「春の檻」(1)
山風に桜吹きまき乱れなむ花のまぎれにたちとまるべく
ゴウと風がふいた。
「おっと…」
烏帽子を押さえて博雅はぎゅっと目をつぶった。
水干の袖がバタバタと頬を打つ。
「春の嵐だな」
そう供の者に告げた。
が。
返答がない。
「ん?」
烏帽子を押さえつつ振り向けば。
「どこに行った?」
つい今しがたたまで後ろにいたはずの人間が忽然と消えていた。もしや先に歩きすぎたかと首を伸ばして来た道を確認するが、やっぱり人影はない。
春霞にかすんで濃く薄く、連なる峰々を覆う桜。
そのあまりの美しさに心奪われ、つい釣られて、都から遠く離れて山奥までやってきたのは、権謀術策にはまったく興味はないが、花だの月だの、この手のものには滅法弱い、京の都の殿上人、源博雅朝臣であった。
高い身分の貴族にしては健康的な濃い色の肌をした、すらりと上背のある若者である。萌黄色の水干が、育ちのよいキリリとした顔にとてもよく似合っている。
親王を父に持つやんごとなき身分のこの青年、自然と楽を誰よりも愛するがゆえ、止める家人を振り払い、こんな人里離れた山の懐まで来たのである。
供は慌てて後を追いかけてきたたった一人のみ、へたをすればその一人さえいなかったかもしれなかったのだが、本人はそんなことなど気にもしていないようであった。
さて、たった一人で来ることになったとしても一向に平気な博雅、あろうことかふもとに馬を置いて、さらに山の中へと分け入った。
「と、殿っ!お待ちくださいませ!」
供は馬の轡を繋ぐのもそこそこに、勝手気ままな主人の後を追いかけた。
山を覆うほどの桜。
その花は都のそれと違って、自然のままに伸び伸びと枝を伸ばし、奔放におおらかに咲いて、それはそれはたいそう見事なものであった。
群生しているわけではない桜を追って博雅と供はどんどん山深くへと入ってゆく。
「おう、なんとも見事なものではないか」
ひときわ大きな桜の木を見上げて博雅は感嘆の声を上げた。
春の青い空を背景に、桜の花が零れんばかりに咲き誇っている。少々色が白っぽく薄いような気もしたが、抜けるような青空に映えてとても美しい。
思わすうっとりと見上げていた博雅であったが、おもむろに懐から笛を取り出した。
「と、殿」
それを目ざとく見咎めて供が博雅に呼びかけた。
「なんだ?」
まさに今から吹かんと、唇のあたりまで笛を持ち上げて構えたところを止められた博雅、片眉をちょっと上げて供を見る。
「今からそれをお吹きになられるのでしょうか」
供は不安げな、いや、不審げな視線を博雅の手の中の竜笛に向けた。
「おう。もちろんだ、このように見事な桜だ。」
吹くに決まっているだろうが。それ以外にいったい何があるといった。そう言った博雅の目がまるで童のようにキラキラと輝く。
このような主人の顔をよーく知っている供。これは今はなにを言っても無駄だなと、はあ、と大きなため息をついた。
「もちろん…でございますか。」
ちろんと主人を見上げ
「では、なるべく短めの曲でお願いいたします」
「…なんでだ」
「殿は笛を吹き始められますとここがどこだかもすぐお忘れになられます。山の日は早ようございます。日が暮れないうちに帰らねばなりませぬよ」
主人の悪い癖は重々承知の供、ここはきっちりと博雅に言い渡した。
「わかっておる…」
渋い顔でそう答えた博雅。少々物足りなくはあったが供のものの言うとおり、いつものように時間を忘れることもなく早めに笛を切り上げた。
まだ日暮れには悠々間に合う時刻。二人は木漏れ日の中、楽々と山を降り始めたのであった。
それなのに。
一陣の風が吹き、振り返るとわずか二、三歩ばかり後ろを歩いていたはずの供の姿が消えていたのである。
遅れをとったのかと、しばらく待ってもみたり、どこかで崖からおっこちでもしたかとあちこちのぞいたりもしたのだが、どうにも本当に姿が見当たらない。
「いったい、どこにいったのだ?もしや神隠し?」
供を心配して博雅の眉が曇った。
「とにかくもう少し探してみよう」
木々の中に目を凝らして博雅は言った。
が、博雅の必死の捜索もむなしく、やがて日が落ち始めた。
「困ったことになったな。だが、暗くなっては俺一人ではどうしようもない。仕方がない、今日は山を降りて明日の朝早く人を出して探させるか」
