「よ、寄るな…っ…!」
血に塗れた片手を庇って男が竹林に逃げ込む。
ズザザザザッ…!
必死に走る男の背後に凄まじい速さで迫る足音。
「わあっ!あ、あっちへ行けっ!ば、化け物めっ!」
迫り来るモノに向って振り向くと男は喚いた。
そして次の瞬間。
「ギヤアアアアアッ!!」
闇を劈く断末魔の悲鳴を残して月夜に血しぶきが散った。
「おぬしのいない間に人殺しがあったんだ、晴明」
博雅は手にした杯を口に運びながらそう切り出した。
「物騒なことだな。だがそんなこと、さして珍しくもないだろう。この都では毎日誰かが誰かを殺している」
名を呼ばれた男が落ち着いた声で答えた。
白い狩衣をふわりと纏い、柱の一本に背を預けて片膝を立てて座っているこの男の名は安倍晴明。透き通るような白磁の肌と、氷のような冷たい切れ長の瞳を持つ美貌の呪術師。
その色素の薄い酷薄の双眸に捕らえられたものは、妖しであろうが怨霊であろうがその命運は尽きる、と言われる都一の陰陽師である。
一方、声をかけたのは、近衛府中将、三位源博雅朝臣。
親王を父に持ち、帝の血縁に当たるやんごとなき身分の人物である。自ら臣籍に下ったとはいえ、帝位を狙えるほどの身分を持った
まさに雲の上の殿上人。が、この男、貴族にしては少々変わったところがあった。供も連れずに徒歩で外を歩き回るし、宮中での権力争いにもまったく興味がない。そのようなドロドロとはトンと無縁な、涼やかでまっすぐな目をした青年である。
暗闇の似合いそうな白い陰陽師と、明るい日の光の似合う小麦色の肌の殿上人。
闇と光のようなmとても変わった組み合わせのその二人の間には確実に身分の差というものがあるはずなのだが、お互いのかける言葉にへつらいや謙譲はない。
なぜなら、この二人の間には身分を越えた繋がりがあるからだ。
闇は光のために、光は闇のために。
お互いがお互いを何よりも大切に想っている…いや、お互いがなくてはならない存在だから。
友情よりも、もっともっと深い繋がり。
自分の半身。
ふたりは性別をも超えた相思相愛の恋人たちであった。
さて、その恋人たちが対峙して座を結ぶは内裏の北、一条戻り橋を渡った陰陽師安陪晴明の屋敷である。
もうそろそろ夕刻の時間だというのに、まだ、日は高い。夏至が近いのだ。
博雅がやってきたのはほんの一刻ほど前のこと。内裏を下がって一旦、自分の屋敷に戻ったのだが、高野の山から晴明が帰ってきたと聞いて、矢も立てもたまらずやってきたのだった。
久しぶりに会う友、いや恋人との酒は格別、日も暮れぬうちから二人は飲み始めた。
酒の肴に晴明が留守にしていた間に都に起きたことなど、あれこれ話していた時にその話が出た。
近頃、都を騒がす辻斬りの話である。
「それはそうなんだが…ちょっと普通とは違うようなのだ」
普通の殺しってのもおかしいんだが、と博雅は続けた。
「ほう、どこが違うんだ?」
わずかに興味を示して晴明が目を上げた。
京の都は華麗な大都市である。そして、大都市に犯罪はつきものだ。まして末法の世などと世の中が騒がしい昨今、大通りからほんの少し入った小路や物陰では、たとえ日のあるうちでも人殺しや物盗りがいくらでも横行していた。
そしてそのことは、たとえ殿上人という高い身分の博雅とはいえ、周知の事実。だが、見聞きして知ってはいても、博雅はあまり普段、人殺しの話などしない。
きっと、そういう話が嫌いなのだ。その男がわざわざそういう話をするとは。
珍しいな、と、そのとき晴明は思ったのだった。
うん、殺し方がなあ、と博雅は眉を顰めた。
「まるで竹でも割ったみたいに人間が切り裂かれてるんだよ、こう、ばっさりとな。」
肩から入った太刀が背中の大骨まで断ち切っていたよと、身振りを交えて博雅は続けた。
「ほう、それはまた凄まじい、よほどの怪力の持ち主かな、その犯人は。」
それにしても、わざわざその現場を見に行ったのか?と、晴明は博雅の顔を見た。
