流鏑馬(やぶさめ)




「よっ!」
そういって、ニカッと笑って手をあげたのはまだ年若い近衛府中将、源博雅朝臣。
「なんだ?」
目を細めてすこぶる機嫌のわるそうなオーラを放って答えたのは、こちらは都一と評判の名高い陰陽師、安倍晴明。
「なんだ、晴明、ずいぶんご機嫌ななめだな?」
「あともうちょっとで読み解くことができたんだ…邪魔しおって…」
文机の上の巻物がすうっと勝手に巻き戻った。
カタンとすずりの上に筆を置いて晴明はたった今どかどかと盛大に足音を立てて屋敷に上がりこんできた男を見上げた。
「今日はなんだ?」
「今日はなんだって…冷たいな、晴明〜。用がないと来ちゃいけないのかあ?」
大きな体の癖に泣きそうな声。
「当たり前だ。おまえは帝と同じ血を持つ由緒正しき殿上人。俺のような地下のものの所に単身でやってくるものじゃない。」
そういって晴明は目のまえでぶーたれる博雅をぎろっと睨んだ。
「殿上人ねえ。俺はそんなの生まれた家がたまたまそんな家系ってだけで俺自身には何の関係もないと思うけどなあ。」
ぽりぽりとあごを掻きながら晴明の前に腰を下ろした博雅は言う。
「その家系に生まれたのだから関係があるのだ。ばか。」
「…由緒正しい殿上人にばかなんて言っていいのか?」
言ってることとやってることが違うじゃないかと博雅はあきれて言った。
「殿上人でもばかはばか。で、何にも用がないならとっとと帰れ。」
冷たく言い放つと晴明はまた文机に向かった。
「…冷たいやつ。」
「冷たくてけっこう。お前が暑苦しすぎるんだよ。」
晴明は一度は片付けた巻物を手に冷たく返した。
「用ならあるんだよ。晴明。」
「どんな?言っとくがあの男からの命令なら聞く気はないからな。」
「あの男って…。そんな呼び方するなって。」
あの男とは時の権力者、今上帝のことである。いつもそんな呼び方をするなととめるのだが何回いってもこの高名な陰陽師には馬の耳に念仏である。
「とにかく、あのお方さまからの依頼とかではない。俺の個人的な用件だ。」
「おまえの?」
書物に落とした目を上げて晴明は聞いた。
「実は…その…ふみを貰ってしまってなあ。」
「文?まさか恋文か?」
博雅のほうに向けられた晴明の背中がぴくっと揺れた。
「たぶんな。」
「…よいではないか。お前だってそろそろ北のお方をお迎えしてもおかしくはない年だ。」
途端に晴明の言葉の歯切れが悪くなった。
「…ほんとにそう思っているのか?晴明」
その晴明の背をじっと見つめて博雅が聞いた。
「ハ。思ってるにきまってるではないか。お前が妻を娶ることになればやがて子もできよう。そうすればお家は安泰、末々まで源家は続く。めでたいことではないか。」
くるっとふり向いて晴明は朗らかに笑った。晴明にしては明るすぎるほどの笑顔。
「…はあ。」
がっくりと肩を落として大きなため息をつく博雅。
「なんだよ…その大きなため息は…」
「俺は妻など娶る気はない。」
大きく胡坐をかいたひざにひじをつき、むすっとしてあごを支えた博雅が言った。
「…どうしてだかわかってるだろう?」
じっと上目遣いに見つめてくる博雅の瞳がそのわけを雄弁に語りかけてくる。
「…まあ、いい。とにかく今はこっちを。」
何も返事を返さない晴明の前にきちんと折りたたまれた文を置いた。文に沿わせて一輪の青い竜胆の花が添えられていた。
「見ていいのか?」
「ああ。」
 
川の瀬に靡く玉藻の水隠れて人に知られぬ恋もするかな
 
 
「これはまた…」
晴明がふむと考え込む。
「人知れず恋焦がれている…ってか」
「…うむ…そういうことらしい…」
弱りきった表情で博雅が言う。
「別に何の問題もあるまい?会いたくなければ傷つかぬように優しい歌のひとつも返せばよかろうが。」
ぱたぱたと文をたたむと晴明はそう言った。
「人に知られぬように恋焦がれているというのだから、目立たぬように返歌を返せばば相手の姫も傷つかずにすむだろう?」
「いや…それがどうもそういう意味ではないのだなあ、これが…」
「違うのか?」
「うむ」
 
