蘇る金狼(2)




「そ、そこの君っ!」
黒板の張り付けられた陰陽師の霧麻呂が博雅に気づいた。両脇にバンザイの形に張り付いた手の先だけを必死に動かして甲高い声で博雅を呼んだ
「俺?」
呼ばれて博雅は自分を指差した。
「そ、そう、きっ!君っ!!は、早く、だ、誰か…け、警察!警察を呼んでくれっっ!」
「警察?」
思わずびっくりして聞き返す。
なんで、警察??
「そうだよっ!!警察を呼んでこっ、こいつを早く逮捕してもらってくれっ!は、早くっっ!」
真っ赤に塗りたくられた口をいっぱいにして喚く。陰陽師としての威厳もなにもあったものではない。
「警察なんて呼んだってしょうがないでしょう?だって、こいつ人間じゃないし」
そう博雅はあきれたように言った。そりゃあ、妖怪変化よりどんなでも人間のほうが今の状況ではマシだろうが、今のこいつはどこから見たって人間には見えない。
「ほらあっ!やっぱお化けだよっ!霧麻呂さんっ!!だから、俺、そうだって言ったじゃないかよーっ!」
博雅の言葉に霧麻呂のとなりに張り付いたアイドルが泣きながら文句を言った。
「あんなの退治するのがあんたの仕事だろーがよっ!!」
そのさらに隣のカメラマンも言う。もう、その手にカメラはないから、言いたい放題である。
「違うっ!」
ぶんぶんと首をふって霧麻呂はわめく
「あれは霊ではないっ!あ、あんなはっきりした霊なんているものかっ!あ、あれは私の怨霊退治を失敗させようとする、テ、テレビ局の陰謀だっ!」
もう言ってることが支離滅裂である。なにがなんでも人間じゃないとは認めたくないらしい。

目の前に、世にも不気味な妖しがいるというのにギャンギャンと喚きあう人間たちに、博雅は大きくため息をついた。

「はあ、なんだかなあ…」

こんな馬鹿馬鹿しいことのために、貴重な二人の時間をつぶしていたと知ったらあの男は怒るだろうなあ、と、どっと疲れる。

「うわわわっ!ば、化け物っ!!!」
ため息をつく博雅の背後でもうひとつ悲鳴が上がった。
責任があるから残りますなんて殊勝なことを言っていたはずのプロデューサー、おそるおそる博雅について教室に入って、ようやく暗闇に目が慣れたと思ったら妖しの姿が目に入ったらしい。
「ひいいっ!」
と叫んで、来た道をダッシュで逃げ出す。
「お、おい…」
思わず声をかけたが彼は振り向きもせず廊下を走っていってしまった。
デデデデッ!
階段を転げ落ちたような音が聞こえた。

「…参ったね」

仕方がないよな、できるものなら俺だって逃げ出したいよ、と思いながら博雅はあきらめて志士と蜘蛛の共存体と向き直った。
博雅とわずかと離れていないところで、額に血に汚れた鉢巻を巻いたざんばら髪の志士がふらりふらりと揺れて立つ。
ばっくりと割れた顔面の傷に蜘蛛がわらわらと這ってはいるが、年のころなら十七、八ではないだろうか。わけもわからず砦を守って死んだのだろうか。それともこれも殿のため、世のためと命を張ったのか。暗いうつろなその眼窩からはもう何も読み取ることはできない。今はもう妖しの依り代と成り果てたその姿。

「哀れな…」
眉間にしわを寄せて博雅は呟いた。
できるものなら、縛り付けられたこの迷いの苦界から解き放ってやりたい。

「お前はどうしてほしいんだ?望みがあれば聞こうじゃないか」
聞こえてんのかな、と思いながらも聞く。大体、その場につなぎとめられている霊なんてものはそこに何かの強い念いを残しているからに決まっている。それさえ、満足させられたならば大概成仏するものだ。できることなら本人の望むようにして成仏させてやりたい。
が、そんな博雅の思いは届かぬようで。
 
「おのれ…われらは…負けぬ…何が新政府だ…。我が軍は…決して引きは…せぬ…」
ビタリ…ビタリ…。
顔面から血と蜘蛛の子をボトボトと落としながら志士が博雅に迫りくる。その姿は鬼気迫るものがあった。
「聞いてないか、やっぱり。」
肩を落とす博雅。
それにしてもさっきまでは霧麻呂らに向いていた敵意がなぜ、博雅に向かったのか。博雅のほうが霧麻呂より優れていたから?それとも博雅が声をかけたから?いや、そういうわけではない。
実は、こういうときのために、近頃、博雅は密かにあるものを身に着けているのだった。
たぶん、それが人にあらざるこの志士の霊にはわかったのだろう。

「我らの…我らの砦を…守るのだあああっっ!!」

それまでヨタヨタといってもよかった志士が、突然、太刀を振りかざし博雅に向かって飛び掛ってきた。まるで疾風のような勢い。

「きゃああああっっ!!」
「うわあああっ!やめろよーっっ!!」

霧麻呂の闇を裂くような甲高い悲鳴とアイドルやテレビクルーの叫び声が暗い校舎に響き渡る。
みんな博雅が絶対殺られたと思って一斉に目をつぶった。が、博雅の悲鳴は聞こえない、代わりに鋼のぶつかり合う音が響いた。

ギンッッ!!

皆がおそるおそる目を開けてみれば。博雅はどこから取り出したのかすらりと長い太刀で志士の太刀をがっちりと受け止めていた。

「腐っても、武士(もののふ)だねえ。君。」
ニッと白い歯を見せて博雅は笑った。
「おのれ…薩長の犬…めっ…!」
血塗られた顔に炎をような目つきで博雅をにらみつける志士。食いしばった歯の間からしゅうしゅうと人の肉の腐った臭いを撒き散らす。
「俺は官軍なんかじゃない。もう、君らの戦いはとっくに終わってるんだ。早く皆の待つ空の上へ君も行きなさい。」
博雅は優しくそういった。が、もちろん必死で砦を守っているつもりのこの少年のような志士には、そんな博雅の優しい思いなど通じるはずもなく。
「うそだっ!われらの戦いは終わってなどいないっ!お前にはあの炎が見えないのかっ!あれはこの砦を取り巻く薩長の犬どもめのかけた火。ここがわれらの最後の砦!我らはここを死守するのだっ!」
ますます気持ちを高ぶらせて博雅に向かってぎりぎりと太刀を押し込める。
「火だって?そんなものどこに…?」
志士の刀を鍔で受けた博雅は頭を傾げる。
この男の生前に見た幻影か?
いや、それにしては違うような。

「おのれえええっっ!」
「うわ。いくら暗くてもこのアップはキツイぞ」
生臭い霊気のかかる至近距離で志士の顔が眼前に迫る。その顔の傷の中で蠢く無数の蜘蛛たちまでが間近に見えてさすがの博雅もゲッとなった。
「ん?」
暗くてよくわからなかったが、よくよく間近で見れば無事なほうの目にも蜘蛛たちがびっしりと群がっているではないか。

もしかすると…?

