崑崙の娘 (3)


 
次の朝、何も知らずに起きだした博雅。う〜んと大きく伸びをして、あくびをした。
「う〜、よく寝たっ。晴明がいないと寂しいことは寂しいが、それでもよく眠れるよなあ。」
髪の毛をくしゃくしゃっとかき乱すと、空いたベッドの片側を見て笑った。2〜3日で帰ってくるのはわかっているし、今はいなくても全然気にはならないが、きっとすぐに恋しくなるだろうなと予感がする。
「われながら情けないな…。でもホントだぞ、晴明。…早く帰って来い。」
主のいない枕にばふっと顔を突っ込むとしばらくじっと動かなかった。
……。
「えいっ!くそっ!こんなことやってる場合か!仕事だ、仕事!」
気持ちを切り替えて枕から顔を上げると
よっ!と勢いをつけて博雅はベッドから飛び降りた。
 
博雅が熱いシャワーを浴びようと、バスルームの姿見の前でパジャマのボタンをはずし始めた時。
『きゃ!』
どこかで小さく声がした…ような気がした。
「ん?誰だ?」
肩から脱ぎかけたパジャマを半分すべり落とした格好のまま、博雅はきょろきょろとあたりを見回した。
だが、もちろん誰もいるはずがない。自分の姿が鏡に映っているだけだった。
「気のせいか?…だよな、ここには俺一人だものな。」
ちょっとの間頭を傾げていたが時間のない朝のこと、すぐに気を取り直して着ていたものを脱ぎ去るとバスルームへと入っていった。

シャワーを浴びながらご機嫌な声で歌う博雅。
その耳につけられたピアスの中で真っ赤になった頬を手で冷ましながらリンメイはそれでも嬉しそうに微笑んでいた。なんだかこちらまで楽しくなってくるような博雅の歌声。浴室に響く博雅の柔らかな声にうっとりと目を閉じた。
 
シャワーをあびてさっぱりした博雅が仕事のために着替えていると部屋の扉をコンコンとノックする音。
「おはようございます、博雅さま。朝餉の準備ができております。どうぞ、いらせられませ。」
そう呼びかける式の声に、ネクタイを器用に締めながら博雅は返事をする。
「おう、今ゆくよ。ありがとう。」
もう一度鏡を見て少し曲がってしまったネクタイをきゅっと締めると、
上着を手に取り部屋を後にした。
 
まばゆく虹色に煌く宝石のついた杖を両腕に守るように抱き込んだまま空中で足を組んで座るリンメイ。小さなピアスの中、さぞかし狭苦しい小さな空間かと思いきや、どこまでも広がる無限の空間の中にリンメイはいた。リンメイにとって場所などという概念はない。リンメイのいるところ、常に無限に空間は広がっている。
『博雅って名前なんだ。…ひろまさ…いい響き。』
何もない空間の中で、まるで宝物でも見つけたようにリンメイは博雅の名を何度も呼んだ。
『ひろまさひろまさひろまさ…』
まるで呪のように。
博雅がリンメイに声をかけたことで縁がうまれ、リンメイが博雅の名を知ったことでその縁がさらに強くなった。
晴明のいない間に何かおかしなことが起きようとしていた。
 
