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    「白衣の君」(1)


「先生!頼むよっ!!」
ドカドカと荒っぽい連中が今日も療養所の土間に怪我人を運び込む。
「今度はどうしたんだい?辰吉さん。」
布巾で手を拭きながら背の高い白衣の青年が診療所の土間口に顔を出した。
「手間の安が屋根から足ぃ滑らせておっこっちまったんだよ。頭は打ってねえんだが肩が痛くって動かせねえって。どうやら肩から落ちたみたいでさあ。」
一番年嵩の男が心配げな顔をして、ウンウンうなって真っ青な顔をした怪我人を見下ろした。
「大丈夫か、安?」
「うう」
肩をもう一方の手で押さえながら、安と呼ばれた男はぶるぶると首を振る。
「痛てえです…と、棟梁っ…」
「痛いに決まってるよなあ。どれ、みんな、安さんをこっちに連れてきてくれないか?私にどれだけのことができるか見てみよう。」
先生と呼ばれた青年が、大工の手間をやっている安を中に上げるよう言った。
 
「おい、あの若いの大丈夫か?自分にどれほどやれるか見てみよう、なんて暢気なこと言ってるぜ」
安の乗った戸板をよいしょと担ぎながら、上方から近頃流れてきたばっかりの大工の一人が隣の男に耳打ちしてきた。
「おまえ、最近このあたりに来たばっかりだから知らねえんだよ。あの若先生はな、ものすご~く腕のいい医者なんだぜ。おまけに、本当なら、俺らなんて足元にも近寄れないぐらいいい家の御曹司だし。」
「へえ」
流れ者の大工、留吉はびっくりしてその若い医者の後姿を目で追った。
 
確かに見れば見るほど自分たちとは違う。よっぽどいいもの食って育ったのか、その背はすらりと高く、かといって痩せぎすでもなく、ほどよく肉もしっかりついている。
「ここに下ろして。そうっと慎重にね。」
そういって指差す指が、これまたすらっと長くて綺麗で、思わず見ほれてしまうほどだ。
「う~ん。折れてはいないけどかなり強く打ってるね。今日調合したばかりの新しい湿布薬があるからそれを塗っておこう。」
毎日これを取り替えて貼るんだよ、とにっこりと笑って説明する若い医者。
秀でた額にすっきりと伸びた眉。その下の優しげな笑みを浮かべる瞳は涼やかで、育ちの良さを滲ませている。大きめの唇をにっこりと綻ばせているせいか、とても親しみやすい印象。
「なんつうか…イイ男だねえ」
俺みたいに泥臭いのとは大違いだ、と留吉。
「きっと、奥方も育ちが良くって綺麗なんだろうなあ。」
ほう、と、うらやましげなため息をついた。
「と、思うだろ?」
さっき、色々と教えてくれた松助というのが意味深な言い方をした。
「え?…まさか、ひとりもんかい?」
「そのまさかよ。あれだけの色男だ。そこらの女が放っちゃおかねえってのに、あの先生は誰とも浮名、流したこたねえんだよ。」
「あ、そりゃあおめえ、いいお家の方だから俺らみたいな下々なんて目に入っちゃいねえんだろ」
「違げえな」
松助がツッツッと顔の前で人差し指を振る。
「あの先生はよ、大層な名家のお世継ぎなんだけどよ、何をどうしたもんか下の弟に跡目譲って家、おん出ちまってるんだぜ。」
「はあ?そりゃまた勿体無い。なんでまた?」
「何が理由かは知らねえけどよ。まあ、名家のお子様の考えることは俺らにはわかんねえけどなあ。」
松助は俺らならありえねえけどなあ、と首を振って見せた。
 
「おい、留吉、松助!何そんなとこで、ヒソヒソくっちゃべってやがんでえ。安を女房んとこまで運ぶぞ、とっとっと手伝いやがれ!」
棟梁にふたりまとめて怒鳴られて、留吉と松助はへ~いと返事して首をすくめた。
 