この志士に幻影を見せてこの場に繋ぎ止めているのはもしかしたら、この蟲たちではないのだろうか。
なんとかその目からこいつらを取り払えば…。
そう思った博雅の思惑に気づいたかのように志士の顔面に巣食う蟲たちがざわりと蠢く。

『ヨケイナコトヲスルナ…』

志士の霊とも人の声とも違うまったく別な声が博雅の頭のなかに響いた。
「なんだ、今の声?」
ハッとする博雅。
「ぐがああっっ!」
志士が渾身の力を込めて、ぎりぎりと博雅の体を太刀ごと押しやってくる。ただのつばぜり合いなら決して博雅も引けをとりはしないのだが、頭の中に響く声に気を取られた。
「おっと。」
志士の顔が競り合う刀身を超えてさらに博雅にせまる。
「うわっ!」
キンッ!と志士の太刀を跳ね除けて飛び退ると、博雅は手で顔をばさばさとはたいた。志士の顔面に巣食う蜘蛛たちが博雅に向かって飛んだのだ。

太刀でこられるのならばなんとでもなるが、これはたまらない。
「ぺぺっ!うは!!」
口に入った蜘蛛の糸を弾き飛ばしながら博雅は顔を振った。

『ヲマエ…ジャマ…』

その博雅の頭の中に、またしてもさっきの声が聞こえた。

「やっぱり、こいつらか!」
顔にまといつく蜘蛛と、そいつらが吐き出す糸を片手で払いながら、博雅は志士の顔面に蠢く蟲の塊を睨んだ。
「おまえらがこのかわいそうな男の霊をだまし、取り憑いてるんだなっ!」
気合とともに博雅に斬りかかる志士の剣撃を紙一重でかわしながら、博雅は黒板に貼り付けられた霧麻呂に向かって声をかけた。
「霧麻呂さん!あなた陰陽師なんでしょう?こいつはテレビ局の回し者でもなんでもない。本物の妖しだ。あなたの術でなんとかできないかっ?!」
急に自分に話をふられて、それまでポカンと博雅の戦いぶりを見ていた霧麻呂がハッと我に返った。

「わ、わたしっ??むっ、無理無理無理っっ!!
目を真円に見開きながら、霧麻呂はぶんぶんと唯一自由な首を激しく振った。
「無理って!あんた、平成の陰陽師で、悪霊退治ならおまかせあれって言ってたじゃないかよっ!!悪霊も妖怪もおんなじもんだろ、なんとかしろよっ!」
そのすぐ隣に張り付いたアイドルが霧麻呂に怒鳴った。
「こんなときに役立たなくってどーすんだよっ!!」
「そんなこと言われたって、無理なものは無理だっっ!」
「なんでだよっ!!あんなの退治するのがあんたの仕事じゃんかっ!普通の先生でさえあんなに頑張ってんのに、あんた何情けないこと言ってんだよっ!」
さらにその隣のカメラマンも怒鳴った。
「こ、請われれば是非にも助けてやりたい、と、ところであるが、かように体が動かぬ今は、いかな、わ、わわ私といえど、ど、どどどうにもな、ならぬ!ヒジョーに、ざ、ざざ残念であるがっっ」
ツンと上げたあごが言葉とは裏腹にガクガクと震えている。
「なんだよっ!結局、カッコだけかよっ!」
「使えねえヤローだな!」
「この馬鹿っ!」
アイドルやテレビクルーの間から罵倒が飛ぶ。その間も志士の剣と戦っている博雅は、はあ、ほんとに困った、と密かに頭をかかえた。
なにしろ、相手は本来ならば実体すら持たない霊である。それが何らかの理由で実体を持っているだけなのだ。ということは、すなわち、斬っても突いてもこれ以上死なない、ということ。
いわゆるゾンビみたいなものである。
霧麻呂が陰陽師としての能力を持たない以上、自分が何とかしなければならないようだ。だが、博雅とて霊を封じる力などない。ましてや妖しを封じる術も専門外だ。
「まったく困った」
ただ、ひとつだけ、よく知っていることがあるにはあったが。

朝の光。

どんな妖しも怨霊も、煌きながら夜の闇を払って差し込んでくる明るい朝の光には絶対勝てない。それだけは絶対間違いないはず。
遠い昔にも、妖しに取り囲まれた貴族たちが念仏を唱え、ひたすら朝を待つことが多だあったものだ。
博雅の太刀がヒットしても一向に平気な志士の様子に、博雅はこりゃあ、こいつが消えなければいけない朝までこの調子か?と少々げんなりしてきた。朝まではまだ随分と時間がある。志士の太刀筋はまったく大したことはないが、念仏を唱え続けるのとはわけが違う今の状況が朝までとなると、かなり体力がキツそうだ。

「持久戦かよ…」

志士の太刀を跳ね除けながら博雅はぼそっとつぶやいた。

『オマエ…ヘン…ハイジョ…ハイジョ…』
博雅が普通の人間とはかなり違うのに気づいたのか、蜘蛛の意識らしきものの感情が博雅の脳裏に流れ込む。
『ワガ子タチノタメ…オマエ…ハイジョ…』
「わが子だって?この声はこいつらの集合意識じゃなかったのか?」
頭の中に響く声が言った言葉に博雅は驚く。
その時、志士の顔面の傷がさらにばっくりと大きく割れた。

「うわわわっ!!きっ、気持ち悪っ!」
思わず博雅も声を上げた。それもそのはず、ガバリと不気味に大きく開いた志士の顔面から、その傷口のサイズいっぱいにでかい蜘蛛が長い足で這い出てきたのだから。

