牡丹(1)


「先生!」
後ろから声をかけられて、博雅は振り向いた。声をかけてきたのは弓道部に所属している二年生の山科サエコだった。
「おう、山科か。なんだ?何か忘れ物か?」
弓道部の部員たちは週に一度、土曜日の日に博雅の家にある弓道場に練習にやってくる。学校の施設よりここの道場の方が設備が整っていてよいのだ。
ほかの生徒たちはもう帰宅の準備をしているはずだ。
「えっと…、忘れ物じゃなくって〜。」
恥ずかしそうに下を向いている。
「?」
「今度、近くの晴明神社で踊りの奉納があるんですけど…、それに出るので、よろしければ見に来ていただけませんかっ?先生のためにきれいに踊るから…。」
サエコは勇気を出して言った。
「へえ〜。晴明神社で?あの神社でもそういうことやることもあるんだね、へえ〜。」
「先生!感心するとこそこじゃないって!」
「え、そう?」
きょとんとする博雅に、サエコは緊張も抜けて大きなため息をついた。
(あいっ変わらず鈍いんだからっ!先生。)
「あたし、明日の日曜にそこで踊るんです!奉納の舞!」
ひらひらと舞いをまねて手を振る。
「へええ。そりゃすごいね。で?」
あくまで鈍い博雅。
「だ・か・ら!見に来てねって!わかった?先生?」
「俺が?なんで?」
ますますわけがわからない。
「もうっ!先生のばかっ!!鈍すぎっ!先生に見てほしいからに決まってんじゃない!」」
サエコは怒って大きな声でそういうと、背の高い博雅に飛びついて、その少し大きめの博雅の唇にキスをした。
「こーゆー意味っ!ぜったい、見にきてよっ!まってるからねっ!」
大声でそれだけ言うとサエコは走り去ってしまった、呆然とする博雅を残して。
 
「まいったなあ…。」
唇にそっと触れながら、弱りきった顔をする博雅。
しかし、前に晴明がつけたお守りが消えていてよかった。あれがまだあったら、サエコは弾き飛ばされていたところだ。
晴明本人も今は東京に仕事で行っていて留守でよかった。
「そういう意味かあ。参ったぞ、こりゃ。」
鈍い博雅でも、さすがにキスされればどういう意味か、わかるというものだ。
さて、どうしたものか…。生徒からそういう目で見られることもないではないが。
(まさかキスされるとはなあ。ああ、びっくりした。…とにかく、晴明には今のことは内緒にしておこう。)
たとえ、相手が十六歳の子供といえど、キスされたなんてばれたら…。考えただけで空恐ろしい。
確か、月曜でなければ晴明は帰らぬはずだ。
(仕方ない、とりあえず見に行くだけは見に行ってやろうか…。)
あの子の気持ちに、はっきりした返事をしなければならないのなら、その後でも遅くはないだろう。
奉納の大切な舞に影響が出でもしたら大変だし…。
やれやれ、最近の女の子ときたら…などとブツブツ言いながら、せっせと防具を片付ける博雅であった。
 
(まったく鈍いんだから、源元先生って!)
サエコはさっきから機嫌が悪い。前々から源元雅先生(博雅)が好きなのだ。
今日はものすごく勇気を出して言いにいったのに、あの天下の恋愛オンチの先生はサエコの言葉の意味をちっとも、わかってくれなかったのだ。
(まあ、そんなところも可愛くて好きなんだけどさあ…。)
博雅は自分では気づいていないが、前に晴明が思ったとおりに女子生徒の恋愛対象に、しっかりなっていたのである。本気で博雅のことが好きな子もひとりやふたりではない。。
サエコもその一人である。
今までは見ているだけで結構満足していたのだが、近頃あるうわさが飛び交っていて、このまま見ているだけではまずいと思って、今日のような行動に出たのである。
そのうわさとは、源元先生にはどうやら、彼女ができたのではないかということ。
近頃の先生はなんだかご機嫌でしかも、セクシーいうか、色っぽいというか…。見ててドキドキしてしまうことがあるのだ。女子生徒の間では、あれは絶対彼女ができたに決まっていると、もっぱらの評判になっている。おそるべきは十代の女の子である。
あたらずとも遠からず…。当っているとまずいのではあるが。
 