「じゃあ、お大事に。なにかあったらなんどきでもいいから言ってくるんだよ。」
白い上着の裾をはためかせて青年医師は皆を外まで見送った。
「あ、ありがとうございます。」
白い晒を肩に巻いて戸板の上で安は深く頭を下げた。
「先生、お代のほうは…」
棟梁が言いかける。
「あ、そうだったね、ちゃんと診療代を頂きなさいって診療所の台所から言われてるんだった。」
あはは、と笑うと青年はじゃあ、これだけ、と医者にしてはとんでもないくらい安い金額を言った。
「先生、そりゃあ安いのはありがてえが、安すぎやしませんかい?」
「いいんだよ、湿布に使う薬草だって私が山で取ってきたものだし、どこか切ったり貼ったりしたわけじゃないからね。妥当だよ。」
「まったく…他の先生は自分の儲けまで考えて法外な額言ってくるっていうのに。」
そういって棟梁は笑うと、懐から金子を出して青年医師に渡す。
「まいどあり…だったけ?」
チャリと小さな銭を握って青年は悪戯っぽく笑った。
「また、変な言葉を覚えなすったね。そんなセリフ先生には似合いませんよ。」
「そうかい?これからはこれで行こうと思ってたのに。」
「先生にゃ無理でさあ。それより先生こそ、なにか困ったことがあればいつでも言っておくんなよ、俺んとこだけじゃなく、先生のためなら命を張るってヤツラはいっぱいいますからね。博雅先生。」
 
ここは天下のお江戸の城下町。小石川療養所に身を置く若き蘭学医、源本博雅は、私のために命なんか張らなくっても大丈夫ですよ、と、笑って手を振ったのであった。
 
 
未だ運命のひとと出会えぬその青年は、生涯、独り身を貫くのだろうか。





いつまで独り身でいるつもりだい、なんて聞かれるたびに困ってしまう。そりゃあ自分でもこのままでいるのはどうかとは思うのだが、どうしてもその気になれないのだから困ったものだ。
綺麗な娘さんをみればどきどきもするし、かわいいおきゃんな子を見れば、いいなあかわいくって、なんて思ったりもする。そこのところはまったく健全な男子なんだが…。
それ以上もそれ以下もないのだ。
可愛いと思えばそこまで、綺麗だと思えばそこまで。
そこから先の感情が湧かない。
だからといって、綺麗や可愛い以上の感情にない相手と便宜上だけの契りなど自分にはできっこない。そこまで神経は太くない。
こんなだから家は継げない。
そう思ったからこそ、弟に家督を譲った、そして自分は医学に身命を捧げるつもりでいる。
…そう決めて家を出たというのに。
 
はあ。
 
家を任せた弟は、やはり兄さんでないとダメなんだ、としょっちゅう説得にやってくるし、両親もまだ自分をあきらめてはくれないし、おまけにここにいれば患者も他の医師もみんながみんな、嫁を貰えだ、身を固めろだ、とやかましい。
 
余計なお世話なんだけどなあ。
 
怒って言っているのではない、本当にそう思っているのだ。皆の気持ちはとてもありがたいのだが…要らないのだ。
 
…他のものなんて。
 
自分には誰にも言えない秘密がある。
それはある夢のこと。
毎夜のように見る夢。
物心ついた頃からからだろうか、あの夢は。
 
博雅…博雅…
待っていてくれ…博雅…
 
夢の中で自分を呼ぶ声がする。
 
誰かは知らない、顔も見えない。
それでもあの声は知っている気がする。
 
泣きたくなるほど懐かしくて…愛おしい。
恥ずかしい話だが、目が覚めると頬が濡れてるなんてこともままある。そして、そんなときはいつだって苦しいほど胸が痛い。
 
あの声が自分を呼んでいるうちは自分は誰のものにもならない。
いや…なれない。
夢なんかに惑わされて愚かだな、とは自分だって思う。
でも、今はあの声だけでもいいんだ。
百の言葉より千の睦言より自分の名を呼ぶあの声。
だから今日もこう答える。
 