『ハイジョ…スル』

八つ並んだ真っ黒な目の下にある小さな歯がびっしりと並んだ口から、博雅に向かって緑色の液体がブシュッと飛んだ。

「うはっ!」

顔めがけて飛んできたそれを間一髪でかわす。後の古ぼけた机がジュワッ!と音を立てて半分溶けた。
まるで硫酸のようだ。あたりになんともいえない嫌なにおいが立ち込めた。
「きゃああっ!」
「うわわわわっ!」
黒板にくっついた連中の悲鳴がいっせいに上がる。
「あんなのかかったら死んじゃうようっ!なんとかなんないのかよ、このクソ陰陽師っ!」
アイドル(のはず)が顔中を口だらけにして喚く。
「なんとかしろっ!!」
他の連中も怒鳴る。
「わ、私に向かって怒鳴るな!こ、こここここのぶ、無礼者っ!」
敢えて目の前の現実から意識を逸らせて怒鳴り返す霧麻呂。何もできなくても自分のプライドだけは絶対手放さない。
「なんのための陰陽師だよっ!この役立たずっっ!!」
「や、やややや役立たずだとうっっ!こ、こここの私に向かってなんてことをっ!!」
アイドルの放った一言に霧麻呂が激高する。
「だって、そうじゃんかよっ!なにが平成に蘇った伝説の陰陽師だっ!眉唾もいいとこじゃんか!この役立たずっっ!!」
「また言ったなああっ!」
きいいいっ!と霧麻呂がヒステリーのような声を上げる。

…だめだ、こりゃ。

霧麻呂に頼るのは時間の無駄だということだけは、よーくわかった。
とりあえず、博雅の攻防は続く。
しかし、あんな毒液はさすがに太刀でかわすことは無理だ。

ますます朝が遠くなってきたぞ…。さあ、どうする俺?

じわじわと壁際に追い詰められる博雅。

くそっ!いざとなればこいつをどこか他におびき寄せてその間にあの人たちを助けるか、…でも、俺一人じゃ無理だ。
唯一手伝えそうだったプロデューサーはさっき逃げちゃったしな…。

色々と考えながら戦うのは、いかな博雅といえどあまりよいことではない。意識が戦闘からそがれるからだ。
案の定、足元まで注意を払っていなかった博雅のかかとが、まうしろにあった撮影機材のコードに引っかかった。

「うわっ!!」
バランスを失って後に倒れる博雅。その隙を逃さずに志士の顔面から、恐ろしく素早いスピードで蜘蛛がカサカサッと乾いた足音を立てて這い降りた。
尻餅をついた博雅の長い足を、巨大な真っ黒の蜘蛛が這い登る。

『ハイジョ…ハイジョ…』

まるで呪文のように唱えながら蜘蛛が博雅に迫りくる。

「くそっ!寄るなっ!!」

太刀で威嚇する博雅、もう絶対絶命かと思われたそのときであった。


「それで、俺を放っておいて何をやってるのか聞いてもいいかな、…博雅?」

聞き覚えのある剣呑な声が教室の入り口から聞こえてきた。

「せ、晴明っ!」
蜘蛛に襲われてるのも、つい忘れて慌てふためく。
「なっ、何でここにっ!?」
「なんで、じゃないだろ。おまえがなかなか帰ってこないから迎えにきたんじゃないか。そんなのと遊んでるとは思わなかったけどな。」
そう言って、晴明は戸口に肩をもたせ掛けて腕を組んだ。博雅のピンチにはもちろん気づいているが、今のところ助けるつもりはないらしい。
「あ、遊んでるわけじゃないんだけどっ!テメッ!このっ!!」
晴明に答えつつ博雅は迫りくる蜘蛛の脚をなぎ払った。何のためらいもない、たいした手際だ。たった今まで絶対絶命のピンチだったはずなのに、晴明の姿を認めるや、蜘蛛なんか相手にしているどころではなくなったらしい。

グゲゲーッ!

耳障りな奇声を上げて蜘蛛のほかの脚が縮こまった。斬られた脚の断面から毒液と同じ緑色の体液が飛ぶ。そんな蜘蛛の体をゲシッ!と蹴飛ばして博雅はガバッと起き上がると、晴明のところに駆け寄った。
「ご、ごごめんっ!」
はあはあ息を切らせて博雅はとりあえず謝った。
「ごめんって何が?」
緑色の粘液がべったりとついた博雅のワイシャツを不快げな目でちらりと見下ろして、晴明は、それはそれは冷たい声で答える。
「今日は一緒に飲もうって約束だったのに、れ、連絡も入れなくって、ほんと悪かった!!」
「そうだよなあ…。せめてケータイぐらいはくれるべきだったな」
血も凍る冷たい声。

完全に怒ってる…

ああ、まずい、と博雅は思う。ここはとにかく言い訳をしとかなければ。
無駄かもしれないが。
「急に校長から残業頼まれちゃって断りきれなかったんだ。ホント、すまん!」
「ふ〜ん、これが残業?俺にはただ、遊んでいるようにしか見えないがな」
黒板に張り付いた人間、顔の半分がべろんと崩れおちた志士、緑色の体液をあたりに振りまく蜘蛛。晴明の目がそれらを冷たく一瞥する。
この状況を見て、遊んでいるのか、なんて言うのはこの男ぐらいなものなのだが。
「楽しそうでなによりだ」
そう言って冷たい笑みを口の端に浮かべた。霧麻呂のような、塗りたくって作りこんだ仮面のような白塗りの顔ではない、透き通るような白皙の美貌が闇に妖しく浮かぶ。機嫌が良くない分、さらにその美貌に怜悧な磨きがかかっているようである。
黒板に張りついた連中も、突然登場したこの男はいったい誰だと、目を見張っている。

そこにいるもの、全ての目を引く。この男にはそんな圧倒的な存在感があった。

それが人ではないものには敏感に伝わるのだろうか、何本かの脚を失った蜘蛛の妖しが、まるで巣穴に逃げ込むように、パックリと割れた志士の顔面に這いずり込む。
すると、それまでまるで人形のように立ち尽くしたままだった志士が、再び動き出した。