サエコは自分の唇に指を触れる。
勢いあまってキスまでしてまったけれど、とてもやわらかな唇だった。触れた感触がすごくよかった。
(もっと、ゆっくりすればよかった…。残念。)
そんなことを思いながら自宅の門をくぐってゆく。
かなり大きな家である。玄関とは逆にある通りに面した方は老舗の呉服屋である。常に舞妓さんや,芸鼓さんが来て着物を買っていったり、直しを頼んでいったりしている。京都ならではの繁盛のしようだ。
「ただいま〜。」
キッチンに入って母親に声をかける。
「あら、遅かったのね。練習どうだった?」
料理の手を止めずにサエコの母が聞く。
「ふつ〜。」
「あんたの返事ってそればっかり。いやあね。」
「だってほんとにそうなんだもん、しょうがないじゃん。」
普通じゃないこともあったが、そんなこと親に話すわけがない。
キッチンのテーブルに腰を掛けて、あがったばかりのから揚げをひとつつまむ。
「まあ。いいわ。それより、明日の奉納のときに着る衣装、神社さんから届いているわよ。ちゃんと見ときなさいよ。」
「えっ!まじっ!?見る見る!どこにおいてあんの?お母さん!」
から揚げをもうひとつぽんと口に放り込むと、母の横に走りよる。
「何よ。さっきと全然態度違うわねえ。仏間にかかっているから見てきなさい。」
母の言葉も最後まで聞かずにサエコは奥の部屋へと廊下を走っていった。
 
薄暗い日の差さない仏間へと入ってゆく、サエコ。
「ここってあんまり好きじゃないんだよねえ…。」
ふすまを開け部屋の電灯をつける。明るいのになぜか薄暗さは変わらない気がする。
「出そう…な雰囲気つうかさあ…。」
さっさと着物だけもってこの部屋を出るつもりだった。
部屋の奥まったところにその衣装は掛けられていた。
「あれ…?」
聞いていた衣装とは何か違うような気がした。確か神社の奉納で踊るのだから、巫女さんの白と赤の衣装だったはずなのに、そこにかかっていたのは、きれいではあったが巫女の衣装とは全然違うものだった。紅い地に白い牡丹が咲き誇っている襲(かさね)。平安の頃の女性の衣装だ。もちろん、サエコはそんなこと知る由もない。
「こんなのだっけ…?」
不思議に思いながら、その着物に手を伸ばす。
と、掛けられた着物のそでから白い手がすうっと伸び出て、サエコの手首をつかんだ。
「きゃああああー!!」
サエコの絶叫が奥の部屋から家中に響き渡る。
母がその声に驚いてキッチンからとび出す。
「どうしたのっ!?サエコっ!!」
何事が起こったのかと店のほうからも父親が走ってきた。
「どうしたっ!?今の声はサエコかっ!?」
「わからないのよ!急にすごい叫び声がして…。」
言いながら仏間のふすまを開ける。
「きゃあっ!」
「サエコッ!」
薄暗い仏間の部屋の奥にサエコが倒れていた。紅い牡丹の襲をその身にはおって。
 
 
約束の日曜日の朝、博雅はちょっと困っていた。
晴明が予定より早く、昨日の晩に帰ってきたのだ。
約束した以上はやっぱり行かないと、しかし、晴明になんと言って出かけようか…。
クソまじめな博雅は、うそもつけないし、悩みまくっていた。
「う〜ん…。」
「何を唸っているんだ?博雅。」
さっきから一人百面相をしている博雅に晴明が声をかけた。読みかけていた新聞をばさりとテーブルにおくと、椅子の背に背中を預け博雅の顔をじっとみつめる。
「い、いや、別に…。」
まさか声に出して唸っていたとは気づかなかった博雅はしどろもどろになってしまった。
「何を隠しているんだ?何かしらないが、困っているのはバレバレだぞ。」
晴明に心の中まで覗かれそうな気がした。
「さっさと言った方が身のためだぞ、博雅。」
(俺に隠し事などする気か、お前は。)
晴明の強い視線に耐え切れなくなった博雅。
「いや…今日、神社に行かなくてはならない用があるんだ。」
「それだけのことでお前がそこまで悩むとも思えないが…?」
晴明は適当な答えではだまされない。裏に何かあるとすぐにぴんときた。
(一体、何を隠しているのだ?神社というと朱呑童子か…?)
「うう…。実は奉納の舞を見に行かねばならないんだ。部の生徒が舞うんだよ。その子はどうやら俺のことが好きらしくってなあ。絶対見に来てくれって昨日懇願されてしまって…。見に行くと俺もついうっかり約束してしまったんだ。」
まさかキスされたとは言えない。
何か、他にも理由がありそうだったが、晴明はそれ以上聞かないことにした。なんとなく察しはついていたが。
「まじめな男だな。」
「そういうなよ。自分でもそう思うさ。でも、あの子の真剣な目を思い出すと、すっぽかす気になれないんだよ。」
「しょうがないな。…では、俺も一緒に行ってやる。」
「えっ!?本当に!?」
博雅は素直によろこんだ。他に人がいればあの子に、返事などしなくて済みそうだ。
たかが少女といえど、博雅みたいな純情なやつ、今の女子高生に手玉に取られてもおかしくはない。ほっとした顔の博雅を見ながら晴明はそう思った。
まったく俺も心配症だな、と自嘲する。
「で、どこの神社だ?」
「昔のお前んちだ。」
「なに?」

 牡丹(2)
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