時の狭間(5)


「もう手は尽きたかな?ならば、我らはこの辺でお暇しよう…」
そういって童子は余裕の笑みを見せると博雅の腕をとり、その身を闇に消そうとした。
 
ひゅるり…り…
 
まさにその時、どこからともなく笛の音が風に乗って流れてきた。月の光を集めたかのような透明無垢なその音。それが池の水面を滑るように渡ってくる。
童子の腕にすがっていた博雅がピクリとその身を起こす。朱呑童子の作った結界をその音色は何の抵抗もなく通りぬける。壁を越えた笛の音は煌めく光の粒に姿を変え、キラキラと金色の光を放ちながら博雅の身に纏いついてゆく。
「これは…葉二の音…」
童子が呟く。
「なんだっ、これはっ!!ガアッ!」
牙をむき出す博雅、身にまといつく光の粒を払いのけようと暴れる。
 
「これは…」
ふわふわと漂う光の粒に手を触れるアキラ。
触れた粒がシャボンのようにはじけてピュルリと小さな音を立てる。
アキラが晴明を振り向く。
「…博雅だな」
と、晴明。
「ああ。だが…氷縛したままのはず」
「でも…博雅だ…ほら」
肩で息をしながら晴明は音色のするほうにあごを杓った。
 
池のほとりの植え込みの影から笛を唇に当てた博雅が現れた。
「真打ち登場だな」
「そうだ、ああいう奴だった…」
アキラは呆れたように肩を落とした。
 
いつの時代でも博雅は変わらない。なんのかんの言っても、いつだって俺の上をゆくのだった…。
 
そうしている間にも光の粒は妖しと変わり果てた博雅の周りにさらに集まっていた。もう粒というよりは幕のようだ。
その中で博雅は時折吼えながら体を捩ってもがく。
「博雅どの!」
童子が手を伸ばすがその手にまで光の粒がまつわりつく。
「おっと、我まで浄化するつもりか?そいつは勘弁してくれ」
童子は苦く笑うと手にまといつく光の粒を払い落とした。自分の眷属にしたはずの博雅に眼をやると残念そうな表情がさらに深くなった。
「せっかく、ここまでしたのに…。なんと惜しまれることか…。まったく残念だ」
そういって二人の晴明に向き直った。
「これほど無念に思うのは久方ぶりだが、仕方がない。博雅どのを返すぞ。ただ、言っておくがおぬしらに負けたわけではないからな。ましてや博雅どのにもだ…」
そういうと朱呑童子はひらりと空に舞い上がり、一羽の蝙蝠に姿を変えて飛び去った。
 
「俺たちや、博雅にも負けたわけではない、だって?どういう意味だ?」
朱呑童子が飛び去った空を見上げて晴明は言った。
「のんきに空など見上げてる場合か。こちらを手伝え」
童子がいなくなってもまだ妖しの姿を保ったままの博雅を押さえつけてアキラが言った。
「離せっ!俺に触れるなっ!!」
光の粒を撒き散らせながら暴れる博雅、アキラの腕に咬みつこうと頭を狂ったように振る。長く伸びた銀の髪がアキラの頬を打つ。
「おとなしくしろっ!博雅!!」
「離せええっっ!!」
両手を後ろに一まとめに掴み、うつ伏せにして体重をかけ、ようやく博雅をおとなしくさせた。
「おい。くくるものを貸せ」
膝でその手を押さえるとアキラは晴明に向かって手を伸ばした。その手に、晴明は麻を編んだ細いけれど頑丈な紐を渡した。アキラが手際よく博雅の手をその紐で縛り上げる。そして結び目に呪符を一枚。
「さ、ゆくぞ。こんなところじゃ余計な力を使う」
ふうと一息つくと、アキラはそう言って立ち上がった。
「ああ。」
まだ暴れる博雅を引きずりおこすと、二人の陰陽師はその両脇を抱え上げるようにして湖面を陸のあるほうへと戻ってゆく。二人の歩いた後から水面が元に戻り、小さなさざなみを立てた。
その3人の姿を認めると、湖畔の博雅は葉二を吹く手を止めた。


