花橘 (2)



あれから何度博雅とともに濡れ縁で酒を飲み語り、笛を聴いてきたことだろう。
新しい屋敷よりも晴明の屋敷で過ごす時間のほうが多いのではないか、と思うほどに三日とあけずに博雅は通ってきた。

「博雅どの。このようにしょっちゅうわが屋敷にこられてはお屋敷の方々がよい顔をしないのではないですか」
よい月だなあ、と言いながら杯を傾ける博雅に向かって晴明が聞いた。
「え?何か言われたか?」
晴明の声に博雅がきょとんと振り向いて聞いた。その顔をみて、晴明はため息が出そうになるのをぐっとこらえた。
「いえ、なんでもありませんよ、…本当に今宵はよい月ですね」
そしらぬ顔で言った。
その晴明の表情の奥にあるものに気づいた博雅は、持っていた杯を床に置いた。ほんのわずかも欠けずにいる月を眺めるため庭に向いていた体の向きを変え、晴明にきちんと向き合った。

「晴明どの、賢明なあなたはもうおわかりかと思うが、私はあまり人と付き合うのが得意なほうではない。でも、あなたといると、こう…なんというか、そう…自分を偽らずにすむというか…うまくは言えぬのだが、心がほんわりと暖かくなってすごく落ち着くのですよ。だから、あなたがいやな顔をしないのをいいことにせっせと伺ってしまっているわけだが…その…もし迷惑だったなら言ってくれないか?」
自分はそういうことに気づくのが鈍いほうだからと、博雅は少し悲しそうな顔で言った。
「迷惑などと、とんでもない。私のほうこそ博雅殿の時間を占領してしまっていいのかと心配しておりました。」
「家のものには何も言わせませぬよ、こう見えても私はあの家の主人です。家人の思うようになるつもりはありませぬ。」
存外きりっとまじめな顔をして博雅は言った。
「なんです、ちゃんと聞いていたのではないですか」
「これでも一応、耳がついているのでね」
にこりと笑って博雅は自分の片耳をチョイと引っ張った。
晴明の体の中心にあるものがどくりと脈打った。博雅の耳を引っ張るそのしぐさに欲情した。
(ばかか、俺は)
自身をさげすむように晴明は心のうちで己の汚い欲をなじった、博雅以外もう抱きたくはないとわかったあの晩よりもうすでに幾月が過ぎただろうか、その間、晴明は熱心に誘い続けてくる融はもとより、誰とも褥をともにしていなかった。
ただひたすらに博雅がほしかったのだ。

そうやって遂げられぬ想いに鬱々としていたある日、晴明は久方ぶりの出仕で源融と宮中で出会った。
官位が上の融に対して深く頭を下げて礼をとった晴明に、足を止めた融が声をかけた。
「晴明どの、私の文は届いておりますでしょうか?」
「はい…。」
「ではなぜ、返事を下さらないのだ?」
周囲には誰もいはしなかったが、それでも小さく声を落として融は聞いた。
「ご返事するには及びませぬゆえ。」
「…それは…どういう意味です…」
手にした杓をぎゅっと握り締めて、源融が引きつったような震える声で再び聞いた。
「もう私のことなどお忘れなされませ。私などにかかわると、ろくなことがございませぬよ」
何の感情もみせずにいう晴明。
「それでもよい、と申したら?」
「それでもお断りするだけですね。申し訳ない」
それだけ言って行きすぎようとした晴明の背を追うように融が声をかけた。

「…博雅どのか?」

踏み出した晴明の足がぴたりと止まった。
「…はて、何のことでしょう?」
「ごまかしてもだめですよ、晴明どの。あなたはあまり、ここにはこられぬお方だ。だから、私はたまに参内してこられるときのあなたを常にじっと見ていた。…そして、気づいたのですよ。」
融の声は段々と低くなってゆく。
「なにをです?」
振り向きもせずに晴明は聞いた。
「あなたのその瞳は、常に同じ人物のあとを追っている…ということにね。」
「…なんのことだか。」
「今更とぼけても無駄ですよ、私にはもう、わかってしまった。」
「…」
「あなたの想いにも気づかぬ、あんな鈍い男のどこがよいのです?私ならば、あなたの気持ちにこたえることができる、何故、私を選ばないのだ?」
今にも大声を出してしまいそうなのをこらえて融は言う。
「あなたが何を思おうが勝手だが、推測でものを言うのはやめていただきましょうか。私ならば何を言われようが今更、気にもいたしませぬが、中将さまを巻き込むのはおやめください。そのようなあらぬうわさを立てられては、あの方にご迷惑がかかります。」
融のほうを向いてそういう晴明の目は、氷よりも冷たかった。
「では、私は先を急ぎますので」
もう融になにを言う暇も与えず晴明はその場を後にした。
「…晴明どの」
蒼白になった融を残して。