「まさか、誰がそんな酔狂なことするかよ。たまたま、近くを通りかかってな。笹薮の近くに人だかりがあったので、なんだろうと思ってのぞいたら。いや、酷いものだった。あたり一面血まみれだ。一緒に断ち切られたらしい腕がそのまま転がっているし、体の中身はあちこちに飛び散らかってるし。かなり高いところにある笹の葉に、べろんとはらわたの一部が引っかかっているのを見たときには、さすがにゲッとなったよ」
その様子を思いだしたのか、博雅はげんなりした表情を浮かべた。
「そいつは災難だったな。」
どこにでも顔を突っ込むからだ、と晴明は笑った。
「俺もそう思うさ。でも、こればっかりは、また、どこで同じ光景を目にするかわからぬからな」
「どういう意味だ?」
「こんな殺され方をしたのは俺が見たそれだけではないってことさ。おぬしがいない間に次から次へと起こっている」
「次々?」
晴明の目が訝しげに細められる。
「うむ、たしか…ひいふう…」
指先を折りながら博雅は人数を数えた。
「五人、いや、違うな…そうだ昨日のを含めると六人だ。」
「六人、どれぐらいの期間でだ?」
「殺された人数とおんなじ、六日だな」
「一日ひとりか」
ふうん、と晴明はあごをさすった。
「どうだ、捕まえてみるか?」
興味を引かれたのを目ざとく見つけて博雅が聞く。
「まさか。頼まれもしないのに、わざわざ面倒にはかかわらぬさ。大体、そんなのは検非違使の仕事だろう」
片方の眉をちょっと上げて晴明は首を振る。そして自分の杯に酒を注いだ。
ただな、と晴明は続けた。
「たった六日の間に六人か、まあ、それはよいとしても」
「よくはないだろう」
博雅がちゃちゃを入れる。
「はは、まあ、よくはなかろうが。…殺された者たちはすべて同じように袈裟がけか?」
「ああ、そうと聞いている。どれもこれも瓜でも割ったかのように体がざっくり、肩から腰へと真っ二つだ。」
「おぬしも太刀を扱う身。そんなに続いて人を真っ二つにすると太刀などあると思うか?」
「あ。」
博雅は杯を手にしたまま止まった。肩から腰へと斜めに断てば、必ずその真ん中には大骨がある。大の大人の大骨だ、ちょっとやそっとで断ち切れるものではないことに博雅は気づいた。それを見て晴明はうなずく。
「そう、たぶん無理だろうな。人一人でも骨まで断てば、必ずひとつやふたつ刃こぼれしてしまう。よしんば一人目二人目で刃こぼれせずとも、どんな名刀でも、まず六人は無理だ。」
「で、でも、違う太刀でとっかえひっかえ、ということもあるぞ。」
やや身を乗り出して博雅は言った。が、晴明はいたって冷静だった。
「ふむ、なるほど。では、殺されたほうの者たちに何か通ずるところはあるか?」
「ううむ、一人目はどこぞの坊主、その後は夜中に市中を見回っていた検非違使と乞食、雇われの武者くずれ、主に言われて文を届けに歩いていた彰光殿の家人、それから昨日の…これはただの商人だな…共通点らしきものは…ないな」
博雅もううむ、と頭を傾げる。
何の共通点も持たない者を殺すために、わざわざ刀を代えるだろうか。
「やはり、同じ太刀ということか」
「たぶんな。」
コクリと晴明は酒を飲み下して答えた。
「まあ、大陸から渡った太刀の中には骨までも断つ刃の頑丈なものもあるというから、そいつかもしれぬしな」
「そんなものが世に出回っているわけもないことぐらい、わかっていて言っているのだろうな」
「ふふ」
ジロリと上目遣いに博雅に睨まれて晴明はその赤い口元に笑みを浮かべた。
「…もしかして、妖しの仕業か?」
「さあどうだろうな。だが、よからぬ臭いがするのは確かだ。とにかく関わらぬことだ、おぬしの場合、特に、な。」
杯にもう一度酒を満たしながら、晴明は言った。
「俺の場合、『特に』、と言う言われ方がちょっと、いや、かなりひっかかるぞ…」
博雅は嫌そうに眉を寄せた。
自分がかなりの確率でいろんな事件に絡まることは、今さらこの男に言われるまでもなく、よ〜〜く承知している。人ではない妖しの総大将にすら言われたのだから、悔しいがその点については認めざるをえないところである。が、こうもはっきり言われるとやはり、面白くない。
