うたた寝
〜うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき〜
「行かねばならぬか…」
白い狩衣を涼やかに身に纏い濡れ縁の柱の一本に背を預けて、さも面倒くさいとばかりにため息をついたのはこの都に晴明ありと言われた名高い陰陽師 安倍晴明。
白く長い指にかわらけの杯を持ち、傍らに座す白拍子姿の式神に酌をさせ一人で酒を飲んでいる。
青い月を一人眺めながらそうやって時折唇に酒をはこぶ彼は女性(にょしょう)と見まごうばかりの見目麗しい男であった。透き通るような色の白いかんばせに、切れ長の少し青みがかった憂いを帯びた瞳。すっと通った細い鼻筋に血のように紅い唇。世間のうわさで狐の子といわれているのもなるほどと思わせるように、まるで白狐の化身かとおもわせるような常人にはない妖しい雰囲気を持った人物であった。
その彼が人らしく鬱陶しそうにため息をついているのにはわけがあった。
その日、久方ぶりに陰陽寮へと赴いた晴明。今上帝からのたっての要請で参内したのだった。
「安倍どの。これはお久しい…。」
「晴明どのが参内しただと、めすらしやめずらしや」
陰陽寮のたいした能力もない連中が口さがなく晴明を揶揄するなか、平然とした態度の晴明。若くして天文博士になったことや、その名声をひがんで今までも影で散々言われてきた。どうせろくなことは言われていないのだ、今更気にしたところでどうにもなるものでもない。
ひそひそと声を潜ませこちらを伺っている連中に冷たく微笑みわずかに頭を下げると、さっさと仕事を済ますべく今上帝のもとへと向かった。晴明はまだこのころ貴族には列せられてはいない。名こそ高いが身分のうえでは地下のものにすぎなかった。今上帝に直接お目通りするなど本来はとても考えられぬことであった。
「おお。晴明、よく来た。」
御簾の向こうから帝が自ら晴明に声をかけた。。そばに仕える者たちが明らかに不快な表情を浮かべた。地下のものにじかに話しかけるなどもってのほかだと思っているのだろう。
晴明はただ黙って頭を下げた。
「じつは晴明よ。朕のいとこに当たる博雅が今度新しく屋敷を建て直すこととなってな。お前にそのものの屋敷の吉凶など見てもらいたいのだが…頼めるかな?」
(また面倒なことを…)
心にそう思ったがもちろん顔には毛ほども出さずに晴明はついと顔を上げた。
「この晴明でよろしければ…」
聞きようによっては不遜とも思える言い草で答えた。
「はは。そちがよいのじゃ謙遜いたすな、では明日にでも博雅のところへいってやってくれ。ぜひよいようにしてやれよ。」
「帝からじきじきに頼まれごととは、さすがに天下に名だたる陰陽師さまはちがうものよなあ」
わざと聞こえるように遠くのほうで言う声が聞こえる。
(これだからここにくるのは嫌なのだ。貴族とは名ばかりの下種どもめ…)
これでは屋敷にいてもっと身分の低い市井のものの相談事を受けているほうがましだ。
おまけに御簾の影からは歩くたびごとに袖を引かれ、晴明の紺色の直衣の袖は香の焚きしめた文でいっぱいになっていた。これにしても本当に恋焦がれて実も世もなといった内容の文ではない、一夜限りの逢瀬をと望むものばかり。おしとやかに顔すら見せぬ女房たちとて計算高いただの女どもに過ぎない。
右を見ても左を見ても、ここには爛れきった貴族どもばかり…。
すっかり滅入った気分になって晴明は屋敷へと戻ってきた。
それでも約束した以上明日は行かねばならない。
それを思うと美しい月を眺めながら飲む酒もいつもより美味くはないというものだった。
源博雅。
近衛府中将だということと、たいそうな笛の名手だとは聞いているが…。
笛のうまいやつに限って女遊びの激しいやつが多いものだ。笛が美味く吹けるだけで女どもからはもてると言うではないか。そのために必死で練習しているものもいるくらいだからな。まあ、適当に方位を見立ててさっさと帰ってこよう。そして今宵こそはゆっくりと美味い酒を楽しむのだ。