「どうやってここにきたんだ、博雅?」
晴明が博雅の顔を見るなり言った。
「色々とあってな。それより、よくも俺を置いていったな」
どうせ俺は足手まといだろうがなっ!と、博雅はぷうと膨れた。
「そう怒るな博雅。お前になにかあったらと思うと、心配でしょうがなかったんだよ。」
晴明が宥める。
と、その博雅の後ろに小柄な影が見え隠れした。
  
「なんでお前までここにいる?」
博雅の後ろからひょっこりと顔を出したものの姿に、アキラの声がとがった。
「あは…申し訳ありませぬ。私も、まさかこのようなところに来る羽目になるとは思ってもおりませんでして…」
そういっておどおどと笑ったのは、赤い水干を身にまとった若作りの、あの樹に宿る精霊。
「この者を知っているのか?」
もう一人の自分の変わり果てた姿に眉をしかめていた博雅が、アキラの言葉に驚いて振り向いた。
「知っているもなにも、こいつはあの樹の精霊だ。今回のことのすべての元凶だよ。」
「それにしては、ずいぶんと若い姿だな」
「博雅の葉二の力で勝手に若返りやがったのさ。」
アキラが言った。その言葉に年かさの方の晴明の眉がピクッとつりあがる。
「…ほう。俺の博雅の力を利用したか…いい度胸をしているな、おまえ…」
その目にヒッと小さく飛び上がる精霊。
「ああ、それは俺がもう言ったからいい。それより、おまえなんでここにいる?俺はまだお前を呼んでいないぞ。」
晴明を制してアキラが言った。
「アキラどのに呼ばれたわけではないらしい。…それより…そっちの俺をなんとかするのが先ではないか…な?」
目を爛々と燃え立たせ、獣のように牙をむいてこちらを威嚇するもう一人の自分に、なんとも情けない目を向けて博雅は言ったのだった。
 
 
「クソッ!この紐を解けっ!」
肩を乱暴に揺すって博雅が喚いた。
腰まで伸びる乱れた銀色の髪の間から燃えるような金色の瞳。面立ちこそ博雅の面影を残してはいるが、長い犬歯をむき出して吼える今のその姿は、どこから見てもしっかりと妖しに見えた。
「見事に妖しに成り果ててるな。さて、どうする?」
そんな博雅を冷静な目で見つめて晴明が言った。
「あの朱呑童子の血を飲んでいるからな、まあ、人の肝を食らっていないだけマシだが。」
人の肝、と聞いて、妖しになってないほうの博雅はゲッという顔をし、妖しになったほうの博雅は舌なめずりをした。
「そこらの妖しの仕業ではないところが厄介だ」
「ああ、童子も今度はかなり本気だったからな。あれのお前に対する執着の強さはまったく、半端ではない。…この際、やはりこっちは童子に…」
そう、こちらの世界の晴明が自分の恋人のほうの博雅に言った。
「なんだとっ!?」
アキラがギロッ、ともう一人の自分を睨む。
「これ、晴明。そんなことを言ってアキラどのをからかうな。それから、ここは俺たちに任せてくれないか」
「俺たち?」
「そう、こちらの精霊どのと俺に。」
博雅がそう言った横で、その袖の陰に隠れながら精霊がぴょこりと頭を下げた。
「博雅の縛を解いてここまで連れてきたのもおまえか?」
アキラと呼ばれたほうの晴明が精霊に向かって、問いかけた。
「なぜ、ここだとわかったのだ?そしてなぜ、博雅を連れてきたのだ?」
あちらで散々脅された精霊はますます小さく首をすくめた。
「わ、私は、たっ、ただ言われて来ただけでっ!ひ、博雅さまを連れて来たなど、と、とんでもございませぬっっ!」
「言われてきただって?いったい誰にだ?」
アキラと同じぐらい怖そうな晴明も聞く。
「…わ、私は、あ、あの…鞍馬の山神さまから…」
「鞍馬の山神だって?」
「は、はいっ。それから、こっ、これも…」
そういうとその華奢な手のひらを開いて晴明に差し出した。
 