学校へと向かう時からその変化は始まっていた。
博雅も最初は何にも気づかなかった…。そんなこともあるんだなと、ちょっと不思議に思っただけだった。
 
なんだかいつもよりもずっと早く学校に着いたその日の朝。
何でこんなに早く着いたのだろうとよく考えて、やっと信号に一度もつかまらなかったと気づいた。信号が10箇所以上もある学校までの通勤路、今までそんなことは一度としてなかった。
「なんだか朝からラッキーだったな。」
車から降りながら笑ってつぶやいた。
だが、それはほんの始まりだった。
職員室に入って自分の席に行くと、なくしたとばかり思っていた万年筆が机の上にちょこんと置かれてあった。
「あれ?何でこれがここに?」
大切にしていたのになくしてしまった万年筆。手にとってしげしげと眺めた。傷ひとつなく、無くす前よりも綺麗なように見えた。
「それ、今朝生徒の一人が校庭の隅に落ちていたと言って持ってきたんですよ、その割にはきれい過ぎますがね。いったいどこから持ってきたものやら。」
人の悪そうな笑みを見せて隣の席の体育の教師、南が言った。
「いえ、出てきただけで嬉しいですよ…それにそんな生徒を疑うような言い方はあまり感心しませんよ南先生。」
「だって、明らかに怪しいじゃないですか。」
その教師の言葉に博雅の眉が小さく寄せられた、理由もなく生徒に疑いの目を向けるその教師の態度に少しばかりむっときたのだ。と、椅子の背に背中を預けて博雅と話していたその教師が不意にバランスを失って派手な音を立ててひっくり返った。
どがしゃん!
「いたたたっ!!」
思いっきり後頭部を床に打ち付けて頭を抱えて体育教師がうめいた。
あわてて抱き起こす博雅。職員室の中にいたほかの教師たちも何事かと走ってきた。
「だ、大丈夫ですか!南先生!」
博雅の尋ねる言葉にも返事ができないで、頭をかかえたまま、ただうなるばかりの南。
「ううう…。」
「大変!救急車!救急車!」
鼻からつうっと大量の血が流れ出したのを見て保健の教師があわてて救急車を呼ぶことを指示した。
「動かしちゃだめです!誰かタオル持ってきてっ!」
よほど打ちどころが悪かったのか体育教師の顔色が見る間に青ざめてゆく。博雅も急なことに驚くばかりだった。

『くすくす…』
どこからか声にならない笑い声が漏れていた。
誰も気づくものはいなかったが。

その一部始終を、姿を消した朱呑童子が窓の外の木の枝に腰をかけて、見ていた。
(まったく、ずいぶんやんちゃな姫のようだの)
そうつぶやいて苦笑した。
 
さらにその翌日。
「なんだか妙だな…」
昼休み、学食でランチを食べながら博雅はつぶやいた。その博雅の前には大盛りのトンカツの山が。
何でも博雅が学食が始まって10506人目だとかで、学食のおばちゃんから景品と称して山盛りのトンカツをもらったのだった。軽く7〜8人分はあろうかというほどの量。
一人では到底食べきれぬほどのそれは今、歴史クラブの連中の底なしの胃袋に徐々に消化されつつあった。とてもじゃないが食べきれないと困っていたところに、たまたま歴史クラブの連中が通りかかったのだ。
「妙って?なんかあったんですか、先生?」
妙だの、変だのという言葉には敏感に反応するこのクラブの連中、全員が一斉に顔をあげる様子は、まるでよく訓練されている警察犬のようだ。代表して白河が口の中をトンカツでいっぱいにしながらもごもごと聞いた。まずはちゃんと食ってからにしろ、と普通なら言う博雅、考え事に気をとられてそんなことも気にならないようだった。
「うん、いやな…なんか変なんだよ、昨日といい今日といい…。」
 
昨日も今日も通勤途中にある信号に一度もひっかからなかった、しかも、行きも帰りもだ。落としたはずの万年筆は前より綺麗になって戻ってくるし、自分を怒らせた教師は病院送り(ほんの少しむっとしただけなのに)。
今朝は今朝で、土砂降りの雨模様を窓から眺めて、いやな雨だなと思ったら、とたんにからっとうそのように晴れ渡り青空がのぞいた。(降水確率90%だったのに)。
学校では、来るなり校長室に呼び出されて、何事かと思って行ってみれば「今日から君の給料を上げます」などと言われ破格の額を提示された(ほかの誰もそんなことは言われてなかったのに)…おまけにこれだ。目の前のトンカツの山をげんなりした目で見る。
食堂のおばちゃんたちが入場数を数えていたなんて絶対ありえない、しかもなんだ、あの中途半端な数は?