無理やりくっつけられたとはいえ大事な家の者だ、博雅は心配そうに顔をしかめた。身分の低い者など人とも思わぬ貴族が多い中、この点でも異色の貴族、博雅である。
その日のうちに帰るつもりだった博雅、もし今日帰らなければ屋敷の者たちまで心配させてしまう。
そう思って博雅は山を降り始めたのだが。
山の日の落ちるのは早く、あっという間に山の中は薄暗くなってゆく。
「まずいな」
わずかに残る残照を頼りに博雅は山道を歩く。
ところが、途中でその道が藪の中に消えた。
「確かにこの道だったと思ったのだが…?」
通せんぼをするように草が壁のようにさえぎっている山道を見て博雅は頭を傾げた。
「俺はそんなに方向音痴ではなかったと思ってたがなあ」
道を間違えたか、と、ぽりぽりと首をかいて、博雅は今来た道を振り返った。
そして驚いた。
「あっ!」
思わず目が見開く。それもそのはず、今歩いてきたはずの道が消えていた。
博雅は、いつの間にやら道もない草原に立っていたのだった…。
「なんということだ…」
立ち尽くす博雅。
気配は何も感じられぬが、きっとこれは妖しか、はたまた狐のしわざに違いない。
と、その目が木立にまぎれて遠くに見える小さな明かりを見つけた。
「あれは?」
目を眇めて明かりのもとを見ようとするが、遠いのと風に揺らぐ木々の枝葉に邪魔されてよくわからない。
が、明かりが灯っているからには、きっと人がいるに違いない。このままここに留まっているのは、どう考えてもいい選択とはいえない。と、なれば答えはひとつだ。
「よし、行ってみるか」
博雅はどんどん暗くなってゆく山の中をその明かりを目指して歩き出した。
その明かりの源は小さな庵であった。
柴垣の質素な門をくぐると、数歩ですぐに戸口についてしまうほどの小さな庵。その板戸の隙間から明かりは漏れていた。
世俗を離れた世捨て人の庵か?
近頃、都では俗世を捨てて山の中にこのように庵を結ぶお方が増えている。流行りのひとつみたいにそんな真似をする輩も増えているが、本気でそうする人も多い。
もしかしてそのようなお方の庵ということも考えられるな、と博雅は思案した。この際、ここがもしかして妖しの罠かも、という風には思い至らないらしいところがこのころの博雅であったが。
それにしても大層変わった庵であった。なぜなら大きな桜の木がその屋根の真ん中よりにょっきりと伸びていたからである。庵の前や後ろに生えているというのならともかくも、それは庵の中に生えていた。桜が先で、それを囲むようにして後から建物が建てられたとしか思えない造りであった。
山の中とはいえ、庵がある分少し開けたこの場所いっぱいに、大きく枝を広げた桜は今が盛りと春爛漫と咲き誇っていた。まるで古びた庵が桜色の笠に守られているように見える。
「ううむ。これは趣きがあるというのか、それとも酔狂というのか」
桜の笠を仰ぎつつ、俺にはよくわからぬな、と博雅は思う。つい先日より晴れて恋人同士になった例の男ならば、そのあたりのことは詳しいだろうが。
つい、都一と名高い陰陽師の姿が心に浮かぶ。
白い狩衣のすらりと背の高い美貌の陰陽師。あいつなら、きっと、いつものように切れ長の瞳を少し伏せて、口元に皮肉な笑みを浮かべて、ここはこれこれこうだと明確にきっぱりと言ってくれるだろう。
「俺が今日、都に戻らないと、あれはまた心配するかな」
確か、今夜酒を飲む約束をしていたな、と博雅は眉を寄せた。
融に襲われた傷痕もまだ生々しい今。約束の時限に来なかったらきっとまた心配する、これ以上、心配をかけさせたくないのに困ったことになった。
だが、戻るわけにもゆかない。
博雅は今来た道を振り返ってますます難しい顔になった。
と、その背に声がかかった。
「あの、もし…」
声に博雅が振り向くと庵の戸口に一人の若者が立っていた。
「あの…」
「あ!これは失礼を」
何か言いかける若者に博雅はあわてて頭を下げた。
「ひとのお屋敷をじろじろと覗き込むなど、大変な失礼を。」
「あ、いえ…そんなことではございません。どうぞおつむりをお上げくださいませ。」
若者は困ったように苦笑して言った。
「このような寂れた庵、誰が覗こうが気にはいたしませぬ。お公家さまのようなお方ならなおのことです。」
そして続けた。
「このような時刻にあなたさまのような身分のおありになるお方がひとり、いったいどうされたのかと気になったものですからお声をかけさせていただきました。」