こんなに愛しいと思っているのに…
 
融はきりきりと唇をかみ締めた。
想っていただけの間であったならばまだいくらか我慢もできようが、一度肌を許したこのとのあるいまとなってはその存在は忘れようとしても忘れられるものではなかった。
何人もの男や女との関係を持ってきた遊び人の融のとっても晴明はとても離したくないほどの恋人だった。
あの冷たいまでの美貌と力強い腕。女でなくとも虜とならせずにはおかない妖しいまでのその魅力。
今、それが自分の手の中からすり抜けようとしている…一度は手にしたはずなのに。
悔しかった…名家に生まれて贅沢に、そして放蕩に暮らしてきた融、いままで望んで得られなかったものなどなかった。
 
まったくあんな無粋な男のどこがいいのだ、ただの楽ばかではないか。
 
内裏で見かけた博雅を少し離れたところから観察する融。心のうちで博雅を小ばかにしていた。
誰かと話をしている博雅。相手は加茂保憲、かなり親しい間柄らしくにこやかに笑いながら話をしている。
 
背だけは高いな。それでも晴明どのには少し届かぬか。なんだ、よく見ればずいぶんと整った顔立ちをしているのだな。普段あまり話もせぬからじっと見たことなどなかったが。
それに笑った顔はなんともさわやかで明るい…ちっ!
私や晴明どのの真逆ではないか。われらはどちらかというと闇が似合う、だがこの男は日の光のほうが似合いそうだ。だからあこがれるのか、晴明どの。
 
私の持たぬものを持っている男…。

考えただけでむかむかといらだってくる。
 
ああ…そうだ…。
どうせ手になど入るはずのないものなのだ…ならば最初からなければよいのではないか?
ククッ…。
 
融の唇に残酷な笑みが浮かぶ。
蝙蝠で口元を隠してその場を離れた。
 
なんだ?今のいやな波動は?
 
博雅と話していた保憲が突然、背筋をざわりと駆け上った嫌な感覚に目を上げると、ちょうど背を向けて柱の向こうに歩み去る融の姿が見えた。蝙蝠で隠したその口元の笑みが保憲の位置からかろうじて見えた。
 
笑っている…?
 
博雅の話に相槌を打ちながら、保憲はその姿になにやら不穏なものを感じた。
 

直居の晩のことだった。
「博雅さま。お屋敷よりお迎えが参っております。」
そう言づてを受けた。
「迎え?なにごとだ、いったい?」
「さあ、私は至急博雅さまをお呼び申し上げてくるよう従者の方から頼まれただけですので」
困ったように舎人は言った。
「まだ大切なお勤めの最中だというのに。」
そうまじめに言う博雅に隣で聞いていた同じく今晩の直居のお役をいただいているものが言った。
「直居の晩に帰ってきてほしいとはなまなかなことではございませんぞ、博雅どの。ここはいつものごとくとりたてて何にもございません,たとえ一人位、お役目のものが居なくなっても誰も文句も言いませんよ。きっと大切な用ですよ。お行きなされませ。」
周りで聞いていたほかの者のそうそうと相槌を打った。
「ただ、後で何の用だったのか差し支えなければ聞かせてくだされよ」
にんまりと笑った。ただの親切というよりは単になにかあったことが楽しいだけのようだ。
(暇な方たちだな、まったく…)
博雅は小さく笑い返した。
 
舎人について車寄せへと向かう。もう真夜中も過ぎてあちらこちらに小さな明かりがついているとはいえ、ほぼ闇である。まして車寄せのような戸外では月もない今日のような夜は真っ暗であった。
その暗闇の中にたいまつを手にした従者が待っていた。ぱちぱちとたいまつにの火がはぜる中、その従者の影だけが闇の中に浮かび上がっていた。だが、その顔は闇ではなく、たいまつの明るい火にさえぎられて博雅からは直接見えない。
「待たせたな」
「は…。」
少し頭を下げたがそれでも顔は見えなかった。
「さ、どうぞ」
牛車の御簾を巻き上げて博雅を促すもう一人の従者、こちらにいたってはすっかり顔が闇の中に沈んで見えない。
「うむ」
なにか変な感じだ。
 