なにかがおかしい。
生徒相手にこんなことを言うなんておかしな話だとは思うが、そんなことを少し話した。
「それはおかしいですね」
と小野。
「それって、幸運のエンジェルかなにかが先生に憑いたんですよ、きっと。」
と、何枚目かのトンカツに箸を伸ばしながら九条も言う。
「そんなばかな。ははは。」
椅子に背を持たせて博雅は笑った。ちょっと力ない感じではあったが。
「いや、わかりませんよ。世の中は不思議で満ちてますからねえ。」
まるで予言者のように嵯峨が言った。
「はいはい、わかったよ。ではそういうことにしておくよ。…さて、このトンカツほんとにいつもの額払うだけでいいのかな?」
そういって博雅が財布ポケットから出したときだった。
はらり。

博雅の財布から一枚の紙切れが落ちた。
「源元先生。なにか落としましたよ。」
小野が手を伸ばし、テーブルの下に落ちたその紙切れを拾った。
「あれ?これ宝くじだ。」
カラフルな色に印刷された一枚の宝くじ。シーズンごとに出る賞金の大きなくじだった。
「あ。ほんとだ。」
「へえ、源元先生でもこんなの買うんだ?」
わいわいとヲタクたちが首を伸ばし小野の手の中のくじに注目した。
「宝くじ?そんなもの買ったけ?」
記憶をさかのぼる博雅。だが、そんなもの買った覚えも貰った覚えもなかった。
そんな博雅の横で何事にも詳しい九条が思い出した。
「おい、これってさ、確か今日当選の発表あるんじゃなかった?」
「あ。そうだよ!確か今頃の時間のはずだぜ。」
小野と九条が目を見交わした。にやっと笑って、くるりとその二人が博雅を振りむく。
「ねえ、先生、テレビのあるとこ行きましょうよ!」
「え?」
「大丈夫です。休み時間が終わるころにはもう結果は出てます。それにもしかしたら当たってるかもしれませんよ。もし、当たっていたらやっぱり先生には天使がついてるって証明にもなりますし。」
 
 
当選の番号がひとつづつ読み上げられてゆく。博雅は確信にも似た、だがとってもいやな予感で胸がざわつくのを感じていた。
(きっとこれは当選している…というか当選させられている…)
何者かの意思が働いているのをひしひしと感じていた。
(こんな芸当ができるのは人間じゃないのは間違いがないが…だが、俺にこんなことをしていったい何になるっていうんだ?…わからん…。)
最後の番号が読み上げられた。ちらっと番号を確認する。
やはりぴたりと1等に当選していた。
1億。
「ねっ!先生、どうでした?」
勢い込んで聞く生徒たちに博雅は笑って答えた。
「残念!当たんなかった!」
そういって手に持ったくじをくしゃっと握りつぶした。
「ええ〜!!」
がっくりとうなだれて大騒ぎする生徒たちに向かって
「そんなものさ。あたるわけないじゃないか。ははは。」
と博雅は笑って見せたのだった。
 
「まったくどこの誰だこんなことをするやつは。俺をからかって楽しんでるのか?」
少し肩をいからせ博雅は放課後の人気のない廊下を足早に歩いていた。と、むこうに咲也の姿が見えた。晴明がいないと知って博雅を待ち伏せていたようだ。
(こんなときに…)
と、博雅が思ったとたんだった。
博雅に向かって歩きかけた咲也の姿がかき消すように消えた。消えかけたときのあわてようからして自ら姿を消したというわけではなさそうだった。
あまりのことに呆然とする博雅。
 