「嫁?いらないよ。だいたいこんな朴念仁、嫁に来てくれたヒトが可哀相だよ。」
 
そういって笑うんだ。



周りがぼわんとした白いもやに包まれている。
ああ、いつもの夢だなと博雅は気がつく
 
また、あの声が俺を呼ぶのか
 
胸の奥がツキ…と疼く。
疼くなんておかしなものだな、
だって、ここは夢の中。
 
…博雅…ひろ…まさ…
 
ほら、また呼んでる。
低く甘い声。
まるで背筋を羽がくすぐるようだ。
 
その甘い声にうっとりと目を閉じる。
 
好きだ…この声…
 
と、するりと背後から体に回される腕。
 
はっ!と目を見開く。
振り返ろうとするのを例の声が制止する。
 
振り返らないで…じっとして
 
自分よりも背の高い体がピタリ、博雅の体に沿う。
耳元から首筋にかけて鼻が摺り寄せられ後を追うように唇が這う。
 
「だ、誰?」
 
ざわりと肌が粟立つ。寒気ではない…甘い予感。
 
…知っているはずだろ
 
柔らかな吐息とともに囁かれる。
 
私だ。…博雅




「…あ…っ…」
 
貫かれる甘い痛みに、博雅はその滑らかな背中を弓のように反らせた。
 
おなごのように貫かれているのだ、…俺は。
 
引き上げられた尻を大きく広げられ、その中心に顔の見えない誰かのものが納められている。
恐ろしいはずなのに、心の奥から湧いてくるのは切ないまでの恋情。熱く硬い相手のものが苦しいほどに自身を圧迫するのに、溢れてくるのはただひたすらの喜び。
 
博雅…博雅…愛しい博雅…
 
背後の誰かがずっとそうやって自分を呼び続ける。
 
ああ、俺も愛しい…    …俺の大事な   …。
 
名を呼んでいるはずなのに、それは自分の耳には聞こえない。
 
なぜだ!?
 
知っているはずなのに聞こえぬ名。
焦る博雅の背に、己の体を沿わせて背後のものが囁く。
 
大丈夫…私はいつでもおまえとともに。
 
「え!?」
思わす振り向く博雅、その唇にその誰かの唇が重なる。唇が重なるほんの一瞬、切れ長の美しい瞳が博雅の目に入った。が、それさえも吹き飛ぶほどにそのくちづけは激しくて。
まるで長い間、飢えていたもののように博雅の舌に絡みつく相手の舌。飲み込みきれぬ唾液が下になっている博雅の唇の端から垂れ、銀の糸となって零れ落ちる。
 
いつだって、おまえとともに…博雅…
 
最奥に届けとばかり突き込められる秘孔を穿つ熱茎。
 
「あ…っ…あああ…!」
 
埋められる秘孔、そこから全身に広がる歓喜の波。博雅の意識が白濁する。
 
 
夢の中…の…は…ず…
 
熱く迸るものを割られた下肢の最奥で感じながら、博雅はついに意識を手放した。
 
 
 
 
 
ちゅんちゅん…ちゅちゅん…
 
外ですずめの鳴き声がする。
 
「朝…?」
 
雨戸の間から白い光が差しこんでいる。
博雅は布団から体を起こしてぼうっとした頭を振った。
 
「またあの夢…」
いつの間にか掠れた声で、博雅はひとり、ぼそっと呟いた。
「声が掠れてら。風邪でも引いたかな」
喉に手をやる。
「痛くはないから違うか…。啼きすぎってやつかな…はは…」
力なく嗤う。
そう言ったその手が自然に自分の顔に伸びた、ふっくらとした自分の唇にそっと触れた。
なんだか熱い気がした。
 
「久々に見たな。」
もう片手が肌蹴られた胸に這う。こちらも気のせいか少し熱を帯びているようにも思える小さな乳首に触れた。
「…あ」
自身の指先がそこを軽く摘んだだけで博雅の唇から熱い息が洩れた。
唇から手が滑り降ちる。
そのまま、寝巻きの裾を割って自分のものに手を触れる。すでにそれが濡れて熱くなっているのはもう知っている。
 
