきりぬかれてある。
「それは?」
博雅が問いかける。
「鳥さ、博雅」
アキラが答えた。
「鳥?」
「こいつにあの妖しを探させる。」
アキラはそう答えると呪符にふうっと息を吹きかけて手を離した。呪符がアキラの息に乗ってふわりと舞い上がる。
「急々如律令…童子を探せ」
アキラの手の中の形代が双頭の鳥に形を変えて目にも留まらぬ迅さで空に駆け上る。翼を大きくばさりとはためかせると、雉のように一声ケーンと鳴いてその姿はあっという間に掻き消えた。
「すごい…」
博雅は、たったいまままでそこで見ていたものが信じられぬようにつぶやいた。
「蛮蛮か…なかなかやるな」
「蛮蛮?」
傍らの晴明の声に博雅は首を傾げた。
「唐の泰山に住むといわれる霊鳥さ。二つの頭をもち八つの目を持つ。その目はたとえ地の底にもぐろうと、人からは見えぬ陰態に隠れようとも必ずや敵を見つけ出すと言われておる。まさか本物ということはあるまいがな」
「それでも十分に役にはたつ」
晴明の言葉にアキラは少し機嫌悪げに答える。
「確かに。あれに見つけられぬことはあるまい。だが、用心のためにもう一匹放っておこう。」
晴明はそういうとアキラと同じように懐から一枚の形代を取り出す。
「蛮蛮があれに見つかったときのためにか。まあ、そのほうがいいだろうな」
アキラも同意する。
晴明の取り出した形代は先ほどのアキラのとは少々形が違っていた。
「ねずみ?」
手の中のそれを見て博雅が尋ねる。
「ま、そのようなものだな。あちらが空からならこちらは地をゆく。」
もう一人の陰陽師と同じように呪を唱えると今度は息を吹きかけたそれを空ではなくはらりと地に落とした。
地面につくほんの手前で形代が形を変えた。背中に逆立つ剛毛を生やした手のひらに乗りそうな小さな鼠のようなもの。
チチッと晴明を振り仰いだかと思うと飛ぶような素早い動きで晴明の庭の藪に飛び込んで消えた。
「おい、なんか今の鼠飛んでなかったか?」
と博雅。
「飛鼠(ひそ)だな。」
「今のも泰山のか?」
「いや。あれは馬成の山のだな」
そう答えるアキラに博雅は
「わからん…まったく陰陽師が二人もいるとわけのわからなさも倍だな…」
と、ため息をついた。
 
「さて、では今のうちにあれを片付けておかないか?」
と、アキラ。
「…そのほうがいいかな、やはり?」
「いいに決まってる、両方守るのは無理だ。」
ちらりと傍らの男に目をやった。
「おまえとて代わりをよこせとは言われたくないだろう?」
「それはそうだが…」
そのふたりの会話に耳ざとく気づいた博雅。
「ちょっと待て。おぬしら何の話をしている…?まさか俺を置いていこうなどと考えてるのではないだろうなっ!」
「な、おまえにも覚えがあるだろうが、この男はこういうときには妙にカンが働くのだよ」
晴明は困ったように肩をすくめてみせた。
「そして邪魔だったりもする…」
俺を置いてゆくなど許さぬ!とふくれっつらになってゆく博雅に向かってひらりと手をかざしてアキラが言った。
「…氷縛」
ぷうっと膨れたまま博雅の総身が氷のように固まった。
「ひどいことするな…まったく」
年かさの晴明は苦笑いを浮かべた。
「だが、この方が俺としても実は安心だ。…何故ならこの博雅になにかあったら今の生まれ変わった俺の博雅が消えてしまうことにもなりかねないからな。」
「なるほど…死ぬ間際に再び会うと誓って今のおぬしらがあるからな。俺とこの博雅の間が壊れてしまえばおぬしらもないということか…」
カキンと固まってしまった恋人の頬を愛しそうになでて晴明は言った。
「だが、それは俺にだって言えるのでは?」
そう聞く晴明にアキラはフンと鼻で笑って答えた。
「俺たちは博雅あっての晴明だ。博雅さえ無事ならそれでよい。」
「きっぱりしたものだな。でも確かにそうだ。博雅のいないこの世などなんの未練もないからな。でも、こいつが聞いたら怒りそうなせりふだぞ」
「なにしろ俺たちは、死にたがりだからな」
晴明とアキラは顔を見合わせてニッと笑った。
 