「…おい…冗談ではないぞ…。誰だ!出て来い!!」
誰もいない廊下で博雅がほえた。
だが、廊下は博雅の声が響いただけで誰も答えるものなどいない。
「咲也くんはどこに消えたんだ?」
今まで咲也がいた場所を手探りしてみるが陰陽師でもない博雅にはもちろん何もわかるわけもない。
晴明のいない今、博雅にはどうすることもできなかった。
こうなれば頼れるのは保憲様しかいない。
学校が終わるなり博雅は顧問の部にも顔も出さずに保憲の下へと急いだ。
 
今度も一度も赤信号につかまらなかった、きっとどんなスピードで走っても同じことだっただろう。
保憲の経営する会計事務所のドアを開けながら博雅は憂鬱にそう思った。
 
「あれ、博雅さん?」
入り口に背を向けて立っていた保憲が、飲みかけたコーヒーのカップを片手に博雅の方を振り向いた。
いつもどおりだらしなく襟元を緩めたネクタイによれよれのシャツ、それから、これもまたいつもどおりのひとなつっこい笑顔で博雅を迎えてくれた。そのほんわりとした雰囲気に博雅は肩から力が抜けて気が楽になってゆくのを感じていた。
「どうしたんです?めずらしい。」
博雅のそばに寄ると、その背に手を当てて部屋の中へと促した。
少し参っているようなその様子に保憲の表情が心配そうになる。
「なにか問題でも?もしかして、あいつと喧嘩でもされたんですか?」
「いや、そんなことではなくって…ちょっと保憲様に相談に乗ってほしくって‥。」
「じゃあ、どうぞ。そこにおかけください。今おいしいコーヒーを淹れたところなんですよ。」
湯雅の立つサーバーから新しく出したカップに、コポコポとコーヒーを注いでくれた。
湯気の立つカップを博雅の目の前に置くと、自分もコーヒーを手に向かいのソファに座った。
「で、お話って?‥というかやつはどうしたんです?」
「ああ、晴明ですか。あれはいま仕事でこちらにいないんですよ。帰ってくるのはまだもう少し先、多分来週になるんじゃないかな。」
「へ、あの心配症のやきもち焼きがよく博雅さまをおいてゆきましたね。」
「はあ。着いて来いとうるさかったんですけど私だって仕事してますからね、そんなわけにも行きませんよ。」
「なるほど‥で、御用とは?」
と保憲が聞き始めたときだった。
沙門が博雅のひざに乗った。そこまではよくある光景だった。が、沙門はそのままじっとなどしていなかった。博雅に胸に手をかけぐ〜んと体を伸ばして博雅の顔まで近づいた。
「沙門、なにするんだ?くすぐったいよ。」
博雅が顔を背けた。と、左耳のピアスが沙門の目の前に見えた。
沙門の瞳の瞳孔が獲物を見つけたときのように開いた。ひげがピアスに向かってひくひくと動く。

『保憲、ここに何かいるぞ』
さらに顔を近づけてふんふんとにおいをかぎながら、沙門が保憲に告げた。
「うわ‥なんだい、やめてくれよ沙門」
博雅が困ったように言ったそのとき。
 
「討厭!猫!!(タゥオイェン!マオ!!)」
悲鳴とともに博雅の左耳のあたりから異国の衣をまとった少女が飛び出した。まるで何もない空間から急に飛び出したようだった。その少女はびっくりして動けないでいる博雅の腕にしがみつくと顔を押し付けて肩を震わせた。
沙門が再び、みゃおうと鳴いた。
『いや〜ん!ネコきらいっっ!!』
ますます、ぎゅっと両腕で博雅に少女はつかまった。
 
「君‥だれ???いったいどこから?」
驚いて耳元を押さえた博雅。
(まさかこのピアスから?)
「どうやら御用の向きとはこの彼女のことのようですね。」
博雅に保憲がにっこりと笑った。多少のことでは驚かないところが博雅の恋人ととてもよく似ていた
 