とても心配そうにそう言ってくれる若者に、博雅は山の中で供を見失ったこと、そのうち何の仕業かわからぬが、山を下りられなくなったことなどを手短に話した。
「それは大変だったでしょう。このあたりに妖しが出るなどとは訊いたことがございませんが、夜に山の中を動き回るのは、やはり危のうございます。今宵はこのような庵でよろしければぜひ泊まっていってください」
若者は親切にそう言ってくれた。
「何もございませぬが」
そういって若者は瓶子に入った酒といくらかの酒肴を出してくれた。
「かたじけない」
博雅は礼を言うと若者が注いでくれた酒を口に運んだ。
「ほう…これは美味」
半分残して博雅は杯をのぞきこんだ。
「味もさることながら、この仄かに漂う香りは…桜?」
「よくお分かりになりましたね」
若者はふふ、と笑んだ。桜色の唇が綺麗な弧を描く。
「いや素晴らしい酒ですね、宮中でもこのような酒は頂いたことがございませぬ。いったいどこで手に入れられたのです?」
「ここではよく頂く普通の酒ですよ」
若は少し謎めいた笑みを浮かべて「さあ、もう一献」と博雅に酒を勧めた。
「それにしても」
しばらく天候の話などした後で博雅は切り出した。
「このような山の中に、あなたのように若い方が庵を結んでいるなど…。失礼ですが何かよほどのご事情が?」
人里離れて隠遁するにはあまりに若い庵の主。自分とてまだ若い方であるが、どんな事情があるにせよ、まだ山に篭りたいとは思わない。
「はは、私は世を儚んだ世捨て人ではありませぬよ」
きっと、よほどの事情だろうと、遠慮がちに尋ねた博雅に若者は朗らかに笑って答えた。
「え?」
意外な答えに少し驚く博雅。若者の透き通るような儚げな美貌とその華奢な身体付きから、てっきり恋に破れた公達と思っていたのだ。
「私はここで仕事をしているのです」
にこりと笑って彼は言った。
「仕事?」
ますます頭を傾げる博雅。
「普段は誰にも話しませぬが…今日は特別にお教えいたしましょう…なにしろ博雅
さまですからね」
「え?」
最後のほうの一言は唇だけがわずかに動いただけだったので博雅にはよく聞こえなかった。
「その酒…実は私が作っているのですよ」
「えっ?」
にこりと微笑んでそう言った若者に博雅は驚きの目を向けた。
「こう見えても私は杜氏なのです」
「ええ?」
博雅はさらに驚いた。若者のことばは到底信じがたいものであった。真ん中に桜を抱えたこの小さな庵が酒を造るところとはとても思えなかった。
「まさか」
「ところが本当でございます。私は『宵春の造り』と呼ばれております。」
「よ、宵春の造り?」
「そう、春の酒屋でございます」
嫌な予感が博雅の頭をよぎる。
「ま、まさかとは思いますが…」
ちらりと若者を見て思い切って訊いた。
「もしかして…あなた、ひとではない…とか?」
「そうですねえ…ふふふ」
若者…宵春の造りはもう一度笑った。
「さてはやはり妖しか!」
博雅、驚いて座を蹴って立ち上がる。
その博雅を見上げて宵春の造りは穏やかに言った。
「まあまあ落ち着いてくださいませ、博雅さま。このあたりに妖しは出ませぬと言ったでしょう。私は妖しなどではございませぬ。」
「ひとでもなく妖しでもない?では、そなたはいったい何なのだ」
まだ立ち上がったまま博雅は言葉を返した。
「妖しはひとの気を吸い、果てはその肉さえも食らいます。が、私はそのような無粋な真似はいたしませぬ。今からお話申し上げますから、どうぞお座りくださいませ。」
「本当のところを申せば、博雅さまをここに導いたのは実は私でございます」
ようやく腰を下ろした博雅に向かって宵春の造りは話し出した。
「じゃ、やっぱり」
博雅はもう一度腰を浮かしかけた。
「いえいえ、ここに来るよう仕向けたからといって、あなた様の命を取ろうとか、そういうことではございませぬ」
宵春の造りは優雅に手を振って言った。白魚のような白く華奢な手、儚げなその顔立ち、しぐさ…妖しにはとても見えない。深窓のご令息か、身分のある若き公達か、といった風情である。
が、博雅が唯一知るひとならぬ妖しのものは大層美しかった。妖しだからといって恐ろしげなものばかりとは限らない。
博雅は用心深く聞いた。
「では、なぜ?」
