いまひとたびの…(4)
 

  幼いころから雅には他のこどもとは違う変わったところがあった。誰に言われたわけでもないのに、自分のことを「ひろまさ」と呼ぶのだ。父母が何度、お前の名前は「みやび」というのだと教えても、「自分はひろまさだ」、と小さいながらも頑として言い張るおかしな子だった。
それでも小学校に上がる頃には、自分でも何か思うところがあったのか、みやびと呼ばれればちゃんと返事をするようになっていた。
そんな少年の頃。小学校の三年生の頃だったろうか。
 その頃通い始めたばかりの弓道の道場からの帰り道、あの応天門の前で不意に声を掛けられた。
「博雅!」
今では家のものが嫌がるので、口に出さないようにしていた自分の本当の名前を呼ばれて、ビックリして思わず振り向いた。
午後の遅い陽射しが作った建物の影から、一人の青年が現れた。長い黒髪を、無造作に後ろでゆるく一つにくくり、薄紫色のシルクのような光沢のシャツを着た、まるで女のように美しい男のひとが立っていた。
にこりと笑った顔は綺麗なのになぜか怖ろしく感じた。歳は二十歳くらいだろうか。初めて会う人だった。
誰だろうと見つめていると、その人は目の前まで歩いて来ると、雅の目の高さに合わせるよう膝をつくと優しい声で雅に問いかけた。
「我を覚えておらぬのか?博雅。」
雅の顔を覗きこむように聞いた。吸い込まれそうな目と濃い花のような香り。
「え…っと…?あなたはだれですか?それになんで僕の本当の名前を知ってるの?」
つぶらな瞳で尋ねる。全く警戒心というものがない。
「ふむ…己のまことの名だけは忘れずにいるか、だが、他の事は覚えてはおらぬようだの。」
少し下がって、雅の大きな弓を背負った小さな道着姿を眺めるとくすりと笑って
「また、可愛らしくなったものだの。…しかし、あれから千年の月日が流れたとはいえ、生まれ変わったぬしには時間など関係なかろうに…。まったく、人というのはやっかいなものだな。」
やれやれというように、溜め息をつくと、わけのわからない顔をしている雅の額に人差し指を当てて何か呪文のような言葉を呟く。
 途端に、まるで早送りの映画を見るように、雅の脳裏に前世の記憶が洪水のように押し寄せてきた。
「わっ!何!これ!?」
 眩暈がしそうなその早送りの映像に驚く、そしてその最後に見えたのは…死んでゆく大人の自分を掻き抱いて涙に暮れるひと。
 
「…せい…めい……晴明!」
 
そして今、目の前にいるのは…
「朱呑童子様!?」
「ようやっと思い出したか、博雅殿。…久しいの。」
「なんだか…、頭の中がごちゃごちゃ。」
ぶんぶんと頭をふる。
「でも朱呑童子様は分かりますよ。相変わらず綺麗です。」
世辞を言うなと、少し笑ったその口元に白い牙が覗いた。
「ところで、その様子では奴とはまだ、出会うておらぬらしいな。やつがぬしにかけた呪も大したものではなかったようだの。」
ふふんと笑う。
「この調子ではたとえ、やつと道ですれ違っていても気付かぬのではないか?…どうだ、博雅殿、今生では我のものにならぬか?」
 優しげな笑みを浮かべて誘いかける、が、これにウッカリ返事などすれば本当に掻っ攫われてしまう、と前世での教訓が蘇る。
 「それはだめです、朱呑童子さま。ぼくの前世を思い出させてくれたのはうれしいけど…。、あいつとの約束を思い出したから、たとえこの身が終わるまで会えなくても、最後まで待ちますっ!」
幼いその顔にきりっと決意をみなぎらせて宣言する。
「だって、あいつには後の世までもと、きつ〜く約束させられたし。」
