牡丹(4)
牛車がごとりごとりと進んで行く。
そっと御簾を上げてあたりを伺えば、まわりは来たときと同じ白いもやに包まれていた。
「よくわからぬ世界だなあ。晴明のよく使う隠態のようなものか?」
そう独り言を言うと、博雅はあきらめたようにまた御簾を降ろした。ここまできたら、一人でじたばたしたところで、どうにかなるわけでもない。
とりあえず、この妙な世界を作っている主とやらに会ってみれば、また、何かほかに考えも浮かぶかもしれない。それに晴明が自分をこのままにはしておくとも思えない。足手まといにはなりたくなかったが、どうもそれ以外の何者でもないような気がするところが、胸の痛むところだったが。
それにしても、直垂を着た博雅はさまになっていた。どこから見ても血筋のよさそうな若き武人に見えた。折り烏帽子がたいそう似合っている。
直衣姿であればもっと様になっていたであろうが、この世界の主は博雅を本当の殿上人とは知らないのだ。
本人はなにを着ていようと、のほほんとしたものである。
「久しぶりにこのようなものを着たが、これはこれでなかなか懐かしいものだな。すこし嵩張るがなんだか気持ちが締まるというか…。
これで腰に太刀があればいうことないんだがな。」
何も差しもののない腰の辺りに手をやって、そうひとりごちた。ちょっと腰の辺りがすかすかして寂しい。
のんきにそんなことを考えているうちに、牛車がぎっ、と止まった。
御簾の向こうから先ほどの老女の声が聞こえてきた。
「源元さま、着きましてござります。」
博雅が御簾を上げて外に降り立つと、先ほどのもやは消えて今は目の前に立派な門構えの唐様の屋敷があった。
門の両側にどこまでも続くかのような白壁が続いていた。
最初からここに連れてくればよいものを、よほど手順を踏むのが好きな主らしい。まるで形式にうるさい殿上人のようではないか。
博雅は老女に促されて、辺りを油断なく伺いながらも屋敷へと足を踏み入れていった。
話は変わって、過去へとさかのぼろう。
今を去ること864年前、天養元年。
博雅と晴明がこの世から消えてから140年近くの後の平安の都。
この都に藤原頼長という殿上人があった。歳は数えの34才。
妻妾を持ち、子宝にも恵まれ、帝のそばに仕える身として、地位も力もすべてを兼ね備えて宮廷に頼長ありといわれたほどの男だった。体は当時の宮廷人らしく、さして大きくも鍛えられてもいなかったが、人をひきつけるに充分なカリスマ性を備えた人物だった。
また、この頼長、平安の世の貴族らしく、たいそう恋多き男でもあった。ただ、その相手は、市井の女からやんごとなき姫、そして公家の公達から果ては雑色にいたるまで、男女を問わなかった。
恋というよりは欲望の強い男というべきかも知れない。
この当時、わかっているだけで女以外にも、六人の男色相手がいたという。
その恋(欲望)多き頼長が、新しく恋人にと射止めたのが時の三位近衛府中将、花山院忠雅(かざんいんただまさ)。当時、数えで23才、独り身の若き殿上人であった。
忠雅はその名の示すとおり、花山天皇の血を引くやんごとなき身分の生まれであったが、博雅と同じくその血を濃く引きながらも臣下に下った。
ただ、同じような境遇でありながらも、博雅と大きく違っていたのがその心根だった。
彼は、自分の血にふさわしい地位を求めていた。一介の臣下で終わるなど真っ平だった。
出来るものなら、帝の地位すら手にしたいと思う、燃えるような野心の持ち主。
外見は博雅と、たいそうよく似ていた。さかのぼれば同じ血にたどり着くのだ、当然といえば当然かも知れない。
少し色の濃い肌に、この時代にはめずらしいはっきりとした目鼻立ち。
きりっとしたあごの線に、通った鼻筋、そして広くすっきりとした額には博雅と同じく、生まれの高貴さが現れているようだった。
背もすらりと高く、文武に秀でた優秀な男。
ただ、その目だけは博雅とは違い、隠しようもない野心が鋭い刃のように光を放っていた。
頼長から恋文が届いたとき、忠雅は最初、何かの冗談かと思った。