「博雅さま、あなたさまにお願いしたいことがございまして」
宵春の造りはにっこりと微笑んだ。
彼が言うには。
彼、宵春の造りの仕事とは、春の酒を造ることなのだと言う。春の芳しい風と春一番の雪解けの清水、この春一番に出た若芽、そんな色んなものを天界の麹で醸して造る天の酒。
「そうやって造った酒を桜の木に飲ませてやるのです」
「桜に…飲ませる?」
「飲ますといっても、ほんの僅かですよ。」
まさか、ベロベロに酔っ払わせはしません、と宵春の造りは鈴を転がすような声で笑った。
「それぞれの根元にほんのちょっと、ね」
酒を注ぐしぐさをして言った。
妙に色っぽいしぐさに博雅は、どきっとした。
「その酒で桜はほんのりと色づくのです」
ちょっとドキドキしたのを振り払って博雅は言った。
「と、いうことは…桜というのは…あれはまさか…ほろ酔い?」
「まあ、そういうことになりましょうか」
「なんと…」
奇想天外な話に思わず口が開いた博雅だったが、次の瞬間
「はははっ」
大きく破顔した。
都の貴族はこの時期桜がないよりも好きでよく桜を愛でに東山や吉野にせっせと出かけ、恋の歌を詠み、桜の儚さに胸を熱くする。が、実はそんな貴族の心をかき乱す桜が実は酔っ払いであったとは。
世にも不思議な浮世離れした話に思わず博雅も力が抜ける。人をたぶらかす妖しがこのように手の込んだ話をするはずもない。人の気や肉が欲しいのなら、もっと単純に人を惑わずだろう。
「桜を酔わせるとは、なんとも不思議な話だ。今までこのような話は訊いたことがない。」
「それはそうです。人には決して教えませんし、見られもしませんからね」
私たちの姿は人には見えないのです、と宵春の造りは言った。
「私たち?」
このような者がもっと他にもいるというのか。
「私たちは季(とき)を彩るもの…。春は私ですが秋には別のものが木の葉を色づかせ、夏にはまた別のものが山の色を濃くいたします。冬は雪に映える松や椿の赤を。そうやって、かわりゆく季節ごとにひとりづつ。私たちは自然(じねん)の精にございます。」
「じ、自然の精?」
「ひとでもなく、妖しでもないものでございますよ。」
ね。と宵春の造りは悪戯っ子のように笑った。
「その自然の精のそなたが、私などにいったい何を頼むというのだ?」
博雅が尋ねるのも当然である。ひとには及びもつかない仕事をしている宵春の造りがただの人の自分に頼むことなどあるようには思われない。
が、宵春の造りは、あなたさまだからこそです、と微笑んだのである。
宵春の造りは話を続けた。
「昨夜私はいつものように桜の酒を造り、この山の桜たちに柄杓に一杯づつ飲ませてやっていたのです。
今年は春になってもいつまでも寒くて、桜たちはずっと凍えて蕾を開かせませんでした。先日、ようやく開いた花も今年は寒さのために色も淡くて、一杯の桜酒ぐらいでは色づかないのです。」
桜色というよりは白に近い花びら。博雅たち都のものにしてみれば綺麗だと思えるのだろうが本当の山桜はそんな淡い色ではない。春の青空に凛として映える鮮やか桜色。その色が今年は出ない。
「どうしたというのだ、桜たちよ。これでは天からの客人のために彩られなければならない山の御鞍が台無しになってしまう」
物言わぬ桜たちの頭を抱えていると
どこからか聞こえてくる笛の音色。
「こんな山奥に…」
酒を注ぐひしゃくの手を止めて思わず聞き入る宵春の造り。
その空になった柄杓に一枚の花びら。
それはそれは見事に色づいた桜の花びらであった。
「え?」
その花びらを手に上を見上げる宵春の造り。その目が驚きに見開かれる。
「なんと…」
さっきまで、眠ったようにぼけていた桜の花が春を燃える炎のように色鮮やかに色づいているではないか。
「いったい、これはどうしたことだ」
ふところに手を入れると宵春の造りは一羽の小さな目白を取り出し、その鳥に囁く。
「この笛は誰が吹いているのか見てきて教えておくれ。だれぞ名のある妖しであろう。しっかり名前まで聞いてくるのだぞ」
そういい含めて目白を空に飛ばした。
「さっきまで眠ったようだった桜をこれ程に色づかせるなどたとえ妖しにしてもたいしたもの。ここは少し手を貸してもらわねばな」
「ところが目白の持ってきた答えは私の思いもしないことでございました」
そう言って宵春の造りは笑みを浮かべた。