「われラノとりデ…マモる…まもル…」

機械仕掛けの人形のように、ギシギシと一歩づつ博雅と晴明に志士が迫りくる。もう、粗方その意思は蜘蛛の妖しに乗っ取られているようである。手負いになった妖し、もう悠長なことはしていられなくなったようだ。

「ほう…節足動物の分際で人間の魂を傀儡にしているのか。ずいぶんと生意気だな」
晴明はちょっと感心したようにそう言った。ただ、刀を手にした志士のことなどは、かけらも脅威に感じてはいないようである。
「で、博雅は俺との約束を反故にして、こんな虫けらと遊んでいたわけだ。」
戸口から背を起こすと、志士をくいっと親指で指差して頭を傾げた。
「だ、だから、違うって!俺だってこんなのと時間つぶすつもりは毛頭なかったんだよっ!でも、校長命令でどうしようもなかったんだっ!」
博雅も、志士や蜘蛛の妖しなど、もうそっちのけである。なにしろ、この男が怒るとこんな妖しなんぞより、もっとおっかないのを嫌ほど知っていたから。
「校長命令?どんな?」
完全に志士と蜘蛛の妖しを無視して晴明は尋ねた。
「この校舎でやる撮影の監視をしてくれって…」
「こんな夜中に、こんなところでいったい何の撮影だ?断ればよかったものを」
「俺だってそうしたかったけど…校長の命令だ、逆らえるわけないだろ」
博雅は思わず目を落とす。
「ふん、どうだか。ただ、他のヤツラみたいにうまく逃げられなかっただけだろう?どうせそんなところだ。」
全てを見透かしたように晴明はそう断言した。当たっているだけに博雅は言葉もない。
「ぐ…」
「なんの撮影だか知らないが、もう終わったのなら帰るぞ。時間外労働もいいところだ。」
今にも出口に向かいそうな晴明。博雅の言葉があわてて晴明を追う。
「いや、それがそうもいかなくて…。」
博雅の目が黒板に向かって泳ぐ。
「あの人たちを助けないと」
「なんだ、好きであんな格好してるんじゃないのか?」
わかってるくせに晴明はそう言った。はっきり言って、博雅をトラブルに引きずり込む連中など、妖しに食われようがどうしようが知ったことではない。
「晴めえ…」
そんな晴明の心の中はいくら博雅でもわかる。思わず恨みっぽい声がでた。
「ほっとけるわけないだろ…」
博雅の言葉に、腰に手を当て晴明はふう…とため息をついた。
「わかったよ。あいつらをあそこからひっぺがせばいいのか?」
面倒くさそうに、晴明はずらりと並んだ霧麻呂たちに視線をやった。
「俺も手伝うから…」
博雅はあわてて付け加える。
「いやいい。博雅はそこで見てろ。どうせすぐ終わる」
そういってくるりと振り向いた晴明に、いつのまにか、すぐ真後ろに迫っていた志士の太刀が振り下ろされた。
「せっ!晴明っ!!」
博雅が叫ぶ。
が、振り下ろされた太刀の下には、たった今そこにいたはずの晴明の姿はすでになく、いつの間にか志士の背後にそのすらりとした長身が移動していた。

ガキッ!
志士の振り下ろした太刀が、古ぼけた机の角にがっちりと食い込んだ。必死でその太刀を引き抜こうとする志士。
その背に、静かに小さく晴明の呪が飛ぶ。
 
「…鬼気石破」

紅い唇をすっと窄ませてひゅっと息を吹くと、その息を立てた二本の指で、ニ度遮ってその指先を志士に向かってまっすぐに向けた。そのとたん、まるで釘か何かで射止められたように志士の動きが止まった。いや、止まったというより、動きたくても動けなくなった。

「グがあッッツ!ワレらの…とり…子…で…マモる…まも…ル…ガアアっっ!」

蜘蛛の妖しの意思と、志士の意思がとりとめもなく混ざり合う。

「こっちの用が終わるまで、そこで待ってろ」
晴明がこともなげにそう言った。

「まったく面倒な」
つかつかと黒板に歩み寄る晴明。その後から博雅がついてくる。
「大丈夫ですか、皆さん?」
博雅が声をかける。
「だっ、大丈夫なわけないじゃんっ!何やってんだよ、早く助けてよおっ!!」
礼儀も何もないアイドルが泣きつく。
「言葉遣いを知らないガキだな。」
晴明が貼り付けられた連中を前に軽く腕を組んだ。
「ばっ!バカッ!!そんな言い方あるかっ!すっ、すいません!僕らをこっから出してもらえませんか、お願いしますっ!!」
一番もののわかったふうなカメラマンがそういって唯一自由になる頭を下げた。見たことのないこの男を只者ではないと勘付いたらしい。
「ふん、ひとりはマシなのがいるようだ。助けてやってもいいが、今すぐにとはいかないな」
「な、なんでっ!?」
今度は一番端にいる霧麻呂が言った。
「なんだ、変なのが一人混じってるな。神主か?」
烏帽子に白い水干という格好に晴明が不思議そうに首をかしげた。
「かっ!神主っ??ばっ、バカを言うでないっ!私は、陰陽師だっ!!」
「役立たずのな。」
すかさず他のものから合いの手が入る。
「だ、誰が言った!お、お前か!」
必死に首を伸ばして今自分を馬鹿にしたやつを探す。
「役立たずにちげえねだろ!このタコッ!」
また別の誰かが怒鳴る。
「博雅、今、こいつ…陰陽師と言ったか?」
目の前で繰り広げられる罵声の応酬に晴明は不快げに眉をひそめた。
「ん〜、まあ、そうらしい」
「こんなのがか?」
霧麻呂を指差して聞く。
「今はいろんなのがいる時代なんだよ…たぶん」
博雅は曖昧に笑って言った。
「なるほどね…ならばこの状況ぐらい自分でなんとかできるだろうな」
そういって晴明は霧麻呂のおなかの辺りを指差した。
「なに…?」
「何だ?」
怒鳴りあうのをやめて、晴明の指差す先に皆の目がいっせいに集まる。

