「貰うものが大きければ、払うものもまた大きい。彼に同情する必要はありませんよ。あなたたちを呪い殺してほしいと願ったのはヤツです。それがうまくいけば、あそこで血だらけになって転がっているのは博雅どの、あなただったかもしれない。」
晴明の声が冷たく返した。
「だ、大丈夫ですかっ!霧麻呂さんっ!」
博雅が自分の上着を脱ぎ捨てて、暴れる霧麻呂の手に巻きつける。あっというまにその服が血に染まってゆく。
「晴明っ!」
博雅が助けを求めるように晴明を見る。
「大丈夫、手の一本や二本なくなったって死にゃあしませんよ。それに、ほら。」
悠々と博雅に歩み寄ると、犬神は切り落とされて地面に転がる霧麻呂の手を指した。
「…う」
そちらに目を向けた博雅の表情が一瞬、固まった。
斬り落ちた手が、まるでそれでひとつの生き物のように蠢いているのである。斬られたところから生々しく血が滴り、地面にどす黒く染み込んでゆく。その黒い染みがまるで道のように地面に細く筋を作っていた。
地べたに爪を立て、じりじりと霧麻呂に向って這う手。
「これは、いったい…」
それに良く見ると、手に張り付いていたはずの御幣人形の姿が見えない。
「人型は?」
「まだその手の中にありますよ。まさしく手の中、にね」
犬神はそう言うと、這う手をつま先でひっくり返した。
「え…、あ!」
驚く博雅。
確かにまだその手の中に御幣人形はあった。
その端が見えているから間違いはない。
が…、その残りは柔らかい手の平の皮膚の下に透けて見えていた。
「中、って…」
博雅は言葉もない。腕を押さえてひいひいと悲鳴を上げていた霧麻呂ですら、それに目を奪われて青かった顔がさらに蒼白になっている。
「手ぐらいでよかったと思うよ、俺は。放っておけば体まるごと依り代にさせられるところだ。きっと、こいつは今までもそうやってきたんだろう。」
つま先で、元のようにひっくり返ろうとうごめく手をツンツンとつつく犬神。
「まるで蜘蛛のようにじっと餌がかかるのを待ち、捕まえたが最後、骨まで食らう。頭は悪そうだが悪知恵には不自由しなかったようだな」
そう言うと、這う手をその靴のかかとでぎりっと踏みつけた。手の平がビクビクと引きつける様に蠢く。
「宿り主のところに戻ろうと必死だな。」
犬神が笑う。
「それから、こいつもな」
ガウッと犬神の背後に飛び掛る式王子、その鼻先に犬神の拳がめり込む。
ギャインンッッ!!
背中を丸めて式王子が飛びのく。それを晴明の式が動けぬように二本の前足で押さえつける。
犬神が這いずる手を踏んでいた足をどけた。
地面にべたりと潰れて広がる手、犬神に踏まれて変な形に折れ曲がった指がピクッピクッと引きつける様に蠢く。
もう自力で這いずることなどできそうにないその手の血の滲む切り口から、ウゴウゴと気味の悪い触手のような筋が這い出てくる。
「うわっ!なんだ、これ!?」
博雅が気味悪そうな声を上げた。
「なんとまあ、しつこいヤツだね。」
犬神が呆れた。
蛇のようにも、蚯蚓のようにも見える黒い筋のごとき触手が、霧麻呂の方へと向かって伸びる。
「ひいっ!嫌だっ!!寄るなっっ!!」
長く伸びて今にも自分に絡みつきそうなそれに、霧麻呂の悲鳴が上がる
「寄るなっ!あっち、いけっっ!!」
ダンッ!
ギイイイイイイイイイッッ!!