小さなクセに頑固だ。
朱呑童子と呼ばれたその青年は、眉間に軽く皺を寄せると
「…何だか面白くないの、ここにおらぬくせに、それでも奴は邪魔をする。ま、今日のところは久々にぬしに会えたことではあるし、それでよしとしておくがな。」
「何か困ったときはここで我を呼ぶがよい。この朱呑、博雅殿のためならいくらでも力になろうぞ。」
「宿題とかでも…?」
悪戯っぽく雅が聞く。
「それは管轄外だな。」
朱呑童子が笑って答える。
「おう…、忘れるところであった。これをぬしに返しておこう。今日ここをぬしが通ると教えてくれたのも、実を申せばコイツなのだ。」
小さな雅の手にそれをぽんと乗せる。
「…!!葉双!!」
「おぬしがこの世から消えてから、おかしくなったものの一つだ。とても寂しがって大変だったのだぞ。」
「え?」
「もはや、おぬしでないとどんな音も出ぬ。これもおぬしが再びこの世に現れるのをひたすら待っていたのだ。手元において大切にしてやってくれ。」
何かもう一言言いたそうだったが、それだけ言うと今度こそ影に吸い込まれるようにして去っていったのだった。
 残された雅の手には懐かしい葉双が、まるで息づくように光を受けて輝いていた。
 
 秋の嵐山は観光客で溢れかえっていたが、それでも美しかった。雅の知り合いの家に車を停めて、二人は並んで雑踏の中を歩いていた。月の光のようなアキラと太陽の光のような雅、対照的な二人だったが道行く人が振り返るほど目を引く二人でもあった。
 「すごい人の数ですね。」
言いながらも、すいすいと絶対人にぶつからないアキラ。
 「今が京都の稼ぎ時ですからね。はんなり笑ってがっちり儲けるんですよ、京都人は。このままあちこち見ながら、嵯峨野の方まで行きましょう。少し歩きますが大丈夫ですか?」
 「ええ、意外と体力あるんですよ、こう見えてね。」
僅かな笑みをその紅い唇にのせてアキラがこたえる。
 (それはよ〜く知っている…。朝まで離してくれなかったものな…。)
昔を思い出して、首筋まで真っ赤になる雅だった。
(…なぜそこで赤くなるのだ?俺は何か変なことを言ったか…?)
ぽうっと赤くなっている雅を見ていると、今まで感じたことの無いあたたかい感情が、胸にじわりと溢れてくる。
(なんだかとてもかわいい人だな。)
なぜかとても愛しい。
男を相手にこんな気持ちになるなど初めてなのに、まったく違和感がなかった。
 「え〜っと、じゃあ行きましょうか!」
不自然なくらい明るく雅が言った時だった。
 「博雅さん。」
渡月橋を渡ろうとしている二人の後ろから、声を掛けてきたものがいた。
ふりむくと、たった今通り過ぎたはずの橋のたもとに、全身黒尽くめの服を着た隻眼の男が立っていた。
細面に切れ長の目、唇までもが切れ上がって薄かった。その薄い唇に笑みを浮かべている。明るい日差しの似合わぬ男だった。全身から闇の香りを放っているようだ。
 「黒川さん!お久しぶりです。」
にっこり笑ってその男と握手している雅。
だが、アキラはその男に不審の目を向けた。その男はひととは違う気を放っていた。
明らかに人間ではない…。
子供の頃から、ひとではない異形の者達を見る力に長けているアキラには、それがすぐに分かった。
異世界の者の中には、時々こうやって人の世界に紛れ込んで生きているものもいる。ただ、そんなことが出来るのは、よほど力のある奴だけだ。
(と、言うことはこいつはかなりの力を持つものということか…?雅さんは大丈夫なのか…?)
