牡丹(6)



乳人のぬえは毎日のように頼長と逢瀬を重ねる隆季の様子に何かおかしいと感じていた。あれほど頼長を拒んでいた隆季が急にある日を境に頼長と恋仲になったのだ。それまではあの黒の中将、花山院忠雅が来るたびに落ち着きをなくしていたのに…。
そういえば隆季が急に頼長に傾いていったのは、あの男がきたその夜からだった。
きっと、何かしていったに違いない。
ぬえは流れ者の陰陽師をよび、家の中になんぞ術がかけられていないか調べるように言いつけた。
はたして、隆季の閨の真下から糸でくくられた人型の呪符が出た。
「これは陰陽師の作った敬愛の呪符ですな。」
薄汚れた格好をしたその陰陽師が偉そうに言った、見つけてやったのだから褒美を増やせと言わんばかりだ。だが、ぬえはその言葉など耳に入っていなかった、ただ、呪符を見つめて蒼白な顔をこわばらせていた。
「おのれ…忠雅…。」
きりきりとかみ締めた歯の間から搾り出すように言葉が漏れる。私の大切な隆季様を頼長に売ったのだと思うと忠雅に対する憎しみが真っ黒な溶岩のように心からあふれ出す。
「まあ、今それをはずしたから、あるじ殿にかけられた呪も今頃は解けているだろう。よかったなあ。」
その陰陽師の言葉に、はっと驚くぬえ。
「今、なんと?」
「いや、だから、今頃は呪もとけているだろうと言ったのだ。」
ぬえの顔から血の気が引いた。今頃隆季は頼長のもとだ、たった今呪が解けたのだとしたらとんでもないことになる。
 
隆季ははっと我にかえった。
なんだか頭がぼうっとしている。長い夢でも見ていたような…。
(ああ。そうだった。私は忠雅さまと深い仲になったのだった。)
うれしそうに微笑むと、暗い牛車の中で隣にすわる男にその身を摺り寄せた。
花山院邸へと向かう牛車の中だと隆季は思っている。
隣の男が隆季の肩に手を回し抱き寄せる。ほっと隆季が息をついたとき、隣に座る男が口を開いた。
「今宵もまたぬしと会えて我は本当にうれしいぞ、隆季どの。」
その声に隆季の体が固まった。
ばっと顔を上げて隣の男の顔を見る。薄暗い牛車の中、はっきりとは見えないがけっして隆季の慕う忠雅の顔ではなかった。
いったい、誰だ?この人は??というより、なぜこの人と私はここにいるのだ??なぜ、自分はこの人に身を寄せているのだ??
頭の中が混乱して一瞬にしてパニックに陥ってしまっていた。
そんなこととはかけらも気づかぬ頼長。隆季が顔を上げたのは口付けを待っているからだと勘違いして、その顔を隆季の方へと傾けていった。
「う…うわあああ!!」
驚いたのは隆季だ。
誰ともわからぬ人間に急に迫られたのだ。悲鳴を上げて飛びのいた、相手を突きのけて狭い牛車の中を後ずさる。
「い…いたたた。急になんだというのだ、いったい!」
突き飛ばされた胸の辺りを押さえつつ頼長が文句を言った。
「よ、頼長さま…?」
その声に相手が左大臣頼長だとようやく気づいた隆季。
「あたりまえだ、誰だと思ったのだ!急につきとばしおって。おお、痛い…」
「わ、私はいったい…?」
周りの状況を飲み込めない様子の隆季にさすがにおかしいと気づいた頼長。はっと思い当たった。
「さては呪が解けたか…。泰親め、どじりやがったの。」
おろおろと周りを見回している隆季に、ここまでかとあきらめた、
(まあ、よいか。隆季殿には悪いが散々、楽しませてもらったからな。ちょっと惜しい気もするがここらが引き時かもしれぬな。)
「呪?…泰親…?いったい何のことです…?」
蒼白な顔で隆季が聞く。
なんだ?なんのことだ?胸が恐ろしさでどきどきと震えている。
「残念でござったなあ。もう少しそなたと楽しみたかったのにのう。どうじゃ、これからも私とつきあわぬか?悪いようにはせぬぞ。」
悪びれもせず頼長が言った。
「ど…どういうことです…?」
いやな予感に吐き気を覚えながら、隆季が震える声でもう一度聞く。
「そなたは陰陽師の呪によって私の想い人となっておったのだよ。まったく覚えておらぬのか?」
牛車の中の薄暗がりの中、隆季の耳には自分の胸の鼓動だけが大きく耳に響いていた。
まさか!まさか!まさか!!
「わ、私は…もしや、頼長さまと…?」
「そうじゃ。そなたは私の腕の中でよき声で啼いておったぞ。」
「…!!」
隆季は絶句した。
では今までの記憶は…、ずっと忠雅に抱かれていたと思っていたあの夜の記憶は…。
ずるりと隆季の体が崩れた。あまりの衝撃的な事実に彼の華奢な精神が崩壊した瞬間だった。
 