手のひらの上に、ちいさな真珠のような粒がひとつ。
 
「なんだ、これは?」
こちらの晴明が、それを精霊の手のひらからつまみあげた。
「神から預かってきたそうだ。それをそっちの俺に、ということらしい。」
と、博雅。
「神の薬か?」
「また、とんでもないものを持ってきたものだな」
二人の晴明が目を合わせた。
「や、山神さまはそれを…さ、さらに上の天上界よりお預かりされたそうで…。」
と、精霊。
「さらに上?」
と、晴明。
「続きを話せ。」
じたばたといまだ暴れる妖しと化した恋人を捕まえたまま、アキラは言った。
「私があなた様からのご連絡をお待ち申し上げておりましたところに、鞍馬の神様がいらせられたのでございます。そ、その神が申されることには、博雅さまの楽の音がこの時代に聞けなくなることは耐えがたいことだと…。それは、さらに上の天上界の楽の神さまも申しておられると。早くこれを持ってあちらにゆけ、と命をうけました。早くしないと、こちらの博雅どのは帰ってくることができなくなると仰られて。」
「本当に神の言葉なのか?」
怪しいものだと、アキラは目をすがめた。あの山の中は、ろくでもない妖しでいっぱいだったぞ、と。
 
「きっと、本当だろう。実は俺も似たようなことを言われた。」
精霊の話を聞いて博雅が言った。
「おまえも?」
「ああ。この者が来るほんの少し前にな。」




晴明の屋敷で呪によって縛されたままの博雅。青い月明かりがわずかに届く母屋の中で、ぴくりともせずに御寝台に横たわっていた。
その月明かりをさえぎるひとつの影。
傍らで座って博雅を見守る式が、ハッとして顔を上げた。が、つぎの瞬間、その式は、ハラリとただの人型の紙に姿を戻してしまった。
 
起きなさい…博雅…。
 
白く華奢な指先が博雅の額にそっと触れた。
博雅の閉じられたまぶたがピクッと動いた。長いまつげに彩られたまぶたがゆっくりと開く。何回かまばたきを繰り返し、ようやく博雅は覚醒した。
 