そんなのとどうして知り合いなんだ。
にこやかに男と話している雅を心配そうに見やる。
と、黒川と呼ばれた男が不意に視線をこちらに向けた。それから、その薄い唇の端を裂けるかと思うほど引き上げてにやりと笑った。
 「これは久しい。…晴明。」
低い声で言った。
アキラの片方の柳眉がぴくっと上がり、その切れ長の美しい瞳が冷たく光り、すっと細められる。
 「く、黒川さん!ちょ…ちょっと!」
隣で雅が急に慌てふためく。それを意に介せず黒川は続ける。
 「博雅殿はなぜかぬしに黙っていたいようだが、俺にはそんな制限はないのでね。」
アキラにそう言うとちらりと雅を振り返って謝る。
「悪いな、博雅殿。実は、晴明がこの地に戻ったと昨夜から他の連中が喧しいので、わざわざ、会いに来たのだ。」
「だが…ふむ…まだ、本物の晴明ではないようだな。…ようやっと転生したというのに、まだ、いじけておるのか、おぬしは。」
呆れたように言う。その言葉に軽くムカッとするアキラ。
(何だコイツは…。)
黒川は本物でなければ用などないとばかりに雅に向直った。、
「…ところで博雅殿、おぬしの屋敷が、どこぞの不動産やに狙われて大変なことになっていると言う話を聴いたが?」
「…ああ!それならご心配には及びません。無事問題が解決しましたので。」
話題を変えられて、少しほっとしたように雅が答える。
「そうか、ならば良かった。しかし、一体どうやってことを収めたのだ?噂ではかなり荒っぽい連中だそうじゃないか。」
「それが…」
ちらりと隣で先ほどから、不機嫌そうに黙っているアキラを見る。
「実はこちらの…稀名さん…がその会社の社長をしてらして、今回のことを知ってわざわざ東京から謝罪と計画の取り止めの話をしにきてくれたんです。」
あえて晴明という名は出さない。
「ほう…。この京の街に突然に晴明が現れたときいて驚いてはいたが…なるほど…そういうことか。」

二人を見比べ感心したような顔をする。
「しかし、まさか東京とはな…。この世に現れるとしたらてっきり博雅殿の近くと思うていたが…。しかし、なんという強い縁(えにし)だ。…おぬしらはどんなに離れていてもまるで磁石のように必ず引き合うのだな。たとえ本物の晴明がいまだ目覚めていなくてもな。」
橋の欄干にもたれ身体の前で腕を組むと、慌てまくっている博雅とあきらかに険悪な雰囲気を自分に向かって漂わせている晴明の二人をにやにやしながら眺める。
「黒川さん!」
博雅は首まで真っ赤だ。
「ま、何よりだ。博雅殿はずっとおぬしを待っておられたからなあ。…見てて俺ですらいじらしいと思ったものだ。そこらの女よりよっぽどけなげであったよ。」
しれっと言ってのける。
「黒川さん!!もう…頼むからその話は止めて下さいっ!」
懇願するように雅が言う。何を考えているのかアキラは黙ってそれを聞いている。
黒川はそのアキラにもう一度視線をやると、不機嫌そうなその態度を意にも介さず、寧ろ楽しんでいるように
「ただ、朱呑殿には気をつけろよ、晴明。今までは大人しく手出しせずにいたが、おぬしが帰ってきたとあってはいつ気が変わって博雅殿を掻っ攫うか分からぬぞ。せいぜい博雅殿を御身から放さぬようにすることだな。
ま、俺としては面白くてしょうがないが。ふふふ。久方振りに面白い、楽しみが増えたよ。」
煽るように言うだけ言うと、欄干に凭れていた背を起こし
「邪魔したな。」
そういって、背中越しに片手をひらりと振ると停める間もなく、人混みの中にまぎれて去っていった。
後に残された二人…。人の波の中で立ち尽くす。
非常に気まずい雰囲気になっている。
「今のは…人ではありませんね。」
黒川が消えていった方をまだ見つめながら、今まで黙っていたアキラが静かに聞く。
「…。」
返答に困る雅。
「…セイメイ…って誰ですか?彼は私のことを言っているようでしたが?」
「…。」
「もう少し詳しくお聞きしたい。この近くでどこか静かに二人だけで話せる場所はありませんか?…博雅?」
明らかにわざと博雅と呼んだのがわかった。
その白く美しい貌には紅い唇が薄っすらと笑みを浮かべている…。
雅の額に、秋だというのにじわりと汗が浮かんだ。
 
 無言でしばらく歩いた。
観光ルートからかなり外れた竹林の中。
ぽっかり開けた場所に、秋の澄んだ日ざしがスポットライトのように差していた。
盛りを過ぎた竹の葉が、さらさらとかわいた音を立てて僅かな風にそよいでいる。
アキラはそこにあった倒木の上に腰掛けている。雅はその前に所在なげに立っていた。
「で?」
見上げてアキラが雅を促す。
「で…って?」
困ったように雅がアキラを見下ろし、目が合ってあわてて目をそらす。
その様子に、困ったように小さく溜め息を一つつくと
「…じゃあ、先ず私から話しましょうか。…君が私に何か隠していることがあるように、私も君に隠していたことがあるんですよ。
今回のことで謝罪に来たというのは確かに本当のことではあるのですが、…実は私がここに来た本当の目的はそれじゃない。」
「えっ?!」
雅が驚いて顔をぱっと上げる。
「私がここにきた本当の目的は、…君に会うこと。
この前、君の声を聞いたときから、どうしても会わなければと、まるでに何かに追われるようにここまで来てしまった…。今までそんな感情的なことで行動したことなどなかったのに。自分でもびっくりしましたよ。」
自嘲気味に笑う。
「…そして、君に会った。そしたら驚いたことに、今度は離れたくなくなってしまった。
だから急に君に町の案内を頼んだのですよ。
さっきの彼の話だと私たち二人は会うべくしてあった、ということらしい。しかも、君は私がいつか現れるのをずっと待っていたという。そんなことってあるんだろうか…?」
じっと雅の目を見つめる。
蛇ににらまれたかえるのように、雅は動くことが出来ずにいた。
「…君と私はいつかどこかで会っていませんか?ここに来る前に一度だけ、君によく似た人のことを思い出したことがあるんです。…ただ、それがどこだか、その人が本当に君なのかどうか、私にはさっぱり見当がつかない。
けれど、絶対、私は彼のことをよく知っているはずなのです。
それから、さっきのものが君をよんだ名前…博雅…。
胸が苦しくなるほど懐かしくて愛しい名…、これは何故です?