 
 
ギィ…。
車をきしませて童子の乗る牛車が止まる。
夕闇が迫りつつある空を御簾に小さく隙間を開けて見上げる朱呑童子。その目が空に小さく見えるものを見つめて険しく狭められた。
「あれは…」
一言つぶやくと
「ま、黙っているわけもないとは思っていたが…まったく厄介な男だ」
そういうと、自らの髪を一本引き抜いた。指にした髪が見る間に一本の矢に姿を変える。
 
シュ…ンッ!
 
矢羽の音を響かせてそれが童子の指先から空に向かって飛び立つ。
空のかなたで小さくケ…ンと叫ぶ声が聞こえ、そのすぐあとに貫かれた小さな紙がくるくると回りながら落ちていった。
 
「あの陰陽師が我のところにたどり着く前に…」
自分の膝に頭を預けて目を閉じる愛しきものに目を落とし童子はククッと笑った。刃物のように研ぎ澄まされた長い爪の先で滑らかな頬をなぞる。
「さあ、迅くゆけ」
牛車を引く大蜘蛛にきつい口調で命じる朱呑童子。
人の世とは異なるもうひとつの次元、陰態の道を、大きな土蜘蛛に引かれた真っ黒な牛車が、時折その車輪に青白い焔を揺らめかせながら速度を上げた。
 
チッ…。
 
陰態の闇の影の土くれの端から、金色に光る小さな瞳がその一部始終をじっと見ていたことに、さすがの童子も気づくことはなかった。
 
「陰態をゆくのはもちろんわかっていたことだが、そうか神泉苑か…」
手のひらの飛鼠からの報せを受けて晴明が言った。
「また、随分と内裏に近いところに向かったものだな。奴の本拠地は大江山だったはずだ」
と、アキラの名を持つもう一人の晴明。
「ただの紅葉見物ではすまなさそうだな、博雅のやつ」
帰ってきたらお説教だなと腕を組む。
「無事手元に戻ったらな。そんな近いところに潜り込むからには、なにかあせっているのではないだろうか?童子は…」
「俺たち…いや、『俺』に邪魔されたくないなにか…ということだな。」
腕組みをといてアキラがいった。
「うむ…。」
 
「ろくでもないことに決まってるがな」
「ろくでもないことに決まっておろうがな」
 
二人揃って呟いた。
 
 
 
「では、俺たちが戻ってくるまでいい子にしてろよ」
そう言って晴明は横たえた博雅のまぶたを閉じさせた。
きちんと衣を掛けて横たわる博雅は知らないものが見たらただ眠っているようにしか見えないだろう。
「おい、ゆくぞ」
立ったままのアキラが言う。
「なんだ、羨ましいか」
すいと立ち上がった晴明が口の端をほんの少し上げて笑う。
「ふん、もとはお前も俺だ、羨ましいわけなどないだろう。ただ、こんなところにいつまでももたもたしていたくないだけだ。」
「こんなところとは随分だな」
片眉が上がる。
「確かに言い様は悪かったが、しかしいつまでもここにいるわけには行かないのだ。」
「あまり長い間こちらにいれば過去が変わってしまうからか。」
「なんだ、わかってるんじゃないか」
と、アキラ。
「今でさえ変わりつつあるのだ、これ以上何かあれば絶対未来に何か影響が出る。」
その目が険しく細められる。
「それを最小限に食い止めて、できれば博雅の頭の中からこの記憶を消さねばならない…だろ?」
眠るように横たわる男を見下ろす。
「ああ、だから、なおさらこれには、ここでじっとしていてもらわないと」
「そういうことだな…ゆこう」
「ああ。」
式に博雅のことを見ているように言いつけると、二人の瓜二つの陰陽師は白い衣を翻して屋敷を後にした。