「うわっ!」
「何それっ!?」
「ひいっ!!」
「やだやだやだっ!!」

晴明を除く全員が思わず声を上げた。

霧麻呂本人から一番大きな悲鳴があがる。

「ひいいいっ!!な、何?ななな何これっ!??」
霧麻呂のちょうどおなかあたりに、ぷっくりとした丸いものがいくつも、くっついて霧麻呂が体を動かすたびにふらふらと揺れた。よくよく見れば、霧麻呂ほど大量ではないが捕まったそれぞれの体にも、いくつかづつの丸いものが。
「見ればわかるだろう?卵だよ、あいつのな」
晴明が後ろの志士と蜘蛛に向かってクイと顎を杓った。
「たっ…たまごっ…」
どういう意味か分かって霧麻呂が絶句する。
「も、ももももしかして…俺ら…餌…?」
「そういうことだ。」
カメラマンの恐る恐る問う声に、晴明は実にあっさりと答えた。
「ひいいいいっ!」
「いやだあ〜〜っ!」
「たっ、助けてくれっ!!」
あっという間に張り付いた5人が阿鼻叫喚の大騒ぎになる。
「あんまり暴れないほうがいいと思うぞ。」
「な、なんでっ!?」
晴明の冷静な声にアイドルが顔面蒼白で聞く。
「その卵の中は多分、子蜘蛛でいっぱいだ、あんまり暴れると袋が破れて子供たちがいっせいに弾け飛ぶ。…そうなったら、もう俺にも助けられないな、悪いけど。」
「ひっ!」
全員が今度は石になったように固まる。
「子どもたちか…なるほど…。この古い建物に巣食った蜘蛛が長い年月の間に妖しとなっていたんだな、それで元からここに憑いていた志士の霊と波長があってしまったというわけか」
ようやくわかった、と博雅が言った。晴明がそのようだな、と答える。
「この古い建物に執着する気持ちが一緒だったんだ、きっと。志士は自分たちの砦として…蜘蛛は自分の巣として」
後ろで固まって動けない志士と蜘蛛の共存体を振り返って、しみじみと言う博雅。
「だから、ここに自分たちを追い払おうとする真言が聞こえて思わず飛び出してきたのか。よく考えたらこいつらもかわいそうだな」
「あ、あのっ!可哀相なんて暢気なこと言ってないで、こっちをなんとかしてもらえませんかっ!?」
そんな博雅に、一番年長のカメラマンが必死な声をかけた。
「霧麻呂さんは陰陽師なんてカッコイイこと言ってるけど、ほんとに格好だけで全然使い物になんかならないし、僕らを助けるなんて絶対無理に決まってます。そっちのあなた!あなた、なんとかできるんでしょう?お願いします!助けてくださいっ!!」
博雅から晴明に視線を移して切羽詰まった声で言った。
「うんうん!あなたのほうがずっと陰陽師みたいだ!なんとか僕らを助けてください!こんなとこで蜘蛛の餌になんかなりたくないっ!」
その隣の音声の係りも言った。
さすがの霧麻呂ももう何も言わない、というかそれどころではない様子。おなかの辺りでふらふらと揺れる蜘蛛の卵から目が離せないでいる。きっと、いつ弾けるかわからない恐怖で目が外せないのだろうと思われた。

「でも、自分でも言っていたようだが、彼は陰陽師なのでしょう?こういうときどうしたらいいか陰陽師を名乗るものなら知っていて当然だ。俺の出る幕ではない」
蒼白になった霧麻呂に向かって晴明はそういった。こんな程度のものが陰陽師を名乗っていることが少しばかりカンに触っているようだ。
「そういうこと言うなよ、晴明。見ろ、すっかりビビってるじゃないか。」
太刀を下げた博雅がやれやれと頭を振った。
「このひとにはそんなの無理だってわかってるんだろ。こんなに遅くなったのは俺が悪かったからさ、機嫌直して早く帰ろう、な?」
さすが博雅、晴明の性格をよく把握している。さりげなく自分が悪かったからと晴明の機嫌の矛先を変えた。
「わかったよ」
博雅に誘導されたようなのは面白くないが、こんなところで時間を無駄にしたくもない。晴明は5人の前で両手をパンッ!と合わせて印を結び始めた。
結んだ印がボウッと燐光のような光を闇の中に放つ。その光が晴明の唱える呪に合わせてゆっくりと明滅する。

「すげえ…」
「何…このひと…」

黒板に張り付いた5人から思わず感嘆の声が漏れる。

印を結んだ手を解き、右手をすっと前に伸ばす晴明。いつの間にかその手には何枚かの呪符が。伸ばして開いた手を平行にスライドさせると、五枚の呪符が等間隔で空中に留まった。手品でもなんでもない本物の陰陽師の力。
霧麻呂が消え入るような小さな声で呟いた。

「お…陰陽師…」

「ほ、本物かっ!」

霧麻呂の言葉にカメラマンが晴明を食い入るように見つめる。たかがテレビのカメラマンとはいえ、本物の陰陽師をこの手で画面に収めることができれば…と思わず自分の置かれた状況も一瞬忘れた。

印を結んで呪を唱える晴明の顔は闇に白く浮き上がってこの世のものとは思えぬ妖しいオーラを放つ。霧麻呂には逆立ちしても真似のできない本物の存在感。
その顔の前に宙に留まってぴくりとも動かぬ呪符が、晴明の結びの呪によっていっせいに黒板に貼り付けられた餌たちに向って空を切って飛んだ。
捕まえられた五人の体に、それぞれ呪符がピタリと貼りつく。貼りついた呪符が蒼い炎を上げてめらめらと燃え上がった。

蒼い炎が顔のすぐ下まで燃え上がって五人が一斉に悲鳴を上げた。が、すぐにそれは別の悲鳴に変わる。

「ひっ!ひいいいっっ!!」
「やだやだやだっ!!」

炎は呪によって作られたものなので人に対しては熱を放つことはない。だが、それは妖しには間違いなく灼熱の炎に間違いはない。炎に煽られて卵胞を破って子蜘蛛たちがいっせいに這い出してきたのである。自分の体をザワザワと一斉に這い上がってくるそいつらに皆は悲鳴を上げた。
が、そのちいさな子蜘蛛は既に晴明の呪の範疇にあった。顔まで這い登るものも多くいたが、それらはみな蒼い炎に包まれてしまって逃れることなどできない。燃えて脚をチリチリと縮めながらポトリポトリと五人の足元に落ちていった。