「そうむくれるな、博雅。なに、君子危うきに近寄らず、だ。知らない奴にはついていかない、一人で夜道を歩かない。それだけを注意しておればよい」
美貌の陰陽師はそう言って杯を干すと、片手を伸ばし博雅の腕をグイと引いて自分の胸の中にその体を取り込んだ。
「童か、俺は。」
晴明の胸に頭を預けて、傾いた烏帽子の下から博雅は唇を尖らせた。
「みたいなものだ。随分と手を焼かせる」
そこがまた可愛いのだがな、と晴明は笑った。
「ばか。最後のひとことは余計だ…、でも、まあ気をつけるさ。」
博雅はからかう相手に向かってそう答えると、
「…おぬしがいなくて、ちょっと寂しかったぞ」
俺もだ、そう答える晴明に、ふわりと微笑って博雅は落ちてくる唇を受けとめた。
今度こそ、晴明の手は煩わさんぞ。
そう、心に決めていたと言うのに。
直居の晩。
その話が出た。
今、都で一番の話題なのだから出ぬほうがおかしいといえば、おかしいのだが。
「また、出たそうでございますぞ」
誰かが言い出した。
「例の辻斬りですか?」
「そうそう、今度もばっさり、真っ二つ。」
手で斜めに切る様子をして見せながら、噂を仕入れてきた某が秘密の話しでもするように声を潜めた。
「見てこられたのですか?」
一人が身を乗り出す。
「まさかまさか。うわさを聞き及んで、屋敷の者を見に行かせたのですよ。なんでもどんどん切り口がきれいになってきているとか。」
「おお、それは凄い。」
話の輪の中にもう一人加わった。
「その辻斬り、よほどの手錬れとみえますね。ぜひ一度、その技を見てみたいものだ」
年若いその貴族、みなのひそひそ声を跳ね返すように、ひとり、妙にはしゃいだ声をあげた。
「辻斬りを見てみたいと言われるのか」
「…なんと恐ろしいことを。」
その言葉に、周りにいた者たちが眉を顰めてざわつく。
「なにが恐ろしいものですか。なんでも殺されたのは下々の者ばかりだというではございませぬか。我らのような位の高い都人は誰一人襲われてはおりませぬ。きっと、我らには畏れ多くて手も出せぬ下賎のものの仕業に違いございませよ。いくらか金子を与えて手駒として飼えればしめたものではないですか」
なにを言い出すのだろう、このお方は…
耳に入った言葉に、少し離れたところに座って雅楽の譜面を見ていた博雅は顔を上げた。
辻斬りを手駒にだって?
嬉々として話す男の様子を驚きの目で見つめる博雅。いくらか面識のあるこの小柄な男の口から出た言葉にただもうびっくりである。
常識はずれなことをのたまうこの男、名を橘為義という。
博雅とはさほど年も違わない、たぶんひとつふたつ博雅より年上のはずである。そして、お役も同じ近衛府であった。が、同じ官職にあっても、博雅はこの男とは特にこれといって話しなどはしたことがなかった。博雅の方が身分が高いせいもあるだろうが、それよりも何よりも、なにしろ共通点らしきものがなかった。
健康そのものの博雅と違って、不健康そうな土色の顔色をしたこの男は、背も低く、どちらかといえば貧相な体格をしていて、とても帝の警護をするお役目にふさわしいとは思えなかった。まあ、このころの近衛の仕事といえば形式的なものが多かったので、体格の善し悪しなどは関係なかったが。(まじめに体を鍛えていたりするのは博雅ぐらいなものかもしれない)そして外見同様、その中身も博雅とは対極にあった。
貴族にあらざるは人にあらず。
貴族とは選ばれた高貴な血を引く選ばれた人種で、それ以外はそれらに仕えるために存在していると、本気で思っている男であった。
そして、そのか細い外見とは裏腹に、残酷な一面を色濃く持った人間でもあった。
例えば、自分の屋敷の者だろうが、下人に対してはその扱いたるや酷いものがあった。この男にとっては貴族以外は犬畜生と同意義である。だから、少しでも意に染まぬところがあれば女あろうが童だろうが足蹴にし、気の済むまで痛めつけた。