その頃、京の街並みをリンメイの姿を探して歩く二組の人影。一組は京の東を、もう一組は西をそれぞれ必死に探し回っていた。
「こんなことで姫は見つかるのかっ!!」
鋭く光った牙をむき出して吼えるようにわめく白虎、その猛々しい顔にうっすらと縞模様が浮き出している。
「少し落ち着け白虎。顔に縞模様が出てるぞ。」
玄武の言葉に、ばっ!っと顔を手で覆う白虎。
「ほんとか‥?」
広げた指の間から目だけを覗かせて聞いた。
「本当だ、見てみろ。」
そういって玄武はすぐそばの神泉池を指差した。
池の湖面を覗き込む白虎。
「‥うわ‥本当だ‥やばい。」
穏やかな池の面は縞模様の浮き出した白虎の姿を映した
「その辺で姿が変わられても俺は困るぞ。少し頭を冷やせ。」
疲れたように言って玄武は池のそばの木陰のベンチに腰をおろした。水辺のそばはとても安心できて居心地がよく感じるのは玄武が亀の化身だからだろう。それはわかっているのだが、この池は特に天部の気がどこからか流れ込んでいるらしく、ただの水辺よりもより一層玄武を癒した。
疲れた体に湖面から湧き上がる神仙の気を流れ込ませ、なかなか見つけられぬ姫とその宝杖のことを思い、玄武はまぶたを閉じてふうっと息をついた。
 
「うわあっ!!」
 
突然の大きな白虎の叫び声に、ほっと閉じていたまぶたを押し開けた玄武。
目の前の湖面に白虎が今まさに落ちようとしていた。
「なにをやってる!白虎!」
ベンチから、ばっ!と立ち上がり落ちかけた白虎の腕を掴んだ‥が、ものすごい力で逆に引きずり込まれた。
白昼の神泉苑から二人の守護の姿が消えた。
 