「ワレノ…ワレノコ…ッ!コドモタチッ…!!」
後ろで親蜘蛛の悲痛な声が上がる。
「なんか可哀相な気がするんだけど…」
ちらりと後を振り返って博雅が言った。
「なら、このままこいつらを餌としておいてゆくか?」
「いや、それもマズイ…だろ、やっぱり。」
どっちだって俺は構わないぞと、言う晴明に博雅は答えた。
「マズイに決まってるでしょうがっ!あんた何言ってんだよっ!」
博雅の言葉にアイドルがキレる。
「何言ってる、だって?おまえたちのほうが何を言っている。」
晴明の冷たい声が静かに響いた。
「こんなところに自らやってきて、この場の気を荒らし、目覚めさせなくてもよいものを目覚めさせ、自分たちで今の窮地を招いたくせに、なにを怒る?本来ならばおまえたちなどこの蜘蛛の贄となってもいたし方がないのだぞ。なぜならこの場所はこの蜘蛛の妖しの巣なのだからな。おまえたちだとて、自分の家も子供も大切だろう?それはこいつも同じだ。」
「でも…人の命が一番大事じゃないかっ!」
テレビクルーの一人が叫んだ。誰だって助かりたい、そしていつだって人の命を救うのが一番大切なことだと、いろんな番組を作ってきた彼はそう思っていた。人の命が助かるシーンは人の感動を誘うし、命の大切さを訴える番組は枚挙に暇がない。
が、晴明はあっさりと否定した。
「人の命が一番大切などと誰が決めたのだ?」
「誰が決めたなんて…そんなの当たり前じゃんかっ!!」
顔を這い登る子蜘蛛に悲鳴を上げてブンブンと首を振りながらアイドルが言った。
「はは、当たり前ねえ…。人の命が大切なんて大上段に振りかざしてるのはヒトだけだよ、ボク。他の命を持つものはそれを言葉にできないだけさ。」
冷たく感情のこもらぬ声で晴明は笑った。
「で、でも、あんたは俺らを助けてくれてるじゃないか!」
カメラマンの男が言った。
「それは、これが俺にそうしてくれと頼んだからだよ。でなければ、わざわざ、こんなことする気はないな。」
こらやめとけ、と隣で止める博雅に視線をやって晴明はさらりと答えた。

そう話している間にも、五人の体からはぼとぼとと子蜘蛛が燃えては落ちてゆく。晴明たちの背後で、呪によって縛されていた志士に憑りついた蜘蛛の妖しが狂ったような奇声を上げた。 

「ギイイイイイイッッ!!」
 
バチッ!
 
閃光を放って妖しが晴明の呪縛を断ち切った。
ボロボロになった志士が刀を振りかざし、猛然と晴明の背中に向かって突進してくる。
 
「あ、危ないっ!」
「きゃあああっっ!!」
カメラマンや、霧麻呂の悲鳴が上がる。
 
「御免っ!!」
 
斬(ザン)!
 
晴明の背を庇って博雅の振るう太刀が、襲い掛かる志士の体とその顔に巣食う蜘蛛を一刀両断に斬りおろした。
 
「ヒイイイイイイッツ…!!!」
 
志士の顔に巣食った蜘蛛が、その黒い体から緑の体液を噴出しながら断末魔の悲鳴を上げる。
 
「我…らの…砦…を…まも…る…のだ…」
 
顔面から腰にかけてざっくりと斬られた志士はその場にがくりと膝を付き、最後の言葉を小さくつぶやいた。その顔は怨みに塗りこめられたどす黒い顔ではなくて、きっと生前はそんな顔だったのだろうと思わせる幼さの残る少年の顔。泣きだしそうな悲しい目をして、そのまま少年志士は闇に溶けるようにすううっと消えた。
後には、潰れてグチャグチャになった小さな黒い蜘蛛の屍骸と、血に汚れた古ぼけた鉢巻だけが残った。
 
「…本当に…ごめん…」
 
太刀を振り下ろしたままの姿勢で、博雅がつらさを滲ませた声で小さく言った。
五人の体から蜘蛛の糸がハラハラと自ら剥がれて落ちてゆく。子蜘蛛は晴明の呪によって蒼い炎に燃え盛る。
 