「まったく往生したぞ。急に気を失ったと思ったら、気がついたとたんに笑いだすのだからな。たかがあれしきのことでおかしくなってしまうとは、なんともか弱いことよ。」
頼長が忠雅に文句を言っている。
ここは花山院邸。今日は物忌みだと称して参内をしなかった忠雅の元へと頼長がやってきたのだ。
物忌みとは表向きで実はただサボっているだけなのはわかっていた。
「それでどうしたのだ?」
と、忠雅。水干の蜻蛉をはずしたくだけた格好である。
「笑い続ける隆季殿をやつの屋敷まで連れて行って家のものに預けてきたよ。私は顔を出さなかったがな。帰り道の途中までずっと笑い声が聞こえておったわ。気味の悪いことよ。」
思い出したのかぶるっと肩を震わせた。
「かわいそうといえばかわいそうだが、か弱すぎる神経というのも困ったものだな。では、もうやつとは終わってしまったわけだ。もったいなかったな。」
「確かに楽しませてもらったが、あれでは寝ざめが悪い。」
「ははは。まあ忘れることだ。またほかによき相手も見つかるだろうさ。だが…俺はもう除外してもらうぞ。」
「なぜだ?」
忠雅の言葉に頼長が驚いた。
「おぬしが隆季殿に入れあげておる間に俺には想う相手ができたのでな。悪く思うなよ。」
「おぬしが?珍しいこともあるものだ。おぬしに人を好きになることなどできたのか?」
「ずいぶんと失礼な言い草だな。俺だって人を好きになることくらいあるぞ。」
「いままでそんなこと、一度もなかったではないか。いったい、どこの美姫だ?」
二人とももう頭の中に隆季のことなどない。
「ふむ…、確かに美姫だな。そう白居易(白楽天)の詩にある
花開花落二十日 一城之人皆若狂 (花開き花落つ二十日、一城の人皆狂ふが若し)
と歌われた花中の王、牡丹のような美しさの美姫だ。」
背中まで流れ落ちる髪、細面の美しい顔、力を入れたら折れてしまいそうな華奢な体、まさしく美姫と呼ぶにふさわしいその姿を思い浮かべた。その本人は今、この屋敷の奥で疲れた体を休ませて眠っている。忠雅の物忌みもそのためだった。
「ほう、これはまた、おぬしにしては随分な入れ込みようだな。して、その美姫の名はなんと言うのだ?」
黒の中将と言われて恐れられているこの男を射止めるとは、いったいどこの姫だ。
「ふふ。おぬしも知っておるものさ。」
「だれだ?気になるではないか、教えろ。」
「泰親さ。」
「陰陽師のあの安部泰親か!?」
本当に驚いて頼長は大きな声を上げた。自分が何度誘っても落ちなかったあの男が忠雅の手に落ちていたとは…。
「おまえには悪いが今度の件では俺が一番いい思いをしたようだ。呪などではなく本当に想いが通じたのだからな。ははは。」
機嫌よく笑う忠雅に確かに美姫と呼ぶにふさわしくはあると思いながらも、面白くない顔の頼長だった。
 