ごぼごぼ‥。
 
白虎と玄武が水底深く沈んでゆく‥というより引きずり込まれてゆく。
『おい、なんとかしろ!玄武!』
水の中は不得手な白虎が玄武に言った。元々、人ではないので、水中といえど息ができないということはない二人、言葉を交わすのには不自由はないが、白虎の片手には長い藻がぐるぐると何重にも絡み付いていた。白虎の手から伸びたその藻の先は深い水底の暗闇の中へと続いていて先がまったく見えない。
白虎とは逆に水の中を得意とする玄武が白虎の先へと周り、その手に絡みつく藻をその強力(ごうりき)で引きちぎろうとしたが、それはまるで鋼鉄でできたワイヤーのように切れもせずびくともしなかった。
『ありえない‥おまけになんだ、ここは?池ではなかったのか?』
池ならばとっくにそこが見えているはずなのに未だ水底に着く気配がない。
『知るかよ、そんなこと!とにかく、これをなんとかしてくれよっ!!』
じたばたと白虎がわめいた。
「おい、そう暴れるなって…」
と、今まで暗闇だった水底がほわりと急に明るくなってきた。
「ちょっと待て!白虎!なんだか様子が変だ」
「え?なんだあ?」
白虎も下を見て驚きの声を上げた。
深く引き込まれていったと思っていたのに、まるで天地が逆転したように二人はぽかりと水面に顔を出した。
「ぷはっ!なんだここはっ!?」
白虎、がはがはと水を吐き出しながらあたりを見回した。先ほどまでの小さな池とは違ってどこまでも果てなく続くような静かな水面。玄武と白虎の掻く水の波紋だけがゆっくりと穏やかな水面を渡っていった。いつの間にやら白虎を絡め取っていた藻が、ほどけて水の底に消えていた。
「ここは…?」
玄武も油断なくあたりを見回す。はるか彼方に、もやに包まれて高くそびえる山の陰、どこかで見たその威容。
「見ろ…白虎。あれはわが崑崙ではないか…?」
小さな声で玄武が言ったそのとき、
「そう…あれは我がふるさと、神の山、崑崙…。」
ま後ろから鈴の転がるような声がした。
その声に白虎と玄武の二人が、激しく水しぶきを上げながら振り向いた。
「姫っ!?」
「リンメイ様っ!?」
二人の視線の先に、水面からわずか上にふわりと浮かんでたたずむ美しい女性(にょしょう)の姿があった。
まるで霞を紡いで衣とし、朝露を玉(ぎょく)としてその表を飾ったようなきらめく薄い衣。しゃらしゃらとすずやかな音をたてる宝玉に飾られた首飾り、耳飾、そして冠。蓮華の花びらを思わせるような滑らかで透き通るような肌、扇のように長いまつげに縁取られた瞳は夜空を飾る星のごとくに煌めき、唇はまるで咲き始めた赤い薔薇のようだった。息を呑むほどに美しいその姿。
「姫にあらせられますか…?」
白虎が戸惑うように尋ねた。
「…やはり…。」
玄武は白虎とちがってむっとした表情。
「あら、玄武は怒っているのね?」
にこっとリンメイと呼ばれたその女性は微笑んだ。
「当たり前でしょう…いつ入れ替わられました、リンメイ様?」
「えっ…?どういうことだ?」
ふたりを交互に見る白虎。
「おまえだっておかしいと思ったろう、今?」
鈍い白虎に、玄武がじろっと視線を投げた。
「う…まあ。だって姫さまはまだ…なんというか…子供だったはず…。」
白虎は戸惑ったように姫を見上げた。
「そうよ。俺は変だとずっと思ってきた。いくら神仙に属される方とはいえ、四千年だぞ、俺達だとてその間に大人になった。なのに姫様だけは一向に子供の姿のままだった。どう考えてもおかしいと思っていたんだ。」
「ごめんなさいね…玄武。私には父の宝杖だけを守ってひたすら身を隠し、あんなところに閉じ込もっているのは嫌だったの。だから夏の王、菟と出会ったときにあそこから抜け出したのよ。」
「やはり…あの竜神の息子、菟とですか…。では、今の姫はいったい誰なのです?姫の作られた影武者か?」
私達はそんなものをひたすらに守ってきたのかと、玄武にしては語気も荒く詰め寄る。
「いいえ。あなた達はしっかりと使命を果たしていたのよ。私の代わってあの中にいたのは、私と菟の間にただ一人生まれた崑崙の神の孫にして四海の竜王の孫…新しき神となるべきもの…要するに私の一人息子、メイリンよ。」
「なんと…!」
「はあ??」
にっこりと微笑むリンメイを前にただ驚くばかりの二人であった。
「騙したのは悪かったと思うけれど、私達の大切な一人息子を今まで守ってくれて本当にありがとう、二人とも。」
 複雑な表情を浮かべる二人にリンメイは手を差し伸べた。
「さあ、二人ともいつまでもそんな水に漬かってないでこちらに来て頂戴。あなた達にはほかにも話したいことがあるのよ。」
白虎と玄武の手をそれぞれ掴むと水の中からぐいっと引き上げた。
二人はまるで陸に上がるようにリンメイのそばの空中に足を下ろす。その着ていたものがびしょぬれの黒のスーツから胸当ての飾りも鮮やかな古代の甲冑へと変じた。
「さあ、メイリンはこれ以上ないくらいの安全なところに今いるわ。私達はその間に戦いの準備をしなければね。」
そういうメイリンの姿も先ほどまでの天女のような姿ではない、長い髪をきつく編み上げ輝く甲冑を身に着けた女戦士の姿に変わっていた。腰には大振りの太刀までも備えて。
「これぞリンメイ姫。」
玄武が少しうれしそうにつぶやいた。