君はおそらく、そのすべてのわけを知っているはずだ。説明してくれるのでしょうね。…博雅さん?」
涼やかな笑みをたたえてこちらを見る目が怖い。
 
はああ…と、肩を落とし大きく溜め息をつく。
「黒川主殿…。やってくれるよなあ。」
と、小さく独り言。
雅は諦めたようにぽつぽつと話しはじめた。
「その…荒唐無稽な話だとは思われるでしょうが、…あなたと私はその昔、…その…かなり親しい…間柄でした。昔といっても今ではなくて…はるかな昔、平安の頃、…。」
チラリとアキラの顔を窺う、頭のおかしい奴だと思われるかもしれない。
でも、もう話し始めてしまった、…もう、止まらない。
「その時のあなたの名前が、さっき黒川主殿があなたを呼んでいた名前、晴明…京の都で一番の陰陽師だった安倍晴明でした。…信じられないような話でしょうが、あなたはその人の生まれ変わりなんです。
そして…私はその友…源博雅朝臣。帝を守護する武士として、そして貴族としてその時代に生きていました。
…あなたよりも私の方が先に亡くなりました。その私が死ぬ間際に、陰陽師であったあなたは後の世でも必ずやいっしょに、と私に強力な呪をかけたのです。」
アキラは少し驚いたようだが、何も口をはさまず、そのまま雅に話を続けさせる。
「前世で近しかったものは、次の世でも必ず近くに転生するといいます、自分が博雅であったことを、朱呑童子様によって思い出した私は、以来ずっとあなたを探していた。
会えば必ず分かるはず、と信じていましたから。
でも、あなたは…晴明はどこにもいなかった。自分にはもう、あなたを見分けることが出来ないのではないかと…諦めてしまおうかと思ったことも何度もありました。
でも、私には晴明を忘れることなどできるはずがなかった…。
誰よりも…誰よりも大切なひとだったから。
いつの世も必ず一緒にと誓ったから。
だから、あなたが今朝、目の前に現れた時は心臓が止まるかと思うほど驚いた…。うれしかった。
なのに、やっと会えたあなたは全て忘れてしまっていた。私のことをまるで知らないもののように見て…。
これでは、呪をかけられて昔を覚えている方がつらい…。
信じられないでしょう?こんな話…?」
そこまで一気に話し終えた途端,博雅の大きな瞳からぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
つぎからつぎから、あふれてくる。自分で思っていた以上に今まで我慢していたのだ。
男のくせに女々しいとは分かっているのだが、たがが外れてしまったように涙が止まらない。
メガネを外し、拳でぐいっと涙を拭う。その手がそっと止められた。
涙で濡れた顔を上げると、いつの間にか目の前にアキラが立っていた。
そっと博雅を抱き寄せる、幼子をあやすようにその背中をさする。
「…くっ…。」
博雅は唇を噛み締めて涙をこらえる。晴明、いやアキラの前で、これ以上泣いているところなど見られたくなかった。
アキラが震える博雅の顎をくいと引き上げる、そしてその紅い唇をよせると涙に濡れた博雅の瞳に何のためらいもなく口づける。そのまま涙の後を辿って、ふっくらとした博雅の震える唇に触れるだけのような口付けを落とす。
「…君が言うことだ、信じられないような話だが、きっとそれは本当のことなんだろう…でなければ、初めて会ったはずの君をこんなに懐かしく愛おしく、離したくないという気持ちはどこから来るのだ?信じるよ…。」
そういって再び口付ける。
博雅の唇は涙をこらえて固く噛み締められたままだ。
「口をあけて…。」
少し唇を離してアキラが吐息のように囁く。素直に博雅が薄っすらと口をあける。その唇は噛み締められていたせいで紅く色づき震えて、えもいわれぬ艶かさを放っている。
その唇に目を細めて見入るアキラ。先ほどとは違い力強く博雅の唇を覆う。
