いまひとたびの…(5)
前日。
京都のあるビルの一室、電話を叩きつけるように切る男の姿があった。
「契約解除だとおっ!!何故だ!?」
怒りのあまり近くにあった椅子を蹴り飛ばす。派手な音を立てて壁にぶつかったが、それでも怒りは収まらない。さらにテーブルの上の重そうなガラスの灰皿を壁に向かって力任せに投げつけた。
鈍く大きな音がして壁にぼこりと穴が開き、そのまま跳ね返って、壁際のサイドボードの上に飾られてあった古い銅鏡にぶつかった。
嫌な音がした。
まるで人の骨が折れるような…背筋に寒気が走る音だった。
だが、怒りに我を忘れている男の耳にはその音は届かない。
男の名は藤原、藤原開発の社長だ。
差して大きくも無い身体の癖に顔と目だけは異様に大きい。今、そのでかい顔を真っ赤にしてぎょろりとした目を更に大きく血走らせて、喚き散らしている。
部屋の隅には社員と思しき男がふたり。
一人は社長の怒り声に縮こまって目も上げられないようだが、もう一人のもう少し年配の男は喚きまくる社長を冷めた目で観察している。
「なめやがって!テメエを何様やと思うてるんや。クソがきが!」
「社長、どうしたんですか?」
年上の方が訊く。
「マレナが今回の話は無しだと、一方的に言ってきやがったんだ。今度の仕事は絶対もうかるはずだったんだ!ええい!くそっ!!」
更にテーブルを蹴飛ばす。どうにも怒りが収まらない。
さっきの電話は、マレナの京都リゾート開発の担当からだった。
社長から今回のリゾートプロジェクトは白紙に戻すと命令があったので、規定通りの違約金を支払うからそれで今度の話は終わりだと。
他に何の説明もなく、あっさりと通告された。
そんな馬鹿な、と食い下がったのだが、社長の命令は絶対だからどうしようもない、と一蹴されてしまった。
こんなことなら、コイツにも金をつかませて仲間に引き込んどけばよかった、とちらりと頭を掠めたが、欲をかいてケチったばかりに、なんの味方にもなりはしない。
(あんなぼんぼん、もう少し脅せば何とでもなったのに…。もうちょっとだったんだ!くそっ!!)
ぼんぼん、つまり博雅のことを、良家の御曹司だが今ではその両親もなく、たかだか高校の教師をしている若造くらいにしか思っていないのだ。
とんでもなく博雅を見くびっているのだが、本当の彼を知らないのだからそれもしかたがない。
この藤原という男、やくざも舌を巻くほど、金に権力にえげつない男であった。
金のためならと先祖代々の墓のある土地まで掘り返して更地にして、住宅地として高く売っ払ってしまうほど。
その時、そこから出てきたのが先ほどの銅鏡だった。
品の無い顔をしているが、藤原というのは大変古い家系の出の人間だ。
「さすが藤原家。なかなか彫りも見事な鏡だ。こんな骨董品が飾ってあると、それだけで社長室に重みが出るというものだ。」
こんな社員十何人の小会社に重みもクソもない、社員のひとり陣内はそう思ったが、勿論、口には出さなかった。
この社長は自分のやりたいようにしかやらない、人の忠告など聞く男ではない。藤原の遠縁に当たる陣内はその性格をよく知っていた。
どこをどうやってもぐりこんだのか分からなかったが、今をときめくマレナ.コーポレーションの仕事を取ってきたと聞いた時、陣内は驚いた。
下請けの仕事ではあったが、この仕事は大きかった。この仕事一つだけでこの潰れかかった会社を持ち直させるのに十分な、それぐらい実入りのいい仕事だった。
(素直にマレナのいう通りに、動いていれば良かったんだ。)
そうすれば、今こんなことにはきっとならずにすんだに違いない。
儲かるとふんだ藤原はその儲けに更に自分の儲けを上乗せしようと欲を出した。勿論、マレナには内緒にだ。
藤原の仕事は、源元家と交渉して土地の売買契約を交わし、土地を整地してマレナの傘下の建設会社に開け渡すこと。それだけでもかなりの利益が手に入る。
だが、藤原は一番最初の段階でもうけようとした。源元家の土地を徹底的に安く買い叩き、そうしておいてマレナには提示どうりの額で渡す。広大な土地だ、その利益は大きい。ボロイ話の筈だった。
相手は良家のぼんぼん一人。ちょっと脅してやればすぐ片付くと藤原は考えていた
陣内は何事もそんなに簡単にすむ話などあるものか、と思っていたが…。
組の荒っぽいのを何人か頼んで脅しに行かせたあの辺りから、更に、これはまずいと感じていた。脅しに行った奴らの方が青い顔をして帰ってきたからだ。
「陣内さん、あの源元とか言うガキはありゃあ結構太いタマだ。殺されるかと思ったぜ。
あのヘラヘラした顔に騙されたが、おっそろしいガキだ、まったく。」
源元雅は藤原が思っているような、ひ弱なぼんぼんでは無さそうだった。
不味いことにならなければいいが、と思っていたら案の定だった。
大体、今時、力任せの脅しを掛けて土地を買い叩く、などというやり方が通用すると思っているこの社長が頭が悪いのだ。
それに比べて脅しなどに屈せず、直接、マレナのトップに話を持っていくあたり、若いくせに大した奴だと思う。しかも、マレナのトップである稀名明がまさか直接動くとは…。
滅多に人の前に姿を現さないことで有名な彼が、じかに動いたという噂だ。
(一体、どんな手を使ったんだ…?何か特別なコネでもあったのか?)