「ここは…」
掠れた声でそこまで言って、ハッと我に返りガバッと身を起こした。
「せ、晴明っ!よくもっ!」
事情を思い出して傍らの人物をキッとにらみ上げた。てっきり、晴明だと思って…。
「!?…あ、あなたは???」
思わず怒りも忘れて、博雅はその者の姿に目を見張った。
「名乗るほどのものではありませぬ。ただ、あなたにはどうしてもやって頂かねばならぬ仕事がありますゆえ、こうやって目を覚まさせていただきました。」
そう言ってにこやかに微笑むその姿は、到底、この世のものには見えない。
月の光もかくや、とばかりに全身からほのかに微光を放ち、これもまた、月の光を集めて作ったのではないかと思わせるような虹色にきらめく衣をたなびかせ(風もないのに)、腕や首や足に色とりどりの玉でできた飾りをつけている。
高く結い上げた絹のような髪に、透き通るように白く美しい面立ちのその女人は、その華奢な手に象嵌や螺鈿で華やかに装飾された琵琶を抱えていた。
声もなく相手を見つめる博雅。
「あなたは、もう一人のあなたを助けなければなりませぬ。」
たおやかな指が博雅を指差す。腕に巻かれた煌めく鈴が小さくシャラン…と鳴った。
「もう一人の…。」
はるかな先の世から来たもう一人の自分。
「でも、今頃はきっと晴明たちが行っております。あれらに任せておけば、きっと、もう一人の私を助けて来るでしょう。…置いていかれたのは口惜しいことですが」
悔しいが自分などいたって役には立たない。
「ええ、確かにあのものたちに任せておけば、なんとかもう一人のそなたは取り返せるでしょう。…でも、それだけでは過の者は人には戻れませぬよ。」
ふっ、とため息をついてその女人は言った。
「人に戻れない…?どういうことです?あっちの私は人でなくなったということですか?…まさか…」
博雅は驚きを隠せない。
「あちらのあなたは大妖のかけた呪で、今やもう、妖しと成り果てています。あの大妖…朱呑童子と呼ばれるあの鬼は、もっとも神に近い力を持つ異形のもの…その真の力を使われては、あなたの陰陽師がいかほどの力と術を持ってはいても、なかなか敵うものではありませぬ。だからこそ、あなたの力がいるのです…」
「私の力?晴明がふたりがかりでも敵わぬものを…そんなもの私には…」
言いかける博雅を制して、人にあらざるその女人はふうわりと微笑む。
「あなたにとっては、なにも特別な力ではありませぬ、でも、ほかの誰も持ってはいないもの…あなたが産まれ落ちたときから持っている力。なにしろ、あなたは天界の言祝ぎの中に生まれたのですからね。もちろん、覚えてはいないでしょうけれど。」
女人は…たぶん天女であろうが…言葉を続ける。
「私が産まれ落ちたときからもっている力…?」
自分の出生のことも信じられぬことだが、特別な力を持っていると言われても、これまた、全く全然ピンとこない。
「そう、あなたの心の奥から湧き出す力…。あなたが想いをこめて紡ぎだす楽の音ですよ」
「私の紡ぐ楽の音…?」
自分の吹く葉二の音が、たまに晴明を助ける手立てになったこともないではないが、でもそれは妖力を持つ葉二の力を借りてのこと。自身の力などでは決してない、と博雅は思った。その心を見通せるのか、天女は言う。
「…妖しの笛の力ではありませぬよ。今までのこともすべて、あなたならばどのような竜笛を手にしても結果は同じだったでしょう。笛ではない…あなたの力。
天上界におわす天部の、神々は、あなたの奏でる楽の音が、このずっと先の世で聞けなくなってしまうことを、とても残念に思っていらっしゃいます。我らが人の世に直々に関わることは許されておりませぬ、ですから、博雅、あなたが先の世からきたもう一人のあなたを助けるのです。」
「私が笛を…葉二を吹けばよろしいのですか?」
そう聞く博雅に、天女は少し残念そうに首を振る。
「ただの鬼や怨霊ならば、あなたの笛の音だけでことは足りるのですけれどね。今度のことはそれだけでは力が足りませぬ。」
「では、どうしろと…」
博雅が言いかけたそのとき。
庭の何もない空中に一人の少年が現れて、ドタッ!と地面に落下した。
「あたっ!あたたたたたっ!くううっ…!」
驚く博雅の前で少年は強打した尻を擦ってうめいた。
「ああ、無事着いたようですね」
天女はにっこりと微笑む。
「無事、着いたって…いったい、どなたです?あれは?」
なにがなんだかわからない博雅、その声に、尻を擦りながらううっっと唸っていた少年が顔を上げた。そして、立ち上がって庇まで出てきた博雅を一目見るなり濡れ縁に駆け寄る。
「ひ、ひひひひ博雅さまっ!お、お久しうございますっっ!」
「だ、誰だ?」
そのあまりの必死の形相に、軽く引く博雅。
「ああ。お忘れでしょうかっ!私はその昔、あなた様に命を助けていただきました楓でございます!」
滂沱の涙を流しながら博雅の裾にすがりつく赤い水干の少年に、博雅は困惑の表情を浮かべた。
「私が助けた…楓???」
「博雅。もみじは青い季節のころは楓と呼ばれるのですよ。このものは、あなたが幼いころ折れそうになっていたのを助けた楓の木の精霊なのですよ。覚えがありませぬか?」
天女が衣の袖をふわりと振って少年を指し示した。
「私の幼いころ…?あ!」
博雅はハッ!と顔を上げた。
「思い出しましたか?」
「ええ…。幼いころ、母と一緒に貴船の山に紅葉狩りに出かけたことがありました。…確かあのとき、共のものが小さな若木を踏みつけたことがありました…もしかして、あれですか?」
「そうっ!そうですっ!そのときの楓でございますうっ!あの時、博雅様は私が折れて枯れてしまわぬようにと、大切なお衣のお袖を破かれて、もったいなくも私に添え木をしてくだされました!あれがなければ私は、その晩に降った大雨に負けて、今ここにこうやっていることは適いませんでした。あの時の、あの時のご恩は、ただのひと時も忘れたことはございませぬうううっ!」
流れる大量の涙で顔をぐしゃぐしゃにして、精霊はよよっと泣き崩れた。
「なんとまあ、大げさな…。そのように泣かずともよい。私は特別にたいしたことをしたわけではないよ。それに、今思い出したが、あの後、衣の袖を破いたと乳母に散々叱られたなあ。そっちのほうがよく覚えているくらいだ、気にするな。」
博雅は鷹揚にそう言って笑った。
「ううっ!博雅さまっ!なんとお優しい〜!」
博雅の裾にすがってオイオイと泣きはじめる精霊に、天女の優しくも厳しい言葉がかかった。
「感激して泣くのはそこまでになさい。楓よ。今は過去を思い出して感激に浸っている場合ではないでしょう。頼まれたものを持ってきましたか?」
「は、はははいっっ!お預かりしてまいりましたっ!…こ、これにございます!」
手のひらで顔中をガシガシとこすって涙を拭うと、懐から赤い絹に包まれたものを博雅に差し出した。
「なんだ?」
きょとんとする博雅。
「それは天上界のもっとも高いところに一千年に一度だけ湧く幻の泉の、最初の一滴を珠にしたもの…妖しとなりしものを元の姿に戻す力があります。」
「そのような稀有なものを私のために?…よろしいのでしょうか」
赤い絹の上でキラキラと清浄な光を放つ珠に見入る。
「それほどに、あなたの楽の音を天部に住まう神々は愛しておられるのですよ。決して臆することはありませぬ。」
「なんと、恐れ多い…では、必ずこれをもう一人の私に届けます」
今にも腰を浮かせそうな博雅に、天女は大切なことをもう一つ、付け加えた
「お待ちなさい、博雅。それはただ、妖しと化したあなたに与えればよいというわけではありません。あなたの場合は少し特別なのですよ」
「特別?」
「そう。普通の人間ならば、これを与えるだけで元のひとに戻ることができるでしょう…でも、それでは天の神が愛でるあなたの楽の才は返ってこない。この珠の力があまりに強すぎて、あなたの才が消し飛んでしまうのです。」
芸術の域に達しているものは繊細で美しい反面、ガラス細工のように脆いものでもある。何の才もないものなら何ともなくとも、博雅のような稀有な才能にはこの神の薬は劇薬にも等しい。
「まさか…」
手のひらに載っている小さな珠をまじまじと見つめる博雅、自分の才能の本当の価値をよくわかっていない彼には、こんな小さなものにそれほどの力があるとは信じ難かった。
 