「やった!助かったっ!!」
一番にアイドルがその場から飛び出して歓声を上げる。ほかの連中も後に続いて歓声をあげた。
その歓声を背に博雅は膝をついて小さな蜘蛛をじっと見つめた。
「なんとか両方ともうまく収めたかったのだろ?」
博雅の肩に手を置いて晴明が言った。
「…ああ、できればそうしたかった。だって、こいつらには何の咎もなかったんだ。」
うな垂れる博雅の前に指貫をはいた足が荒っぽく踏み出される。
あっ!と博雅が驚くまもなく、その足は、もうすでに潰れてしまった蜘蛛の屍骸と鉢巻をドン!と踏みつけた。
「この私をあのような目に合わせるとは、なんと愚かしい妖しめっ!このっ!このっ!このっ!!」
ヒステリックな声を上げながら霧麻呂が何度も足を踏みしめる。
「や、やめろっ!なにをするんだ!」
博雅が驚きから立ち直って霧麻呂の足を掴んで止めた。
「なにをするだってぇっ!?こいつがまた復活しないように私の力で封じ込めているのに決まっておろうがっ!!止めるな、馬鹿者っ!!」
博雅の胸の辺りをどんっと蹴って霧麻呂は怒声を上げた。
「何が馬鹿だ…愚かなのはお前の方だろうが。」
霧麻呂のヒステリックな声とは正反対の、血も凍るような低音の声が響いた。
「な、何っ?」
蹴られて倒れそうになった博雅の背を支えた晴明の放った言葉に、霧麻呂や、他のものの歓声までもがぴたりと止まり、あたりがシンと静まり返った。
「ば、ばば馬鹿って…わ、私のことかっ!」
「他に誰がいる?」
大丈夫か、と聞きながら博雅の服の蹴られたあたりの汚れを払う晴明、霧麻呂のほうを見もせずに言った。
「私を、馬鹿呼ばわりなどするでないっ!わ、私こそは、あ、あの稀代の陰陽師、あ、ああ安倍晴明の再来といわれておる、へ、平成のだ、だだだ大陰陽師だぞっ!!」
ついさっきまで真っ青な顔でぶるぶる震えていたくせに、自分の身がもう大丈夫だと知るや、途端に態度がコロッと変わった。さっきのことなど、今聞いたら、あれはしかるべき演技だったなどと、きっと平気で言うだろう。おしろいの厚さも普通ではないが、面の皮の厚さもハンパではない。
「…安倍晴明…と言ったか?こいつ?」
晴明の隣に立った博雅のほうを向いて晴明はごくごく静かに聞いた。
「う。…聞き間違いじゃないか?」
静かに見える時のこの恋人が一番おっかないと知っている博雅、ただでさえ、俺を蹴ったことで怒っているところに持ってきて自分の名を騙ってるともなればその怒りのマグマの温度はさらに上がる。思わず拙いフォローを入れてみたが。
「晴明の名を名乗るのなら…」
晴明の腕が博雅の顔のすぐそばを横切ってスッと伸ばされた。ピッと人差し指を立てると霧麻呂の足元を指差した。
「急々如律令…。失われしものよ、もう一度還れ。」
霧麻呂の足がぐわっと勝手に上がった。
「うわっ!!…ヒッ!!」
霧麻呂の悲鳴。
何事かと集まり始めていた他のものたちも、思わず遠くまで後ずさる。
「わわっ!」
そこには、つぶれてしまったはずの蜘蛛の妖しが、再びその真っ黒な腹をひくひくと蠢かせ復活していた。おまけに前より一回り以上もでかくなって。
ドタッ!
「ひっひっ!ひぃ…!」
霧麻呂が腰を抜かしたようになって尻餅をついて、そのままの姿勢で必死に後ずさる。
「さあ、おまえ晴明の再来なのだろう?ならば、こいつをもう一度封じてみよ」
まるでペットのように、蜘蛛の頭に手を置いて晴明は不敵に微笑んだ。
人の半分はあろうかという巨大な蜘蛛がその小さな歯で埋まった口をカアッと開けて奇声を上げる。その口の端から緑のドロドロの涎のようなものが這いつくばった霧麻呂にむかってボタボタと垂れた。
「くっ!食われるっ!!た、助けてっ!!」
陸に上がった金魚のようにバクバクと口を開け閉めさせて、霧麻呂は恐怖に震えた。
「これを封じることもできぬくせに晴明の名を騙るなど…。呆れたものだ。」
「もうやめておけよ、晴明。怖がってるじゃないか」
思わず博雅が口を挟んだ。

「おまえもだ。博雅」
「へ?」

止めたつもりがその矛先が急に博雅自身に向いた。
「あれしきの妖しなど、その神剣とおまえ自身の力があれば何とでもできたはずだ。」
博雅の手にある太刀にギロッと視線を投げた。
「そいつは見た覚えがある。吉野の狼に貰ったな?」
「は?え?…あ〜…その…
博雅の目が宙を泳ぐ。
「いつの間にあの方と会ったのかは後で聞く。が、みんな丸く収めようなどと甘い考えはするな。見てみろ、こいつを。おまえに助けられたというのにそれを恩義にすら感じていない。こんな連中のために命をかけるなど馬鹿のすることだ。」
そういって晴明は蜘蛛の頭から手を離すとパチリと指を鳴らした。と、今までそこで霧麻呂を威嚇していた蜘蛛の妖しの姿が瞬時にして消え、床にぺちゃりと小さな死骸が転がった。周りの皆が霧麻呂を含めて、あっ!と声を上げて驚いた。
「ば、馬鹿ってことはないだろ。」
目を泳がせたまま博雅はぶつぶつと言い返す。
「馬鹿だろが。たかが蟲一匹と亡霊一匹だ。何を躊躇うことがある。」
「だ、だって、あいつらにとっちゃここは何よりも大事な場所だったんだぞ。可哀相じゃないか。そりゃあ、ここで捕まったヒトには悪いことしたかもしれないけどさ。それだってわざとおびき寄せたわけでもないんだし」
「ならば、勝手にここを荒らした連中など、あいつらに食わせてしまえばよかったんだ。相反するものを両方救うなど、所詮無理な相談だ。」
まだ、恐怖の覚めやらぬ顔で動けずにいる霧麻呂を見下す。
「そんなこと見てられるわけないじゃないか」
「だろうな」
何もかもわかっているように晴明は答えた。
「あ!だから、わざと俺があいつらをやっつけるように油断して見せたのか。おまえ。」
キッ!と博雅が晴明を睨んだ。晴明があんな隙を見せることなど、めったにあることではないことにようやく気づいたのだ。
「どっちみち退治されるものなら、おまえの手になるほうが確実に天に召されるからな。俺がやると確実に地獄行きだ。それともこの場に封じればよかったか?そっちのほうが無間地獄なみだぞ。」
「む…むむ…」
言い返す言葉もなく唸る博雅。
 
「あ、あの…」
その時、霧麻呂をまたいで一番しっかりしているらしいカメラマンが一歩進み出た。
「お取り込み中のところ申し訳ないんだけど…」
「何だ?」
尊大に顎を上げて晴明が答えた。
「俺たちを助けてくれたあなたはいったい…?」
「名乗るほどのものではない」
「でも、まるで本物の陰陽師みたいだった」
傍からアイドルも言った。
「本物の陰陽師だって?本物を見たことあるのか。ボク?」
「本物って…こいつぐらいだけど」
腰を抜かしたままの霧麻呂を見下ろす。
「これが?」
くくっと晴明が笑う。
「悪いが彼は本物の陰陽師などではないと思うが。」
「じゃ、やっぱりあなたが本物だ、そうなんでしょう?」
と、カメラマン。
「さあ、どうだか。だいたい、今どき陰陽師なんて流行らないだろう。なにしろ時代に逆行してるからな。」
晴明は霧麻呂に冷たい視線を投げる。
「もし本当に俺が陰陽師だとしても、こんな風にキワモノ扱いされてるんじゃ、どうしようもないけどな。」
そこまで言うと机の上に放っておかれた上着を手にとり、ぱんぱんと軽くはたくと博雅に声をかけた。
「博雅、帰るぞ。外もずいぶん騒がしくなってきたみたいだから、そいつを早くしまえよ。」
博雅がまだぶら下げている太刀を指差した。
「あ!そういえばその刀も!」
「そうだ!それ!いったいどこから持ってきたんだ?たしか、その先生、最初は何も持っていなかったはず!」
アイドルと照明のスタッフが口をそろえて言った。
「あ。いや、これはその…」
バッと背後に太刀を隠して博雅はあわてた。今更隠したところでどうにもならないのだが。
「まったく。」
フンと一息つく晴明。
「え〜っと、これは…その…」
言い訳も浮かばない博雅に
「もひとつ貸しだからな」
一言そういうと五人の目の前でパッ!と右手を広げた。その動きに釣られて皆の視線がそこに集まった。
「オン・バサラコンパク」
つぶやく様に一言呪を唱えると
「ほら、早く片付けろ、博雅。」
そういって、上げた手をすっと降ろした。
「あ、ああ。わかった」
あわてて博雅は答えると、左の腰のあたりの空間に太刀の切っ先を当てると柄の頭を押した。何もないはずの空間に太刀の切っ先が溶けるように消えてゆく。
「いつか見た光景だな」
消えてゆく太刀を目で追って晴明が言った。
 