滅多に表に出てこない男だったから、藤原もこれぐらい大丈夫だとふんで、強硬な姿勢に出ていたところがあったのだ、まさか、稀名本人がでしゃばってくる等考えもしなかった。
怒り狂う藤原を冷めた目で見ながら、陣内はこの辺がこの会社にいる潮時かな、と考えていた。
その足元。
先ほど落ちた銅鏡の破片に陣内の姿がおぼろげに映りこんでいる。その姿がゆらりと揺れた。
銅鏡からどろりとした青黒い液体のようなものがゆっくりと流れ出す、
音もなく…。
この部屋の中にいる者たち、誰もそれに気付くものはいない。
やがて、それは傍に立つ陣内の影にとけるように消えていった。
ふいに、くらりと眩暈を感じて、陣内は傍にあったソファの背に手をついた。傍らに立つもう一人の社員の和泉は社長の怒りに小さく縮こまっていて、隣の陣内の具合が悪そうなのに気付きもしない。
(吐きそうだ…。気分が悪い…。急に俺はどうしたんだ…)
やがて、闇に吸い込まれるように意識が遠のき、陣内はその場で崩れるように倒れていった。
「陣内さん!」
遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえる…
(ああ…この声は和泉だな…。俺は…いったいどうしたんだ…?)
ゆっくりと意識が戻ってきた、目を開けると、さっきまで隣で震えていた社員の和泉が心配そうに自分をのぞきこんでいた。かぶりを振りながらゆっくりと上体を起こす。
まだ少しくらくらするが、先ほどの吐き気はおさまったようだ。
「俺は一体…?倒れたのか…?」
見るとソファの上でねかされていたようだ。
「そうですよ!突然倒れたものだから驚きましたよ。まあ、でもおかげで社長もビックリして少し怒りが収まったみたいですがね」
不幸中の幸いといった顔をしている。
「…社長はどこいったんだ?」
「さあ…?なんか他に用でもできたんじゃないですか。あの後、すぐ出て行っちゃいましたよ。
他の社員も今日はもう仕事にならないからって帰っちゃたし…。それより、陣内さん、この後どうするんですか?社長のあの話じゃこの会社結構やばそうじゃないですか…。暴力団だって絡んでるみたいだし…。
いくら就職難とはいえ…僕、もうこの会社辞めようかなって…。どうしたらいいと思います?」
すっかり気落ちしている和泉はまだ,二十をいくらも越えていない。
コンビニとかのフリーターをしていたのだが、両親に煩く言われ、色々探してやっと正社員にやとってくれたのがこの会社だったのだ。しかし、さすがにもう、勤め続けることなど出来ないだろう。
「ま、君の思うようにすればいいんじゃないか?この会社は君の思うとおり、そんなに長くは持たないだろうよ、それにやくざも絡んでいるし。とばっちりが来ないうちが安全かもな。」
ソファに背中を持たせ、ネクタイを緩めて、大きく息をつきながら答える。
「やっぱ、そうですよねえ…。別にこの会社が潰れたって僕らには関係ないといえば関係ないですもんね、でも、最後の給料とか、ちゃんともらえるのかなあ?社長のあの調子じゃあんまり期待できそうも無いし。」
(最近のガキはすぐこれだな。何かって言うと金だ。現金なものだ…。)
三十を半ば過ぎた陣内は呆れたように和泉を見た。
「まあ、その点は期待しないことだな。」
そういって立ち上がった。身体がまだふらつく。何だか体中の力が抜けたようで変な感じだった。
「ホント、大丈夫ですか?なんか顔色悪いですよ。何か薬のみます?水もって来ましょうか?」
喉は渇いていた。
「悪いな…。薬はいらないが、水を一杯もらえないか。頼むよ。」
もう一度ソファに座り込む。脱力感で額に冷や汗が滲んできた。
「はい、どうぞ。」
コップの水を差し出す和泉の指に真新しい小さな切り傷があった。まだ血が滲んでいる。
どうしたことか、その傷から目がそらせない。
「和泉…、どうしたんだ?その傷…。」
乾ききった唇を湿らせながら呟くように聞く。
その小さな傷から真新しい血の匂いが漂ってくる。
ごくりとのどが鳴る…。