『いや〜ん、猫嫌いっ!あっち行って〜っ!!』
新しき神となるべきメイリンは、現在、博雅にしがみついて半べそをかいていた。
 
「き、君は…?」
自分の袖につかまって震える少女に博雅は声をかけた。
「な〜う」
沙門が脅すようにもう一声鳴いた。
『いや〜〜んっ!』
「こら、沙門。怖がらせるんじゃないよ」
保憲が沙門の体をひょいと抱きあげて自分の肩に乗せた。
「あんまりおどかすと部屋から追い出すぞ」
めっ、と肩の沙門を軽くにらむ。
(わかったよ。でもこの子、変なにおいがするぜ。妖しでもない、もののけでもない…何だ、いったい?)
ひくひくとひげをひくつかせた。
「妖しでももののけでもない…しかも人間でもない…では何かの精霊か?」
保憲が沙門の言葉を引き取って言った。薄物の虹色の衣をまとった髪の長い華奢な少女を見つめる。震えるたびに耳飾につけたきらめく石がしゃらしゃらと涼やかな音を立て、首飾りの鈴が小さくころころと鳴った。年のころはたぶん15くらいか。顔は博雅の袖に隠れていてよく見えない。
「さあ。もう猫は悪さをしませんよ。」
保憲が優しく声をかけた。その少女が震えながら博雅の袖から顔を上げた。
ふるふると桃色の唇を震わせて保憲の方を見た少女はとんでもないくらい美しかった。夢見るように潤んだ大きな瞳に、たまご型の小さな顔、薄茶色のつややかな長い髪に縁取られたその顔は、まる地上に降りた天使のようにこの世のものとも思えぬ清らかな美しさを放っていた。
(なんと可憐な…)
さすがの保憲も思わず見とれてしまった。
『猫…大丈夫…?』
その花びらのような唇から鈴のような声がこぼれた。
(中国語…?いや、もっと古い言葉だな…)
遠い過去に何度か聞いたことのあるような。
(そうか、昔、唐から来た連中が使っていた言葉に似ているんだ。)
今の中国語とは少し違う唐の時代の大陸の言葉、あれに近い。
「保憲さま。この子の話す言葉は…」
博雅も同じことに気づいたようだ。
「ええ。これは古い大陸の言葉ですね、というか、それにとても似ている。博雅様もお分かりになるでしょう?」
「はい、なんとか。あの当時はそれで譜面なども書いてましたからね」
そういうと博雅はそのころの言葉を思い出しながら少女に話しかけた。
『猫はもう悪さをしないよ…ところで、君は誰?』
「私は…』
そう言いかけて、少女は黙ってしまった。
妖しでなくても人間でないものならば、むやみに本当の名など明かさないことに気づいた博雅、言いよどむ少女に優しく声をかけた。
『いやなら名乗らなくてもいいよ。ただひとつだけ教えておくれ‥。君は私のこの耳飾の中にいったいいつから隠れていたんだい?』
片方だけつけてあるピアスを指差した。ほんの小さなピアスだが、とても高質な貴石をはめ込んだ、晴明が博雅のためだけに作らせた特別なものだ。
『あなたが私に会いに来てくれたその晩から‥。』
『私が君に会いに?』
『やさしく言葉をかけてくれたでしょ?とってもうれしかった。』
『いったいいつのことだ?』
この子とは今、はじめて会ったのは間違いがない。これほどの美少女、いくら晴明一筋とはいえ、博雅だとて少なからず心動かされる、覚えがないはずがなかった。
う〜ん、とうなりながら記憶を探った。
 