「と、いうわけで、これをあっちの俺に与えるときに、どうも俺は葉二を吹かねばならないらしい。それから…俺にはなんのことだかよくわからんのだが、神の依代を地に立てよ、と天女は仰っていた。どういう意味かとお聞きしたら、そういえば二人の陰陽師にはわかるから、とな。」
「なるほど神の依代か」
「確かに依代だな」
二人の陰陽師は、先ほどから博雅にはりついて離れない小柄な少年に視線をやった。おっかない陰陽師たちに見下ろされて、楓の精霊はビクビクと博雅の袖の陰にさらに隠れた。
「依代って…まさか、このもののことか?」
自分を盾がわりにする精霊を振り向きながら博雅が聞いた。
「それはそうだろう。依代なんてものは昔から神木と相場が決まっている。だから、わざわざ、こいつがここまで呼ばれたのさ。」
と、こちらの晴明。
「丸ごと木が一本いるというわけでもないから、そうだな、枝…つまり、腕の一本でももらおうか?」
年の若いほうの晴明がフッと笑って言った。
「ひっ!」
自分の腕をガシッと抱え込んで悲鳴をあげる精霊。
「からかうなと言っておるだろうが…。」
片袖が落ちそうなほどにギュウッと袖を掴まれて、博雅が「こら、やめろ」と袖を引っ張り返す。
 
二人の晴明が地面に円陣を描いた。
真円の中に北斗七星をかたどった白石を点々と置き、それを地面に描いた線で結ぶ。その第一番目の星、貧狼(とんろう)星の位置に楓の精霊が立ち、その最後の星、第七星、破軍星の位置に博雅が立つ。
紐でぐるぐる巻きにされて、今も耳に耐えない罵倒を続けている妖しと成り果てた博雅が、その二人の真ん中、円の中心あたりに縛されてあった。ただ、置かれたように見える白い石は、暴れる博雅に蹴られても晴明のかけた呪によって、びくともせずに動かない。
「さて、用意は整った。」
ぱんぱんと、手についた土ぼこりを払って、こちらの晴明が言った。
博雅と楓の精霊の位置のそれぞれ対角となる場所に二人の陰陽師が立つ。
まるで鏡のように、二人の陰陽師は指が複雑に絡み合った印を次々と結び始める。小さく呪を唱え始める先の世の晴明に代わって、こちらの晴明が博雅に向かって
「博雅、笛を。」
と言った。
「う、うむ」
ごくっと唾を飲み込んで博雅は答え、少しばかり唇を湿らせると葉二を唇に当てた。
 