「は?紀友則どの?」
「うむ…」
「ほんとか?」
「…う…うむ。だから困っているんだ」
「それはまた…」
 
博雅に恋の歌を送った主はだれあろう、今をときめく宮中の綺羅星(スター)紀友則。折れそうに華奢な体躯に儚げな美貌の歌の名手。
美しさなら晴明に負けずと劣らずのいい勝負。かなりタイプが違うが。
「あの男がお前に?」
「姫ならまだしも、野郎ではなあ。返歌を返すといってもなんと詠めばいいのか。だいたい、俺は歌なんて、てんで駄目だし。」
晴明以外は男は受け付けない博雅にとってはとっても迷惑な話であった。
「いったい、いつの間に見初められたんだ…」
晴明の声が少々戸惑ったように聞こえる。
そんなに目立つほうでもない博雅、よくよく見れば、すっきりと整った顔立ちに、そこはかとなく立ち上る男の色気がなんとも言えず魅力的だが、なかなか、そこまで気づくものなど今まではいなかったので、晴明はいつの間にか安心していたのだった。
表情は先ほどと変わらず平静を保っていたが、心穏やかならざるものがある。
 
「どうも先日の流鏑馬のときに気にいられたらしい。」
博雅は、心当たりはそいつぐらいだと言った。
 
 
先日の流鏑馬。本番まではまだ日があったのだが皆で集まっての演習があった。
たいそうな良い天気に片肌脱いで流鏑馬の演習をしていたところに、たまたま来合わせたのが紀友則だった。
「なんだかえらく視線を感じたんだよな。まさかそんな意味だったとは気がつかなかった」
弓を射る博雅に一目ぼれしたということか…。さもありなんと、晴明は思う。大体にしてこの源博雅という男、普段はぬぼーっとして見えるくせに弓を取ったり、刀を手にしたりすると雰囲気ががらっと変わるのだ。いつもはにこにこして頼りなく見える目に力がこもると人はこうも変わるものかとびっくりするほどだ。
おまけになにげに体をきたえているものだから、片袖脱いだりした日には、その下の程よく鍛え上げられた体もお披露目されて、その手の野郎にはさぞいい目の保養になったであろうことは容易に想像できた。
 
まったく。
 
晴明は、目の前で困った困った、といいながら頭を抱えている男を、ちらっと見てため息をつきそうになる。
 
「いやなら、きっちり断ることだ。俺にはそれしか言えん。」
少々、へそを曲げながら、そう博雅に言った。もちろん、そんな気持ちなど、おくびにも出さなかったが。
「…じゃあ、おまえという恋人がいるからって言って断ってもいいと思う?」
「なんでいちいち俺の名を出さんといかんのだ。適当に言って断ればいいじゃないか。」
「いや、この際、おぬしとのことを公にしときたいかなあ…なんて」
「馬鹿か!」
晴明が博雅の言葉にあきれたように声を上げた。
「…俺は本気だぞ。」
むっとした顔で、ぼそっと言う博雅。
「だから、始末に悪いのだ。そんなことおおっぴらにして困るのはおまえだろうが」
博雅の言葉に胸がどきっと高鳴ったのを隠そうと、晴明は目の前の男から顔をそらしてはき捨てるように言った。
「困らないさ。俺は別に高位を望んでもいないし、おぬし以外の恋人などいらん。なによりおぬしといつも一緒にいたい」
いつもにないまじめな目をして、博雅は晴明のそらされた横顔を見つめた。
「…ほんとに…困った男だな、お前ってのは。…妙なところで頑固だ。」
頬に博雅の視線が熱い。晴明の声が小さくなった。
「一途っていえよ」
「ばか…そんな恥ずかしいことよく言うな。…あっ。」
博雅の手が伸びて晴明のあごを取ると自分の方にその顔を向けた。
「誰よりもお前が一番。」
そういって晴明が文句をいう間も与えずに、その紅い唇に口づけた。
 