犬畜生など死のうが生きようが知ったことか、というところであろう。そして、この男にはさらにもうひとつ、忌まわしいおまけがついていた。
血を見ると興奮するのである。
痛めつけた下人が血など流そうものなら、心拍が上がり目の色が変わる。そして痛めつけ方がエスカレートするのである。瀕死の下人の返り血を浴びて高笑していたという話も伝わっていた。
「人殺しを飼いたいと仰るのか」
「まさか…」
常識を外れた為義の言葉に、さすがに周りの貴族たちも引いた。
それから更に数日。
例の辻斬りは未だ捕まりもせず毎晩人を殺し続けていた。
「昨夜も出たそうにございますよ、辻斬り」
「へえ、またですか」
「なんでもこれで十一人めとか」
「さすがに嫌な感じですな。これでは日が暮れたら恐ろしくて出かけられもいたしませぬな」
「まったく。おちおち女のところにも通えませぬよ」
「身分のあるものは襲われぬとか言われているが、それとて本当だかどうだかわかったものではありませぬからなあ」
さすがに噂好きの殿上人たちもげんなりした調子だった。
が、その中に先般の顔がひとり欠けていた。
「おや、そういえばそう言っていた為義どのは今宵は?」
誰かが気付いた。
「ああ、あの方といえば、なんでもこの間の夜、本当に辻斬りを探しに夜の都に出たそうですよ」
「なんと酔狂な」
「あの方らしい」
「怖いもの知らずですな」
あちこちから呆れたような声が上がった。
「まったく。で、なにがあったのか知りませぬがその夜より為義どの、屋敷に篭られて出てこなくなったそうでございますよ」
「おやまあ。」
「さては辻斬りに本当に会いましたかな」
「その人殺しを飼いたい、とか言ってましたがうまくいったのですかねえ」
「さあ、どうですやら。あんな強気なことを仰ってましたが、きっと本当に会って肝をつぶされたのじゃありませんか」
ひとりがちょっと小ばかにしたようにクスリと笑った。
「今頃、衣をかぶって震えていらっしゃるのかも」
自分たちにはそんなところに行く勇気もないくせに、そこに集まった貴族たちは扇で口元を押さえてホホと笑いあった。
さて、その次の晩のことである。
博雅は久しぶりに夜の散策に出かけることに決めた。勿論家のものには内密にである。
正体の分からぬ辻斬りの横行する夜に出かけるなど知れようものなら大騒ぎになるのは目に見えている。だが、今宵の月はあまりにも美しく、出かけるなと言うほうが無理というものであった。(それはどうかと、大いに異論のあるところではあるが、)普段ならば晴明のところに出かけて月を愛でながら一杯、というところであるが、あいにくとその相手は今日もどこぞに禅問答でもしにいったらしく不在であった。
こうなれば、興に乗った博雅を止めるものなど誰もいない。月に誘われて抵抗できない博雅、必然的に夜の一人歩きとあいなった。
それでも、一応は用心してみる。
「君子危うきに近寄らず。やばいと思うものには近寄らない、危ないとみたらさっさと逃げる」
まるで呪文というよりは歌でも詠むように呟くと、博雅は家人の目をくぐって愛笛をふところに、ひとり屋敷を抜け出した。
ひゅるり…りり…
月明かりの都大路を博雅の奏する葉二の音色が流れる。昼のように明るい満月とはいえ夜も深更、辻斬りを恐れる夜の都に人の姿はない。
人気のない月夜の都はまるで水底のように透明で美しい。辻斬りが徘徊しているであろうことも、ひとたび忘れ、博雅はその美しさに嘆息する。昼の埃っぽい雑多なすべてが月夜の底に沈んでまるでこの世とも思えぬ冷たく美しい世界。
博雅の心に、そんな冷たく美しい月夜の似合う男の顔が浮かぶ。
愛しい恋人。
まさか自分がこんなに人を好きになれるとは思っていなかった。どんな美しい姫を見ても、豊満な体の働き女を見ても、愛しいとか、湧き上がる欲を感じたことなど一度もなかったのに。
あの男のことを想うだけで魂が震える。
体が熱を持つ。
帰ってきてはいないだろうか…。