「ああ、これ?さっき、水汲もうとして一個コップ割ってしまって、ついでにちょっと、自分の手も切っちゃたんですよ。ほらさっきまで社長の怒鳴り声にビビッていたからまだ手元が震えていたみたいで。
ははっ、なんかカッコわりい〜。」
和泉が照れた様に笑う。
その言葉を聞いているのかいないのか、陣内が和泉の手首をつかみ、その指先の小さな傷をぺろりと舐めた。
「わっっ!」
ビックリして手を引っ込めようとしたが、その手は陣内にガッチリとつかまれて動かせない。
慌てて、陣内の顔を見たとき和泉の動きが止まった。
「ひっ!!」
陣内の怯えた声が室内にに響き渡る。そこには、和泉の知っている陣内という男はもう存在していなかった。
瞳孔の開ききった、光のない真っ黒な目で、両端が裂けるかと思うほどの凄まじい笑みを浮かべた顔は、和泉のよく知る少しシニカルな陣内という男では決してなかった。あまりにも突然の変貌だった。
何か言おうとしたのかもしれなかったが、もうそれは誰にも分からぬこととなった。
何故なら…もうその時には和泉の頭は体から離れていたから…。
本人もきっと何が起こったのかわからなかっただろう。
さっきまで無かった大きな爪が陣内の手から生えている。
まるで研ぎ澄まされた刃のようだ。その爪が真紅に染まり、きっ先からは紅い雫が滴っている。
和泉の血だ。
陣内が別の「何か」に変わったと同時にその爪は生えたのだ。そして和泉の首を薙ぎ払った。
真っ赤な鮮血が壁に飛び散っていた。
ずずっ…びちゃ…ぴちゃ…
静かな室内に水音…いや血をすする音が響いている。
まだびくびくと痙攣している和泉の体からまだ暖かい血をすする陣内。
「ああ…生き返る…。たまらぬ…。」
陣内の口から声は出ているようだが全く別の人間の声だった。
「すまぬな…だがおまえも悪いのだぞ、今の我に血の匂いをかがせたりするからじゃ。そのような恨めしい目で我をみるな。」
血でまっかに濡れた唇の端をにいっと引き上げて、ぞっとするような笑みを浮かべる。
うつろな瞳で自分のほうを向いている、和泉の頭だけになった頬をなでる。
陣内の姿におぼろげに別の姿が被って見える、重そうな衣を纏った女の姿…。
血溜まりの中で、頭部だけになった人間の顔を撫で擦るその女の姿は、美しく、そして、ひどく禍々しかった。
「さあ、さがさねば…。兄さま…。」
博雅は運転しながら,時々助手席に視線をさまよわせる。
「よそ見すると危ないですよ、博雅さん。」
前をむいたまま、アキラがぴしりと言う。
「あっ!ハイハイ!」
慌ててきっちり前を見る。
「ところで博雅さん、先ほどの黒川という人とはどういう関係なんですか?ずいぶんと親しそうでしたが…?」
「ああ…、あの方は昔からの知り合いで…。あなたともかかわりのある方ですよ。」
「と、いうと、まさかあの人も生まれ変わりということですか?人外のようだったが…?」
「人ではないと、分かりましたか…凄いな。あの方は人ではないし,誰かの生まれ変わりでもないんです。彼はもう千年以上も生き続けている妖で、黒川主というんです。妖も千年を越えると大妖といわれますが、まさにその大妖なんですよ。」
「大妖というのですか…、さすがに、東京ではそんな年を経た妖などお目にかかったことはないな。
しかし、その大妖と私とどんな関係が?」
「昔、村上天皇の頃、あなたは頼まれて、あの黒川主殿を捕まえて退治しようとしたことがあったのです。
でも、そのとき、黒川主殿には小さな赤子がいたので、あなたはその赤子に免じてあの方を逃して差し上げたのです。それからというもの、あなたに恩義を感じた彼は、私たちをよく手助けしてくれました。その頃からの付き合いなのですよ。
あんな怖そうな顔をしていますが、あれで結構、子煩悩な、よき一族の長であられるのですよ。」
子煩悩…。
当の黒川主が聞いたら、先ほどの博雅のように真っ赤になって辞めてくれ、といいそうな台詞である。多分、博雅はそこまで考えてなどいなくて、素直に心に思ったことを言っているだけなのだろう。
思わず笑ってしまう。
「あっはっは。…いや、これは失礼。子煩悩だの良いひとだの言われる彼を想像したらつい…ははは…。いや、本当にすまない。こんなに笑ったのは随分と久しぶりだ。」