そのころ。
神泉苑の広大な池の真ん中あたり。
月の光を鏡のように映す水面をわずかに揺らすこともなく一人の影がそこに立っていた。もちろん水面の上である。人には決して真似のできぬこと。
その腕に一人の男を軽々と抱き上げている。
  
「よい月夜だ。そなたを我が眷属に迎え入れるにふさわしい晩だ。」
そういって腕の中の顔を見下ろすのは朱呑童子である。
育ちのよさが現れた端整な顔に碧い月の光を受けて、その長いまつげがふるふるとわずかに揺れた。
「気がついたか…博雅どの」
「…んん…ど、童子どの…?」
至近距離から見下ろす童子に戸惑う博雅。が、さっきのことが蘇ってハッと目を開ける。
「ど、童子どの!私はあなたの仲間になる気は毛頭ありません…い、いくら愛しい方とはいえ、私は…」
「黙られよ、博雅殿。」
抵抗する博雅にも動じることなく朱呑童子はその唇に人差し指の先をピッと当てた。
「むぐっ…」
途端に口が開かなくなって言葉を失う博雅。おまけにその身も縛されたように指一本動かない。
「先ほども言ったであろう?そなたの意思などこの際関係ないのだと。今は嫌かもしれぬが年月が経つうちにやはり我の眷属となってよかったと思う日が必ずこようぞ。」
目を細めてククッと笑う。言葉には出さぬがその心のうちで晴明が年老いた後でもその若さを保った博雅と自身を思い浮かべて愉快な心もちになっていた。
「そなたをわが屋敷に連れ帰ってその身をじっくりと堪能してからと思っておったのだが…どうやら邪魔が入りそうなのでな。」
そういうと童子は懐から銀に光る杯を取り出した。
そして自分の手首にその鋭い犬歯でがぶりと咬みつく。
「…んんっ!?」
手首からつううっと流れ出す血に博雅は驚いて目を丸くした。
童子は血で染まった唇をほころばせると手首を杯の上にかざす。
パタパタッ…ッ
銀の杯が見る間に血に染まり童子の血を溜めてゆく。手首を伝わる血が童子の水干の袖までもを真っ赤に染めてゆく。
 
「さあ、わが血を…。」
杯の上に手をかざし篭もるような声で呪を唱えると朱呑童子は博雅の唇に向かって杯を捧げた。
「ん…んん…」
閉ざされた唇を自ら引き結んで博雅は首を振る。
「ああ…すまない、呪をとくのを忘れておったな。」
そういうと童子は血に塗れた唇から博雅の縛をとく呪を唱えた。
「い、いやです…童子どの」
瞳を潤ませて博雅は抗った。
「そうやって抵抗するところもなかなか趣をそそる…」
博雅のあごをとるとおとがいに力を込めて無理やり口をあけさせる、そのまま上を向かせてその口元に杯を傾けかけたその時。
 
「…いい加減になされませ、朱呑童子どの」
 
凛としたこえが響き渡った。
「やはり…来たか」
首だけを振り向けて童子が声のするほうに言った。
池のほとりに立つ白い影。
「空に蛮蛮の姿を見たと思ったらやはりおぬしか。あれは打ち落としたはずなのによくここがわかったな」
博雅をその腕に抱えたまま動じることもなく言う。
「あの鳥でなくとも色々と他にあなたの動向を知る手立てはありますからね。」
と、白い陰陽師が答えた。
「なかなかの手際だな、だが邪魔をしないでもらおうか、晴明。そなたにはもう一人の博雅どのがおるではないか。こちらのこの方を我の物にすればぬしとはもう争うこともない、万事丸く収まる。」
何のことです?と、戸惑う博雅を制して童子は言った。
「それにこちらの博雅どのはすでに我と恋仲だ。何の問題もない」
そういうと杯を手にしたまま博雅に口づけた。
「…んん…ん…」
途端に力がくたりと抜けてうっとりする博雅。童子の呪によって身も心もこの妖しの虜となっているため、たったひとつの口づけにも過剰に反応し、血に濡れた童子の唇をさらに追う。
「…あ…も…もっと…」
童子の背に自ら腕を回ししがみつく博雅。
「可愛いひとだ…続きは後で」
血に赤く染まった博雅のふっくらとした下唇をきゅっと親指で拭うと、朱呑童子は満足げに、含んだ笑いを洩らした。
 