晴明の手から博雅が持っていた太刀が投げられて、蠢く手を地面に縫いとめた。同時に晴明の式に押さえられた式王子が断末魔の悲鳴を上げて天に向かって咆哮した。
しゅうしゅうとこの世のものとも思えぬ腐臭を放ち、見る見るうちに手がどす黒い紫色に変色し、ただれ腐ってゆく。腐った肉がぼとりぼとりと泥のように落ちて、中から白い骨が現れる。が、肉がすっかり落ちてしまうと、今度はその骨が茶色く変色し、ぼろぼろと崩れ落ちていった。
そして、式王子自身もまさにその手と同じ最後を辿っていた。苦しげに身もだえしながらも、腐れ落ちる自分の体をどうすることもできない。剛毛の覆われた肉塊が、ぼとぼとぼと、とまるで土くれのようにその身からこそげ落ちていった。
ギヤアアアアァァ……
半分以上、肉のはげ落ちたその巨大な顔を天に向けて、悲鳴のようにあがる咆哮。片方だけ残った目が肉塊とともにどろりと崩れ落ちる。
グ…ガ…ガ…ガ……ガ………
最後はその巨大な骨格が、雪崩のように一気に崩れ落ちた。
腐った肉の山と化した式王子の体が紫の炎を上げて発火する。めらめらと燃えあがる炎。
最後に残ったのは犬神の太刀に縫いとめられたぼろぼろの御幣人形だけとなった。
歩み寄りサクッと御幣人形ごと太刀を抜く晴明。
燃え上がる炎に刀をかざす。
薄っぺらな古い御幣人形に炎が移るのはあっというまである。どれほどの時を越えてきたであろう式神が、今、この世からようやく姿を消していった。
「式を使いっぱなしにしていった、どこぞの陰陽師もこれで浮かばれるな」
炎をみつめて犬神が言った。
「いい迷惑ですがね。」
すっ、と犬神に太刀を差し出す晴明。
「なんだ?」
「お返しいたします」
「なんでだ。博雅どのは何も言っておらぬぞ」
霧麻呂の介抱をしていてこっちを見ていない博雅をちらりと見て、犬神は言った。
「必要ないからです」
「はは。ばかな。毎回こんなものに巻き込まれるあのお方は、これぐらい持っていたほうがよかろうよ」
犬神は受け取らない。
「あなたの刀だというのがどうもね」
「なんだ、嫉妬か?」
「違いますよ。ま、それもなくはないですが。…なにか裏を感じますので」
晴明の目が、ついと細められた。
「裏などない…って、言っても信じないか」
やれやれ、これだから鋭すぎる人間ってやつは、と犬神が肩をすくめた。
燃えるような金の瞳、にこやかに見えたはずのその瞳は、今、本来の神としての力を現して光る。
「その太刀は俺のいわば分身だ。」
「知ってます。どうせ私たちを見張るのが目的でしょう?」
「なんだ。わかってるではないか。なら、何も説明などいらないだろう?」
「わからないのは、なぜ、我々が見張られなければならないのか、ということです。私は何もしていませんよ」
「よく言う」
犬神は呆れたように笑った。
「ぬしらは二人揃ってからというもの、妖し退治はもとより、今日みたいに妖しに追加して怨霊の除霊やら、その活躍というか、行動は逐一俺らのところに届いてくる。そこまではまだよかった。妖しも怨霊も人の領域だからな。だが、先日のことはまずかった。」
「先日?」
「ぬしらは越えてはならない時を越えた。それは本来ならば神にしか許されぬ領域。侵しがたい神分だ。」
「ああ、あれ」
犬神の言葉に晴明はなるほどね、とうなずいた。
「簡単に言うなあ。だが、この間のことは博雅どのの笛の件もあって、あえて不問にすると天界は決められた。ただし、ぬしらがまた神分を越えることのなきように、お目付け役をつけることに決まったのだ。そいつがこの俺、というわけだ。」
「神…ですか。」
なんて面倒な存在だ。
「まあな」
大神がにやっと笑う。その唇の端に鋭い牙が光る。
「で、こいつがその追跡装置というわけですか」
手にした太刀を見下ろす。
「そういうことだ」
「では、やっぱり返します。」
犬神に太刀をつき返す晴明。
「じゃあ、そうですか、と監視装置もらう馬鹿などいませんからね」
「博雅どのが怒らないかな」
ちらっと博雅を振り向く。
「ちゃんと話をしておきますから」
「さっきのことも言うのか」
神の領域に関わったなどと博雅には知らせたくない、あのまじめな男はさぞ、気に病むであろう。