ひるり…
 
博雅の笛の音が夜の風に乗って流れ始めた。
と、それまで「離せ、このクソばかやろー!」だの「てめえらハラワタ引きずり出して食らってやらあ!」などと、日ごろの博雅には考えられない情けない品のない言葉でわめき散らしていた妖しの博雅がピタッと黙った。
その博雅の周りに先ほどの光の粒が再び集まり始めた。まるで博雅の奏す笛の音色が、妖しと成り果てたもう一人の自分から、人でなくさせたその因を吸出し結晶化させているかのごとくである。
そして、博雅の笛の音にそこまで、はっきりとした目に見えるほどの力を与えているのは、どうやら天界からの助けのようだ。博雅の笛の音に合わせていつのまにやら楓の精霊の体がぼうっと金の光を放って明滅している。精霊自身も神の依り代となっているためにトランス状態で、心ここにあらずといった意思のない表情になっていた。
 
なるほど、これならば妖しと成り果てたものを人に戻すのも、たやすいことだ。
なんという強大な力。
いくら大物といえど所詮は妖し、神の力の前にはひれ伏すしかないな…朱呑童子。
 
印を結び呪を唱えながらこちらの晴明は思う。自分よりずっと先の未来から来たもう一人の自分をちらっと見て、いつの世も俺の苦労は絶えないなと。神に愛でられ、妖しに好かれ、あちこちの厄介ごとにいつの間にやら首を突っ込む、そんな恋人を持ったのは俺の不運か…それとも幸運か。
 
「幸運に決まっているだろうが。それより、さっきの神薬を。モタモタするなよ。」
「わかってるさ。ホント気が短いな、おぬしは。」
あっちの自分に心を読まれ、ジロッと睨まれて、晴明は肩をすくめて苦笑した。

まったく自分と同じやつなんてロクなもんじゃないな。

そして、これ以上心の中を読まれて文句を言われぬうちにと、懐から先ほどの真珠のような神薬を取り出した。赤い絹の上できらめく神からの賜りもの。
 
「紫微急西恒外大微官…足陽明薬通利人…」
 
神を言祝ぎ、その薬効を祈願する呪を唱え、絹の布ごと天に向かって放り上げた。
赤い絹はひらりと地に落ちたが、神の薬は意思を持った人魂のようにぽうと光を放ってきらめきながら、妖しの博雅に向かった空を行った。
そして、体中を金色の光の粒子で覆われてしまった博雅の心臓あたりに、すうっと吸い込まれていった。
まぶしいほどの光がスパークする。二人の陰陽師も思わず袖で目をかばった

やがて光が去ると、元の様に月明かりだけとなった地面にばたりと倒れ付す男がひとり。
すっかりと元の姿に戻った博雅である。

「おお、元の姿に戻ってる!やったな、晴明!」
葉二を唇から離して、開口一番、博雅は喜びの声を上げた。
「ああ。戻ったな。まったく世話の焼ける」
こちらの晴明がほっと息をついて言った。
「面倒をかけた…すまん」
言いながら若いほうの晴明が倒れている博雅を抱き起こした。土ぼこりのついたその頬をペチペチとたたく。
「目をさませ、博雅。」
「う…う〜…ん…」
焦点の合わぬ目を開けて博雅は晴明を見上げた。
「あれ…晴明…?なんで…そんなカッコしてるんだ…?ああ…そうか…夢の続きかあ…ふにゃ…」
どうやら今までのことを夢だと勘違いしているらしく、へへへっ…と笑って幸せそうにまた目を閉じる。
「俺さあ…変な夢…み…ちゃって…。昔のおまえに…会ったんだ…やっぱ相変わらず綺麗で…おまけに俺もいてさ…ふぁ…でも…なんかすっげ…疲れた…後で…話すわ…くぅ。」
言いながら博雅は今度は完全に寝てしまった。
「おい!こら、寝るな…って…」
もう一度ピチピチと頬をはたいたが、博雅は幸せそうな顔で小さくいびきをかくばかり。
「はあ…まったくお前って…」