しかし、後でそれが冗談ではないとわかると、彼はためらうことなくそれを受けた。
頼長は宮廷にその人ありといわれたほどの力の持ち主、恋人になっておけば自分の宮廷での地位を上げてゆく上での、大きな後ろ盾になるとの冷徹な判断からだった。
この当時、男色におぼれる貴族などはいて捨てるほどいる。格段、珍しいほどのことでもない。自分とて、そのような関係は今までなかったわけでもなかったので、恋愛感情などなくても関係などいくらでも結べた。
それに男であろうが女であろうが、体を繋ぐ快感には変わりなどない。
閨をともにする代わりに後ろ盾になってもらう。頼長がどう思っているかはわからなかったが、忠雅はそういう関係だと考えていた。
そんな関係が続いていたある日、またしても頼長がある男に目を留めた。
地位も何もかもあるくせに、すぐに、ない物ねだりをするのがこの男の悪い癖である。
「今度はいったい誰だ?」
閨の中で忠雅が聞く。体の関係は続いていたが、元々感情のしがらみなどない忠雅。
頼長の求めに応じて、今までにも何人か、つかのまの夜伽の相手を世話してきた。
「ふふふ。藤原隆季(たかすえ)殿だ。先日、大祓があった折、初めてお見かけしたのだが、この都にあのような美しい男がいたとは知らなかった。まるで白百合のような美しさであった…。」
思い出したのであろう。うっとりと宙を見つめている。
(ほんとに、こんなのが宮廷を牛耳っているなど信じられぬな…。)
だが、いったん政ごととなると別人のように鋭くなることも知っている忠雅。
乱れた衣の中から裸身を起こして、横たわる頼長を見下ろす。
その顔は感情的にはともかくとしても、契った後の艶を見せてぞくりとするほどに色っぽい。その体には頼長がつけたであろう紅い花びらのような後が点々とついていた。
「で、私にどうしろと?」
烏帽子も元結もとけた長い髪をうるさそうに顔から払うその姿が、頼長を無言で誘っているようだ。
「あのものと是が非でも契りたい。うまく仲を取り持ってくれぬか。」
いいながら、忠雅の滑らかな胸をなで上げる。
「俺はどうする?もう、用済みか?」
「いや。もちろんお前は私の一番の恋人のままだ。隆季はまた別。」
忠雅の体を這いあがっていった手が、また下へと下がってゆく。
「くくっ…。なんてわがままな男だ…。」
頼長の手をとって自分のものへと誘いながら忠雅が笑った。よく似た顔ながら、博雅とはまったく違う闇のような微笑。
「お前とてそうであろうがよ。いいように我を利用しおって。知らぬとはいわせぬぞ。」
「はて、何のことやら…。ふふ。」
「まったく、お前という男は…。」
そして、二人はまた、閨の暗闇の中へと溶けていった。
忠雅は建礼門の前で、今から退出してくるはずの藤原隆季を待っていた。
今、こちらに向かっていることは配下のものが確認して報告してきていた。
何人かの連れとともに、彼が歩いてくるのが見えた。
牛車は外の大路に待たせてあるのだろう。忠雅は門の影からすいと出て、彼らの行く手に立った。
急な忠雅の出現に、公達らの話し声がぴたりとやんだ。よく見れば三人とも、同じような内裏に上がったばかりの若い公達ばかりだった。
みな、行く手をふさぐ背の高い、見るからに身分の高そうな忠雅の姿に驚いている。
「これは驚かせてしまって、申し訳ない。私は、近衛府中将 花山院忠雅と申すもの。失礼だが、この中に藤原隆季殿はおられぬか?」
そういって三人の顔を見る。
「私ですが…あの何か…?」
三人の中で一番華奢な感じの公達が一歩、歩み出た。
「ああ。あなたですか。なるほど、これはこれは…。」
人の悪そうな笑みを浮かべて忠雅が言った。その言葉に何かひっかるものを感じて隆季の顔が引きつる。
「私に何か御用でしたか?中将さま。」
「実は折り入ってお話があるのです。よろしければ、ご同道いただけませんか?」
にっこりと笑みを浮かべる忠雅のその顔は、悪魔の笑みのように魅力的だった。
隆季の胸が、どきっと動悸を打った。