「言いませんよ。あれにこれ以上、心配かけさせたくないですからね」
「お優しい恋人だな」
「当たり前です。」
太刀を受け取る犬神。
「まあ、お目付け役に俺を選んだ時点でこれは天界のミスだと俺は思うがな」
緩やかな髪のウェーブの間にきらめく金の瞳に今度こそ本当に笑いが浮かんだ。
「俺にとっちゃいい暇つぶしだし、時の狭間でもまた越えない限り、天もなんにも言うまいよ。そうだなあ、強いて見張るとすれば…博雅どのがおまえにぶっ壊されないように監視しとくぐらいかなあ」
くくっと笑って大神がいう。
「ほっとくと壊す寸前までヤル男だからな、おぬしは」
晴明は心の底から嫌そうな顔をして返した。
「そこまで愚かではありませんよ。まったくもって、余計なお世話です」
「とりあえずこいつは受け取っておく。博雅どのには適当に言い訳しといてくれ。ただし、俺を悪者にするなよ、晴明。」
晴明から返してもらった刀を手に、ニヤと笑う犬神。
「ついでにここもちゃんと収めておけよ。俺は人の世には関わりたくないからな。」
そう言ってこの場を去ろうとする犬神を、晴明が引き止めた。
「おや、犬神どの、それはないでしょう?あなたも随分関わったじゃないですか。せめて、手の一本ぐらいサービスしていっていただけませんかね」
顔面蒼白の霧麻呂に視線をやる晴明。
「なんだ晴明、おまえ、あんなのに同情するのか」
「あのような者に同情する気など、さらさらありませんが、このままだと博雅に迷惑がかかります。あなたも神に属するお方なら、あのような者の手の一本や二本なんとかなるでしょう?博雅のためと思ってなんとかしていってください」
霧麻呂に対する同情など、欠片も見せずに晴明は言った。
「おまえ、もしかしたら、最初からそのつもりでアイツの腕を切り落としたな?」
俺の足元見やがって、と犬神はぶつぶつと文句を言ったが。確かにいくら結界を張っていたとはいえ、手首から先が落ちるなどというのは人間にとっては大変なことだ。博雅に迷惑がかからないとは限らない。
「…ったく。大概、おまえは策士だよ」
そう言って肩をすくめると、犬神は博雅たちのほうへと歩み寄った。
「博雅どの。」
「犬神どの。」
呼ばれて、ぶるぶると震える霧麻呂を支えていた博雅が顔を上げた。
「大分、汚れちまったな」
血が飛んだ博雅の服を指さす犬神。
「ああ、しょうがないですよ。それよりこの人を病院につれていかないと。出血がひどくて、このままじゃショック症状を起こして危ない」
「ショック症状ねえ。人間ってのは面倒だな。妖しなら手の一本や二本、取られたって走って逃げてくけどなあ。でも、その前にそいつ、精神状態のほうがショック症状とやらじゃないのか」
がちがちと歯をかみ鳴らし、じっと一点を見つめて顔も上げない霧麻呂を見下ろした。自分の手首が化け物のように自分に襲いかかってきたのだ、普通の人間なら、そりゃあショックも受けるというものだ。
「ええ…なんだか呼びかけても、まともな返事が返ってこなくって…。大丈夫かな…」
不安げに、博雅は霧麻呂の眼前で手のひらをひらひらと振った。
一点を凝視した霧麻呂の目は、それすら追わない。
「やばいなあ」
困ったように言う博雅。こんなヤツ、放っといて帰ればいいものを、責任感の強い博雅がそんなことをする気配はない。
「ふむ、確かに晴明の言うとおりだな。ここは手を貸すか」
手を貸すっていうのもなあ、と一人ウケる犬神。
「??」
くすくすと笑う犬神に、博雅はきょとんとした顔を上げた。
「医者などゆかなくても大丈夫。俺がそいつの手をなんとかしよう。」
「え?」
まだ少し笑いながら犬神の手が霧麻呂の頭の上辺りに広げられた。
「失われし枝の先よ、もう一度、芽吹け」
小さく厳かな声で命じた。
「…ひっ!」
博雅の上着にくるまれた手首を、無事なほうの手で掴んで、霧麻呂が怯えたような小さな悲鳴を上げた。
「ひっ!…ひっ!!…ひっ…!!!」
その悲鳴が一段階づつ上がってゆく。
「ひいいっ!嫌だ嫌だ!!」
その悲鳴が頂点に達した。
腕を目いっぱい伸ばして上着に包まれた手をブンブンと振り回す霧麻呂。