アキラの熱い舌が侵入してくる。すっかり臆病になってる博雅の舌を絡めとる。息もさせてくれぬようなアキラの口づけに博雅は眩暈にも似たなつかしい感覚を覚えた。
(…晴…明…)
それは前世の記憶などなくても、間違えようのない晴明の証だった。
「…ん…はあ…。」
くらくらするほど長い口づけからようやく開放された。体中の力が抜けてしまったようだ。
思わず晴明にしがみつく。
「大丈夫ですか?博雅さん。」
「…。」
何も言えずこくこく頷く博雅に小さく苦笑すると、アキラは博雅の思いのほか細い腰に手を回して、きゅっと抱きしめた。
「ほんとに可愛いひとだ、君は。…ふむ…何か違うな…?」
博雅の頭の上に顎をよせて、ちょっと考え込む。
「そう…、可愛い、ではない…よいおとこだ、君は。」
にこりと笑っていった。
そのことばに博雅は驚いてがばっとアキラの肩から顔を上げる。
「!!」
驚いている博雅ににっこりと笑って、おまけのように軽く口づけると
「君にはこの言葉が一番似合うと、私の中の晴明が言ってるような気がしてね。」
「…。」
不覚にもまたじわりと涙が盛り上がる。
「また…泣かせてしまいましたね。申し訳ない、博雅さん。」
「…いえっ!これくらいでめそめそ泣くなど私がよくない、…それより、なぜ私を博雅と…?」
「だって、そちらが君の本当の名前でしょう?」
「え…」
「私にもそれくらいはわかりますよ、昔から私はどうも人一倍カンが鋭いほうでね。
…博雅のほうが君にはしっくりくる。雅だとどうしても何か一字足りない気がしますからね。」
「…」
(そこまで分かるのに何故、自分のことは何も思い出さないのだろう…?)
「どうしました?」
「いえ…」
「さあ、戻りましょうか、おなかも減りましたしね。今日はもう観光どころじゃ無いようだし、私がおごりますから、何か美味しいものでも食べましょう」
「そんな…申し訳ないです!せっかくここまできたのに、何の案内もできなくて…」
「いやあ、観光なんていうのも君といたい為だけの言い訳に過ぎなかったので…、こちらこそ君を騙してしまった。けれど…騙した甲斐があったというものだな。」
博雅の頬に手の平を這わせる。
「…どうも私は、自分でも気付かないうちに、一番欲しかったものをついに手に入れたようだし。」
「…。」
じっと博雅の目を覗き込む。
「本当のところを言えば、私が過去誰であったかは、実のところ…あまり興味はない。
多分どの時代にいても、私の本質がそうそう変わるとは思えないしね。どうせ人嫌いで冷たい奴とか言われていたに決まっているし。実際、自分でもそう思っていたよ。…今日、君に会うまではね…。」
自分を見詰めるアキラの薄茶色の瞳が熱い。何か言葉を返せたらと思うのだが
(これは晴明か…、それとも稀名さんなのか…?)
その博雅の迷う心を見透かしたアキラ。
「…私がどちらかわからなくて困っているのだろう?博雅。晴明でもアキラでもどちらでも君の好きなように呼べばいいよ。…君に呼ばれれば、それが私の名だ。」
「…晴明…、それは…呪だ。」
「…シュ…?何だ、それは?そういえばさっきもシュがどうだか言ってたね。」」
(…まさか晴明に呪の話を俺がするとは…)
困ったように黙ってしまった博雅。
「まあ、それも帰りの道すがら、他の色々なことと共に訊くことにするよ。
それより、今は君をもう一度味わいたい…」
博雅の顎を上げさせると少し顔を傾けて、今度はゆっくりと口づける。まさに味わうように博雅の柔らかく解けた舌を吸い上げる。
「…ん…んん…。」
博雅の両手が無意識にアキラの背中へ回っていく。その手の感触に、口づけながらも、思わずアキラの口角が上がる。
 

いまひとたびの…(5)
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