「ばか…」
そんな博雅の様子に、池のほとりに立つ晴明が困ったように目をすがめた。
対岸の植え込みに視線を童子に気づかれぬように投げた。
 
怒るなよ…まだ、じっとしてろ…。
 
「ふふ…そうか、そなたには言葉で言うのではなく、こうやって肌を合わせて話しをするほうが早かったな。」
先ほどまで妖しの仲間となることを拒んでいた博雅が、我を忘れて自分に縋りつくのに気をよくして童子が言った。
「やはりその身を我のものにするが先だったな。まあ用意してしまったことだ、この際しかたがないか…」
そういって、ぽうっとしたままの博雅の顔をのぞきこむと、再び博雅の口に血に満たされた杯をあてがった。
「さあ、飲むがよい。我の血に特別な呪をかけた。本当ならば人の肝を食らってからのほうが確実なのだがな。」
今度はさしたる抵抗も見せずに博雅は素直に唇を開いた。
「童子どの!」
晴明が引き止める。
「止めるな晴明。おまえはそこで見ておれ。」
晴明を振り返りながら童子が言った。
 
「止めないわけにゆくか!」
 
バッ!とその童子の手を掴んだものがいた。
 
「…なっ!」
驚く童子。己の手を掴んだ者の顔を見上げて、もう一度驚いた。
今まで池のほとりにいたはずの陰陽師の顔がそこにあった。その足元には呪符により作られた見えない地が続き、彼のものを水没させることなくその水面に留まらせている。
「せ、晴明!?」
今見ていた方をもう一度振り返る。そこには確かにもう一人の同じ顔をした陰陽師の姿。
「ハ!よく似せたものだな!どっちが拠り代だ?」
掴まれた手を振り切ろうとして童子は言った、が、その白い手はがっちりと朱呑童子の腕を掴んで離さない。
「くっ!こちらが本物か!」
狩衣のそでから腕に書かれた妖し封じの真言の文字が見えた。
「さあ、どっちでしょうねえ」
童子のすぐ傍らからもうひとつの声。
池の端にあった晴明ももうひとりの晴明と同じようにして朱呑童子のすぐそばに迫っていた。
「さあ、童子どの、おふざけは終わりです。博雅をお返しください。」
腕を掴んでいないほうが至極穏やかな、が、きっぱりとした声で言った。
 
「…はは。これは面白い。…おぬしら、両方本物だな」
驚きから落ち着くと童子はすべて見抜いたように言った。
「…どうとでも…」
腕を掴んだほうが言った。その声には静かに怒りがこもっている。
「なるほど…こっちの晴明の博雅どのであったか…」
ぎりぎりと腕を締め上げる晴明に目をやる童子。
「事情はわかったが…ここまできて引き下がるなどこの都一を自負する我の沽券にかかわるな…」
 
バシュッ…!!
 
「わっ!」
「くっ…!!」
博雅を腕に抱えた朱呑童子のまわりを丸い泡のようなものが覆った。二人の陰陽師が弾き飛ばれる。かろうじて自分たちのつくった足場に踏みとどまり水の中へ落ちることはなかったがそれ以上先へは泡のごとき透明な壁が邪魔をして入ることはかなわなかった。
 
「確かにおぬしが二人もいたとは厄介だが…それでもおぬしらは人に過ぎぬ。我の敵ではない」
ニイッ…と笑う朱呑童子。その紅い唇の端から鋭い牙がぎらりと光る。
「やめろっ!童子!!」
普段激高することなどない晴明の怒号が飛ぶ。
「すまないな…ククッ…」
くたりとしたままの博雅の唇に朱呑童子の血が注ぎ込まれていった。
 