久しぶりというよりは、初めてのような気もしたが…。
クールで物静かな様子だったアキラの大きな笑い声にビックリする博雅。何だかホッコリと心の中が暖かくなっていくようだ。
「他にも色々、知り合いに会いそうだな、この街は。ただ、残念ながらこちらに覚えは無いが。」
窓から町並みに目をやりながらアキラが言う。
車は街の中を通っていく。前方の方で赤いライトが点滅しているのが見える。
「何かあったのかな?…警察みたいだ。」
博雅が気付いた。
「そんな感じだね。何か事件かな。」
その事件があったと思しき場所のすぐ近くまで来て、二人の乗る車は信号に捕まった。三階立ての小さなビルの前に黄色い警察のテープが張り渡されている。
警官が大勢いた。どこかの記者らしき人間もいる。そのビルの看板を何気なく見上げた博雅が驚いたように声を上げた。
「ここは…!!」
「どうしました?知り合いか何かのビルですか?」
まさか、また人外の知り合いか…?
「ここは例の藤原開発ですよ、ほら、私に嫌がらせをしていたあの会社。」
「ここが…?これはまた随分と小さな会社だったんですね、よくもまあ、うちと取引が出来たもんだな。」
アキラもその建物を見上げる。
そのとき、ビルの中から担架が運び出されてくるのが見えた。毛布で完全に包まれているのだから多分遺体なのだろうが、大人とは思えないサイズだった。なのに、毛布の僅かな隙間からかいま見える靴底は明らかに大人の男のものだった。毛布の下がどうなっているのかわからないが、明らかに身体のバランスがおかしい。
何かいやな感じがする…。
アキラは地の気を読むことの出来る特別な感覚を持っている、そのお陰で今日があるようなものだ。その特殊な感覚がここは変だと告げている。長居しないに限る。
「博雅。ほら、前!」
「おっと!」
じっと見ている間に信号が青に変わっていた。後ろの車にクラクションを鳴らされる。
二人ののる車はその場を後にした。
博雅の邸に戻ると誰もいなかった。学校の生徒達ももう帰っていないようだ。
朝食を出してくれた家政婦さんまでいない。家の中はシンとしている。
「朝、いた方とかは…?」
博雅と共に家の中に入りながら、不思議に思ってアキラが聞く。
「ああ、通いで来て貰っているので、うん…と…この時間だともう帰ってしまっていないんです。
でも、コーヒーくらい私でも淹れられますよ。」
腕時計を見ながら言う。時刻は三時を少し回った頃だ。
「こんな広い家に一人で?夜、不用心じゃないですか?それに何かと不自由でしょう?」
「夕食は作ってくれてありますし、…ん…まあ、夜は他に人がいると困るときもあるので…。」
困ったように言葉を濁す。
その言葉にぴんと来た。
「そうか…、君も男だもんな、女性を連れてくることもあるか。」
あわててかぶりをふる博雅。
「いやいや!そうじゃなくて!!」
「別に隠すことないですよ、普通のことだ。」
会話をしながらリビングに入ってゆく。
「だから、ちがいますって!…その…私には人ではない友が結構いて、彼らが夜になるとよく遊びに来るんです。だから、普通の人はあまり夜ここにいて欲しくないだけなんです」
「さっきの黒川主とか…?」
「ええ。だって、あの人なんて庭の暗闇から突然現れたりするから、普通の人には見られたくないですよ。」
「そんな客ばっかり?女性は連れてこないのかい?」
「…私にはあなたが…、晴明がいたから。」
目線をそらせながら博雅が言った。
「それは…大変嬉しい、もちろん名誉に思った方がいいんだろうね。」
目線をそらせて、向こうを向いている博雅の身体をぐいと引き寄せ微笑む。
「そんな大したものではない…。」
「もしかして、今までずっと他に誰もいなかったとか…?」
まさか、この歳まで何もないわけないだろうと、思いながらも聞く。
「…。」
何も答えない博雅。黙ってアキラに抱かれたままになっている。その耳が赤い。
「…まさか…ね?」
「そのまさかだ…。悪かったな!」
怒ったような言い方だった。下を向いたまま目も合わさない。
「本当に…?誰も…?」
(冗談だろう?)