一瞬ポワンとした表情を浮かべていた五人が、ようやく我を取り戻したとき彼らはもう博雅の持っていた武器のことなどきれいさっぱり忘れていた。ただし、蜘蛛の妖しのことと志士の亡霊、そして晴明のことはまだしっかりと覚えていた。
 
「なんだ、すべて記憶を消したのではなかったのか?」
晴明に近づいてひそひそと博雅が聞く。
「すべて消し去ったら、彼らのこの時間の記憶はすべてないことになる。それでもいいがそうなればなったで、いったいここで何があったのか人はさらに知りたくなるだろう?そんな余計な詮索をされて、お前の太刀の記憶が下手に蘇りでもしたらまずいだろう」
「そりゃあそうだが。でも、お前の記憶まで残ってるってのは…」
博雅はそっちの方がまずいのに、と思って言った。
「あの陰陽師モドキに、妖しや亡霊を退治たのが自分だなんて思ってもらっちゃ困るからな。仮にも俺の名を騙るやつだ。ここらでしっかり釘を刺しておかねば俺の名誉にかかわる」
 
なんだ、意外にこだわってたんだな…
 
不機嫌そうな晴明の横顔に博雅はなんだかおかしくなってしまった。が、ここで笑うわけになどもちろんいかない。
真面目な顔を作ってもう一度聞いた。
「でも、まずいぞ。なんたってあの連中はマスコミだ。おまえのことがどこかで出たりしたら…」
「そいつを今から封じてくるのさ。ただし今風のやりかたでな」
唇の端をツッと上げて晴明は笑った。
「今風って…」

旧校舎の前には、先に外に出た木下教諭と番組のプロデューサーらスタッフが心配そうな顔をして待っていた。
英語教師の木下が校舎から出てくる博雅たちに真っ先に気づいて声を上げた。
「せっ!せんせっ!!源元先生!」
だだだっと駆け出してきて博雅の胸にこれがチャンスとばかり、全身をなげだすようにして飛び込む。
「ぐはっ!」
突然胸に突進されて一瞬、博雅の息が止まる。あまりの勢いで体が傾いた。
「げほっ!ご、ごほごほっ!!」
「ああんっ!源元先生、私、怖かったですわあっ!先生がいなくって心細くって心細くって。」
げほげほと涙目でむせ返る博雅の腕に、自慢の胸をすりすりと擦り付けて彼女はしがみつく。
「き、木下先生…、も、もう大丈夫ですからそんなにしがみつかなくっても…」
「やだあ、まだ怖いですもの〜」
博雅の腕にガシッと腕を絡みつかせて上目遣いに博雅を見上げる。
「もう、大丈夫ですって」
ほんとにこの人は怖がりなんだなあ、とまんまと騙されながら、博雅は少し離れたところで話をしている晴明を目で追った。
自分よりいくらか遅れて建物から出てきた晴明は、いつの間にやら番組のプロデューサーを捕まえて話をしているようだった。
晴明が胸ポケットから何か出して相手に渡し、その耳元になにか囁いている。

なにやってるんだ?

博雅が木下の腕から必死に手を抜こうとしながら見ていると、なにやら囁かれたプロデューサーの背がピシッと伸びた。晴明の顔を仰ぎ見てそれから手渡されたものにもう一度視線を落として、それからがっくりと肩が落ちた。

名刺か??

がっくりとうな垂れたプロデューサーの肩をぽんとたたくと、晴明はようやくこっちに向かってやってきた。
そばまでやってくると、木下をちらりと見下ろし
「お嬢さん。申し訳ないが彼を放していただけるかな?」
と、これ以上ないほどの微笑を浮かべて言った。
「え?あ、ああ…は、はい」
モデルも顔負けのとろけるような笑顔に、思わず目が点になる英語教師。あれほどにしがみついていた博雅の腕をあっさりと放した。
本気になればどんな女も落とせる晴明のカリスマ性。
「ほら、ゆくぞ」
ほう…と、目をハートにした木下にはもう目もくれずに、晴明は博雅の腕を引いた。



「なあ、晴明、さっき、あの人に何を言ったんだ。」
「何のことだ?」
「さっきのことだよ、お前が何か言ったとたんあのひと、態度がおかしくなった」
「ああ、あれか。さっき言っただろ、今風に封じると。そいつをやっただけさ。」
「今風って…。何をしたんだ?」
「俺のことを他言したら、もうメディアの世界では生きていけないようになるぞって言っておいた。」
「おまえ、それって封じるっていうか…脅しだろ。それにほんとにそんなことできるのか?」
「俺が誰だか知ってるか、博雅?」
足を止めて晴明が振り向いた。
「誰って…晴明だろ?」
「そうだが、稀名アキラでもある。」
「知ってるけど…」
博雅はその答えに戸惑った。
「そう。稀名アキラだ。」
そう繰り返して晴明はにやっと笑った。
なんだかよくわからないが、稀名アキラには博雅が知らないとんでもない秘密がありそうだった。
「まだ、聞くか?」
「いや…いい。やめておく」
どうも知らぬが花のようだ。
「では、この話は終わりだ。」
「うん。それにしても散々な夜だったなあ」
とにかく全部終わったと、ほっとした博雅。

…が、実は、全然終わってなどいなかった。

前をゆく晴明が振り返りもせずにこういった。

「ところで、さっきのことだが…」

第二ラウンドの幕が切って落とされた。







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