ごとごとと牛車が進んでゆく。従者は一言も発しない。さすがに不審なものを感じて博雅は聞いた。
「いったい屋敷になにがあったのだ?こんな時間に私を呼び戻さなければならなかったこととは何だ?」
だが誰も答えない。
「おい、聞こえているのか?」
もう少し大きな声で言った。
 
ゴン…。
 
博雅の座ったひざもとに瓶子がひとつころがってきた。
「なんだ?」
手に取る博雅。その瓶子の口から甘い香りの煙がふわりと上がった。
 
まずいっ!
 
そう思ったときにはもう遅かった。
目の前が朦朧とかすんで博雅は意識を失った。その手にはしっかりと刀の柄が握られていた。
 
「どうだ?眠ったか?」
少したってからそうっと御簾を上げてたいまつをかざす男。先ほど顔の見えなかった従者だった。
鼻と口を押さえてもう一人も覗き込む。
「すっかり気を失っておるようだな」
つんつんと博雅のことをつつく。
「おい、見ろよ、刀に手をかけてるぜ。」
「意識があったらやばかったな」
ひそひそと話しあった。
「殿様から言われたとおりに本当にやるのか?」
あとから顔を出した方が言った。
「ご命令だ、仕方がなかろう」
「う…む」
「なに殺すわけではない…とりあえず俺たちはな。」
「でも、なにやら後味も悪いぞ。俺たちが直接手を下すわけではないが、この男が食われたらそれはやっぱり俺たちがやったと同じことではないのか?」
こわごわと御簾を持ち上げていた方が後ろを振り向いた。少し後ろに暗闇の中でさらに黒々と大きな影が立ちはだかるようにそびえていた。
都のはずれ朱雀門と対を成す羅城門である。都から外れているゆえか夜は盗人や人殺しなどが根城にしてまともな人間の来るところではない、近頃では鬼までもが出るという。
「こんなところに気を失ったこの男を打ち捨てていけばどんな目にあうことか…」
考えただけでぶるっと震えた。朝まで命があれば奇跡だ。
「ええい、うるさいぞ、お前。殿様がそうしろとおっしゃったのだ。俺たちは文句をいわずお言いつけのとおりすればいいだけだ!でないと俺たちだってどういう目に合わされるかわかったものではないぞ!」
あまり言うtまでもグズグズ言う相手に向かって気の強そうなほうが声を荒げた。
突然、二人の背後で生暖かい風がひゅうっと吹いた。
「ひっ!」
首筋に何かが触れたような気がして気の弱そうなほうが飛び上がった。
「ば、ばか!妙な声を出すな。驚くではないか。さあ、さっさとこいつを放り出すぞ。さあ、手伝え!」
牛車に乗り込みながら一人が言った。
「無理…」
消え入るような声が答えた。
「なにを言ってるんだ。早く終わらせて帰る…ひっ!」
役にも立たない相棒にイラついて顔を上げた男の顔が引きつった。
たいまつに照らされていてもわかるほどに顔色を失った相棒の背後に女のように白く美しい貌がこちらをのぞいて笑っていた。
その口元には長い牙がたいまつの明かりを受けて光っている。
「だ、だれだっ!?」
牛車の中を博雅をまたぎ、さらに奥に逃げ込みながら男が叫ぶ。牛車を抜けて逃げるつもりでいるようだ。
「お、おい!俺を置いてく気かっ!」
背後にわけのわからぬ存在に立たれて恐怖のあまり身動きのできないほうが悲痛な声を上げた。
女性(にょしょう)のように美しい顔のものが一言も発しないまますぐそばの男の首をその長い凶器のような爪で引き裂いた。鮮血がほとばしった。気管をやられて息をすることも声を出すこともできずにがっくりと男がくず折れた。気管からごぶごぶと血があふれひゅーひゅーとまるで陸に上がった魚のように口が空気を求めてぱくぱくと動いていたが、もうその口から息をすることなどなさそうだった。
「ひいいいいっ!」
腰が砕けたようになった男が牛車の反対側から転げ落ちた。
「ひいっ!お、おたすけ…!」
地面を必死ではいずった。その手が何かにつかえた。はっと上を見上げればそこに先ほどの美しいが、決して人ではないものが。
「ひっ!な、なにものだっ!ば、化け物なら、お、俺などより、そ、その車の中のお、男をまず食えっ!お、俺など、く、食っても、う、う、うまくなどないぞっ!」
自分の命が惜しいばかりにまず博雅の命を差し出した。
白い顔をゆがませてそのものがはじめて声を出した。
「気に入らぬ…」
「な、なにがだっ!?俺などより、そいつの、ほ、ほうがいいはすだっ!食うならそっちをく、くえっ!」
博雅の方を指差した。
「当たり前だ、博雅どのはお前のような下種とは違うのだ。愚かものめ」
そういうとなぜ博雅のことを知っているのか一瞬驚いた顔の男の頭を掴み、首を決して回ることのない角度に曲げた。鈍い音と空気をつんざく悲鳴が上がった。
汚いものに触れたようにぱっぱっと手を振って、その人にはあらぬ美しい妖し、大江山の朱呑童子は牛車の中を覗き込んだ。
 