これだけ容姿も家柄もいい、おまけに性格まで良くて…ほぼ完璧なくらいだ。今まで誰とも付き合ったことがないなど信じられない。
「俺は…ずっとお前だけを待っていたのだ、他の者などいらぬ…。俺のそんな思いはお前には迷惑だったか…?せ、晴明…。」
博雅が初めてアキラに対して晴明と呼び、礼儀正しかった言葉が崩れた。表の顔の雅が引っ込み本当の博雅が出てきたようだ。
「…迷惑だなんて、とんでもない。こんなに嬉しいことを言われたのは生まれて初めてだ。」
力一杯博雅を抱きしめる。
「ぐっ…。せ、晴明…く…くるしい…!」
「すまん。…だが、私は今、本当にうれしいんだ。」
腕の力を緩めて博雅を見下ろす。
「今までわたしは独りで生きてきた。自惚れているわけではないが、今の私には金も力もある。
よってくる女も多い。だが、独りであることに変わりはない。金や力に引かれるものなど、所詮その程度のものでしかないからな。」
苦々しく溜め息をつく。
「だから私はこれからもずっと、このまま独りきりで生きていくものだと思っていた…。
なのに、博雅は私を…私だけをずっと待っていてくれたのだろう?こんなに嬉しいことはない。」
まるで闇夜に灯を見つけた旅人のような心境だ。
「そんな言葉を聞いてしまっては…もう、無理だ…。」
「な、なにが…?」
「分かっているだろう…博雅…。」
「…」
もう何も言わずに博雅をすぐそばのソファに押し倒してゆく。
「せ、晴明…。俺にも心の準備というものが…。」
思わずアキラを押し退けようとする。
その手を顔の両側で押さえ込む。
「心の準備なら千年も前からしている筈なのだろう?それに今の私を止めようとしてもムダだ…。
私をあのような言葉で煽ったのは…博雅、おまえだからな…。」
「煽ったわけでは…」
反論のことばを最後まで言わせずに、博雅の唇を、その綺麗な紅い唇で塞いでゆく。、
強い言葉とは裏腹にとんでもなく優しい口づけだった。
ふっくらとした博雅の下唇を甘噛みして引っぱる、そして薄っすらと開いた唇にかぶせるように口づけてゆく、晴明の熱い舌がするりと博雅の咥内にすべりこみ、博雅の舌と重なり合う。
こんな口づけを受けた日には文句など言えない。
少しの間、唇を離すと、性急に博雅のセーターを頭からぽいと脱がせてしまう。
白いカッターシャツのボタンを、のど元に唇を這わせながら外してゆく。
少し日焼けした滑らかな博雅の身体があらわになってゆく。その肩にそっと歯を立てる。
「あっ!!」
博雅のしなやかな身体がびくりと反応する。頬がほんのりと染まってゆくのが手に取るように分かる。
滑らかな博雅の胸の辺りをなで上げながら、その身体に覆いかぶさっていくアキラ。
「取り込み中のところ申し訳ないが。」
突然の背後からの声に固まる二人。
博雅はまっかになって慌てまくり、アキラはその博雅を背中で隠すようにして、ぎっ!と声のしたほうを睨んだ。殺気全開といったところだ。
その視線の先には、アキラに引けをとらぬほどの美しい青年が立っていた。
「…誰です?」
アキラの切れ長の目が細められる、またしても、人外だ。
全く博雅の周りには一体、どれだけのこんな連中がいるのか。よくも今まで無事できたものだ。
とって食われなかったのが不思議なくらいだ。
「誰かと我に問うのか?晴明よ。
さては己が何者であるか、まだ思い出さぬのだな?