「ククッ…。どれほどの月日を隔てても俺たちの博雅になんの変わりもないな。なんというか…天真爛漫ってか?」
こちらの晴明がおかしくてならぬと笑う。
「よく言えば…だろうが。なんだか俺はすごく複雑な心持ちだぞ。何年たっても変わらないっていうのは進歩がないってことだろ…。」
その隣で博雅が眉を寄せて言う。
「怒るな博雅。なにも変わらぬ、そこがお前のよいところだと言っているのさ。お前は変わる必要がない。おまえはそのままが一番よい。」
複雑な顔つきの博雅の肩に手を掛けて自分に引き寄せ、晴明は笑った。
「な、おまえもそう思うだろう?」
烏帽子が傾くからくっつくな、と文句を言う博雅をからかいながら晴明はもう一人の自分に尋ねる。
「ま、そういうことだ」
起こすのをあきらめてもう一人の晴明はよいしょ、と博雅を肩に担ぎ上げた。


「では、俺たちはもうゆく。」
博雅を担ぎ上げた晴明が言った。
「ゆくって、もうか?」
こちらの博雅が驚いた。
「ああ、俺はこいつを連れ戻しに来ただけだ。もう用は終わったからな」
「だが、せめてもう少しこちらにおればどうだ?せっかく来たというのに…。」
「いや、残念だが、長居は無用だ。」
月明かりに映える見目麗しい男は淡々とそう言った。
「だが…」
「やめておけ、博雅。もし俺がそっちの立場だったら同じことを言う。」
博雅をその腕に絡めとった晴明が言った。
「俺たちには俺たちが生きる時間がある。それは本来なら決して重なることのない時。あるべき姿でないものをいつまでもそのままにしておいてはならないのさ。」
「そのようなものなのか…?」
「ああ。それに俺の想い人は一人いれば充分だからな。邪魔者は早く消えろってな」
こちらの晴明はそういうとおもむろに博雅のあごを取って口づけた。
「むがっ!なっ…何をしゅるっ…!」
「そういうわけだ、早く行け、まだ年若い俺。後のことは俺に任せておけ。」
真っ赤になって怒る博雅の首に腕を回して、晴明はそう言った。
「…ああ、頼む。」
「それからその短気をもう少し治すことだな。お前のその感情が博雅にすべて向かったら、博雅の体がいくつあっても足りゃあしないぞ」
「はは。心得よう。では。」
切れ長の目をニッと細めて博雅を担いだ晴明は答えた。
「おい、戻るぞ」
懐からあの真っ赤に染まった紅葉の葉をピッと取り出すと晴明は楓の精霊に命じた。
「はっ、はいっっ!!」
楓の精霊がビシッと気をつけをして答える。

色とりどりの紅葉に彩られた葉が錦の渦を描き、三人の姿をこの世界から連れ去って行った。



暗い夜の森に一陣の風が巻き起こる。またしても集まりかけていた妖しどもがその風に乗って現れた人影に、あわててクモの子を散らすように逃げ去った。
 
「あの陰陽師が帰ってきたっ!」
「逃げろ逃げろ」
 
そうやって妖しの姿が消えた森の中に博雅を担いだ晴明、楓の精霊が二人が立った。
 
「ご苦労だった」
晴明が精霊に向かって言った。
「いえいえ、滅相もございません!お役に立ててなによりでございますっ!」
相変わらずびくびくとした様子で精霊が答える。
「で、あの〜…もうよろしいでしょうか…わたくし…?」
「ああ、もういい。」
「ああ、よかった…で、では、私はこれにて…」
あきらかにほっとして精霊は自身の本体である老木に消えようとした。その背に晴明が声をかける。
「ただし、こいつは貰っておく。また、お前に用があるときは呼ぶからな、そのつもりでいろ」
狩衣のふところから例の真っ赤な葉を取り出しひらりと振ってみせた。
「えっ!で、でも!もう…」
あせる精霊。
「なんだ、なにか不服か?」
「い、いえ…」
晴明の不機嫌満載のレーザー光線のような視線に精霊の言葉が立ち消えた。どうも、今この陰陽師に逆らうのは危険きわまりないと、いくら鈍い彼でもわかった。触らぬ神にたたりなしである。
この陰陽師はおっかないが、博雅さまと関わり続けられるのは決して悪い話ではない。と、あきらめて精霊はようやく自分の本体の中に消えていった。
 