しばらくの後。
二人はすっかりとくつろいだ姿で濡れ縁にあった。いつもは晴明が背を預けている柱に、今は博雅がその背を預けている、晴明はというと、やや乱れた長い髪を博雅の大きな手に漉かせながらその胸に体を預けていた。博雅の足の間にすっぽりと納まってそのひざを肘掛にして。
「…で、どうするつもりだ?」
単一枚を羽織っただけの晴明が博雅の腕の中から聞いた。
同じように単を肩からかけただけの博雅が晴明の髪に鼻を摺り寄せながら
「う〜ん、どうしたもんかなあ」
と唸った。
「この際だから、一度、褥を共にしてみようかな?」
「なにっ?」
博雅の口からしれっと出た言葉に、腕の中の晴明がキッと目を上げる。
「クククッ。冗談だよ、冗談。」
機嫌を損ねて博雅の腕の中から抜け出そうとする晴明をぎゅっと捕まえる。
「ほんとはな、お前が嫉妬してくれるかと、結構、期待してこの話をもってきたんだ。」
「なんだって?」
「なのに、お前、ちっとも動じないんだもんな。正直、がっくりきたよ。」
「…なんだ、じゃあ最初からどうするつもりか決めてたんだな、相談するふりをして俺をからかっただけか?」
「違う…ちょっと心配してほしかったんだ」
「心配…したさ」
「ほんとに?そうは見えなかったぞ」
疑わしげな目で晴明を見下ろす。
「しないわけないだろ…俺の恋人なのに…」
「だいじな?」
畳み掛けて聞く博雅。
「…う…うむ」
「たった一人の?」
どんどん畳み掛ける。
「…ああ…」
「なんだ、それをいつも言ってくれればいいのに」
ようやく晴明の口からほっとする言葉を取り出すことができて、博雅は大きく笑み崩れた。
「いえるか、ばか」
ぷい、と、あさっての方を向いてつぶやく晴明。
「でもたまに言ってくれないとなあ。友則殿なんてあれほどの美人、女でもそうはいないぞ。俺がつい、くらっといったらどうする?」
「くらっとしたのか…?」
じとっとねめつける晴明。
「するわけないさ。ここに天下一の美人がいるのにさ。」
「ふん」
「友則どのには名前は出さずに、俺にはこの世で一番の想い人がいるからって、ちゃんと断っとくよ。」
晴明の耳朶にするりと舌を這わせて博雅は囁く。
「…ん…」
白いのどを仰け反らせて晴明の鼻から甘い息が上がる。
「明日の流鏑馬、ちゃんと見に来てくれよ。友則殿に見られるより、おぬしに来てもらったほうがやる気が出る。…おぬしのために勝ってみせるから。」
単の袷を博雅の手が滑る。
「あ…」
伏せられた晴明のまつげが悩ましく閉じられていった。
 
 
「晴明〜っ!!」
馬上から大声を出してこちらに向かって手を振る男を見て、困ったような表情の陰陽師。
晴天の下、日の光の申し子のような博雅は大勢の中でも、ひときわその凛々しい姿を際立たせていた。
手甲をした手に握られた大きな強弓。にっこりと笑ったその顔に白い歯がきらっと光る。
御簾の向こうから女房たちのため息がほう…っと聞こえる。…ついでに晴明のすぐそばからも同じようなため息が。
ちらっと見れば案の定、紀友則、その人であった。
 
「ああ…今日はまたさらに素敵だ…」
晴明の耳に友則の独り言がちらりと聞こえる。
 
でも、残念。あれは俺のだ。
 
やがて届くであろう博雅からの断りの文。かわいそうかとも思うがこればかりは譲る気などない。
 
心の中でそういうと、晴明は白い狩衣から出した手を彼の人に向かって小さく振った。
 
あの日の光の化身は、呪など使わなくても、いつだって自分のところに飛んできてくれる自分だけの守護神。
大きな馬をたくみに操りながら目の前を駆け抜けてゆく博雅を見つめて、晴明はこの上もなく幸せを感じていたのであった。
 
 
 
 


          リバースにもどります