『これは遠い唐よりさらに昔の、夏の王朝の至宝といわれた宝なんですよ』
九条の言葉が博雅の脳裏に蘇った。
 
「あれか!」
ガラスケースの中で寂しそうに輝いていた金色の小さな卵。この子はあの中にいたのか。そういえばあの時、ぽつんと一つさびしそうに見えて思わず声をかけてしまったのだった。
「そのときに呪がかかったんですね。」
事情を聞いた保憲が困ったように笑った。
(なんとまあ次々トラブルに巻き込まれる方だ。こりゃあ晴明も大変だな)
「またしても呪ですか‥」
保憲の口の端にわずかに浮かぶ笑みにも気づかず、げんなりしたように博雅は言った。
「呪という言葉がお嫌いでしたっけ。」
「ええ。呪ってやつは聞けば聞くほどわけがわからなくなってしまって‥。」
「呪という言葉でなければ「縁」という言葉に置き換えてもいいですがね。博雅さま。」
博雅の腕にしがみついていた少女が保憲の言葉にぱっと顔を上げた。
『博雅…』
その唇から博雅の名が呼ばれた。
『私の名を知っているのか?』
自分の名を呼ばれて驚く博雅。
『あい。誰かがあなたをそう呼んでいるのを聞いた。博雅博雅…いい名前。』
歌うように博雅の名を連呼した。
「博雅様の名を知ったことで、さらに呪が強くなりましたね。」
呪によってというよりは、これは一目ぼれといったほうが近いな、と保憲は思った。可憐な美少女の目には、恋する女の子に特有な夢見がちな光が輝いていたから。
恋すれば、人も物の怪も何の代わりもない。さて、ではこの子はどちらだ?人ではないのは間違いがない‥では物の怪か?
 
「では、ここ二日、続いていたあれは君の仕業だったんだな。』
『博雅、うれしかったか?』
にこにこと少女が微笑んだ。
「いったい何のことです?」
博雅に保憲が問いかけた。
博雅は今日、ここへ来た本来の理由であったことを保憲に話した。
 
 
「一億?!」
「ええ、さすがにこれは変だ、と私も思いまして。」
「そのまま、もらっておけばいいのに。」
そんなインチキなものはいらないと当たりくじを破って捨てたと聞いて、保憲が苦笑いをした。
「きっと、晴明だってそういいますよ」
「でも、私はそういうのは…。」
「博雅、なぜ、お金たくさんもらうの、喜ばない?」
黙ってじっと聞いていた少女が、突然博雅たちと同じ言葉で話し始めた。
「もう私たちの言葉を覚えられたのですか?」
保憲が感心していった。
「お前たちの言葉、元は私たちの言葉。覚えるのは簡単。」
少したどたどしかったが完全に自分のものにして言葉を操る少女。
「博雅のため、いっぱい幸せあげた、なぜよろこばない?幸せ足りなかったか?」
さらに問う少女。その目は真剣だ。
「それは私が望んでいる幸せではないからだよ。」
博雅が柔らかな口調で答えた。
「違うのか?」
びっくりしたように言う少女に、うん、とうなずいて博雅は言う。
「私が望んでいる幸せは、お金でも物でも、いいお天気でもないんだ。私のことを思ってしてくれたのはうれしいけどね。」
「では、博雅、なにがほしい?我は博雅の望むものすべて、手に入れてやるぞ。」
「これはすごいな、私の望むものすべてだって?」
博雅が笑う。
「我は博雅がすごく好きだ。だからお前が喜ぶ顔が見たい。さあ、ほしいものはなんだ?」
「困ったなあ」
ぽりぽりと博雅は頭をかいた。
そばで二人のやり取りを冷めたコーヒーを片手に聞いていた保憲、困り顔の博雅に助け舟を出した。
「ねえ、君。博雅さまはね、一番ほしいものをもう手に入れたお方なんだよ。だから、もうほしいものなどないのさ。」
「うそだ!人の欲は果てしない。博雅とて人、ほしものがないなんてあるわけない。」
「確かに。人の欲望は果てしない。どこまで言っても満足することなどない。それは確かに私にも言えることだよ、でも、そのすべてを満たしてもくれるものを持った人を私は自分のものにしてるんだ。だから、私にはもう望むものなどないんだよ」
「博雅は変だ‥」
にこにこと微笑む博雅を、珍獣でも見るようにしてその少女は見つめた。
 

崑崙の娘(4)

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