コクッ…。
 
博雅ののどがそれを嚥下するのがわかった。


「博雅っ!」
アキラであるほうの晴明が叫ぶ。
「…ぐ…があ…っ…」
喉を両手で押さえて博雅がその体を苦しげに反らせた。体がガクガクとおこりのように震えだす。
朱呑童子はただ笑って見ている。
「…あああ…っ…ぐあっ!」
博雅の目がぐるりと白く反転しその場にばたりと倒れ伏した。
「博雅!お、おのれ…朱呑童子っ!!」
切れ長の瞳に殺意を光らせてアキラが童子を睨みつける。バッと両手を組み複雑な印を立て続けに組むと真言を唱える。童子と博雅を囲む泡がバチバチと激しい光を放ちながら明滅した。
「おやおや、最強の陰陽師が本気を出したな。怖い怖い…だが、もう遅いな」
手にした杯をぽいと放る。
水面に落ちようかというそれを下を向いて苦しんでいたはずの博雅の手が人とも思えぬ素早さでパシリと捕らえた。
「…勿体ない…」
低い低い声。
「…なんてことだ」
晴明が呟く。
勿体無い、そう言った博雅が顔を上げた。
顔の色がいつもとは違う。透き通るように青白く、唇が異様に紅い。その紅い唇からこれもまた血のように赤い舌を突き出し、杯に残った童子の血をべろりと舐めとった。
「…はあ…」
満足したかのように大息をつくとその目が童子と二人の陰陽師に向けられた。
もう、いつもの穏やかな黒曜石の瞳ではなかった。獣のように光る金色の瞳。さらに驚きを隠せない二人の晴明の前で博雅の変化はさらに続いた。
唇の両端に見る間に犬歯が伸びてゆく。
烏帽子のない短かった髪がまるで早送りのように腰まで伸びその色を根元から変えてゆく。銀の波が襲ってくるように黒髪がざわざわと銀色に変わっていった。
「なんと美しい…これぞ我の博雅」
すっかりと変化してしまった博雅をその腕に絡めとると童子はこれ以上ないというほどの笑みを見せた。
「童子どの…こいつらは…?」
童子の胸にその顔を摺り寄せる博雅。
ますます険しさを増すアキラのほうに目をやって朱呑童子は言った。
「あきらめろ、もう一人の晴明よ。博雅はもう人ではない。我と同じ不死のものとなったのだ。おぬしの記憶もこれの頭の中にはもう残ってなどおらぬ。あぬしは元いたところに戻るのだな」
「ばかな…あきらめるものか…」
苦りきった顔で寄り添う妖しを見つめる二人の晴明。
「急急如律令…式神雷神招来」
四縦五四横の九字を切り式を呼ぶ晴明。
雲を駆って雷神が舞い降り雷電を落とすが童子の壁は破ることができない。
「式神の雷神など怖くもなんともない。無駄だよ、晴明。それにおぬしの想い人は無事ではないか。もう一人の自分に手を貸す必要などないではないか」
「そんなわけにいきませんよ、童子どの。博雅にかわりがあるわけではないですからね、なんとしても返して頂きますよ…」
二人の陰陽師は様々に印を結び律を唱える、が本気を出した童子の防壁は揺るぎはするものの弾け飛ぶまでにはいかない。
「くそっ…!」
肩で息をつきながらアキラが悔しげに童子を睨みつけた。式を召還し呪を唱え雷電を落とす、水を巻き上げ槍のようにして防壁を破らんとする…そこらの術師には到底できない高等な技の数々。さすがの二人の陰陽師も体力を使い果たし息が上がってきていた。
「もう手は尽きたかな?ならば、我らはこの辺でお暇しよう…」
そういって童子は余裕の笑みを見せると博雅の腕をとり、その身を闇に消そうとした。
 




           
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