まあ無理に思い出さずとも、おぬしの本然が変わることはないがな。」
なぜかバカにされたような気がして、むっとするアキラ。
「またしても、私の昔の知り合いですか?
だが、残念ながらこちらにはとんと覚えが御座いませんのでね。」
「…ふむ。では、やはりあの時、自分に掛けた呪がまだ解けておらぬのだな。」
「どういう意味かな…?」
「さあてな…。わざわざ教えてやる義理などないからなあ。」
「ならば、そのようなもったいぶった言い方をしなくても良いではないですか。大体、突然家の中まで黙って入ってくるなど失礼ではないですか…。」
あってからまだ、五分と立っていないのに、あっという間に喧嘩腰でにらみ合う二人。
とりあえず、シャツのボタンを留めた博雅が二人の間に割ってはいる。
「お二人とも止めてください。晴明も、朱呑童子様も!まるで喧嘩でもしそうじゃないですか!?会うなりどうしたって言うんです?」
二人が同時に博雅を振り返って、安心させるようににこりとわらって
「人外なんかと喧嘩などしませんよ」
「人間ごときと喧嘩などするわけがなかろう」
ほぼ同時に言う。笑った顔の雰囲気までそっくりだった。
(この二人、こんなに似ていたのか…。)
晴明と朱呑童子の二人は、声をそろえて同じことを言ったのがよっぽど嫌だったのか、骨を取り合う犬のように、博雅を挟んで黙ってにらみ合っている。
しかも、お互いその紅い唇に、薄っすらと笑みをたたえているところがなお、怖い。
「あの…朱呑童子様、今日は何の御用でいらっしゃったのですか?このような日の高いうちから我が家へいらっしゃるとは。」
「…気をつけよと言いにきたのだ。何者かはまだ良くわからぬのだが、かなり危険なのが現れたらしいのでな。それだけなら、おぬしにさほど関係もなかろうが…そ奴、この屋敷を狙っておった人間に関係しておるらしいのでな。
心配するほどではないのかも知れぬが、おぬしのような物の怪に好かれやすいものは用心するに越したことはないからの。」
「もしかして、あの藤原開発のことですか?そういえば先ほどあの会社の前を通ったら何か事件があったようでしたが…。一体なにがあったのですか?」
「あそこで人が一人喰われた。」
「えっ。」
驚く博雅。
黙って聞いていたアキラも軽く目を見開いた。
「鬼か怨霊の類かはわからぬが、随分長い間鏡に封じられていたものらしいな。近くに割れた古い銅鏡が落ちておったからな。
そ奴、目が覚めてさぞ、ひもじかったのだろうよ。近くにいたであろう若い男を一人食ってしまった。食われた人間は肉は半分ほど残っておったが、血はそれこそ一滴残さず、すすられておったわ。かなり血にうえておるようだから、これからしばらく人死にが続くだろう。
この屋敷は我と保憲の張った結界で、守られてはいるが、ちと心配になったのでな。」
だからわざわざ来たのだと、朱呑童子は言った。
「博雅、私は今日からここに移ってくるぞ。」
朱呑童子を遮るようにアキラが博雅に言う。
「こんな人里はなれたところに夜、博雅を一人にしておくことなど出来ない。おまけに色んな奴が入りたい放題だ。結界がどういうものかは知らないが、心配でしょうがない。」
「…それは我に言っておるのかな、晴明?」
「無論、そうに決まっておりましょう?」
「我は博雅の味方こそすれ、決して害にはならぬぞ。」
その美しいカーブを描く唇の端に、きらりと輝く犬歯を見せる朱呑童子。
「いいえ…多分あなたが一番危ない…。博雅に手を出さないで頂きたいですね。」
「昔のこともろくに覚えておらぬのに、随分と挑戦的だの?晴明よ。我の方がおぬしより全てにおいて上を行くのだぞ。あまり我を怒らせぬことだ。」
アキラが言い返さぬうちに、博雅がまたしても割って入った。
「二人とも止めてください!私の家で喧嘩などしないで頂きたい!まして、私のことでなどと…。」
博雅は本気で怒っている。
「すまなかったな。博雅殿。我とした事が…。許されよ。」
そう言うと博雅の頬に軽く口づけをして、アキラの殺気を更に倍増させたのを確認すると、笑い声だけを残して、掻き消すように目の前で消えた。
「これだから人外というのは…。」
へたれ文へのご案内