そうか、美姫か…、確かに。泰親のことを思い浮かべるだけで自然に心が和んでくる。
妻を娶るなら器量も大事だが何より知性が一番大事だと思ってきた。
だが、実際には頭がよければ器量が悪いか、気位が高い。器量がよければ大抵愚かだ。
両方兼ね備えたものなどもういないと思っていた。
確かに女ではないが、あれこそ俺の求めていた妻にふさわしい。どうせこの世にたった一度の命だ。いまさら子をなして父親をやる気などさらさらない。家を継がせるのなら弟もおるのだし何とかなるだろう。
俺は自分の人生を好きなように生きる、そう決めていた忠雅。泰親を伴侶にと本気で望んだ。
そうだ、母の形見のあの襲をあいつにやろう。
妻を迎えたら着せてみたいと思っていたあの衣装。燃えるような赤の地に優雅に咲き誇る白い牡丹。
まるであいつのようではないか。凛として清楚なのに、花の王と呼ばれるにふさわしい華やかさと強さ。
襲など着せたら女のようだと嫌がるだろうか、でもきっと似合うな。
参内の帰りの牛車の中、忠雅はとりとめもなくそんことを考えていた。
 
そのころ隆季の屋敷では、乳人のぬえがあの流れものの陰陽師にあることを相談していた。
どうすればあの忠雅を亡き者にすることができるか。
頼長に送られて帰ってきた晩、隆季は狂ったように笑っていたが、しばらくするとさめざめと泣きはじめた。そしてそれから口を利かなくなってしまった。
泣いては眠り、泣いてはまた泣きつかれて眠る、そんなことを繰り返して食べるものも食べず、どんどん見る影もなくやつれていった。
それもこれもすべてあの男のせいだ。
花山院忠雅。
あいつさえいなければ隆季様はこんな目にはあうことなどなかったはずだった。(確かに忠雅のせいといえなくもなかったが。)
「乳人どの。これをお使いなされ。」
流れ者の陰陽師がそういって出してきたものは夾竹桃の実を煎じた粉薬。
紙に包まれたわずかな量のそれを胡散臭い顔で覗き込むぬえ。
「なんぞ、これは?」
「これは夾竹桃の実を干して煎じて粉にしたもの、まことに貴重な品。そしてまことに貴重な毒。ほんのわずか食べるものに混ぜるだけで、人がころりと死にまする。」
ただし、お高いですぞと下卑た笑いをもらす。
「いくらであろうとかまわぬ。だが本当に効くのであろうな?」
「それはもう確実に。」
「間違いないか?」
「ええ、間違いなく。これが体に入れば人はたちどころに血を吐きその場で死にまするよ。まこと恐ろしき毒。」
「ではそれをいただこう。」
そして高い金を払ってぬえは夾竹桃の毒を手に入れた。
「もう夜も更けた、今日はこの屋敷に泊まってゆくがよい。あとで飯と酒を届けさせようぞ。」
「それはかたじけない。では遠慮なく。」
酒と聞いて目が輝いた。
 
通された部屋でひとり酒を飲み、飯をくう男。
「うまい酒だ。だが、あの女もおろかよ。」
明日になったら黒の中将殿にあの女のたくらみを話すつもりだ。きっと中将は過分な褒美をくれるだろう。
これでしばらく遊んで暮らせるなとおもうと口元が品なく緩んだ。杯に残った酒を一息にあおる。
カタン!
と、急に手から杯が落ちた。
がふっ!っと口から血があふれた。蒼白になって男が倒れる。
「お…のれ女…たばかった…な…」
虫の息でそれだけ言うと男はがくりとその場で息絶えた。
几帳の影からぬえが現れた。息絶えた男を冷たい目で見下ろす。
「おまえのような男の考えることぐらい、われにはお見通しじゃ。おろかはお前でござったなあ。ふふふ。…それにしてもよく効く毒よのう。」
先ほどの酒にほんのわずか溶かしいれただけでここまで効くとは。
ためしたかいがあったというものだ。
信用の置ける下男に言いつけて陰陽師の死体を加茂川に捨てさせた。
「忠雅。待っておれ。隆季様のうらみ、必ずやその身に報いさせてくれようぞ。」


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牡丹(7)