さて、後に残ったのはいまだ意識のない博雅を担いだ晴明だけである。
 
「やれやれ、大騒ぎだったな。さて、どうしてくれようか…」
今はぐったりと体を預けている博雅をよいしょと担ぎなおして晴明はひとりごちた。
 
 
「…ん…」
なにかが額に触れた気がして博雅ははっと目を覚ました。
「ようやく気がついたか、博雅」
目の前に覗き込んでくる晴明の顔があった。どうやら額に触れたのは晴明の手のひらだったらしい。
「ここは…?」
半身を起こして辺りを見回す博雅。板敷きの上に畳が一枚、その上に衣を敷き横たわっていたらしい自身を見下ろす。浅黄色に地模様も鮮やかな狩衣。
「はあ…やっぱり夢じゃなかった…」
大きくため息をついて肩を落とす。
「夢じゃないとは?」
「昔に飛ばされてしまったのはもしかしたら夢だったのではないかと…そう、思ったものですから…それにしても、私は今までどうしていたんだろう…なんだか覚えがない…」
意識をはっきりさせようと博雅は頭を振った。
「朱呑童子はいたずらが好きですからね、あなたの頭の中を少し悪さしたらしい。でも、もう大丈夫…私がいます、安心してください」
白い狩衣に身をつつんだ晴明がに〜っこりと微笑んだ。
「私の世界の晴明とは随分ちがいますね。」
つられてにっこりと微笑んで博雅は言った。
「ほう?…そんなに違いますか?」
口の端をひくっと小さく引きつらせて晴明は優しく尋ねた。
「どうちがいます?」
「う〜ん、そうですねえ、なによりあなたのほうがずうっと大人だ。」
「へえ…」
「あっちのあなたは気が短いというか、すぐ機嫌が悪くなるのが悪いクセで、ホント時々いい加減にしろって思うことがありますよ。あれでも、まだ再会したばかりの頃はもっとましだったんですけどね」
そういって博雅はハハと笑った。
「それはきっと、あなたが相も変わらず色んな揉め事に自ら巻き込まれて回っているからではないでしょうか…?」
「は?」
急に剣呑な雰囲気をまとい始めた晴明に博雅は不安な目を向けた。
「あ、あれ?と、ところでもう一人の私は?」
きょろきょろとあちこちを見回して博雅は聞いた。なんだかものすごく嫌な予感がする。
「それに…そうだ!童子さまは??」
そういえば最後に一緒にいたのは朱呑童子だったと、ハッと思い出して博雅は聞いた。確か、昔の晴明と俺と一緒にいたところに童子どのが現れて…。そこから先の記憶がない。
「ほ〜。まだあの妖しの心配をするか…」
さらに剣呑なオーラが強くなった気が。
「あ、あの…晴明…?」
おそるおそる、そうっと声をかけた。
「も、もしかして…」
博雅が言ったときだった。
 
チャラリラリラ…。
 
どこからか小さな電子音。けっしてあの時代にはない妙なる音色?
 
「ま、まさか…???」
博雅の顔面から、さあっと血の気が引く音が聞こえた…気がした。
 
「…おかえり…博雅」
 
「せっ!晴明っっ!!」

まるであの時代のようにしつらえられた室内をバックに、狩衣姿の白い陰陽師が冷たく微笑んだ。
 
 
 
「なあ、晴明、あのふたりどうしたかなあ」
夜空にぽっかりと浮かんだ丸い月を暢気に見上げながら、博雅は尋ねた。
「さあな。」
手にした瑠璃の杯をクイと煽って晴明は答える。いつもの柱に白い狩衣の背を預けて片膝を立てたいつもの姿勢で。
「心配いらないさ、きっと今頃俺たちみたいに仲良く酒でものんでるさ」
「そうか。そうだな、きっと。どれほどの時がたとうと俺とおまえだものな。」
そういって博雅も前におかれた杯を取った。
「…そっか…よかった…」
にっこりと微笑んで杯を口にした。
 
どうだかな…長い時を隔ててしまった分、おまえに対する俺の想いは一層強くなっていた…
 
あまり博雅をいじめるなよ、もう一人の俺…。
 
博雅にはほんとのこと言うわけにはいかないな、と晴明は再び満たされた杯を手に取りながら思ったのだった。
 
 
「…あっ…ああっ…せ…めっ…ごめ…っ…」
「当分、外出禁止だ。博雅」
 
千年の時を隔てて月の明かりは今夜も蒼い光で地を照らす…。
 




                               終  劇


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