「…う…っ…あ、あ、…」
 
朝の光が細く差し込む薄暗い部屋の中で博雅の濡れた声が小さく響いた。
 
 
 
「先生、どーしたの?」
「ん、何?」
「なんか朝からヘンだよ。」
「そうかなあ」
「ポーッとした赤い顔しちゃってさあ。風邪かなんかじゃないの?大丈夫?」
「はは、大丈夫さ、ちょっと熱っぽかったけど、ほら、もう元気!」
「なら、いいけどさ。やっぱ、風邪なんかも引いちゃうだろうしさ、誰かいいお嫁さんもらったら?」
往診の帰り、薬箱を持たせた小僧の将太と歩きながらそんな会話をしていた博雅。
「なんだ、おまえまでそんなこと言うのかい?」
「だってさ、先生いいとこの若様なんだろ?早くいいお嫁さん貰って家つぎゃあいいのにさ。」
「ん~。私は家のために生きてるわけじゃないからねえ。嫁さんは気が向いたら考えるよ。っていうか、子供がそんなオトナの話に首を突っ込むんじゃないの」
にっこり優しく微笑んでそう答えた、
 
「おい、アンタ」
仲良く話すその背後に誰かの声がかかった。
 
「はい?私のことかな」
博雅が振り向く。
「そう、アンタだ。」
少し離れたところに立っていたその男が近づいてきた。見れば汚いなりではあるがどうやら山伏かなんかのようである。
あんまり関わりたくないな、と博雅は思った。どうせなにかいちゃもんでもつけて金かなにか巻き上げるつもりだ。あたりは運悪く人影のないお屋敷通り。白壁が続いて明るいが人気はない。
「金ならないよ」
先にそう言った。
「いや、金などいらない、俺はつい最近まで山に篭って修行をしていた、何年もな、そして視えるようになった」
山伏の目が博雅の背後をじっと見つめた。
 
「アンタ、憑いてるぜ」

 
「は?」
 
博雅もそして小僧の将太も後を振り返る。勿論なにも居ない。
 
「何?」
「なんにもいないぞ、何言ってんだ!」
薬箱をしっかりと胸に抱えて将太も博雅と声を揃えた。
 
「わしには視える。」
ひげだらけの顔に目だけを光らせて山伏が言った。
「おぬし!」
ビッ!と人差し指を博雅の顔に突きつけた。
「は?」
「おぬしのうしろにいる!」
人差し指のさきがすいーっと博雅の顔のうしろに移動する。
「目つきの悪いのが一匹、おぬしの後ろにくっついておる。おぬし、体の具合など悪くはないか?」
山伏が手にした大きな珠の数珠を握り締めて言った。
「い、いや、特に。なにしろ私は医者です。病いなどかかれば自分でわかる。そ、それにしてもなんです、突然、変なこと言って。」
法師の血走った目と、にじり寄る汚い顔のアップに思わず身が引いた。
「わしは修行を積んだ高潔なる法師である。」
どこから見てった胡散臭い山伏が言った。
「わしは修行で得た法力で色んなモノを祓ってきた。人の後ろにはいろんなモノが憑いておるものじゃ。それも様々。昔、人であったものやら、ただのケモノやら。中にはデカイ百足が憑いておったものもいた。わしはそれを祓い、それらの力を自分のものとしてさらに法力を強くしてきた。」
臭い息が博雅の顔にかかる。
「こら!先生に近寄るな!このじじい!!」
小僧の将太が博雅の前に割り込む。
「のけ!小僧!」
「イテッ!」
払いのけられて将太がしりもちをついて転がった。
「将太!」
キッ!と法師を睨みつける博雅。すぐにしゃがんで将太を助け起こす。
「こんな子供になにをするん…」
振り向いた博雅の言葉が宙に消えた。
「どこ行った…?」
「??」
確かに今ここにいたはずの山伏の姿が煙のように消えていた。目を丸くして驚く将太の腕を掴んだまま博雅も驚きに固まる。
 