「このようなところでいったい何をやっておるのだ、博雅どの。」
 
少しあきれたように朱呑童子は微笑んだ。
 
 
博雅の体を牛車から抱き起こして連れ出すとそっと地面に下ろした。腕の中に抱えた博雅の端正な顔を見下ろす
「こんなに無防備なそなたもまた愛いのう」
そういってにやっと笑うとその博雅の少しふっくらとした武のものには似合わぬ唇に己が紅い血のような唇を押し付けた。
「助けて差し上げたのだ、これぐらいは礼をもらわねばな」
ついでに袷も少しくつろげてそこに紅い口付けの跡をわざと残した。 それから博雅の口元に手をかざし呪を唱えた。博雅の薄く開いた唇から薄青い色をしたもやのごときものが流れ出し、そしてそのまま朱天童子の手の中へと吸い込まれて消えていった。
「…う…む…」
博雅の眉が不快げに寄せられた。
「博雅どの…きづかれたか?」
朱呑童子の声に博雅の目がぱっと開いた、そしてがばっ!と起き上がると太刀に手をかけた。
「おっと!落ち着かれよ。賊は片付けさせていただいた。我を斬らないでほしいな」
にやっと笑って目の前に両手を広げて博雅を制した。
「しゅ、朱呑童子どの?」
ようやくしっかりと気づいて博雅は肩の力を抜いた。
「ここは…?」
頭をめぐらせてあたりを見回した。闇に沈んではいるが目の前に大きな羅城門の影が黒山のごとくにそびえていた。
「羅城門?」
「そう、山ほどの妖しが徘徊する、人の来るべきところではない場所だ」
だが、自分の庭でもあると、そう言って童子は笑った。
「なぜ、こんなとことろに…」
聞きたくても自分をここまでだまして連れてきた二人は朱呑童子によって物言わぬ骸となって転がっているばかりだ。
「さあて、こいつらが死んでしまった以上それを聞くことはかなわぬが、博雅どのに何ぞ思うところのあるものがおるということだの。こやつらが死ぬ前に殿の命だと言っておったからたぶん宮中のものだな。よくよく気をつけられることだ。」
「宮中のもの…、まあ、きっとそうでしょうね。私にはよくわからないし知りたくもない色んなものが渦巻いているところですからね」
ふうっと博雅はため息をついた。なにがなんだかわからぬことに巻き込まれたくはなかった。
「きっと気を失わせたそなたをここに置き去りにして、妖しか、もしくはここらにうろつく盗人や人殺しにでもそなたを始末させるつもりであったのだろう。ただ、こいつらの誤算は、ここは我の縄張りで博雅殿は我の大切な友人であったということだの。命拾いしたな、博雅どの。」
「まったく。本当にありがとうございました。不覚にも気を失ってしまって…。朱呑童子どの、なにかぜひお礼を…」
そういう博雅ににこりと美しい顔をほころばせると
「ああ、よいよい。礼ならもうもらった。」
そう言った。なんだかわからぬ表情で博雅は「えっ?」と首をかしげた。
その鎖骨の辺りには朱呑童子がつけたくちづけの跡がひとつ。
 
 
「それは…?」
ひきつった笑顔をその見目麗しい顔に貼り付けて、晴明はそれを指差した。
 
 
 
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