「まあ、体の中がかなり気持ち悪いだろうが、少し我慢しろよ。何しろ俺は山神だ。桜の木の枝を再生するすべとかしか知らないものでな」
振り回されて、霧麻呂の腕の先に巻かれてあった博雅の上着がすべり落ちた。
「ぎやあああっ!」
霧麻呂の精神が完全におかしくなったとしか思えない悲鳴が響く。
めきょ…めきょ…
不気味な音を立てて、切り落ちた手首の断面から指が一本づつ生え始めていた。
血にまみれた肉塊が搾り出すようにぶくっと盛り上がり、指の形を成してゆく。見ているだけで、すさまじく不気味な光景であった。
ましてやそれが、自身の腕の先で生々しい感触とともに感じられるのだ。いくら腕が再生すると言われても、気味が悪いこと、この上ない。おまけに何も無いところから作るわけでないので、体の中から再生する指の分だけ色んなものが引っ張られてくる。肉と、それに伴う神経や血管。それらが体の中をずるずると移動する。
痛みと、体の中を無数の蟲が這うような感覚。
既におかしくなり始めていた霧麻呂にとっては、許容範囲を超えた事態であった。
「ひ…ひ…ひひひひっ!」
悲鳴ではない甲高い声を上げて、霧麻呂は突如笑い出した。ついに精神が崩壊したのだ。
「だ、大丈夫…うわっ!」
思わず声をかける博雅をドンッ!と突き飛ばして霧麻呂は駆け出した。
「ひゃははははっ!ひーひひひひっ!!」
まるで踊ってでもいるようにピョンピョンと、妙に体を飛び跳ねる。ぼろぼろに薄汚れた水干の垂れを引きずって、笑いながら霧麻呂は夜の闇に走り去った。
「き、霧麻呂さんっ!!」
あわてて後を追おうとする博雅を晴明が止める。
「いい加減にしておけ。博雅。」
「で、でも…」
「これ以上関わるな。」
「俺もそう思うな。今宵はこれぐらいにしておいたほうがいい。とりあえず、あいつの手は再生する。放っといても命に別状はない。」
晴明の言葉を受けて犬神も言った。
「もう今夜は十分だ。」
これ以上のごたごたはごめんだ、と晴明の目が言っている。
「妖しに、亡霊に、にせ陰陽師に式神。オールスターだもんなあ」
くすくすと犬神が笑う。
「おまけに山神。」
晴明が付け足す。
「なんだ、俺もそっちの部類扱いかよ」
「似たようなものです。あなたも、とっとと帰ってください」
しっしっ、と、晴明は手を振る。
「ひでえなあ。昔、俺にあれほど世話になったくせに、おまえ冷たかないか?」
「なんのことでしょうか。若い私には、そんな昔のことなど全然わかりませんが。」
「聞いたかい、博雅どの?」
そらとぼける晴明を指差して、犬神は博雅に訴えた。
「はあ」
「昔のことだってよ。こいつは俺がジジイだと言いたいんだぜ!」
「いや、そんなことは…」
フォローする博雅の声に晴明の声が重なる。
「どれほど生きてるのかもわからないんですから、年寄りには違いないでしょう。お年寄りはとっとと山に帰って、日向ぼっこでもしてればいいんです」
「だ、誰が年寄りだっ!」
どこから見たってナイスガイだろうが、と言う犬神に、今時、ナイスガイなんて死語もいいとこです。と、ばっさり切り捨てる晴明。
先ほどまで、式王子や霧麻呂などを冷静にさばいていた二人と、同一人物と思えないほどに大人気ない晴明と犬神に、思わず呆れる博雅。
「フフン」
柔和な表情はどこへやら。髪を逆立てる犬神と、その白い鼻をツンと天に向けて冷笑する晴明。
「ちょ。ちょっと、晴明、犬神どの…あ、あれ??」
二人の間に割って入ろうとした博雅、急にごしごしと目をこすった。
見間違いか???
二人の背後になにかの影が見えた気が…。
ゴシゴシ。
やっぱり見える…。
もう一度、目をこすってみても、やっぱりそれは見えた。
犬神のうしろに、鼻先に皺を寄せて牙を剥きだしうなる、金色に輝く狼。
そして。
晴明の背後に浮かび上がる大きな影は…。
金の狼を氷のように冷たいアイスブルーの瞳で睨み返す
…真っ白な狐。
いやいや。これは幻覚。…そうに決まっている
きっと。
終。
ようやく最後までうpできました。ほっ…。
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