『…今宵…貰い受けに参る。』
 
どこからともなく声が降って下りる。
 
「な、なんだっ!?」
恐ろしさにすくみ上がる将太を腕に抱え込んで博雅は声を上げた。
「どういう意味だ!?」
 
『ぬしのうしろの力、わしが貰う。待っておれ』
 
ふははは、と空中に野太い笑い声が響いて、そのまま気配が消えた。
 
「せ、先生…今のなんだよう…」
ガタガタと震える将太に
「わからない…」
そう答えるしかない博雅であった。



さて、その夜。
 
「こんなのでなんとかなるのかなあ。」
博雅は手にした一枚の札をしげしげと眺めた。長細い紙に南無八幡大菩薩と黒々と墨書でしたためられてある。
小僧の将太がコレが護ってくれるからと言って家から持ち出してきたものだ。わざわざ自分のために心砕いてくれたのを無下にもできず、じゃあ一晩だけお力をお借りするよ、と預かったのだが…。
「八幡菩薩さまねえ。どうもあの怪しい法師は菩薩さまの管轄外の気がするけどな。」
そういってお札を床の間にそっと置き、代わりにその横の刀を手に取った。
「できることならこれも使いたくはないけど、一応ね。」
行灯の側に座し、傍らに刀を置くとなにが起こるのかをじっと待った。
不思議と怖いという気持ちが沸いてこない。震える将太を抱えていたときには確かに怖かったはずなのに。
冷静になってみると意外と自分が怖がっていないことに博雅は気付いた。
なんだろう、これは。
 
まるで妖しのように現われて消えた法師。その法師が今宵自分のところにやってきて博雅の後ろにある何かを奪ってゆくと言った。
普通あのような目にあえば、来るといったその夜は怖いに決まっているだろうに。
なぜだかちっとも怖くない。
昔っからのんびりしてるとはいわれ続けてきたが、もしかして自分はちょっと感情がニブイのかな。
なんて、考える。
だから、嫁に貰いたいほどの婦女子が現れないのかも知れない。
 
いやいや、やっぱりそれは違うな。俺が嫁を貰わないわけは自分が一番よっく知っている。
今朝のことを思い出して博雅の顔がぽっと赤くなった。
 
あの夢を見続ける限り他の誰かと褥を共にするなど考えられない…。目覚めてなお収まらない熱を自分で解き放たなければならないとしても、あのような激しい情熱を他の誰かと、なんて。
…まして、俺は…組み敷かれる側だった。
女のように相手のものを受け入れ自ら腰を振って…。
 
ますます博雅の顔が赤くなる。
 
普通に男として生きてきたのに。
女の肌を見ればそれなりにあっちのほうだって反応するのに。
なのに、夢の中での俺はまるで違う。
低く甘い声が俺の名を呼ぶだけでなにも考えられなくなって、まるで女のように相手にしがみつき、抱いてほしいと乞う。
 
他の誰かなんて絶対無理だ。
 
「他の誰か…か。」
 
行灯に映るぼやけた炎の影を見つめて博雅はさびしそうにふっと笑った。
 
「その誰かが誰であるかも知らないのにな。」
うっすらと覚えているのは低く響く声、自分を抱く腕、そして切れ長の美しい瞳だけ。それすらも思い出そうとしても、深い霧の中で見たかのようにぼんやりとしている。
 
誰かもわからない、もしかしたら俺の心が生んだだけの幻かもしれないただの夢の住人に俺はこの身を捧げる気でいるんだよなあ。
 
「呆れたバカだな、俺は」
ふふふ、と博雅は自分を笑った。
 
 
ゆらり
 
行灯の明かりが風もないのに大きく揺れた。
明かりを見つめていた博雅の背に緊張が走る。
傍らの刀にすっと手が伸びる。掴んだ刀をそうっと自分のそばに引き寄せた。
 
『待たせたな』
どこからか声が聞こえた。







   SSのつもりで書いた大江戸編、意外に好評でしたのでちょっとチョーシに乗ってしまいました。もうしばらくお付き合いくださればうれしく思います。



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   へたれ文へのご案内にもどります。