そう思っていた。
…本当にあの男に会うまでは。
「安倍晴明殿にあられるか?」
ニコニコと屈託なく笑ってその男は晴明の前にあらわれた。まるで日の光を集めたようなそお笑顔に、晴明はまるで心臓をわしづかみにされたような気がした。
「わざわざお越しいただいて申し訳ない。どうぞ遠慮せずこちらへ。」
一段下がった板の間に座した晴明を自分と同じところへと手招きした。
「いえ、私は地下のものでございますゆえ源さまとは同じところへは…」
まぶしいほどのその笑顔から目をそらして、晴明は深く頭を下げた。
「そうですか…私はそんなことは気にしないんだけどなあ…では。」
ミシリと床がきしんだ音がしたかと思うと、顔を伏せていた晴明の目の前に影が差した。はっと顔を上げるとそこに博雅の姿があった。
「あなたが私のそばには近づけないと言うならば私があなたのそばにゆけばいい、ね、そうでしょう?」
そう言って晴明と同じ板の間に座した。
実はその後のことを晴明はよく覚えていない。
確か裏鬼門が坤(こん)であるから表鬼門を良(ごん)にしないと、人の出入り口と鬼の出入り口を分けることはできないとか、そのような話をしたことは覚えているのだが…。
家相など方位がどうでもいいというわけではないのだが、特別な歪みや変形がなければさしたる問題にはならぬもの。
そんなことよりも源博雅という世にも稀な穢れなき殿上人の存在にひたすら圧倒され、惹きつけられていた。
人の足を引っ張り合うのが日常茶飯事の、どろどろとした貴族の世界にこのような男がいたなどとは…。
晴明に対しても、新しい屋敷を建てるために働いている者たちに対しても、何の分け隔てもなく接するその態度。その心やすい態度に汗にまみれて働くものたちの顔にも明るい笑顔があふれていた。自分よりもずっと身分の低い者たちに、このような接し方をする殿上人など見たことも聞いたこともなかった。
「ずいぶんとこのような者たちにも、お心を配られるのですね」
もしかしたらそれは表向きだけのものかもしれないと意地悪く考えて、晴明は博雅に問いかけた。
「晴明どの。あなたは額に汗して働くものたちを下に見られるか?私はそうは思えぬのですよ。だってそうでしょう?私には彼らのように建物を建てることも、農民のように田畑を耕し作物を育てることもできない。私にできるのは命をかけて今上帝をお守りすることと、下手な笛を吹くことぐらいがせいぜいです。私などよりこのものたちの方が本当はもっと偉いのではないかと、そう思いますよ。」
これが殿上人と言われる身分のものの言うことだろうか。その身分にあるほかの者たちは、自分より身分の低いものを人だとすら思ってはいないと言うのに。
「…あなたは凄いお方ですね。」
紅い唇に本当の笑みを乗せて晴明はそう答えた。
「晴明…晴明…」
誰かが遠くで呼んでいる…
ああ。これは源博雅様のお声だ。もう一条戻橋を越えられたのだろうか…。
あのお方がやってくるのが待ち遠しい…。
ぼんやりとした意識の中で、晴明はそう思っていた。
「せいめいっ!」
耳元で大声を出されて晴明ははっ!と目を開けた。
「やっと起きたか、この寝ぼすけめ。」
目の前ににこやかに笑う博雅の顔があった。
あの遠い昔にたった一度で自分をとりこにしたその笑顔が、昔と何の変わりもなく。
「早く起きろよ。いい天気だ、どこかにいい空気でも吸いに行こう。」
「博雅…」
「ん?なんだ?」
晴明は手を伸ばして博雅の頬にそっと触れた。
「お前に会えてよかった…」
「なんだ?急に?」
博雅が少し戸惑ったように笑った。
「何でもない。…ちょっと昔の夢を見ていただけさ。」
そう言って晴明は博雅の首に手をかけ、その日の光を宿した笑顔を引き寄せると唇を重ねた。
へたれ文へのご案内
遠い昔の二人の出会いを書いてみました…う〜ン、平安って難しいっっ!それに帝とはいとこじゃなかたような…(汗)
ああ、時代考証がっ!