「さぞや名のある鬼か妖し、と思っていたのに、目白は只のひとだ、と言ったのですから。」
「人間だって?まさか?」
指先に止まった目白に宵春の造りは言った。
「ひとが吹く笛の音がこのような力を持つわけがない。目白よ、本当にちゃんと確かめたのかね?ひとのように見えたかもしれないが、それは妖しではなかったのかい?」
が、目白は尻尾を上下に揺すり、羽をぱたつかせて、違う違う、と鳴いた。
「わかったわかった、疑った私が悪かった。機嫌を直しておくれ」
宵春の造りは、首筋の羽を毛羽立たせて怒る目白の小さな頭をそっと撫でた。
「でも、本当にひとだとすれば、なんと不思議な力を持つ者であるな。」
そう言ったところで、ハッと気付いた。
「もしや、その人間というのは身分のあるお方ではなかったかい?目白や」
目白がぴいぴいと頷く。
「ならば、噂に聞いたことがあるあのお方では…」
宵春の造りは風に乗って流れてくる澄んだ笛の音に耳をすませた。
噂に聞くあの人間ならば、桜の色ぐらいなんとでもしそうではないか。
「これは是非ともこちらにお越し願わなくてはね…」
「それで、私はここにいるわけか…」
話を聞き終えて博雅は言った。
「が、私は本当にただのひとに過ぎぬ。桜の色を変えるなどという不思議な芸当などできはしないぞ」
「ご謙遜を。あなた様のお名前は私どものところまでも響いておりますよ」
「まさか。私の友の名ならばともかくも私の名など」
博雅は首を振った。
「友?」
「都一の陰陽師、阿倍晴明と言う者だ。あれならばそなたのような方々の間にも名が知れておりましょうに。」
「ああ、存じておりますとも。あのお方はそれはご高名です。が、ここでそのお名はあまりお口に出されませぬほうがおよろしいかと。」
と、宵春の造りはその美しい眉間に小さく皺を寄せて言った。
「口に出すなと?なにゆえ?」
「ここは人と人以外のもののちょうど境目の場所です。私のような自然の精だけではなく、本物の妖しも多うございます。陰陽師はそれらを祓うもの。
あのお方をよく思わぬモノが多くおります。あなたさまがそのお方の名を口にされますと、あらぬ誤解を受けます。もしや、ここから帰れなくなることになっては大変でございますから。」
「そ、そうか」
博雅は頷いた。
「とにかく、博雅さまはそのお手の鬼の笛、葉二の名とともに私どもの間ではとても名を知られておりますよ。」
「あっ、そうか、これが鬼の笛だからか」
なるほどそうか、と博雅は手の中の葉二を見下ろした。
「いえいえ、それも勿論ですが博雅さまご自身もご高名です。なにしろ、鬼の笛を吹ける人間などおりませぬからね。その葉二は人間どころか妖しにもそうそう吹けるものではありませぬ」
宵春の造りは続けた。
「博雅さまがそれを吹かれると天地の精霊が騒ぎます、今まで眠っていたものたちが目を覚ますのです。」
まさかと首を振る博雅に向かって
「本当ですよ。今年の春の桜たちは春先があまりに寒かったせいか、まだ目を覚ましきっておりませぬ。いくら桜の酒を飲ませてもぼうっとしたままぼんやりとしか色づきませぬ。是非博雅さまのお笛で桜たちを目覚めさせてやってほしいのです」
是非に、と頼まれればいやとは言えぬ博雅、(お人よしにもほどがあるとは思うが)宵春の造りの願うとおり笛を吹いてやることとなった。
「そうですか、吹いていただけますか」
宵春の造りはうれしそうに両手を叩いた。
「それは本当に有難い。」
「たいしたことはできないが、笛を吹くくらいならできるからな。これも桜たちのためなら喜んでやらせていただくよ」
うれしそうな宵春の造りの顔にお人よしの博雅の顔もついほころぶ。
「では、明日の夜にでも早速」
そう言う宵春の造りに、えっ?と博雅は顔を上げた。
「いやいや、私は明日にはこの山を降りて都に帰らねばならん、できれば今夜のうちに手伝ってしまいたいのだが。どうせ、笛を吹くだけだし」
「ああ、そのことならご心配には及びませぬ。」
宵春の造りはにっこりと笑った。
「ここは私の領内。この中の時の流れは私次第。たとえ、ここで一晩過ごしたとしても外の時の流れとは関係ございませぬ。あなたさまの望む時刻にお返しできますよ」
「ええ。それはすごい」
「ですから、今宵はどうぞごゆるりと。山に迷ってお疲れにもなられましたでしょうし」
そう柔らかく微笑んで宵春の造りは博雅に杯を勧めた。